著者
山崎 一穎
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.一-一四, 1974-03-15
著者
中野 敬子 臼田 倫美 中村 有里
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF LITERATURE (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.45, pp.A75-A90, 2010-09

The Dyadic Almost Perfect Scale-Revised(Dyadic APS-R)is a self-report measure of perfectionism. The present study was intended to examine the psychometric properties of the Japanese version of the Dyadic APS-R. Japanese university students (213) completed the Japanese version of the Dyadic APS-R along with measures of mental health outcomes (self-efficacy and depression). Exploratory factor analysis revealed two factors: High Standards and Order, and Discrepancy. A reliability estimate of internal consistency of High Standards and Order, and Discrepancy was high. Confirmatory factor analysis of the Dyadic APS-R in another group of Japanese university students (108) supported the existence of 2 perfectionism factors. Cluster analysis using the two subscales of the Dyadic APS-R yielded 3 clusters: Adaptive perfectionists, maladaptive perfectionists, non-perfectionists.Adaptive perfectionists characterized by high Standards and Order scores, and low Discrepancy scores had higher scores on self-efficacy and lower scores on depression than those of maladaptive perfectionists and even of non-perfectionists.Distinguishing adaptive perfectionists from maladaptive perfectionists is discussed in the context of psychological functioning and further research.
著者
菊野 一雄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 (ISSN:13481118)
巻号頁・発行日
no.7, pp.35-46, 2009-03

アメリカで世界に先駆けて労務管理が生成したのは1920年頃であるが,そこで重要な役割を演じたのは労務諸職能を統合して労務管理の体系化を推進するための理念(Man powerという労働者像)であった.かかる理念は,後の人間関係論や初期人的資源論の理念と比べると未完の部分が多々あった.それにも拘わらず,テイラーなどの従前の理念と比較すると「労働力を機械や部品と同列に扱うのではなく,能力・興味・適性を考慮すべきである」という考え方(理念)に立っており,さらにこの考え方の前提には,個々の労働力の「願望・刺激・感覚」などが明示されており,これがその後の人間関係論のセンチメント(感情)や初期人的資源論のニーズ(欲求)などの理念の母胎(先駆的形態)となったのである.この点において,アメリカにおける労務管理生成期におけるMan powerという理念(労働者像)は歴史的にみて充分評価に値すると思われる.
著者
折原 由梨
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 = JOURNAL OF ATOMI UNIVERSITY FACULTY OF MANAGEMENT (ISSN:13481118)
巻号頁・発行日
no.8, pp.19-46, 2009-09

本論文では、「おたくの消費行動の先進性を実証し、今後の消費動向を見通して行くこと」を目的とする。「おたく」の定義は、「主に学問として体系化されていない特定の分野・物事に熱中し、そのことにこだわりを持つ人」である。また「単に消費するだけではなく、表現や創作を行う人」とする。また「先進性」とは、消費するだけではなく創造的に情報発信することを意味する。
著者
池上 貞子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.A15-A26, 2010-03-15

在台灣‚ 提到50 年代60 年代文學的時候, 有<縱的繼承>和<橫的移植>的說法 °就此‚ 香港的劉以鬯既體現了<縱的繼承> , 又不啻爲<橫的移植> , 他的存在爲新一代文學青年樹立了榜樣‚ 成爲文學青年們景仰的長者 ° 這裡提及的新一代文學青年, 其中亦有也斯 °比較劉以鬯與也斯‚ 前者身爲小說家其作品卻充滿詩意;而也斯身爲詩人其作品卻一欲跳離常識意義上的詩 °也斯敏銳地觀察著劉以鬯的文學世界‚著眼於其作爲詩性的小說家的獨特存在‚ 他發現了劉以鬯屬於另類詩人‚ 而也斯也因此而成爲解讀其詩性的另類讀者 °也斯一邊從劉以鬯那裡吸收現代主義養分‚ 一邊結合60 年代的"實事求是"精神‚ 將香港作爲<鄕土> ‚ 筆下傾注著感情 ° 已經步入中年的也斯‚ 在個人的身份上是如此‚ 於文學家身份上亦然:他似乎擁有某種長者的責任感‚ 欲依靠<重劃(的)地圖>而跨越<邊界> °
著者
池田 光義
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 = Journal of Atomi University, Faculty of Literature (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.53, pp.49-72, 2018-03

ジンメルの学問的活動期は、人文社会科学において各種の方法論争が繰り広げられるヴィルヘルムニ世時代と重なるが、ジンメルの理論的展開をこうした種々の方法論争との関連で考察・評価する試みはほとんど存在しない。本稿では、この欠落を埋める系統的な作業のための予備考察を試みる。すなわち、いくつかの論争点に関するメンガー、シュモラー、テンニース、ヴィンデルバント、リッカート、ゾンバルトの理論的態度を確認し、ジンメルのスタンスをこれらの態度と比較し、論争史におけるジンメルの隠れた、しかし特異で重要な貢献および論争から受けた間接・直接の刺激・影響を指摘したい。本稿(上)では、メンガー・シュモラー間の経済学方法論争、ディルタイに始まる自然科学-精神(文化)科学の関係をめぐる方法論争を取りあげ三節に分けて検討する。本稿続編(下)では、「4.ジンメルと精神(文化)科学論争(続)、5.世紀転換期の価値判断論争、6.ジンメルと価値判断論争」について論じる。
著者
山崎 一穎
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.53-83, 1995-03-15

大正十三年 (一九二四) 九月五日、松本女子師範学校附属小学校 (現信州大学教育学部附属松本小学校) では、川井清一郎訓導 (現在の教諭) が森鴎外の『護持院ケ原の敵討』を教材にして、四年生の「修身」の授業を行っていた。川井訓導は「児童に与えられる教材は、一面には彼らの心意の発達、特に道徳意識の発達に応ずるものであるとともに……感動あるものでなければならぬ」(「信濃教育」<大正13年10月> 掲載の『修身の取扱ひについて』)と考え、「現行修身書に応じ、これを生かさんが為めの一案」(同) として補助教材を使用した。折からこの授業を参観した文部省視学委員樋口長市東京高師教授や県の教育行政担当者一行が、国定教科書を使用しないのは国法違犯であるという理由で、生徒の面前で川井訓導を詰問し、後の講評の席で批難攻撃してやまなかった。若き教師川井氏は休職処分となり、遂に退職せざるをえなくなる。これが教育史上 <川井訓導事件> と呼ばれているものである。この事件は国の文教政策としての「教育の新主義」の弾圧に呼応して、大正中期以降の信濃教育界に漲る信州白樺派の自由主義教育を県当局は <気分教育> と決めつけ排除に動き、視学委員の視察を要請した。最初から意図を持った視察の見せしめとして、川井訓導は処分される。信濃教育会は <師道の擁護と教権の確立> のために戦っていく。川井訓導を休職、退職に追い込んでいくジャーナリズムの動向が、従来無視されて来た。本稿ではここに重点を置いて <川井訓導事件> を追求する。さらに、この事件の波紋を森鴎外に焦点を当てて見ると、何が見えてくるのか。この新視点から分析してみたのが本稿である。中世文学者、国語教育学者の西尾実氏に、何故森鴎外の作品研究があるのか。京都帝大の哲学科を卒業して、信州の教育界に身を置いた唐木順三氏が、『鴎外の精神』を執筆する土壌は奈辺にあるのか。信濃教育界に於ける森鴎外の系譜を川井清一郎氏、西尾実氏、唐木順三氏と辿ったのが本論である。
著者
村越 行雄
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.27-68, 1998-03-15

様々な種類の発話の中には, 発話される文の字義どおりの意味によって理解されるものもあれば, その文の字義どおりの意味によっては理解できないものもある。後者には, 幾つもの種類の発話が含まれるが, その中の一つとして, いわゆる間接的言語行為と呼ばれる発話がある。今回検討するのは, その「間接的言語行為」(indirect speech acts) と呼ばれる発話で, 特に間接的依頼を直接の対象にする。具体的な例としては, 間接的依頼として使用される "Can you pass the salt?" (「あなたは, 塩を手渡すことができますか。」) などがある。そのような間接的言語行為の存在そのものを疑い, その存在を否定する意見が出されてきているが, 果たして間接的言語行為は存在しうるのか, その存在の可能性をどこまで主張できるのかという問題に取り組むのが今回の目的であるが, その取り組み方には複数の方法・方向があり, それら全てを扱うことは今回はできないので, 間接的言語行為の代表的な理論の一つである Searle の間接的言語行為理論を中心にして検討を加えていくことにする。Searle の理論を選ぶのは, その基を成す Austin とSearle の言語行為理論自体の可能性を探る上でも, 極めて重要だからである。そして, Searle 自身の間接的言語行為理論のみならず, あくまでも言語行為理論の枠内での間接的言語行為の可能性を探る意味で, その他の間接的言語行為の理論 (説, 主張など) も対象にするが, Searle→Morgan→Bach and Hamish (+Clark)という具合に, Searle の理論を修正・補強・発展させる方向を中心に検討する。そのような意味で, 残念ながら, 言語行為理論の枠外での間接的言語行為の理論 (説, 主張など) は, 必要な限り取り上げ, 必要な限り検討する程度で, 深く入ることはできない。なお, 検討の順序は, 「はじめに」, 「間接的言語行為の問題点」, 「Searle による間接的言語行為の定義」, 「Searle による慣習的に使用される文の例と推論過程」, 「間接的言語行為の分類に関する Searle の問題点」, 「慣習の捉え方」, 「二行為の遂行の可能性」, 「間接的言語行為における文の形態と発語内的力の関係」, 「最後に」となる。
著者
町田 榮
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.A37-A62, 1997-03-15

日本文学は、ヨーロッパ文学に接して近代化の緒につき、展開して来た。今さらに言うまでもなかろう。影響のもとにとか、依ってとかいい条、そこにはみずから求めてやまぬ積極性が働いていた。受容に懸命な力を尽くすのだった。西欧文学、思潮に依拠することで自身を養う。おのずと近、現代文学内に、制作のある系譜を形成しているものがある。ひとつでも、具体的な実態を、はるか彼方からたどり来たった道筋を明らかにしてみたい。「ハムレット」の場合である。外国文学を個別にみるとき、日本文学に着床、胚胎した多くの作品群のなかでウィリアム・シェイクスピアの「ハムレット」一作ほどに関心を集めたものはない。長期にわたって間断なく、広範囲に受容され続ける。ほかに比肩できる作品はあるまい。稀有な、しかも顕著な事例であろう。「ハムレット」を手にして百数十年間に、促がされて日本文学が生産した大量、多様の関連作品が証明している。当然ながら、時代とともに「ハムレット」に寄せる興味、接し方は推移する。さまざまな解釈をほどこして、新しいハムレットを創造する時期もあった。現在、登場人物たちに捧げる熱誠に昔日のおもかげはない。余儀なく風化もしよう。それは平静な常態を獲得したというべきか。いや、飽和の情態に達しているのかも知れぬ。かりに、筒井康隆氏の『乱調文学大辞典』(昭四七・一・二八刊 講談社) で「ハムレット」の項をひいてみると、最近では、実行力のある「強いハムレット」という解釈も有名になっている。「生きといたろか、死んでこましたろか、そいつが問題やねん。ワハハハ」と、いったところか。一見して奇矯、洒脱、磊落を装う訳を放っているようだ。が、必ずしも、機知と諧謔とを凝らす戯文を弄したものとも言えまい。氏が、ハムレット受容の変遷史を視点に持ち、さらに進行する過程に立っているからである。突きつめた生死択一に真向って、佇立のみしていた過去が、既成の日本ハムレット像が諷刺の対象だ。「ワハハハ」に、それを問題視せぬ現代も寓する。生死を思索せぬ、閑却した青春も「問題」となろう。種々の「解釈」を入れたハムレットの行く方に、その果てのハムレット破綻まで見通しているらしい。不気味である。私見では、この発言時来二十五年を経て、氏の予想はますます的中しているように思われる。かつて、青春が to be or not to be を、生死択一を迫られる大問題として、その前に身をさらしていた時代があった。島崎藤村は日本のハムレットたちとも言うべき、ハムレット群像を長編自伝『緑蔭叢書第貮篇 春』(明四一・一〇・一八刊) に描く。その末尾は、『あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい。』/斯う思つて、深いく溜息を吐いた。である。あの第三幕第一場の独白は、藤村自身の痛切な真情吐露にほかならない。いまだに蝉脱できぬ生死の問題を背負って、わずかな希求を重くつぶやく。ハムレット体現者のひとりであった。同じく漱石門下の人々も、生死に賭けて、哲学的な教養主義を形成していく。『文学界』同人は北村透谷を、漱石門下生は藤村操を喪っているからである。彼我、隔世の感を禁じえない。しかし、双方は断絶しているわけではない。徐々に推移して来た期間がさし渡している。いま、英文学者による専門的研究著書、論文を別にしても、「ハムレット」一作品にちなむ演劇、翻訳、小説、詩、歌謡、評論、随筆、引用例など数限りない。やがて <ハムレット上演史>、その主として明治期の発掘、研究に河竹登志夫氏の『日本のハムレット』(昭四七・一〇・三一刊南窓社) がある-、また <ハムレット翻訳史> が編まれるに違いない。これらを除いても、近、現代の作家は「ハムレット」に心酔し、傾倒し、反発し、触発され、解釈し、取材し、依拠し、何らかの類縁を結んで、幾多の制作を紡ぎ出している。すでに、創意豊かなとはいいがたい、また、単に「ハムレット」にことよせただけの著述も存在する。「ハムレット」は清新な摂取期、客観的に咀嚼した消化吸収期を送って、しゃぶり尽くされた残滓になってしまったかも知れない。試みに、三区分してみる。明治期における <ハムレットを自任する人々>、それを脱却して迎える大正から昭和前期の <「ハムレット」小説の開花> 期、以降の衰えた <「ハムレット」の解体、拡散> 期とでも称してみられよう。先年発表された堤春恵氏の「仮名手本ハムレット」がある。「ハムレット」の解体、拡散を体現し、一時期を代表する大部な傑作だ。この制作出現の意味を、日本の「ハムレット」文学史上に尋ねて、序説としてみたい。以降、管見に入った「ハムレット」関連の作品は、島村洋子氏の「ハム列島」(平七・一二『小説すばる』) である。
著者
阿部 洋子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.1-16, 2004-03-15

現在、発行されている小学校および中学校の「道徳」の教科書で扱われている道徳の内容を表わす下位項目と、かつて使われていた「修身」の教科書で扱われていた徳目に対して、現代日本人が、どのような意識を持っているかを検討するに先立ち、それら111項目が道徳性としての適切性・重要性をどの程度、有しているかを検討すると共に、死語となっていないかどうかの確認をすることにした。調査1では、教職にあり、「道徳」について興味・関心の高い成人5人を対象に、道徳的に「良い」行為がどの程度、重要で、適切なものであるかを判定して貰うことにした。調査2では、「道徳」について特に興味・関心がある訳ではない青年女子39人を対象に、その言葉の意味が分かるかどうかを判定して貰うことにした。意味不明な言葉、イメージできない言葉について、意識構造の調査を実施することは無意味である故、先ずこの篩い分けをする必要があると考えたからである。適切性および重要性の評価点についてのクロス表を作成したところ、適切性・重要性共に、上位1/3に入る項目、即ち道徳性を考えるに当たり、非常に適切であり、且つ重要だと判断された項目は27項目であった。思いやり、人間愛など抽象度の高い「愛」に関する項目、「平等」に関する項目が多く見られた。これに対して、下位1/3に入る項目、即ち道徳性を考えるに当たり、適切でなく、且つ重要でないと判断された項目は26項目であった。詳細を見ると長幼の序、恩、義理、恥を知るなど古めかしい響きのある項目、遵法の精神など「ルール」に関する項目、家族愛、きょうだい愛など具体性の高い「愛」が見られた。また従来、日本人の特徴として良しとされていた、真面目、謙遜なども低い評価がなされていることが分かった。調査2では、10名 (25.64%) 以上によって意味不明と選択された項目は、敬虔、長幼の序、遵法の精神、公徳心などが選定され、「ルール」に関する言葉が死語になりつつあることが分かった。また重要性の評価点を用い、クラスター分析を実施したところ、「思いやり」が道徳性において重要な地位にあることが示唆された。しかし抽象度が高く、これを世代間伝達していくのは難しいように思われる。また従前の日本人の良さと言われていた行為は、強権によりやらされていたものと捉えられており、それ故、現代ではやらなくてもよいと判断され、評価が低くなったように思われる。また、それらの行為は青年たちにとって死語になりつつあることも認められた。