著者
岡田建蔵著
出版者
函館市
巻号頁・発行日
1927
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.8, pp.41-67, 2014-10

本稿では,初めに,5世紀から7世紀前半のブリトン人のアルト・カルト王国の成立・勃興からその衰退までを概観する。次に,本稿では,8世紀後半には,アルト・カルト王国はピクト王国の属領になり,また,ヴァイキングの侵攻後の10世紀初めに建国されたストラスクライド王国とその衰退を概観する。その侵攻後に,周辺国のピクト王国は,アルバ王国とその国土を拡張させ,その侵攻の衝撃を発展的に解消し,またウェセックス王国は,ブリテン島で覇権を掌握し,10世紀後半には全イングランドを統一した。その中で,強力な王権を持たないストラスクライド王国は,ヴァイキング侵攻で荒廃し,その侵攻後に強力な王のもとで統治されたピクト王国の属国とされ,11世紀にはピクト王国に併合されていたと推測される。本稿の最後に,アルト・カルト王国とストラスクライド王国におけるキリスト教の働きを一瞥する。本稿の第1節の第1項では,古代カレドニア地域の民族や7つのピクト国と伝説上のヘン・オグレット(Hen Ogledd)そして,ストラスクライド地域のブリトン人のアルト・カルト王国の勃興を概観する。5世紀頃まで,4民族がそれぞれの部族王国を形成し,現在のスコットランドを割拠していたと考えられる。アルト・カルト王国は,ストラスクライド地域のケルト系ブリトン人によって形成された王国であった。5世紀から6世紀かけて,現在のスコットランドの南西部(ダンバートンシャー,グラスゴー,レンフルシャー,スターリング,フォルクカーク,エイシャー,ラナークシャー)のストラスクライド地域にブリトン人がアルト・カルト王国(Kingdom of Alt Clut)を形成し,その中心地をダンバートンの高台(Dumbarton Rock;Alt Clut)に置いたと思われるが,しかし,このことに関する明確な記録は発見されていない。本稿の第1節の第2項の前半では,アルト・カルト王国の発生とその展開を概観する。5世紀から7世紀の前半までは,その王国の西側にScottiのダル・リアダ王国,その北側にピクト人のピクト王国,その東側にアングル人のベルニシア(ノーザンブリア)王国,その南側に他のブリテン人の王国(グウィネッズ王国,レゲット王国,あるいはエルメ王国などの王国)が活動していたと考えられる。アルト・カルト王国の第9代目エウゲン1世(在位不詳;7世紀中頃))までの国王は,その在位期間が確定しない王であり,伝説上の,あるいは,半歴史上の人物であると考えられる。特に,その関係がその王系図からブリテン人のアルト・カルト王国とダル・リアダ王国の関係,同時に,そのピクト王国との入り込んだ関係からぼんやりと見えてくるにすぎない。例えば,ダリ・リアダ王国のアイダーン王の西方への侵略を反映してアルト・カルト王国の王系図にダル・リアダの血が流れて来たと考えられる。本稿の第1節の第2項の後半では,アルト・カルト王国がピクト王国の属領にされ,それに併合される過程を概観する。アルト・カルト王国は,8世紀中頃ごろまではその勢力を保ったと思われるが,しかし,8世紀後半には,その勢力が削がれることとなった。『Annals of Ulster』には,780年に〝アルト・カルトが燃える" と記録されている。また,『Symeon of Durham』によると,ピクト王国の王オエンガス1世(在位732年-761年)がノーザンブリアの王エズバートと連合し,アルト・カルトを包囲し,攻撃した(756年8月1日)と考えられる。ストラスクライド王国はピクト王国に臣従礼をした。アルト・カルト王国がピクト王国の属国であったことは資料からも推測される。その第17代目エウゲン2世(在位不詳;8世紀後半)ならびに第18代目リデルホ(在位不詳;9世紀初め)の在位期間が不定で,2人の活躍を知らせる直接的な資料も見つかっていないこと,さらに,その第19代目ドゥムナグゥアル4世(在位不詳)が王であったことは『Harleian genealogies』のみで伝えられ他の資料にはないこと,また,『Chronicle of the King of Alba』には849年にブリトン人によってダンブレーン(Dunblane)が燃やされたことの記録から,アルト・カルト王国が1世紀以上の間にわたってピクト王国の属領であったこと考えられる。その第20代目アルトガル・マック・ドゥムナグゥアル(在位不詳;872年没)は,捕虜としてヴァイキングによってダブリンに連行され,872年にピクト王コンスタンティン1世(コンスタンティン・マック・キナエダ)(在位862年-877年)の扇動あるいは同意によってその地で殺害された。アルト・カルト王国は,確かに,870年にノルウェイ人でダブリン王国の指導者(王)のアヴラブ・コング(875年没)とイヴァール(873年没)に包囲され,掠奪されていた。『Annals of Ulster』では,第20代王アルトガル・マック・ドゥムナグゥアルの資格としてストラスクライド王を用い,〝rex Britanorum, Strata Claude(ストラスクライドのブリテン王)"と記録されている。彼は,ストラスクライド王と呼ばれた最初の王であった。国名が変更されていること,また政治の中心がダンバートンからゴーヴァンに移されていることから,ストラスクライド王国もピクト王国の属国になったと考えられる。本稿の第2節の前半では,ストラスクライド王国がアルバ王国を従属されることを概観する。『Chronicle of the Kings of Alba』によると,ストラスクライド王国の初代王ディフンヴァル1世あるいはドムナル1世(在位不詳;908年から916年の間に没)がアルバ王国の王コンスタンティン2世(在位900年-943年)の治世下で死んだという報告から,ストラスクライド王国はコンスタンティヌス2世の治世下でもアルバ王国に従属していたと推測される。その第4代目王ディフンヴァル3世あるいはドムナル・マック・オーゲン(在位941年-973年)は,『Annals of Ulster』では,〝Domnall m.Eogain,ri Bretan(オーゲンの息子ドムナル,ブリテンの王)" と呼ばれ,975年のローマへの巡礼の途上で死亡したと記録されている。『Anglo-Saxon Chronicle』には,945年にイングランドの国王エドモンド1世(在位939年-946年)が全カンブリアを占領し,それをアルバ王国のマルコム1世(在位943年-954年)に両国の陸海軍での連帯を条件として貸し与えると記録され,945年にカンブリア王国はイングランドの領土で,スコット王(多分,アルバ王マルコム1世)に貸し与えられたと理解される。しかし,ドムナル・マック・オーゲンが最後の王であると決めることはできない。というのは,その第5代目マエル・コルム1世(在位973年-997年)がアルバ王国の王と共にイングランド王エドガー(在位959年-975年)と会った8人の王に中の1人であったことから,ストラスクライド王国は,独立した国であったと理解することができる。その第6代目はオーエン2世あるいはオーガン2世(在位不詳;11世紀初めに活動)であった。第2節の第2項の末では,ストラスクライド王国がアルバ王国への併合を概観する。『Symeon Durham』によると,オーエン2世あるいはオーガン2世は1018年のカラム(あるいはコールズストリーム)の戦い(Battle of Carham(Coldstream))に参加した。ウェールズの年代記には,彼は1018年に死亡したと記録され,この戦いで彼が死んだかどうかは明らかではないが,しかし,1018年には,独立国としてのストラスクライド王国は彼の代で消滅したと考えられる。ストラスクライド王国は,スコットランド王ディヴィド1世(在位1124年-1153年)の治世まで存続したと考えられる。彼の治世時に,ストラスクライド王国がアルバ王国の属領であったか,あるいは,独立した国であったかどうかは不明であるが,多分,アルバ王国の属領で併合されていたと推測される。第3節では,アルト・カルトならびにストラスクライド両王国におけるキリスト教について概観する。本稿で取り上げるアルト・カルト王国ならびにストラスクライド王国は,その地理的立地からも推察されるように,その周辺王国の侵攻に悩まされたと考えられる。これが,その王権の伸張を阻害した大きな要因であったと推測される。また,その他の要因として,この王国にはダル・リアダ王国のアイダーン王(在位574年?-609年),ノーザンブリア王国のアシルフリス(在位593年-616年),エドウィン(在位616年-633年)ならびにオズワルド王(在位634年-642年)などの王,あるいはピクト王国のオエンガス1世などのような強い統率力のある国王(支配者)が出現しなかったこともあげられる。このこともアルト・カルト王国およびストラスクライド王国が早い段階で歴史から消える要因であったと思われる。それでも,この王国は,同様の地理的条件にあったと思われるレゲット王国やエルメト王国などのブリテンの王国よりも他の王国による支配下に入るのは遅かった。その要因はよく分からない。それは,現時点では,ミッシング・リンクである。研究ノートNote
著者
原野 かおり 出井 涼介 桐野 匡史 谷口 敏代 中嶋 和夫
出版者
岡山県立大学保健福祉学部
雑誌
岡山県立大学保健福祉学部紀要 (ISSN:13412531)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.101-107, 2015

本研究は介護技術に関する測定尺度を開発し、その妥当性と信頼性を検討することを目的とした。 X 県内の介護保険施設に従事する主任および管理者を対象にインタビューを行い尺度の原案を作成した。その後X県内すべての特別養護老人ホームおよび老人保健施設に勤務する介護福祉士を対象に郵送法による自記式質問紙調査を行った。統計解析では「介護技術評価尺度」を構成する10 領域を第一次因子、介護技術を第二次因子とする10 因子二次因子モデルを仮定し、因子構造の側面から見た構成概念妥当性を確認的因子分析により検討した。分析には各項目に欠損値を有さない750 人分のデータを使用した。「介護技術評価尺度」の10 因子二次因子モデルのデータに対する適合性及びCronbach のα信頼性係数は統計学的に支持された。「介護技術評価尺度」は、介護関連施設等に従事する介護労働者の介護技術を測定可能な尺度であることが示唆された。We aimed to develop a care technique scale and assess its reliability and validity. [Method] We conducted interviews with chiefs and administrators who have been engaged in long-term care insurance facilities in X prefecture to create a draft of our scale. Subsequently, we conducted self-administered surveys through mails for care workers in special nursing homes and healthcare facilities for elderly people in X prefecture. In the statistical analysis, we created a model with 10 second-order factors, where 10 regions comprising the care technique scale were set as the first-order factor and the care technique as the secondorder factor. We also examined the validity of the constructive concepts observed from the viewpoint of the factor structure that was based on the confirmatory factor analysis. We used data from 750 subjects with no missing values in each item comprising the analysis. [Results] The adequateness of the data for our 10 factor second-order factor model and Cronbach's coefficient alpha of our care technique scale had a statistically acceptable level.[Discussion] We showed that our scale could measure the care techniques of care facility staff members.
著者
三上 直彦
出版者
分子科学会
雑誌
Molecular Science (ISSN:18818404)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.A0083, 2016 (Released:2016-08-29)
参考文献数
20

Activities of the tiny science lab for school kids, called “Fukurou-jyuku”, established in Sendai several years ago, are reported by the author who had long been involved in molecular spectroscopic studies. Examples of the unique programs and efforts for the hands-on science experiments are given, as well as interesting episodes related to the activities of the lab and personal events in the author’s past that led him to become a scientist.
著者
眞鍋 千絵 松田 泰典
出版者
東北芸術工科大学
雑誌
東北芸術工科大学紀要
巻号頁・発行日
vol.10, pp.52-73, 2003-03

Immediately after the Second World War, the Panreal Art Group (Panreal Bijutsu Kyokai) was launched in Kyoto by a group of young artists who had received their training in the traditional Nihonga painting style. This group is known for its avant-garde style and painting techniques. In our research project, the materials and techniques used in six pieces of the group's early works, from 1951 to 1963, in the Kariya City Museum collection were examined and documented. In order to verify and finalize the results of our investigation, we carried out interviews in Kyoto with members as well as families of deceased members of the Panreal Art Group. The distinguishing features of the early works are the use of plywood as support and the application of formalin on ground and paint layer. This research project sought to determine why these materials and techniques were used and what effects they had.
著者
武久 洋三
出版者
一般社団法人 日本老年医学会
雑誌
日本老年医学会雑誌 (ISSN:03009173)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.239-242, 2011 (Released:2011-07-15)
参考文献数
8
被引用文献数
1 1

高齢者は複数の疾患を抱えており,治療が遷延し回復に時間を要することが多い.急性期病院では臓器別専門医による専門分野の治療が中心である.老年医学は老年患者の病態を把握した上で総合的に診るという機能があるが現在の日本の医療制度では,高齢者が脳卒中などを引き起こした場合には,まず急性期病院へ運ばれ治療が行われる.しかし急性期病院は平均在院日数の短縮化やDPC制度の弊害により,主病名の治療が一段落すると退院促進をすることが一般的である. 慢性期医療を担う病院では,主病名の治療を終えた各専門科の患者が慢性期病院へ紹介されてやってくる.慢性期医療とは,高度急性期病院で受けた治療後の患者の治療を継承するとともにその疾病や治療によってもたらされた身体環境の悪化(「医原性身体環境破壊」)に対する治療を総合的に行い疾病前の状態に回復させ,患者が施設や在宅療養に移行できるようにQOLを回復し病状の悪化を防ぐ機能を含め非常に広範囲な医療の概念が必要と考える.そのためには医学的治療だけでなくリハビリテーションをはじめ,看護・介護ケア,栄養ケアなど様々な方面からサポートしなければならない. 現在,慢性期医療を担う病院ではICUの入院患者と変わらない症状の患者を治療している.同じ医療区分1の患者であっても施設で対応可能な軽症患者から重症患者まで多種多様であり現在の診療報酬の医療区分の体系で患者状態を保険診療していくのは困難である. 15年後には,死亡者が現在より50万人も多い160万人になると推測されており,さらに病院・施設・在宅療養対象者が300万人も増えることが予想されているにもかかわらず国は今後病床数を増やさない方針であるため,在宅療養支援機能の強化が必要となってくる.今後は病院が地域包括医療センターとして地域包括支援センターの役割も併設しトータルで医療と介護をコーディネートしていく必要があると考える.
著者
Okan Gulel Mustafa Yazici Mahmut Sahin
出版者
International Heart Journal Association
雑誌
International Heart Journal (ISSN:13492365)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.113-116, 2007 (Released:2007-03-13)
参考文献数
22
被引用文献数
1 1

We report a patient with a snake-shaped, mobile mass in the right atrium. The mass was determined to be an elongated Eustachian valve which was a persistent part of the embryologic valve of the sinus venosus.
著者
Keisuke OGUMA Megumi OHNO Mayuko YOSHIDA Hiroshi SENTSUI
出版者
JAPANESE SOCIETY OF VETERINARY SCIENCE
雑誌
Journal of Veterinary Medical Science (ISSN:09167250)
巻号頁・発行日
pp.17-0704, (Released:2018-05-17)
被引用文献数
7

Feline coronavirus (FCoV) is classified into two biotypes based on its pathogenicity in cats: a feline enteric coronavirus of low pathogenicity and a highly virulent feline infectious peritonitis virus. It has been suspected that FCoV alters its biotype via mutations in the viral genome. The S and 3c genes of FCoV have been considered the candidates for viral pathogenicity conversion. In the present study, FCoVs were analyzed for the frequency and location of mutations in the S and 3c genes from faecal samples of cats in an animal shelter and the faeces, effusions, and tissues of cats that were referred to veterinary hospitals. Our results indicated that approximately 95% FCoVs in faeces did not carry mutations in the two genes. However, 80% FCoVs in effusion samples exhibited mutations in the S and 3c genes with remainder displaying a mutation in the S or 3c gene. It was also suggested that mutational analysis of the 3c gene could be useful for studying the horizontal transmission of FCoVs in multi-cat environments.