著者
島田 誠
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.105-130, 2006-03-25

本稿の目的は、『神アウグストゥスの業績録』の性格と目的を再評価することである。この『業績録』は、ローマ帝政を樹立した初代皇帝アウグストゥス自ら書き残し、現在のトルコ共和国のアンカラの「ローマと神アウグストゥスの神殿」の壁面で発見された金石文である。この金石文は、古代ローマ史研究者の間では、よく知られた史料であるが、多くの場合、そのテキストの一部がアウグストゥス自身の発言として引用されるに過ぎない。本稿では、この『業績録』を総体として捉えて、さらにローマ市のアウグストゥス墓廟の銘文として構想され、実際にはアンカラの神殿において発見されたことの意義を再考する。まず、この『業績録』の主要な資料である『アンキューラ記念碑』の発見と公刊の経過を確認した上で、『業績録』の内容を再検討し、この文章の種別(ジャンル)と想定されていた読者、さらにローマ市から遠く離れたアンカラにおいて、この『業績録』が発見された理由について論じる。 本稿での検討の結果、次の結論が得られた。この『業績録』は、ローマにおける金石文の伝統の中では、顕彰碑文の一種であるelogium にもっとも近く、前30 年から後14 年にいたる40 年間以上にわたって、ローマ政治を支配し、事実上、新しい支配体制を築き上げたローマ史上比類なき政治家の執務報告でもあった。『業績録』の読者としてアウグストゥスが念頭に置いていたのは、ローマ市大衆(plebs urnbana)を含む、ローマ市民に限定されていたと考えられる。ところが、同じ『神アウグストゥスの業績録』が、ローマ帝国の別々の場所においてそれぞれ異なった役割を果たしていたのである。アウグストゥスの『業績録』は、ローマ市をはじめ、ローマ市民の住む都市においては、市民たちにとって稀有の功績をあげた第一市民の執務報告であり、その功績に対して元老院やローマの市民たち(民会)が献じた顕彰碑文であったが、属州の小アジア(アナトリア地方)のガラティア人都市おいては、世界を征服した支配者の神格化を示す宗教的な文書と見做すことができる。
著者
安田 敏朗 Yasuda Toshiaki
出版者
名古屋大学大学院文学研究科附属「アジアの中の日本文化」研究センター
雑誌
JunCture : 超域的日本文化研究 (ISSN:18844766)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.56-69, 2015-03-27

After the Great Kanto Earthquake of September 1923, the massacre of Korean residents was carried out by common Japanese influenced by groundless rumors and practices of discrimination. It is estimated that thousands of Koreans were killed, but the correct number is still unidentified. In carrying out this massacre, Japanese residents devised methods to distinguish Korean people from the Japanese. Various methods have been recorded, such as to make people repeat the names of Japanese Emperors or sing the Japanese national anthem. In this article, I will focus on one method: to make someone pronounce “15 yen 50 sen (jyuugoen gojissen)” in Japanese. This method was said to show a pronunciation difference between Korean and Japanese languages, and that if someone was Korean, she/he would pronounce the phrase as “chuukoen kochussen”. This method may have been invented by daily contacts between Japanese and Korean people before the earthquake. After the earthquake, this method spread with the diffusion of the groundless rumors throughout the Kanto district. This “15 yen 50 sen” method was documented with the memories of the Korean massacre afterwards by historians and writers. Nowadays, we hear ignominious calls such as “Kill the Korean”. In such situations, it is important to inspect the process of how such methods to distinguish people were created, and how they spread.
著者
Pevnov A. M.
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
サハリンの言語世界 : 北大文学研究科公開シンポジウム報告書
巻号頁・発行日
pp.113-125, 2009-03-08

My aim is to outline some problems and prospects of the study of two endangered languages of Sakhalin (namely Nivkh and Uilta which was previously called Orok). I believe that collaboration of Russian and Japanese linguists can substantially contribute to solution to many problems including those mentioned below.
著者
池田 貴夫 IKEDA Takao
巻号頁・発行日
2007-07-31

本論文は、北海道、サハリン、アムール川下流域に分布してきたクマ祭り(アイヌ語で「イオマンテ」、日本語で「クマの霊送り儀礼」、「飼育型クマ送り」などさまざまに表現されてきた。以下、「クマ祭り」と略記し、特に説明のない場合は、「クマ祭り」は仔グマの飼育を伴うクマ儀礼のことを指すこととする(1)。)をめぐり、クマ祭り研究の現状と課題を明らかにしたうえで、クマ祭り研究の基礎的資料であった民族誌とこれまでの研究成果を再検討することにより、民族文化情報とその表現(文化の担い手の表現、記録者の表現、研究者の表現)をめぐる諸問題に関して考察を及ぼし、そのことをとおしてクマ祭りの性格を多面的に明らかにし、今後のクマ祭り研究、アイヌ文化研究、さらには北方文化研究の進展に資することを目的とする。 ここで話題となる対象は、あくまでクマ祭りであるが、導き出される諸課題は、今後の民族学全体の進展に大きく関わってくる問題であると考えている。それは、本論文が、どのような学問分野においても意識していかなければならない「情報」や「表現」という問題をキーワードとして、クマ祭り研究の史的展開にいくつかの論点を発見し、まとめたものだからである。 アイヌ民族の中核的な儀礼、かつ伝統的な儀礼として研究されてきたクマ祭りではあるが(2)、北方地域のクマを扱う儀礼には、2種類のタイプがあるといわれている。1つは、狩猟先で仕留めたクマを丁重に扱い、祀るといういわゆる狩猟グマ儀礼で、これらはアイヌを含め、北ユーラシアや北米の諸民族の間に広く分布する。2つには、仔グマを手に入れ、一定期間飼育したクマをと殺して祀り、饗宴を催すという、いわゆるここで言う「クマ祭り」で、これらはアイヌ、ニヴフ、ウイルタ、ウリチ、オロチ、ネギダールなど北海道、サハリン、アムール川下流域諸民族に限られて、ヒグマを対象に行われてきた儀礼である。 周知のとおり、北方諸地域における2タイプのクマ儀礼の存在と分布を明確化したのは、A. I. ハロウェルの論文Bear Ceremonialism in the Northern Hemisphere[Hallowell 1926]である。そこでハロウェルは、北海道、サハリン、アムール川下流域諸民族で行われるクマ祭りは、比較的新しい時代に単純なものから手の込んだものに発達していったものであろうことを示唆したのである[Hallowell 1926:153-163]。一方、日本国内においては、概ね19世紀末頃から、アイヌのクマ祭り研究が進展し始める。特に、1960年代~1980年代にかけては、クマ祭りの学術的理解に向けての多様な研究が、民族学研究者を中心として展開された。 ところが、近年、民族学研究者がクマ祭り研究から距離を置こうとする傾向がみられる。一方では、民族学研究者は至る所でクマ祭りの説明を行わなければならず、クマ祭りはアイヌ文化の中核的な存在であり、クマをあるべき世界に送り帰す儀礼であるという通説を繰り返すだけでそれ以上踏み込んだ研究をしようとしていない。現在に至っては、クマ祭りは民族学にとって研究しづらい課題なのだろうか。民族学的視点からは、問題意識がもはや発生しないのだろうか(ほとんどが明らかになったということなのだろうか)。クマ祭りをめぐって、民族学がやらなければならないこと(民族学だからできること)は、もはやないのだろうか。 確かに、北ユーラシアや北米の諸民族の間には、クマやオオカミなどの陸獣、ワタリガラスやフクロウなどの鳥類、クジラなどの海獣などさまざまな動物を人間との関係で観念化し、狩猟や儀礼などで特別に取り扱う文化が広まっていた。そのために、クマのみを特別な存在として、研究を集中させることは危険である。先述の現状は、そのような反省もふまえた結果でもあるかもしれない。しかしながら、現実として、アイヌの中核的な儀礼として特別視され、さらには、少なくとも19世紀末頃以降、アイヌが執り行ってきた動物儀礼の多くがクマ祭りであったのは、アイヌと和人との交渉史の中で画一的なアイヌ文化観が形成されたからではないだろうか。 そのことをふまえずに、アイヌのクマ祭りに関し、旧来からの定説を繰り返すだけであるならば、現在の北方民族学のあり方に疑問を感じざるを得ない。むしろ、クマ祭りのイメージが画一化されてきた過程を検証しつつ、広く定着したイメージとは異なる新たな視点から情報を検討・発掘し、さらには個々の表現にみられるイレギュラーな現象をも1つさらにはクマ祭り研究を進めていくうえでの新たな表現方法の確立にまで考察がおよぶこととなろう。 この研究は、直接的にクマ祭りの起源論・成立論に踏み込むわけではない。また、クマ祭りをとりまく諸情報を網羅したものでもない。あくまでも、筆者がこの10年弱の間で行ってきたクマ祭りの研究の成果とそこから導き出された民族文化情報とその表現をめぐる諸課題が記されるだけである。しかしながら、本論文が、アイヌ文化史を考えるうえでの基礎として役に立つことができれば、さらには、現実としてある民族文化情報そのものを直視し、再検討する立場から、北方文化の理解と研究の再構築に寄与できれば、幸いであると考えている。
著者
Pareto Vilfredo 板倉 達文
巻号頁・発行日
2013-10

”Les systèmes socialistes : cours professé à l'université de Lausanne / par Vilfredo Pareto. - Paris : V. Giard & E. Brière, 1902-1903.”の翻訳(未完) 原著第1部情報URL:http://www.worldcat.org/oclc/763801155 原著第2部情報URL:http://www.worldcat.org/oclc/763800475
著者
中野 毅
巻号頁・発行日
2000

本研究は、日本における「国家と宗教」「政治と宗教」の関係と動態というマクロな課題を、宗教学および宗教社会学による研究方法とパースペクティブからの検討と解釈を通して、これらの課題をめぐる議論に欠落していた視点、または十分に深められていなかった次元、つまり、これからの課題は単に法律的、政治的次元における問題なのではなく、異なった ...
著者
村嶋 英治
雑誌
アジア太平洋討究 (ISSN:1347149X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.33-47, 2002-03