著者
嘉田 由紀子 中谷 惠剛 西嶌 照毅 瀧 健太郎 中西 宣敬 前田 晴美
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.16, pp.33-47, 2010-11-10

滋賀県は,生活者の視点から環境問題をとらえる生活環境主義に立脚した治水政策として,"流域治水"を標榜している。流域治水を政策現場で展開するには,(1)生活者の経験的実感を総体としてとらえ科学的に定量化すること,(2)現場主義に基づくボトムアップ型の議論展開により部分最適ではなく全体最適を図る行政判断を導くこと,(3)既存の政策システムの否定ではなく不足を補完するという立場で新たな施策の必要性を説明すること,という3つのアプローチが必要となることがわかった。そのため,滋賀県では地形・気象・水文等の基礎調査や数値解析等を駆使し,生活者が実感できるリスク情報として,個別の"治水施設"の安全性(治水安全度)ではなく,生活の舞台である"流域内の各地点"の安全性(地先の安全度)を全県下で直接計量し,治水に関する政策判断の基礎情報として活用している。「地先の安全度」に関する情報を基に新しい治水概念を構築し,実際に政策への導入を図る場合には,住民,自治体など多様な当事者の幅広い合意が必要となる。行政組織にとっては,縦割りの部分最適が組織的責務となっており,担当以外の業務に自発的に手出しすることが難しい。そのため,生活現場の当事者である地域住民からボトムアップ型で議論を展開し,それらを判断材料とすることで,縦割りゆえの意思決定の困難さを克服しようとしている。また,新たな政策展開には,新旧両概念のwin-win関係を意識した問題解決が重要であることがわかってきた。そこで,流域治水に係る制度の設計にあたっては,新旧概念間に生じる対立構造のみが強調されすぎて本質的な議論が妨げられないように,既存治水計画を所与の条件とし,それらを補完する選択肢を追加する立場をとりながら政策の実現化を図っている。前記のような滋賀県での流域治水に関する一連の取り組みは,試行錯誤の積み重ねの結果であり,公共政策に生活者の経験的実感を取り入れるための貴重な先行事例となりうる。
著者
本田 宏
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.8, pp.105-119, 2002-10-31

本稿では,ドイツの原子力政治過程の諸段階を再構成し,運動の挑戦と脱原子力政策とを結ぶ政治過程の軌跡と力学を検討する。主な分析枠組みとなるのは,特定政策領域を長期的な時間枠で包括的に再構成し,そこでの政策転換の契機を捉えるのに有効な,アドヴォカシー連合論である。結論として,ドイツでは1975年のヴィール原発予定地占拠を機に反原発の社会的連合の全国的形成が始まった。その過程で開放的な政治制度の効果が表面化し,また当時の連邦政府与党,社会民主党(SPD)の一部が原子力批判派に加わり,原発発注を凍結に導いた。しかし第二次石油危機後,原子力推進派は巻き返しに転じ,一時的な原発認可再開に成功した。これに対し,脱原子力の連合は対案形成活動,緑の党の結成,さらに緑の党とSPDの連合政治を通じて対抗力を養った。加えて,活発な抗議運動の存在や,原発事故のような促進的事件の頻発により,保守政権下でも原子力推進政策はむしろ緩慢な縮小過程をたどったと言える。
著者
鈴木 克哉
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.55-69, 2008-11-15 (Released:2018-12-18)
被引用文献数
6

近年,野生動物と人間活動との軋礫が世界各地で問題になっている。しかし日本では,加害動物による人間活動への影響量の軽減手法に関する技術的側面やその普及論が注目されがちであり,被害を受ける側である地域住民の「被害認識」が管理政策に取り入れられることはほとんどなかった。一方,この分野で先進的な欧米では,野生動物と人の軋礫問題において,さまざまな利害関係者間の相互関係をも調整対象とする軋礫管理(wildlife conflict management)の視点が注目されている。そこで本稿では,下北半島のニホンザルによる農作物被害問題を事例に,「被害認識」の形成要因として対人関係に着目した。その結果,被害農家は日常レベルにおいて許容を伴う複雑な「被害認識」を持っているが,被害経験を共有しない他者と対峙する場面では,サルに対する否定的価値観だけが表出されやすいこと,またそのような否定的価値観は地域社会において先鋭化され,捕獲をめぐる意見に収斂されやすいことが明らかになった。しかし,ニホンザルの農作物被害軽減に向けては,捕獲が必ずしも有効な手法ではなく,このような場合,施策をめぐって異なる価値観を持つ利害関係者間で意見の対立が生じ,獣害が社会問題化しやすい状況にある。今後,さまざまな獣害問題を解消するためには,従来の生物学的なアプローチに,それぞれの利害関係者の認識構造の把握や異なる価値観の調整手法に関する社会科学的なアプローチを融合させる方法がある。
著者
朝井 志歩
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.71-87, 2019-12-05 (Released:2022-10-18)
参考文献数
23

本稿では,軍事被害が社会に何をもたらすのかを環境社会学の観点から明示した。岩国基地への艦載機移駐問題を事例として,岩国基地沖合移設事業や住民投票が実施された経緯について考察し,岩国市で空母艦載機部隊の移駐への賛否を問う住民投票が実施された背景について明らかにした。艦載機移駐に反対の意思を示した岩国市で,住民投票後に生じた新市庁舎補助金凍結問題や,愛宕山新住宅市街地開発事業の廃止と米軍住宅建設計画などの諸問題について考察し,基地関連予算に基づいた諸政策が地域社会にもたらした影響について検討した。そして,地域社会の変容が住民投票後の住民運動や訴訟に何をもたらし,いかにして声を上げ続けることが困難な状況が生じていったのかを明らかにした。岩国基地への艦載機移駐問題の事例を踏まえて,軍事環境問題の加害構造の特徴として,環境規制を遵守させる機能の不在,法的な正当性の根拠が疑わしい政策決定の横行,意思決定権限の非対称性と意思決定過程の閉鎖性,情報が隠蔽や秘匿されやすいという4点を提示した。そして,それらが地域社会の将来を自己決定できなくなることや軍事化の進展,将来に対する怖れや不安や懐疑心を抱え続けること,諦めの広がりといった,軍事基地を抱えることによる被害を作り出していると結論づけた。最後に,環境社会学が軍事環境問題研究に果たすべき課題を提示した。
著者
竹峰 誠一郎
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.51-70, 2019-12-05 (Released:2022-10-18)
参考文献数
64

環境社会学の知見を踏まえ,マーシャル諸島民に対する核実験被害の実態にどう迫っていくことができるのだろうか。本稿は「グローバルヒバクシャ」という新たな概念装置を掲げて,米核実験が67回実施されたマーシャル諸島に暮らす民に焦点をあて,住民の証言を引き出していった。そのうえで,飯島伸子が提起した「加害 - 被害構造」という概念を想起し,米公文書を収集した。核開発を主管する米政府機関が,⑴ 核実験にともない放射性物質が周囲に放出される問題性を,実験前から把握していたこと,⑵ 被曝した住民を,データ収集の対象としてのみ扱い,非人間化してきたことが,米公文書から明瞭となった。そうしたなかでも,⑶ 異議申し立てをしたマーシャル諸島の人びとの抵抗が,米政府をも揺り動かしていたこと,⑷ 米政府が核被害を公には認めていない地域でも,「影響がある放射性降下物を受けた」と避難措置を米核実験実施部隊が検討し,健康管理措置の導入なども一時期検討していたことなどが,米公文書上で明るみになった。くわえて,⑸ マーシャル諸島の米核実験は,太平洋の小さな島の話で完結する問題では決してなく,米政府の問題であるとともに,さらに日本社会とも密接な関係にあることが,米公文書から浮かび上がってきた。本稿は,軍事がもたらす地域社会の人びとへの被害に迫っていくうえで,国家権力の動向を見据えて,被害の内実だけではなく,加害の内実に迫っていく重要性を,指摘するものである。
著者
大野 光明
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.35-50, 2019-12-05 (Released:2022-10-18)
参考文献数
41

沖縄では沖縄戦,米軍占領期,そして日本「復帰」後から現在に至るまで,戦時と平時をわかたず,軍隊による事件・事故,人権侵害,環境破壊が生じてきた。沖縄に対する強権的な政治と基地の新設,軍隊の機能の変容が進む現在にあって,環境社会学の知見による現状への介入は喫緊のものとして期待されているのではないだろうか。だが,環境社会学はこれまで軍事基地問題に正面から向き合ってきたとはいえない。そこで本稿では,沖縄の基地・軍隊をめぐる諸問題を事例として,環境社会学が軍事基地問題をとらえるために必要な基本的視座を提示することを試みる。まず,沖縄の軍事環境問題の歴史をふりかえり,軍事的暴力の特徴が空間的・時間的に広がりをもっていることを確認する。そのうえで,軍事基地をめぐる諸問題をとらえるための概念や認識枠組みを批判的に検討した。すなわち,受益という概念や受苦を強いられる人びとへの受益の還流や配分という枠組み自体が軍事化されていることを考察した。そのうえで,環境社会学が軍事環境問題を対象化するためには,脱軍事化をつくりだしていく批判的な知と枠組みが必要であることを示し,その基本的な視座を整理した。
著者
林 公則
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.18-34, 2019-12-05 (Released:2022-10-18)
参考文献数
19

本稿では,軍事と財政・金融の密接な関係性を軍事財政論や日本経済論の成果から明らかにしたうえで,日本政府による基地維持財政政策の主要な対象となってきた沖縄で 2015 年に立ち上げられた辺野古基金の意義を考察している。沖縄県内外の多人数の資金的援助(寄付)を通じて辺野古移設反対運動を支えようというのが辺野古基金の取り組みである。税金を資金源とする各種の政府活動は軍事も含め,国家全体の公益のために実施されることになっている。にもかかわらず公共の利益のためとされている活動が軍需産業によって資本の利益に置き換えられていたり,自然環境や生活環境を破壊し各種の被害を出す軍事基地が各種補助金によって非民主主義的な形で維持されたりしてきている。また預貯金を中心とする日本の現在の金融システムも,軍事関連産業の発展のために利用されてきた。資金の出し手(納税者や預貯金者)と資金の受け手(軍需産業や基地受け入れ自治体など)との無関係性が,軍事優先の国家安全保障や辺野古新基地建設を推進することにつながっている。辺野古基金は軍事による国家安全保障政策への,寄付を通じての市民による異議申し立てである。そして,軍事を国家の専管事項にしないための取り組みである。軍事は中央集権的な財政・金融で 進められてきた。一方で,辺野古基金は寄付を含めた金融が市民関与の新たな可能性であることを 示しているし,中央集権的な財政・金融よりも正当性を有する可能性を示している。
著者
熊本 博之
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.7-17, 2019-12-05 (Released:2022-10-18)
参考文献数
14

本特集は,2018年12月9日に開催された第58回環境社会学会大会シンポジウム「環境社会学からの軍事問題研究への接近」をもとに編まれたものである。特集の総説論文にあたる本稿では,それぞれの論文の概要を紹介したうえで,そこから析出された,環境社会学が軍事環境問題に取り組むにあたって留意すべき課題をまとめた。そしてこれらの課題の背景には国家による軍事の独占があること,それゆえに加害の主体である国家についての論及が不可欠であること,しかしそこには「統治の道具」となってしまう危険性が潜んでいることについて指摘した。そのうえで環境社会学は,「国家の論理」に対抗できるような「環境の論理」を,社会に生きる人びとの視点に立ちながら彫琢していくことで,脱軍事化した社会へと至る道筋を描き出すことができること,それは軍事問題研究への独自の貢献であり,そして環境社会学がもつ可能性を広げるものであることを提起した。
著者
熊本 博之
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.219-233, 2008-11-15 (Released:2018-12-18)

普天間飛行場の代替施設の建設予定地である名護市辺野古(へのこ)区は,1959年に米軍基地キャンプ・シュワブを受け入れた。以来,辺野古の社会構造にはシュワブが深く埋め込まれていき,それゆえに現在辺野古は,新たな米軍基地の受け入れを拒絶することができずにいる。本稿では,環境正義の観点から,この辺野古においておきている問題を描出していく。環境正義には,環境負荷の平等な分配を要請する分配的正義としての側面と,環境政策の決定過程への地域住民の民主的な参加を要請する手続き的正義としての側面とがある。本稿では分配的不正義が手続き的不正義を地域社会にもたらし,そのことがさらなる分配的不正義を地域社会にもたらす「不正義の連鎖」が辺野古において生じていることを明らかにした。また,手続き的正義を,制度レベルと行為レベルとに区別し,行為レベルでの手続き的正義を地域社会において実現することが最優先されなければならないことを指摘した。なお「不正義の連鎖」の描出は,分析概念として環境正義を捉えることで可能になった。
著者
藤垣 裕子
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.25-41, 2004-11-30 (Released:2019-01-22)
被引用文献数
1

本稿の目的は,環境社会学に対して科学技術社会論がどのような貢献をすることができるか検討することである。科学技術社会論の論客の一人であるSteven Yearlyは,『STSハンドブック』の環境に関する章のなかで,「科学技術社会論は,環境に関する問題を明らかにしたり,論争を解決したりすることへの科学のあいまいな役割について説明する枠組みを提供する」(Yearly, 1995)と述べている。この科学のあいまいな役割について,本稿では,フレーミング,妥当性境界,状況依存性,変数結節,という概念を使って順に解説する。環境社会学と科学技術社会論の橋渡しは,現在の日本で別々の文脈で語られている市民運動論と社会構成主義,科学と民主主義の議論を,連動した形で再度編成することによって進み,かつ両者の間に豊かな交流をもたらすだろうと考えられる。
著者
山 泰幸
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.53-66, 2017-12-20 (Released:2020-11-17)
参考文献数
12

柳田国男を創始者とする日本民俗学は,その学問的性格において,本居宣長ら江戸期の国学者の影響を受けているとされる。特に,柳田の心意論は,本居宣長の歌論・物語論で展開された「物のあはれを知る」説の影響が指摘されている。本稿では,本居宣長の「物のあはれを知る」説に遡り,その発想を手がかりとしながら,「語り」や「物語」をめぐる環境民俗学の捉え方,認識論について考察する。宣長は,歌の発生を,事物に触れて「あはれ」を深く感じる人の心情に求め,人が「あはれ」を感じるのは,事物が「あはれ」であると認識できるからであるとし,「知」と「感」を一体とする認識論を提示する。また,人に語り聞かせることでみずからを慰め心を晴らすように,歌には「語り」と同様の意味がある点や,聞き手を前提とした歌の社会性を説いている。一方,物語論では,読者の立場から,今を昔になぞらえて,みずからの心を晴らすものとして,物語の意味を捉えている。さらに,作者もまた「物のあはれを知る」物語の享受者の立場から,「物のあはれ」を読者に知らせるために,物語を書き出すとする。宣長は,物語の作者,物語中の人物,物語の読者が,物語の享受者として「物のあはれを知る心」によって重なり合うものと捉えているのである。以上のような宣長の歌論・物語論を手がかりにして,本稿では,民話を活用したまちづくりの事例を検討する。それによって見えてくるのは,民話を通じて,今を昔になぞらえて,みずからの置かれた状況や心情を理解し,心を晴らす,「物のあはれを知る」物語の享受者としての生活者の姿である。民俗学者は,生活者の「語り」から,彼らの「物のあはれを知る心」に動かされ,彼らを登場人物とした物語(民俗誌)を描くことで,みずからが感じ,心を動かされた「物のあはれ知る心」を伝えるのである。
著者
池田 寛二
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.21-37, 1995-09-01 (Released:2019-03-27)

今日、環境問題を研究するうえでもっとも重要な課題のひとつは、地球環境問題を地域環境問題と相互に関連づけて解明できる枠組みを構築することである。そのためにはまず、世界の諸地域において人々はどのように環境に働きかけているのか、という基本問題に立ちかえる必要がある。この問題にアプローチするために有効な枠組みとなるのが所有の概念である。所有とは環境をめぐる社会関係を意味している。従来の環境問題のとらえ方は、「コモンズの悲劇」論のように、所有を社会関係として理解する視点を欠いていたため、私的所有対共同所有という二項対立を絶対視し、環境と人間社会とを結びつけている所有の多様性と複合性を捨象する傾向があった。本稿は、所有の地域的・歴史的多様性を幅広く把握し得る類型論を試み、それが地球環境問題と地域環境問題とを関連づけて理解するために有効であることを例証することによって、環境問題研究における所有論の欠落を補おうとするものである。類型論では、環境問題を所有の視点から理解するには、自然人所有と法人所有の対立を軸にして得られる共同占有・共同所有・私的占有・私的所有・専有・個体的所有・私的法人所有・公的法人所有・管理の9つの所有類型が有効な分析枠組みになることを明らかする。そして、現代の地球環境問題は「グローバル・コモンズの悲劇」ではなく、世界の諸地域において、国家や企業を主体とする法人所有がグローバルな市場システムと結びついて自然人の多様な所有の可能性を排除することによって連動的にひき起こされている社会問題にほかならないことを、主にインドネシアの森林問題を取り上げて例証する。
著者
近藤,隆二郎
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
no.13, 2007-10-31

参加型と称される計画づくりの現場では,「ワークショップ=正当な参加」という暗黙の了解があるため,ワークショップそのものが目的化してしまう危うさや,結果として,生活感と乖離した抽象的なビジョンが決められていく傾向がある。形式的な参加に行政も市民もが妥協しているとも言える。市民が何らかのかたちで継続的に「かかわる」ことができる計画が必要である。そのためには,決定と所有が必須となる。末石冨太郎が言うように,何をさせられているかがわからない=何が可能かがあいまいなことにも問題がある。その絡み合いを紐解くことが市民調査の必要性でもある。また,現場へのかかわり(実践)をいかに共有していくかが鍵となる。抽象的な指針を超えて,そこに具体的なかかわり方を導き,体験していかねばならない。そこで,身体的参加を提起したい。身体が地域にどうかかわるかを捉えたい。正統的周辺参加として,「身体で覚える」学習プロセスを重視したい。身体パタンのデータベース化と,計画に基づく新しい身体パタンとがどう関係するか,どう体得されていくかによって,計画の実効性が左右される。民俗学や社会学が蓄積してきた,ライフヒストリー的あるいは文化生態学的な蓄積もあらためて身体パタンとして解釈すれば,この身体的参加データベースに寄与することができる。ここで専門家に求められる役割は,(1)いかに現在のシステムが絡み合っているかをひもとく役割,(2)身体のパタン・ランゲージを見いだす役割,(3)創発する場をコーディネート/メディエートする役割,である。
著者
田窪 祐子
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.91-108, 1996-09-20 (Released:2019-03-26)

原発政策をめぐっては、巨大な影響を持つだけに様々な形の決定方法が模索されている。本稿ではカリフォルニア州で1976年に成立した「ウォーレン・アルキスト法修正条項」(通称“原子力安全法”)を取り上げ、日本の原発政策とは異なる意志決定過程を分析する。この条項は原発の新規建設を事実上不可能にすることでアメリカの原発政策におけるマイルストーンとなったものである。条項の成立の背景には「イニシアティブ」制度を利用した市民の側の法案提出の運動があった。州法政策決定に関わる複数のアリーナ(主張が公になされる場)に焦点を当てて原発がイッシューとして登場する時点から立法的措置がなされるまでを分析し、アリーナ間の相互作用と日本にはない「イニシアティブ」という公共アリーナの果たす機能について考察する。
著者
西城戸 誠
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.24, pp.58-73, 2018

<p>本稿では,環境社会学と「社会運動」研究の接点を考察するために,環境社会学における動員論的な観点に基づく環境運動研究と,市民社会の中で未だ可視化されていない「敵対線」を引き直し,潜在化した抗議主体を浮き上がらせることを意図する運動研究との相違を整理した。また,環境社会学の環境運動研究に対する現場からの批判を踏まえつつ,実践に資する環境運動研究の方向性を見いだすために,公共社会学としての環境社会学の位置を確認した。そして,環境正義の議論を援用しながら「規範」に接続し,実践的な知見を析出するような環境運動研究の可能性を模索した。最後に,地域に資する再生可能エネルギー(コミュニティ・パワー)を事例に,コミュニティ・パワーを求める環境運動の「動員構造」の質的特徴と,運動の「成果」を環境正義との関連を考察し,地域に資する再生可能エネルギー事業や,それを担う運動体に対して,実践的な知見を提供する試みを行った。</p>
著者
松井 健
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究
巻号頁・発行日
vol.11, pp.88-102, 2005

<p>自由主義経済体制の先進諸国においては,個人の所有権は,絶対的なものであるかのように法的に固く守られている。そうした法システムのもとでは,個人的所有権は処分,収益,使用権の束として,財産権の基盤とみなされている。しかし,今日でも,このような個人所有権が治安や政治的理由などによって十分に法的に保証されていないところが世界中に多くある。たとえば,パキスタンではこのような個人所有権は警察や法システムの不備や不正のため,しばしば脅威にさらされる。</p><p>アフリカの民族誌の例は,多くの社会が個人の所有権をむしろチェックして抑制する社会的な仕掛けをもっていることを教えてくれる。個人的所有権は,生存のために基本的な資源の所有者に権力集中をもたらすものとみなすそれらの社会は,個人所有権を無力化しようと試みているようにみえる。ときには,近代的な個人的所有権を構成する三つの権利がばらばらに分解されていたりする。狩猟採集,牧畜,焼畑をおこなうアフリカ諸社会は,個人的所有権をあいまいにし,無力化する装置をもっているといえる。</p><p>人間が資源に対してもつ権利のあり方は,その社会と個人の関係と表裏一体である。個人の自立と完全性をうたう社会においては,個人は十全な所有権を許されるが,個人が社会に従属するという位置づけがなされるところでは,社会が個人に十全な所有権を認めることはない。社会のなかにおける個人の位置が,個人的所有権の範囲と強さを左右するということができる。</p>
著者
足立 重和
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.6-19, 2017-12-20 (Released:2020-11-17)
参考文献数
26
被引用文献数
1

現代において「環境」という視点はあまりにも自明なことであり,言説レベルでは多くが語られている。だがその一方で,自然利用のアンダーユースによる獣害問題,高度な科学技術による人工化した食の問題など,現在の人と自然の距離は,かつてに比べて疎遠になっていたり,いびつであったりするのではないだろうか。そこで問われるべきは,「人と自然のインタラクション」である。そこで本稿は,このテーマに即してこれまでの環境社会学を概観した後,近年の文化人類学における人と動物のインタラクション研究や郡上八幡でのフィールドデータをたぐり寄せながら,今後の環境社会学が探求すべき人と自然のインタラクションとはどのようなものか,その一端を示してみた。より直接的かつ対面的なインタラクションに注目していえるのは,(1) 自然は,積極的に“人に働きかける”というインタラクションの一方の重要な項=行為者である,(2)人と自然のあいだになんらかの競合やトラブルが生じたとき,人間は,インタラクションの性格上,相手の出方を見越して手を打たなければならない,という点である。そのうえで,これらの延長線上には,人工的環境に馴らされたわれわれが漠然といだく自然観を鍛え上げるだけでなく,自然環境の豊かさを取り戻す際には,「自然の視点」を人間の内側に取り込んだうえで,あくまでも人間の暮らしを考える,という人間と自然が入れ子になった政策論がみえてきた。
著者
似田貝 香門
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.50-61, 1996-09-20 (Released:2019-03-26)

かつて私は調査にかかわる主体者間の関係(調査者-被調査者)について論じた。昨年からはじめた神戸市での震災に関する調査から、あらためてこの問題の中心テーマであった、調査者-被調査者の「共同行為」について論じる。被災地域ではいかにして生活再生が可能であるか、が緊要なる課題である。この課題への専門的支援は不可欠である。しかし残念ながら社会学は、他の応用科学のように、専門的知識・技術をも持ち合わていない。〈現実科学としての社会学〉は、いかようにあるべきか。被災者の〈絶望〉から〈希望〉への転身という行為は、被災によって自らの存在を否定されている人々が、現在の状況を、〈希望〉が無くなってしまった通過点として考えるのではなく、それとは反対に、あらゆる可能性がそこからはじまるところの「現実的境界」として考えられている。被災者のこうした転身に対し、私たちは何ができるであろう。この被災者の〈希望〉への可能性という「未検証の行為」が、再び〈絶望〉の状況へ引き戻されぬように、「未検証の可能性」のチャンスの瞬間を、観察し記録しつづける行為こそ、社会学者の構えでなかろうか。調査は、単に調査者‐被調査者の関係に留まらない。私たちは被災者の〈希望〉の可能性への行為を反映している現在の〈絶望〉の具体的状況から認識すべきである。テーマは、そこに包摂されている。同時にまた、「未検証の可能性」の行為そのもののなかに包摂されていることを、対話によって発見し、共同で構築していかねばならぬところまできている。