スポコン (@yabattfit1962)

投稿一覧(最新100件)

RT @machi82175302: 安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。 https://t.co/4aFWiVXKcV………
RT @machi82175302: 続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co…
RT @machi82175302: 今からちょうど158年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年…
RT @machi82175302: 拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnL…
RT @machi82175302: 続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https…
RT @machi82175302: 拙稿「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英戦争を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』15号)は「KUIS学術情報リポジトリ」で公開されました。 https://t.co/AMFvBExx7b
RT @machi82175302: 拙稿「長州藩処分問題と薩摩藩―幕府・越前藩関係を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要11号、2019年)はこちらで!https://t.co/wcj78NXwo7…
RT @machi82175302: 拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月予定)。手前みそだが、幕末期の黒田清隆を、ここまで扱った論文を知らない。https://t.co/qtxOT4NEf0……
RT @machi82175302: 今からちょうど157年前、慶応2年2月3日、「萩藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」、鹿児島藩士黒田了介「清隆」を伴ひ、山口に帰る」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要9号、2017年)を参照…
RT @zasetsushirazu: 知野文哉氏の博士論文「土佐明治維新史とその歴史意識の形成-坂本龍馬を中心に-」。読み応えがある。 なお知野氏には、著書『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院)や、論文「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)、「瑞山会考」(『土佐史…
RT @machi82175302: 今からちょうど158年前、元治1年12月28日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。本件については、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』…
RT @machi82175302: 安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。 https://t.co/4aFWiVFAYN……
RT @machi82175302: 拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAxGwv……
RT @machi82175302: 今からちょうど158年前、元治1年12月2日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(神田外語大学日本研究所紀要8号、2016.3)を参照…
RT @zasetsushirazu: 嘉永6年9月15日(1853年10月17日)、幕府は大船建造の禁止令を解禁した。下記リンクは、幕末の仙台藩が建造した洋式帆船に関する論考や史料を収録した、佐藤大介・黒須潔・井上拓巳編著『仙台藩の洋式帆船開成丸の航跡』(東北大学災害科学国際…
RT @machi82175302: 続き)このあたり、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に― 」を参照ください。以下、ダウンロードも可能です。https://t.co/in1GB6HhU2……
RT @machi82175302: 続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co…
RT @itaru_ohyama: 明治に入って来たドイツ医学は病気の原因を突き止め、それを排除する方向だったから、脚気が伝染病であることを疑い、病原菌を探した。実はビタミン不足によって起きる病気だと現在では知られているが、そもそもビタミンが発見されたのは日露戦争のあとだ。 h…
RT @machi82175302: 今からちょうど157年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年…
RT @machi82175302: 拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnL…
RT @machi82175302: 続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https…
RT @zasetsushirazu: 町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』13、2021年)曰く、薩摩藩は抗幕姿勢を貫くためにパートナーとしての英国との関係を重視していて、一旦ぎくしゃくした両者の関係を改善するためにも、英国公使パークス…
RT @zasetsushirazu: 明治39年4月8日、長岡護美(長岡雲海、長岡良之助)が死去。肥後熊本藩主・細川斉護の子で、熊本藩を代表する人物。明治期、オランダ公使などを歴任。呉永台「幕末期肥後藩の中央政治参加への試み」(『年報地域文化研究』18)は、文久2年までの長岡…
RT @zasetsushirazu: 慶応4年3月15日(1868年4月7日)、幕臣・川路聖謨が死去。ロシア使節プチャーチンとの交渉を担当し、勘定奉行などを歴任した幕臣。戊辰戦争の中、短銃で自殺。濱野靖一郎「漢学的政治学の実践」(『年報政治学』69-1)は、川路を「幕末期の侍…
RT @zasetsushirazu: 大正11年4月7日、漢学者・東洋史研究者の林泰輔が死去。渋沢栄一の依頼で『論語年譜』(大倉書店)を編纂。『朝鮮通史』(富山房)などの単著がある。権純哲「林泰輔の「朝鮮史」研究」(『埼玉大学紀要 教養学部』44-2)曰く、「東京大学の東洋史…
RT @zasetsushirazu: 平成5年(1993年)3月19日、歴史家の吉田常吉が死去。著書に『安政の大獄』(吉川弘文館)や『井伊直弼』(吉川弘文館)などがある。死後に刊行された『幕末乱世の群像』(吉川弘文館)は既発表の論考の再録で、小泉雅弘氏の書評(『駒沢史学』49…
RT @zasetsushirazu: 明治6年3月14日、日本人と外国人の結婚について定めた内外人婚姻規則が、太政官布告第103号として公布された。小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)曰く、国際結婚の問題は、条約改正の議論の中で論点となった内地雑居の問題に…
RT @zasetsushirazu: 明治44年3月13日、栗原亮一が死去。政党政治家で、明治15年には板垣退助の外遊に同行した。田中由貴乃「板垣洋行問題と新聞論争」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』40)曰く、「中村敬宇に啓蒙思想や英学を学び、愛国社再興から自由党結成に…
RT @zasetsushirazu: 明治23年3月9日、尾崎忠征(尾崎八右衛門)が死去。幕末の尾張藩出身で、徳川慶勝に重用された。佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205)は、尾崎が近衛忠煕と緊密に連携し、「尾張藩と朝廷をつなぐ役割」を果…
RT @zasetsushirazu: 慶応2年1月21日(1866年3月7日)は、町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)曰く、18日に小松帯刀・木戸孝允らの会談で概要が決まった薩長同盟の内容を、坂本龍馬(長州藩から薩摩藩士と認識されてい…
RT @zasetsushirazu: 大正3年2月28日、漢学者の岡鹿門(岡千仭)が死去。幕末の仙台藩出身で、昌平黌で知り合った友人・松本奎堂(後に天誅組の総裁)と共に塾を開いた。閻秋君「明治初期の日本における米国史の受容について」(『中国文化 研究と教育』77)は、岡が翻訳…
RT @zasetsushirazu: 明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去。何者かに暗殺されたが、真犯人は不明。当時、明治政府の参議を務めていた長州藩出身者は、広沢と木戸孝允だけだった。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、事件…
RT @zasetsushirazu: 松尾晋一「近世日本の境界と日本人-抜荷の首魁・金右衛門の知る大陸情報を素材にして-」(『東アジア評論』8、2016年)曰く、鎖国下の長崎から海外密航を試みる日本人は恒常的に存在した。長崎奉行もそのことを知っていて、オランダ密航を企図した者…
RT @zasetsushirazu: 大正2年2月17日、坂崎紫瀾(坂崎斌)が死去。坂本龍馬を主役に据えた小説『汗血千里の駒』の作者で、瑞山会の『維新土佐勤王史』の執筆も担当した。知野文哉「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)は、土佐の維新史を語る上での坂崎の…
RT @machi82175302: 拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月予定)。幕末期の黒田清隆を、ここまで扱った論文を知らない。https://t.co/qtxOT4NEf0…
RT @zasetsushirazu: 文久2年12月22日(1863年2月10日)、国学者・塙忠宝(塙次郎)が死去。塙保己一の長男で、『続群書類従』などを編纂した。久田信行「盲唖学校の成立と山尾庸三(補遺)」(『群馬大学教育実践研究』31)は、伊藤博文と山尾庸三が塙を暗殺した…
RT @machi82175302: 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。 https://t.co/…
RT @machi82175302: 今からちょうど156年前、慶応2年2月3日、「萩藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」、鹿児島藩士黒田了介「清隆」を伴ひ、山口に帰る」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要9号、2017年)を参照…
RT @zasetsushirazu: 明治38年1月31日、副島種臣が死去。幕末の佐賀藩出身で、兄の枝吉神陽が主宰した義祭同盟に加盟(大隈重信、江藤新平らも一緒)。大隈と共に原市之進への大政奉還提案を試みたことがある。後藤新「台湾出兵の一考察」(『武蔵野法学』12)は、外務卿…
RT @zasetsushirazu: 昭和7年1月31日、穂積歌子が死去。渋沢栄一の長女で、法学者の穂積陳重と結婚。穂積重行編『穂積歌子日記』(みすず書房)がある。同書に関する書評(『史学雑誌』101-4)の中で佐々木隆氏は、歌子が政治に対する豊富な知識と理解力を有していたで…
RT @zasetsushirazu: 明治6年1月29日、小幡甚三郎が死去。幕末の中津藩出身で、明治4年に旧中津藩主の奥平昌邁が米国留学するにあたって、その随行者として福沢諭吉に推挙された。だが、米国留学中に26歳で客死。文献に、西澤直子「小幡甚三郎のアメリカ留学」(『近代日…
RT @zasetsushirazu: 酒入陽子「戊辰戦争における彦根藩戦死者顕彰碑考」(『滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要』54、2021年)は、東京都世田谷区の豪徳寺(彦根井伊家の菩提寺で、井伊直弼の墓もある)にある、戊辰戦争で大鳥圭介ら旧幕府軍と戦って死んだ彦根藩士たち…
RT @zasetsushirazu: 明治34年1月20日、伊藤圭介が死去。1803年〜1901年まで生きた日本初の理学博士。遠藤正治ほか「神田外語大学附属図書館所蔵シーボルト編/伊藤圭介・賀来佐之録「日本植物目録」について」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)は、植物学を学…

16 0 0 0 OA 維新日乗纂輯

RT @zasetsushirazu: 明治24年1月12日、妻木頼矩(妻木多宮、妻木田宮、妻木棲碧)が死去。幕末の幕臣で、鳥羽・伏見の戦いの後、大坂城を新政府に引き渡す役目を担った。大塚武松編『維新日乗纂輯』第3巻(日本史籍協会)に、「妻木頼矩手記 戊辰正月大坂城引渡始末」が…

3 0 0 0 OA 書評

RT @zasetsushirazu: 家近良樹氏による、良樹『近世京都・大坂の幕府支配機構』(清文堂出版)の書評PDF。『社会経済史学』82-3。 https://t.co/46Q4laQrix
RT @machi82175302: 今からちょうど15年前、元治1年12月28日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。本件については、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』2…
RT @machi82175302: 安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。https://t.co/4aFWiVXKcV…
RT @zasetsushirazu: 明治20年12月19日、吉原重俊が死去。幕末の薩摩藩が派遣した第2次海外留学生。イエール大学に初めて入った日本人で、後に日本銀行の初代総裁。吉原重和「新島襄と吉原重俊(大原令之助)の交流」(『新島研究』104)は、米国留学中の吉原と同じく…
RT @zasetsushirazu: 明治5年11月16日(1872年12月16日)、岩倉使節団がパリに到着。福井憲彦「岩倉使節団の見たパリ」(『学習院史学』34)は、使節の一員だった久米邦武の『米欧回覧実記』にパリがどのように描かれているか、また当時のパリがどんな状態だった…
RT @machi82175302: 拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAPPKD…
RT @zasetsushirazu: 大正9年12月9日、岡谷繁実が死去。幕末の館林藩士で、幕府による長州征伐の回避に向けて活動した時期がある。著書『名将言行録』は、井上泰至「近世軍書の研究に対するアメリカ日本研究の有効性」(『国際日本文学研究集会会議録』29)曰く、「近世軍…
RT @zasetsushirazu: 安政6年11月14日(1859年12月7日)、浮田一蕙が死去。ペリー来航の際に「神風夷艦を覆するの図」を描いた絵師。安政の大獄で投獄された。中谷伸生「浮田一蕙「長篠合戦図」」(『関西大学博物館紀要』9、2003年)は、従来の研究では「勤皇…
RT @zasetsushirazu: 昭和21年(1946年)12月5日、歴史家の大塚武松が死去。遺稿集『幕末外交史の研究』(宝文館)がある。時野谷勝が同書の書評(『史林』35-4)で「殆ど全生涯を地味な史料編纂事業に打込み」云々と評したように、日本史籍協会の『渋沢栄一滞仏日…
RT @zasetsushirazu: 明治13年12月4日、鮫島尚信が死去。幕末の薩摩藩英国留学生の1人で、外交官として活躍。下記リンクでPDFを閲覧できる御幡真人「洋書を追いかけて(後編)サムライ・帝国図書館・神秘主義」(『国立国会図書館月報』727、2021年)は、図書館…
RT @machi82175302: 今からちょうど157年前、元治1年12月2日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(神田外語大学日本研究所紀要8号、2016.3)を参照…

5 0 0 0 OA 史籍雑纂

RT @mitsuha001: 次は平井収二郎『隈山春秋』。土佐勤王党の平井収二郎の在京日記で、武市の在京日記と見比べて読むと楽しいです。岡田以蔵が大坂で麻疹にかかった際の「30歳以下でかからない者は居ない」の記述はこちらに載ります。『史籍雑纂』第5にあり、国デジオンラインで読…
RT @zasetsushirazu: 明治11年11月29日、柏木忠俊が死去。幕末期は江川英龍に仕え、新政府が江川英武(英龍の息子)を韮山県知事に任じた際には、「実際に県治を遂行した」のは韮山県大参事の柏木だった(樋口雄彦「韮山県から慶應義塾への派遣学生」『近代日本研究』34…

7 0 0 0 OA 海運史料

RT @rekishi_info: こちらの史料も共同と三菱、政府のやりとりを見るのに参考になります。 (読みにくいですが…) 『海運史料. 上』 https://t.co/Qbd3PWuStA #青天を衝け
RT @rekishi_info: 『青淵先生六十年史 : 一名近世実業発達史. 第2巻』にも千代のことも記載されています。 https://t.co/PyRtJzSRnb #青天を衝け https://t.co/Iu0cxVyceP

58 0 0 0 OA はゝその落葉

RT @rekishi_info: 穂積(渋沢)歌子の『はゝその落葉』に嫁いだ時の話が書いてあります。 https://t.co/dcwRIAWoxw #青天を衝け https://t.co/KNoDHQKCAD
RT @zasetsushirazu: 大正11年11月10日、中島永元が死去。肥前佐賀藩出身で、幕末期には大隈重信らと共に長崎に遊学し、フルベッキに学んだ。松谷昇蔵「内閣制度導入前後における文部官僚」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』66、2021年)は、学校経営の前歴を持…
RT @zasetsushirazu: 平野隆「明治前期東京における財界の形成とその性格」(『近代日本研究』6)曰く、東京商法会議所は明治10年、渋沢栄一・益田孝・福地源一郎・三野村利助・大倉喜八郎・渋沢喜作・竹中邦香・米倉一平により、東京府知事・楠本正隆に願書が提出され、翌年…
RT @zasetsushirazu: 昭和56年(1981年)11月3日、経済史研究者の堀江英一が死去。主な著書の1つに『明治維新の社会構造』(有斐閣、1954年)があり、『堀江英一著作集』全4巻(青木書店)の第1巻に所収。朝尾直弘氏の書評(『史林』38-2)があり、『朝尾直…
RT @zasetsushirazu: 安政6年10月7日(1859年11月1日)、頼三樹三郎が死去。梅田雲浜らと交流し、安政の大獄で処刑された。遺体は大橋訥庵が埋葬。任萌萌「頼三樹三郎が頼山陽を偲ぶ詩」(『比較日本文化学研究』14、2021年)は、文人としての面に着目し、父・…
RT @zasetsushirazu: 明治31年10月29日、小野友五郎が死去。万延元年、太平洋を横断した咸臨丸に乗船。文久期の小笠原諸島の調査に咸臨丸の艦長として参加。平山洋「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」(『国際関係・比較文化研究』8-2)は、慶応3年の福沢と…

13 0 0 0 OA 漂民御覧之記

RT @zasetsushirazu: 寛政5年9月18日(1793年10月22日)、漂流した末にロシアで数年を過ごして帰国した大黒屋光太夫が、将軍・徳川家斉や松平定信に謁見。光太夫は、ロシアで知られている日本人として、桂川甫周(その場にいた)と中川淳庵の名前を挙げた。桂川甫周…
RT @zasetsushirazu: 慶応元年8月26日(1865年10月15日)、薩摩藩の新納久脩と五代友厚らがブリュッセルで、フランス貴族モンブランを相手にベルギー商社計画と呼ばれる契約を調印(ベルギー政府の証人が立ち会い)。宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(『…
RT @zasetsushirazu: 明治17年10月12日、川路高子が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の妻で、聖謨が自殺した後、川路家当主になる孫の川路太郎が海外留学から戻るまで、家を守らなければならなかった。井上勲「史料紹介 川路高子『上総日記』解題」(『学習院大学史料館紀要』…
RT @MtIkoma630: @machi82175302 1866年に八丈島の島民34人が東沙(プラタス)島に漂流し上陸、中国漁船に救助され香港に運ばれ、香港政庁の保護を受け、翌年イギリス商船で横浜に送還された、という史実を初めて知りました。https://t.co/uS1…
RT @zasetsushirazu: 伊故海貴則「明治維新期地域社会における「多数決」導入」(『立命館大学人文科学研究所紀要』124、2020年)は、静岡県駿河国地域では、地租改正によって「総員の納得できる合意は事実上、不可能」と認識され、「合意形成の一手段として「多数決」が…
RT @zasetsushirazu: 明治17年9月15日、安達清風が死去。幕末の鳥取藩出身で、磯田道史「幕末維新期の藩校教育と人材登用」(『史学』71-2・3)によれば、「藩内きっての俊英」であり、藤田東湖の影響を受けて能力主義による人材登用の必要性を主張した。徳川慶喜の側…
RT @machi82175302: 続き)このあたり、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に― 」を参照ください。以下、ダウンロードも可能です。https://t.co/in1GB6YkW2…
RT @zasetsushirazu: 文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。成島柳北の祖父で、第12代将軍・徳川家慶に信任された儒学者。『徳川実紀』を編纂した。藤實久美子「徳川実紀の編纂について」(『史料館研究紀要』32)曰く、実紀の編纂に成島を推薦したの…
RT @zasetsushirazu: 昭和14年9月7日、渡辺蒿蔵(天野清三郎)が死去。吉田松陰の松下村塾門下生の、最後の生き残り。幕末期には奇兵隊にも加入した。海外留学して帰国した後、造船技術者として活躍。牛見真博「近代造船の先駆者・渡辺蒿蔵(下)」(『大島商船高等専門学校…
RT @zasetsushirazu: 明治27年9月2日、柳原前光が死去。幕末の公家で、明治期には主に外交官として活躍。皇室典範の起草にも関与したが、笠原英彦「明治皇室典範の制定過程と柳原前光」(『法学研究』91-12)によれば、皇室典範に「譲位」を規定しようとした柳原案は伊…
RT @zasetsushirazu: 明治31年8月27日、島田篁村(島田重礼)が死去。幕末期に昌平黌で助教を務めた儒学者で、明治期には東京帝国大学教授などを務めた。古賀勝次郎「安井息軒を継ぐ人々(3)」(『早稲田社会科学総合研究』11-1)曰く、明治以降の儒学の衰退を憂慮し…

4 0 0 0 OA 奇兵隊日記

RT @oretatami: 好きな問題児有隣は、奇兵隊日記文久3年10月の 「富永有隣 御茶屋において総管に相背くに付き 御玄関にて狙撃隊へ命じ縛り連れ帰り候事」のゆーりんです!
RT @zasetsushirazu: 安政5年7月16日(1858年8月24日)、島津斉彬が死去。西郷隆盛が慕った薩摩藩主で、田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、斉彬は「優秀な蘭学者たちと交流しながら蘭書を翻させ、その知識…
RT @zasetsushirazu: 明治38年8月14日、三宮義胤が死去。幕末期に岩倉具視らと交流し、戊辰戦争に新政府軍の一員として参加。明治政府では兵部省、外務省、宮内省などに出仕。明治初期に英国人女性と結婚したため、小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11…
RT @zasetsushirazu: 昭和2年7月30日、市川文吉が死去。幕末期に幕府が派遣したロシア留学生で、明治6年に岩倉使節団がロシアを訪問した際に通訳として現地採用された(坂内知子「岩倉使節団とロシア宮廷の謁見儀礼」『異文化コミュニケ-ション研究』15)。樺太・千島交…
RT @zasetsushirazu: 慶応2年6月18日(1866年7月29日)、西郷隆盛が寺島宗則らを伴い、鹿児島滞在中の駐日英国公使パークスと会談した。町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』13、2021年)によれば、「薩英間の本格的…
RT @zasetsushirazu: 明治30年7月29日、鄭永寧が死去。幕末の唐通詞で、明治期にも外交官として伊達宗城・副島種臣・大久保利通・伊藤博文らの清国行きに随行。日清修好条規などに関わった。幕末の唐通詞について、許海華「幕末における長崎唐通事の体制」(『東アジア文化…
RT @zasetsushirazu: 明治22年7月19日、杉田玄端が死去。岩瀬忠震の推挙で蕃書調所に出仕した医師・蘭学者で、その後は外国奉行支配翻訳御用頭取や沼津陸軍医学所頭取などを務めた。鈴木敏夫「江戸時代における養生書の研究」(『北海道大学教育学部紀要』22)は、杉田の…
RT @zasetsushirazu: 明治15年7月6日、松田道之が死去。幕末期に鳥取藩の周旋方を務め、長州藩に親和的な立場で活動した。明治期には東京府知事などを歴任し、さらに琉球処分を担当。近年の研究に、馬場義弘「初代滋賀県令松田道之の人物と思想」(『滋賀大学教育学部紀要』…
RT @zasetsushirazu: 慶応3年5月24日(1867年6月26日)、兵庫開港が勅許。青山忠正「通商条約の勅許と天皇」(『佛教大学歴史学部論集』5)曰く、2年前の条約勅許で「現実に行われている外交・貿易と、その事実を国家のトップが認めていないというねじれ構造は解消…
RT @zasetsushirazu: 麓慎一「明治初期のサハリン島問題とパークス」(『環日本海研究年報』24)によれば、英国公使パークスは、「明治政府に穏健なサハリン島政策の選択を求めた」。その一方でパークスは、「ロシアによる日本の北方地域への脅威は限定的なものと考えるように…
RT @rekishi_info: 恐らく、今回の青天を衝けの薩摩藩の動きは、町田明広先生の『慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―』(神田外語大学日本研究所紀要)が参考になりそうです! https://t.co/upjt9qfq5i #青天を衝け
RT @zasetsushirazu: 明治39年6月17日、矢野二郎が死去。幕末期に英語の通訳を務めた幕臣で、幕府の横浜鎖港談判使節に随行。明治期に駐米公使や商法講習所(一橋大学の起源)の初代所長に就任。菊地久「維新の変革と幕臣の系譜6」(『北大法学論集』32-3)は、旧幕臣…
RT @zasetsushirazu: 明治43年6月16日、島津珍彦(島津備後)が死去。島津久光の子で、薩摩藩主・島津茂久(忠義)の弟。慶応3年には西郷隆盛や大久保利通に近い人物だった。針貝綾「鹿児島県の屋外彫刻」(『鹿児島県立短期大学地域研究所研究年報』34)は、大正期に建…

8 0 0 0 OA 東湖全集

RT @yukikane66: 平岡円四郎のことを調べるのであれば、実父岡本忠次郎(豊洲)のことから調べなければならない。藤田東湖の『見聞偶筆』に忠次郎のことが書いてある。 https://t.co/U0mQOxfuSf
RT @TatsuUwa: 今日は来島又兵衛も登場。来島を狙撃したのは川路利良と聞いたことがあります。個人的な話ながら私は来島の生誕地近くで育ちまして、現在生誕地には石碑があります。長州の馬屋原二郎が大正になり語った『元治甲子禁門事変実歴談』 はなかなか面白いです。 #青天を衝…
RT @zasetsushirazu: 慶応2年1月8日(1866年2月22日)、木戸孝允が上京。薩長同盟に繋がるが、手引きした薩摩藩士・黒田清隆の行動は、独断によるものだった可能性が高い。町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)、同『薩長…
RT @zasetsushirazu: 明治27年6月2日、森寛斎が死去。長州藩出身の日本画家。高久嶺之介「北垣晋太郎の幕末」(『社会科学』49-2)は、北垣国道が生野の変に参加した後、「長州に潜伏し,奇兵隊に幕府の間諜と怪しまれ,処刑されんとした時」、森に救われた逸話と、その…
RT @zasetsushirazu: 明治5年4月16日(1872年5月22日)、砲術家の村上範致(村上定平)が死去。幕末の田原藩出身で、渡辺崋山に期待され、高島秋帆に師事した。幕府の講武所にも招聘された。鵜飼尚代・佐久間永子「村上範致と著述古記録に関する基礎研究」(『名古屋…
RT @zasetsushirazu: 昭和54年(1979年)5月17日、平尾道雄が死去。幕末維新の土佐藩や坂本龍馬などの研究で知られ、その一連の研究は良くも悪くも、「今日まで土佐藩研究の礎と評される」(笹部昌利「幕末期土佐藩の国事運動と「政治犯」化」『京都産業大学日本文化研…
RT @zasetsushirazu: 明治44年5月13日、谷干城が死去。幕末の土佐藩出身で、坂本龍馬とも交流があった。中野目徹氏は、小林和幸『谷干城』(中公新書、2011年)の書評(『史学雑誌』122-8に掲載)で、西南戦争での活躍や貴族院の重鎮としての立場など重要人物であ…
RT @zasetsushirazu: 安政5年3月24日(1858年5月7日)、幕臣の岩瀬忠震と福井藩の橋本左内が、初めて会った。その後、交流は活発になり、「外交問題や一橋派の運動を通じて、両者は信頼できる同志」になった(別所興一「幕末・維新期の対外観の転回」『愛知大学綜合郷…
RT @zasetsushirazu: 明治29年5月6日、高崎五六(高崎猪太郎)が死去。町田明広「第一次長州征伐における薩摩藩」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)及び同『薩長同盟論』(人文書院)曰く、元治元年に岩国領主・吉川経幹に対して、長州征伐を寛典処分とする薩摩藩・島津…
RT @zasetsushirazu: 明治30年5月3日、伊賀陽太郎が死去。幕末の土佐藩主・山内容堂の甥で、井上琢智「小野梓を支えた土佐の人びと」(『早稲田大学史記要』45)曰く、「宿毛の邑主として、戊辰戦争では宿毛を代表して機勢隊を結成」した後、約10年の英国留学を経験。小…
RT @zasetsushirazu: 明治42年4月28日、由利公正が死去。幕末の福井藩出身で、五箇条の御誓文の作成に関与。東京府知事などを歴任。三浦直人「由利公正の名に〈唯一の〉〈正しい〉読みはあるか-きみまさ・きんまさ・コウセイ-」(『明治大学大学院文学研究論集』48)は…

お気に入り一覧(最新100件)

安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。 https://t.co/4aFWiVXKcV………
続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co/nAmxbsUysz………
今からちょうど158年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)で詳述。 https://t.co/nAmxbsUysz……
続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https://t.co/A65OnLvEDg……
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnLvEDg……
拙稿「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英戦争を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』15号)は「KUIS学術情報リポジトリ」で公開されました。 https://t.co/AMFvBExx7b
拙稿「長州藩処分問題と薩摩藩―幕府・越前藩関係を中心に」(神田外語大学日本研究所紀要11号、2019年)はこちらで!https://t.co/wcj78NXwo7…
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月予定)。手前みそだが、幕末期の黒田清隆を、ここまで扱った論文を知らない。https://t.co/qtxOT4NEf0……
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。 https://t.co/qtxOT4NEf0……
今からちょうど157年前、慶応2年2月3日、「萩藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」、鹿児島藩士黒田了介「清隆」を伴ひ、山口に帰る」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要9号、2017年)を参照下さい。https://t.co/A65OnLvEDg……
知野文哉氏の博士論文「土佐明治維新史とその歴史意識の形成-坂本龍馬を中心に-」。読み応えがある。 なお知野氏には、著書『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院)や、論文「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)、「瑞山会考」(『土佐史談』274)などがある。 https://t.co/zfid4b1L5f
今からちょうど158年前、元治1年12月28日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。本件については、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』2016.3)参照。https://t.co/bR9OnAPPKD……
安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。 https://t.co/4aFWiVFAYN……
拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAxGwv……
今からちょうど158年前、元治1年12月2日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(神田外語大学日本研究所紀要8号、2016.3)を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAxGwv……
嘉永6年9月15日(1853年10月17日)、幕府は大船建造の禁止令を解禁した。下記リンクは、幕末の仙台藩が建造した洋式帆船に関する論考や史料を収録した、佐藤大介・黒須潔・井上拓巳編著『仙台藩の洋式帆船開成丸の航跡』(東北大学災害科学国際研究所、2022年)のPDF。 https://t.co/knAGWs8yah
続き)このあたり、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に― 」を参照ください。以下、ダウンロードも可能です。https://t.co/in1GB6HhU2……
続き)是日、佐次右衛門、帰藩の途に就き、慎太郎・楠左衛門、亦薩長二藩の連絡を図らんが為、西下す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)参照。https://t.co/nAmxbsUysz……
明治に入って来たドイツ医学は病気の原因を突き止め、それを排除する方向だったから、脚気が伝染病であることを疑い、病原菌を探した。実はビタミン不足によって起きる病気だと現在では知られているが、そもそもビタミンが発見されたのは日露戦争のあとだ。 https://t.co/eVxfPAMcpW
今からちょうど157年前、慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)で詳述。 https://t.co/nAmxbsUysz…
続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、近藤長次郎を高く評価している。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、以下からダウンロードできます。https://t.co/A65OnLvEDg…
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、亀山社中について、「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。https://t.co/A65OnLvEDg…
町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』13、2021年)曰く、薩摩藩は抗幕姿勢を貫くためにパートナーとしての英国との関係を重視していて、一旦ぎくしゃくした両者の関係を改善するためにも、英国公使パークスの鹿児島訪問を推進した。 https://t.co/wLdjTW1HSq
明治39年4月8日、長岡護美(長岡雲海、長岡良之助)が死去。肥後熊本藩主・細川斉護の子で、熊本藩を代表する人物。明治期、オランダ公使などを歴任。呉永台「幕末期肥後藩の中央政治参加への試み」(『年報地域文化研究』18)は、文久2年までの長岡を幕末政治史の中で分析。 https://t.co/0c8kMnH8KD
慶応4年3月15日(1868年4月7日)、幕臣・川路聖謨が死去。ロシア使節プチャーチンとの交渉を担当し、勘定奉行などを歴任した幕臣。戊辰戦争の中、短銃で自殺。濱野靖一郎「漢学的政治学の実践」(『年報政治学』69-1)は、川路を「幕末期の侍官僚を代表する能吏」と評価。 https://t.co/nngY1WwrS8
大正11年4月7日、漢学者・東洋史研究者の林泰輔が死去。渋沢栄一の依頼で『論語年譜』(大倉書店)を編纂。『朝鮮通史』(富山房)などの単著がある。権純哲「林泰輔の「朝鮮史」研究」(『埼玉大学紀要 教養学部』44-2)曰く、「東京大学の東洋史学の揺籃期」に深く関与。 https://t.co/b3bZv5uHIf
平成5年(1993年)3月19日、歴史家の吉田常吉が死去。著書に『安政の大獄』(吉川弘文館)や『井伊直弼』(吉川弘文館)などがある。死後に刊行された『幕末乱世の群像』(吉川弘文館)は既発表の論考の再録で、小泉雅弘氏の書評(『駒沢史学』49)をネット上で読める。 https://t.co/lVaSxQmADH
明治6年3月14日、日本人と外国人の結婚について定めた内外人婚姻規則が、太政官布告第103号として公布された。小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)曰く、国際結婚の問題は、条約改正の議論の中で論点となった内地雑居の問題にも、少なからず関係した。 https://t.co/CDYGvqoHMV
明治44年3月13日、栗原亮一が死去。政党政治家で、明治15年には板垣退助の外遊に同行した。田中由貴乃「板垣洋行問題と新聞論争」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』40)曰く、「中村敬宇に啓蒙思想や英学を学び、愛国社再興から自由党結成に関与した板垣の腹心」。 https://t.co/VIbW5W4k0S
明治23年3月9日、尾崎忠征(尾崎八右衛門)が死去。幕末の尾張藩出身で、徳川慶勝に重用された。佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205)は、尾崎が近衛忠煕と緊密に連携し、「尾張藩と朝廷をつなぐ役割」を果たしたことなどに言及。 https://t.co/pAJttOBudV
慶応2年1月21日(1866年3月7日)は、町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)曰く、18日に小松帯刀・木戸孝允らの会談で概要が決まった薩長同盟の内容を、坂本龍馬(長州藩から薩摩藩士と認識されていた)を証人として確認した日。 https://t.co/Vz75SjD6eh
大正3年2月28日、漢学者の岡鹿門(岡千仭)が死去。幕末の仙台藩出身で、昌平黌で知り合った友人・松本奎堂(後に天誅組の総裁)と共に塾を開いた。閻秋君「明治初期の日本における米国史の受容について」(『中国文化 研究と教育』77)は、岡が翻訳した『米利堅志』を分析。 https://t.co/XNLsI2glMW
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去。何者かに暗殺されたが、真犯人は不明。当時、明治政府の参議を務めていた長州藩出身者は、広沢と木戸孝允だけだった。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、事件捜査に関する通説を再検証。 https://t.co/XCToPjhXws
松尾晋一「近世日本の境界と日本人-抜荷の首魁・金右衛門の知る大陸情報を素材にして-」(『東アジア評論』8、2016年)曰く、鎖国下の長崎から海外密航を試みる日本人は恒常的に存在した。長崎奉行もそのことを知っていて、オランダ密航を企図した者を無処罰にした事例も。 https://t.co/H1oY5PhUcm
大正2年2月17日、坂崎紫瀾(坂崎斌)が死去。坂本龍馬を主役に据えた小説『汗血千里の駒』の作者で、瑞山会の『維新土佐勤王史』の執筆も担当した。知野文哉「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)は、土佐の維新史を語る上での坂崎の重要性について考察。 https://t.co/llVIzrnJpP
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月予定)。幕末期の黒田清隆を、ここまで扱った論文を知らない。https://t.co/qtxOT4NEf0…
文久2年12月22日(1863年2月10日)、国学者・塙忠宝(塙次郎)が死去。塙保己一の長男で、『続群書類従』などを編纂した。久田信行「盲唖学校の成立と山尾庸三(補遺)」(『群馬大学教育実践研究』31)は、伊藤博文と山尾庸三が塙を暗殺したことは「ほぼ確実」とする。 https://t.co/WwIBcyl1u9
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。 https://t.co/qtxOT4vv0S…
今からちょうど156年前、慶応2年2月3日、「萩藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」、鹿児島藩士黒田了介「清隆」を伴ひ、山口に帰る」。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要9号、2017年)を参照下さい。https://t.co/A65OnLvEDg…
昭和7年1月31日、穂積歌子が死去。渋沢栄一の長女で、法学者の穂積陳重と結婚。穂積重行編『穂積歌子日記』(みすず書房)がある。同書に関する書評(『史学雑誌』101-4)の中で佐々木隆氏は、歌子が政治に対する豊富な知識と理解力を有していたであろうことを指摘。 https://t.co/1eR6Jeor6h
明治38年1月31日、副島種臣が死去。幕末の佐賀藩出身で、兄の枝吉神陽が主宰した義祭同盟に加盟(大隈重信、江藤新平らも一緒)。大隈と共に原市之進への大政奉還提案を試みたことがある。後藤新「台湾出兵の一考察」(『武蔵野法学』12)は、外務卿時代の副島の動向を分析。 https://t.co/6i9x1aTzGL
明治6年1月29日、小幡甚三郎が死去。幕末の中津藩出身で、明治4年に旧中津藩主の奥平昌邁が米国留学するにあたって、その随行者として福沢諭吉に推挙された。だが、米国留学中に26歳で客死。文献に、西澤直子「小幡甚三郎のアメリカ留学」(『近代日本研究』14)など。 https://t.co/NvcIK7Vfrn
酒入陽子「戊辰戦争における彦根藩戦死者顕彰碑考」(『滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要』54、2021年)は、東京都世田谷区の豪徳寺(彦根井伊家の菩提寺で、井伊直弼の墓もある)にある、戊辰戦争で大鳥圭介ら旧幕府軍と戦って死んだ彦根藩士たちの首塚碑などを紹介する。 https://t.co/PclBzNrJyc
明治34年1月20日、伊藤圭介が死去。1803年〜1901年まで生きた日本初の理学博士。遠藤正治ほか「神田外語大学附属図書館所蔵シーボルト編/伊藤圭介・賀来佐之録「日本植物目録」について」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)は、植物学を学んだシーボルト関連の史料を紹介。 https://t.co/ewXW3JBGFf

16 0 0 0 OA 維新日乗纂輯

明治24年1月12日、妻木頼矩(妻木多宮、妻木田宮、妻木棲碧)が死去。幕末の幕臣で、鳥羽・伏見の戦いの後、大坂城を新政府に引き渡す役目を担った。大塚武松編『維新日乗纂輯』第3巻(日本史籍協会)に、「妻木頼矩手記 戊辰正月大坂城引渡始末」が収録されている。 https://t.co/4HgLjditE1

3 0 0 0 OA 書評

家近良樹氏による、良樹『近世京都・大坂の幕府支配機構』(清文堂出版)の書評PDF。『社会経済史学』82-3。 https://t.co/46Q4laQrix
今からちょうど15年前、元治1年12月28日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。本件については、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』2016.3)参照。https://t.co/bR9OnAPPKD…
安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。https://t.co/4aFWiVXKcV…
明治20年12月19日、吉原重俊が死去。幕末の薩摩藩が派遣した第2次海外留学生。イエール大学に初めて入った日本人で、後に日本銀行の初代総裁。吉原重和「新島襄と吉原重俊(大原令之助)の交流」(『新島研究』104)は、米国留学中の吉原と同じく米国にいた新島襄の交流を紹介。 https://t.co/DJc5vAb6b6
明治5年11月16日(1872年12月16日)、岩倉使節団がパリに到着。福井憲彦「岩倉使節団の見たパリ」(『学習院史学』34)は、使節の一員だった久米邦武の『米欧回覧実記』にパリがどのように描かれているか、また当時のパリがどんな状態だったのか概要を紹介した講演録。 https://t.co/1ng2fC5AfY
拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAPPKD…
大正9年12月9日、岡谷繁実が死去。幕末の館林藩士で、幕府による長州征伐の回避に向けて活動した時期がある。著書『名将言行録』は、井上泰至「近世軍書の研究に対するアメリカ日本研究の有効性」(『国際日本文学研究集会会議録』29)曰く、「近世軍書の集大成的作品」。 https://t.co/TqUB10gYG8
安政6年11月14日(1859年12月7日)、浮田一蕙が死去。ペリー来航の際に「神風夷艦を覆するの図」を描いた絵師。安政の大獄で投獄された。中谷伸生「浮田一蕙「長篠合戦図」」(『関西大学博物館紀要』9、2003年)は、従来の研究では「勤皇」の面が強調され過ぎると言う。 https://t.co/LhDT6yc8AG
昭和21年(1946年)12月5日、歴史家の大塚武松が死去。遺稿集『幕末外交史の研究』(宝文館)がある。時野谷勝が同書の書評(『史林』35-4)で「殆ど全生涯を地味な史料編纂事業に打込み」云々と評したように、日本史籍協会の『渋沢栄一滞仏日記』など多くの史料集を編纂。 https://t.co/XB4ZNnAI0h
明治13年12月4日、鮫島尚信が死去。幕末の薩摩藩英国留学生の1人で、外交官として活躍。下記リンクでPDFを閲覧できる御幡真人「洋書を追いかけて(後編)サムライ・帝国図書館・神秘主義」(『国立国会図書館月報』727、2021年)は、図書館のため寄贈された鮫島の蔵書を紹介。https://t.co/bX9Yjdcjs3
今からちょうど157年前、元治1年12月2日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(神田外語大学日本研究所紀要8号、2016.3)を参照下さい。 https://t.co/bR9OnAxGwv…

5 0 0 0 OA 史籍雑纂

次は平井収二郎『隈山春秋』。土佐勤王党の平井収二郎の在京日記で、武市の在京日記と見比べて読むと楽しいです。岡田以蔵が大坂で麻疹にかかった際の「30歳以下でかからない者は居ない」の記述はこちらに載ります。『史籍雑纂』第5にあり、国デジオンラインで読めます。 https://t.co/cHGFEBF82T
明治11年11月29日、柏木忠俊が死去。幕末期は江川英龍に仕え、新政府が江川英武(英龍の息子)を韮山県知事に任じた際には、「実際に県治を遂行した」のは韮山県大参事の柏木だった(樋口雄彦「韮山県から慶應義塾への派遣学生」『近代日本研究』34、2017年)。後に足柄県令。 https://t.co/7trm2zex3O

7 0 0 0 OA 海運史料

こちらの史料も共同と三菱、政府のやりとりを見るのに参考になります。 (読みにくいですが…) 『海運史料. 上』 https://t.co/Qbd3PWuStA #青天を衝け
『青淵先生六十年史 : 一名近世実業発達史. 第2巻』にも千代のことも記載されています。 https://t.co/PyRtJzSRnb #青天を衝け https://t.co/Iu0cxVyceP

58 0 0 0 OA はゝその落葉

穂積(渋沢)歌子の『はゝその落葉』には、その時の話が書いてあります……。 https://t.co/dcwRIAWoxw #青天を衝け https://t.co/AJq32tgo2O

58 0 0 0 OA はゝその落葉

穂積(渋沢)歌子の『はゝその落葉』に嫁いだ時の話が書いてあります。 https://t.co/dcwRIAWoxw #青天を衝け https://t.co/KNoDHQKCAD
大正11年11月10日、中島永元が死去。肥前佐賀藩出身で、幕末期には大隈重信らと共に長崎に遊学し、フルベッキに学んだ。松谷昇蔵「内閣制度導入前後における文部官僚」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』66、2021年)は、学校経営の前歴を持つ文部官僚として中島を分析。 https://t.co/jY8PR4Z02z
平野隆「明治前期東京における財界の形成とその性格」(『近代日本研究』6)曰く、東京商法会議所は明治10年、渋沢栄一・益田孝・福地源一郎・三野村利助・大倉喜八郎・渋沢喜作・竹中邦香・米倉一平により、東京府知事・楠本正隆に願書が提出され、翌年に認可。 #青天を衝け https://t.co/00rFIwzrLB
昭和56年(1981年)11月3日、経済史研究者の堀江英一が死去。主な著書の1つに『明治維新の社会構造』(有斐閣、1954年)があり、『堀江英一著作集』全4巻(青木書店)の第1巻に所収。朝尾直弘氏の書評(『史林』38-2)があり、『朝尾直弘著作集』第2巻(岩波書店)に再録。 https://t.co/aqvDT7NkrQ
安政6年10月7日(1859年11月1日)、頼三樹三郎が死去。梅田雲浜らと交流し、安政の大獄で処刑された。遺体は大橋訥庵が埋葬。任萌萌「頼三樹三郎が頼山陽を偲ぶ詩」(『比較日本文化学研究』14、2021年)は、文人としての面に着目し、父・頼山陽を手本としたことなどを分析。 https://t.co/I4WG2QhC4o
明治31年10月29日、小野友五郎が死去。万延元年、太平洋を横断した咸臨丸に乗船。文久期の小笠原諸島の調査に咸臨丸の艦長として参加。平山洋「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」(『国際関係・比較文化研究』8-2)は、慶応3年の福沢との対立にまつわる疑惑の研究。 https://t.co/TirYg23gSe

13 0 0 0 OA 漂民御覧之記

寛政5年9月18日(1793年10月22日)、漂流した末にロシアで数年を過ごして帰国した大黒屋光太夫が、将軍・徳川家斉や松平定信に謁見。光太夫は、ロシアで知られている日本人として、桂川甫周(その場にいた)と中川淳庵の名前を挙げた。桂川甫周『漂民御覧之記』より。 https://t.co/FzclTjTDlL
慶応元年8月26日(1865年10月15日)、薩摩藩の新納久脩と五代友厚らがブリュッセルで、フランス貴族モンブランを相手にベルギー商社計画と呼ばれる契約を調印(ベルギー政府の証人が立ち会い)。宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(『社会志林』47-2)など参照。 https://t.co/WoNCjRFMVx
明治17年10月12日、川路高子が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の妻で、聖謨が自殺した後、川路家当主になる孫の川路太郎が海外留学から戻るまで、家を守らなければならなかった。井上勲「史料紹介 川路高子『上総日記』解題」(『学習院大学史料館紀要』13、2005年)参照。 https://t.co/iH4qcbN7sQ
@machi82175302 1866年に八丈島の島民34人が東沙(プラタス)島に漂流し上陸、中国漁船に救助され香港に運ばれ、香港政庁の保護を受け、翌年イギリス商船で横浜に送還された、という史実を初めて知りました。https://t.co/uS1wl6RaFz https://t.co/nMXHD8BvGy
伊故海貴則「明治維新期地域社会における「多数決」導入」(『立命館大学人文科学研究所紀要』124、2020年)は、静岡県駿河国地域では、地租改正によって「総員の納得できる合意は事実上、不可能」と認識され、「合意形成の一手段として「多数決」が選択された」と言う。 https://t.co/rI0Xr5OiJE
明治17年9月15日、安達清風が死去。幕末の鳥取藩出身で、磯田道史「幕末維新期の藩校教育と人材登用」(『史学』71-2・3)によれば、「藩内きっての俊英」であり、藤田東湖の影響を受けて能力主義による人材登用の必要性を主張した。徳川慶喜の側近・原市之進とも交流。 https://t.co/peOSHPCOtg
続き)このあたり、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩―西郷吉之助の動向を中心に― 」を参照ください。以下、ダウンロードも可能です。https://t.co/in1GB6YkW2…
昭和14年9月7日、渡辺蒿蔵(天野清三郎)が死去。吉田松陰の松下村塾門下生の、最後の生き残り。幕末期には奇兵隊にも加入した。海外留学して帰国した後、造船技術者として活躍。牛見真博「近代造船の先駆者・渡辺蒿蔵(下)」(『大島商船高等専門学校紀要』51)が詳しい。 https://t.co/TZY3B5mDna
文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。成島柳北の祖父で、第12代将軍・徳川家慶に信任された儒学者。『徳川実紀』を編纂した。藤實久美子「徳川実紀の編纂について」(『史料館研究紀要』32)曰く、実紀の編纂に成島を推薦したのは、岩瀬忠震の祖父である林述斎。 https://t.co/SLwszYvhvH
明治27年9月2日、柳原前光が死去。幕末の公家で、明治期には主に外交官として活躍。皇室典範の起草にも関与したが、笠原英彦「明治皇室典範の制定過程と柳原前光」(『法学研究』91-12)によれば、皇室典範に「譲位」を規定しようとした柳原案は伊藤博文によって退けられた。 https://t.co/mA2cuga0ot
明治31年8月27日、島田篁村(島田重礼)が死去。幕末期に昌平黌で助教を務めた儒学者で、明治期には東京帝国大学教授などを務めた。古賀勝次郎「安井息軒を継ぐ人々(3)」(『早稲田社会科学総合研究』11-1)曰く、明治以降の儒学の衰退を憂慮し、後進の育成に尽力した。 https://t.co/llHNvlxxoV

4 0 0 0 OA 奇兵隊日記

好きな問題児有隣は、奇兵隊日記文久3年10月の 「富永有隣 御茶屋において総管に相背くに付き 御玄関にて狙撃隊へ命じ縛り連れ帰り候事」のゆーりんです!
安政5年7月16日(1858年8月24日)、島津斉彬が死去。西郷隆盛が慕った薩摩藩主で、田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、斉彬は「優秀な蘭学者たちと交流しながら蘭書を翻させ、その知識を吸収する努力を怠らなかった」。 https://t.co/wRrCURrcia
明治38年8月14日、三宮義胤が死去。幕末期に岩倉具視らと交流し、戊辰戦争に新政府軍の一員として参加。明治政府では兵部省、外務省、宮内省などに出仕。明治初期に英国人女性と結婚したため、小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)などに言及がある。 https://t.co/CDYGvqFKOV
昭和2年7月30日、市川文吉が死去。幕末期に幕府が派遣したロシア留学生で、明治6年に岩倉使節団がロシアを訪問した際に通訳として現地採用された(坂内知子「岩倉使節団とロシア宮廷の謁見儀礼」『異文化コミュニケ-ション研究』15)。樺太・千島交換条約の交渉にも参加。 https://t.co/gYphnSzBik
慶応2年6月18日(1866年7月29日)、西郷隆盛が寺島宗則らを伴い、鹿児島滞在中の駐日英国公使パークスと会談した。町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』13、2021年)によれば、「薩英間の本格的な国内での蜜月関係」に結実した。 https://t.co/wLdjTVJyEi
明治30年7月29日、鄭永寧が死去。幕末の唐通詞で、明治期にも外交官として伊達宗城・副島種臣・大久保利通・伊藤博文らの清国行きに随行。日清修好条規などに関わった。幕末の唐通詞について、許海華「幕末における長崎唐通事の体制」(『東アジア文化交渉研究』5)がある。 https://t.co/DYUOwBQs1b
明治22年7月19日、杉田玄端が死去。岩瀬忠震の推挙で蕃書調所に出仕した医師・蘭学者で、その後は外国奉行支配翻訳御用頭取や沼津陸軍医学所頭取などを務めた。鈴木敏夫「江戸時代における養生書の研究」(『北海道大学教育学部紀要』22)は、杉田の著書『健全学』を分析。 https://t.co/3zmjpnipJu
明治15年7月6日、松田道之が死去。幕末期に鳥取藩の周旋方を務め、長州藩に親和的な立場で活動した。明治期には東京府知事などを歴任し、さらに琉球処分を担当。近年の研究に、馬場義弘「初代滋賀県令松田道之の人物と思想」(『滋賀大学教育学部紀要』69、2020年)がある。 https://t.co/qyZJ70CezV
慶応3年5月24日(1867年6月26日)、兵庫開港が勅許。青山忠正「通商条約の勅許と天皇」(『佛教大学歴史学部論集』5)曰く、2年前の条約勅許で「現実に行われている外交・貿易と、その事実を国家のトップが認めていないというねじれ構造は解消」したが、兵庫のみ例外だった。 https://t.co/lV0aK3S2pd
麓慎一「明治初期のサハリン島問題とパークス」(『環日本海研究年報』24)によれば、英国公使パークスは、「明治政府に穏健なサハリン島政策の選択を求めた」。その一方でパークスは、「ロシアによる日本の北方地域への脅威は限定的なものと考えるようになった」とする。 https://t.co/oqOTLCK6rl
恐らく、今回の青天を衝けの薩摩藩の動きは、町田明広先生の『慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―』(神田外語大学日本研究所紀要)が参考になりそうです! https://t.co/upjt9qfq5i #青天を衝け
明治39年6月17日、矢野二郎が死去。幕末期に英語の通訳を務めた幕臣で、幕府の横浜鎖港談判使節に随行。明治期に駐米公使や商法講習所(一橋大学の起源)の初代所長に就任。菊地久「維新の変革と幕臣の系譜6」(『北大法学論集』32-3)は、旧幕臣の社会進出の例として言及。 https://t.co/5FJfyHB1ej
明治43年6月16日、島津珍彦(島津備後)が死去。島津久光の子で、薩摩藩主・島津茂久(忠義)の弟。慶応3年には西郷隆盛や大久保利通に近い人物だった。針貝綾「鹿児島県の屋外彫刻」(『鹿児島県立短期大学地域研究所研究年報』34)は、大正期に建立された珍彦の銅像に言及。 https://t.co/5LeweLiHtX
川村正平関係文書56-42「私党人名書上げ」より 円四郎殿(平岡) 嘉兵衛殿(黒川) 作十郎殿(長谷川?) 勝三郎殿(猪飼) 亨造殿(榎本) 恵十郎(川村) このあたりが神メンという認識でよろしいでしょうか。 https://t.co/VsdTXrKtRd https://t.co/FOrciJvicS

8 0 0 0 OA 東湖全集

平岡円四郎のことを調べるのであれば、実父岡本忠次郎(豊洲)のことから調べなければならない。藤田東湖の『見聞偶筆』に忠次郎のことが書いてある。 https://t.co/U0mQOxfuSf
今日は来島又兵衛も登場。来島を狙撃したのは川路利良と聞いたことがあります。個人的な話ながら私は来島の生誕地近くで育ちまして、現在生誕地には石碑があります。長州の馬屋原二郎が大正になり語った『元治甲子禁門事変実歴談』 はなかなか面白いです。 #青天を衝け https://t.co/lQdVowdduY
明治27年6月2日、森寛斎が死去。長州藩出身の日本画家。高久嶺之介「北垣晋太郎の幕末」(『社会科学』49-2)は、北垣国道が生野の変に参加した後、「長州に潜伏し,奇兵隊に幕府の間諜と怪しまれ,処刑されんとした時」、森に救われた逸話と、その後の両者の交流を分析。 https://t.co/cdxiZu27Os
明治5年4月16日(1872年5月22日)、砲術家の村上範致(村上定平)が死去。幕末の田原藩出身で、渡辺崋山に期待され、高島秋帆に師事した。幕府の講武所にも招聘された。鵜飼尚代・佐久間永子「村上範致と著述古記録に関する基礎研究」(『名古屋外国語大学論集』2)など参照。 https://t.co/nopVvQIXfc
昭和54年(1979年)5月17日、平尾道雄が死去。幕末維新の土佐藩や坂本龍馬などの研究で知られ、その一連の研究は良くも悪くも、「今日まで土佐藩研究の礎と評される」(笹部昌利「幕末期土佐藩の国事運動と「政治犯」化」『京都産業大学日本文化研究所紀要』26、2021年)。 https://t.co/WvTSa3GYHr
明治44年5月13日、谷干城が死去。幕末の土佐藩出身で、坂本龍馬とも交流があった。中野目徹氏は、小林和幸『谷干城』(中公新書、2011年)の書評(『史学雑誌』122-8に掲載)で、西南戦争での活躍や貴族院の重鎮としての立場など重要人物でありながら、研究が少ないと指摘。 https://t.co/VRwmDsOHrf
安政5年3月24日(1858年5月7日)、幕臣の岩瀬忠震と福井藩の橋本左内が、初めて会った。その後、交流は活発になり、「外交問題や一橋派の運動を通じて、両者は信頼できる同志」になった(別所興一「幕末・維新期の対外観の転回」『愛知大学綜合郷土研究所紀要』62、2017年)。 https://t.co/4Oi2rr1nFQ
明治29年5月6日、高崎五六(高崎猪太郎)が死去。町田明広「第一次長州征伐における薩摩藩」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)及び同『薩長同盟論』(人文書院)曰く、元治元年に岩国領主・吉川経幹に対して、長州征伐を寛典処分とする薩摩藩・島津久光の方針を伝えた。 https://t.co/xUZx0nyPvK

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