著者
安岡 愛理 佐藤 貴宣 青木 千帆子 松原 崇 秋風 千恵 Yasuoka Airi Sato Takanori Aoki Chihoko Matsubara Takashi Akikaze Chie ヤスオカ アイリ サトウ タカノリ アオキ チホコ マツバラ タカシ アキカゼ チエ
出版者
大阪大学人間科学部社会学・人間学・人類学研究室
雑誌
年報人間科学 (ISSN:02865149)
巻号頁・発行日
no.30, pp.33-53, 2009

研究ノートDisability Studies(障害学)は、一九六〇年代後半から七〇年代中葉にかけて世界的規模で起こった、障害者による社会運動を背景として誕生した。九〇年代になって、日本にも学問として紹介されている。日本の障害学はイギリスの影響が強いことから、本稿ではイギリスの学術誌"Disability &Society"(以後DSとする)を対象として、国際的な障害学の動向を把握することを目的とする。一九八六年の創刊号から二〇〇八年二三巻四号までのDSに掲載された論文のうち、アブストラクトのある七八六件の論文を一次資料として採用し、各論文の主題を類型化しカテゴリーに分類して、そのトレンドを分析した。DSにおいて扱われる障害種別は次第に多様化する傾向にある。発刊当初から九〇年代半ばまでの間、障害を社会的文脈との関連において理論化していこうとする研究が盛んであった。それは障害学の核ともいうべき「障害の社会モデル」を精緻化するとともに、社会モデルの枠組みを用いて既存のさまざまな社会事象を分析する取り組みであった。しかし、それ以降は社会モデルを革新し、その射程範囲を広げていこうとする方向にある。また障害学の発展にともない、より多様な国と地域、より多様な障害種別がその論考の対象となってきている。したがって、今後は、エスニックマイノリティや女性障害者をも包摂し、多様化する障害種別にいかに対応していける理論を構築できるかが大きな課題となるだろう。Disability Studies have their roots in the social movement started by disabled people throughout the world from the late 1960s and until the 1970s. By 1990s Disability Studies was also introduced to Japan. The purpose of this paper is to find the trends of Disability Studies by reviewing the papers published in Disability & Society – a prominent British Journal of the field. We believe this review will be especially of interest in Japan, where Disability Studies are strongly influenced by research conducted in UK. As our primary source we have used the papers with abstracts published in "Disability&Society", starting from the inaugural issue of year 1986 and finishing with the volume 23 number 4 of year 2008. We have categorized the papers by subject and analyzed the tendencies. We have found that number of types of impairments appearing in "Disability&Society" grows increasingly year by year and that until the middle 90s many papers theorize disabilities through their connection with the social context. This tendency shows that during that period the Social Model of Disability – the key concept of Disability Studies – was increasingly used to produce more and more detailed understanding of the social phenomena of disabilities. From the second part of 90s the Social Model renews and starts to cover increasingly wider range of objects. Disability Studies gain more and more power, and papers on new types of impairments based on research in more and more countries and regions appear. We conclude that in future objects of inquiry should include disabled people from ethnic minorities and also disabled women, and that the ever growing number of types of impairments also needs theoretical innovations in the field.
著者
青木 武信 アオキ タケノブ Takenobu AOKI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2001-03-23

本研究の目的はインドネシアの大衆芸能、クトプラ(kethoprak)について、現地調査から得られたデータをもとに、その公演形態、公演内容、および芸人と彼らの社会生活について民族誌的記述を行い、1990年代半ば、スハルト政権最末期のインドネシアにおけるクトプラについて考察するものである。事例としてはジョクジャカルタを中心に活発な公演活動を行っているクトプラ劇団、ペーエス・バユ(PS Bayu)をとりあげる。 クトプラはインドネシア、中部ジャワの大衆芸能であり、笑いとアクションを中心としたドタバタ喜劇である。クトプラは中部ジャワー帯で人気が高く、ジョクジャカルタを中心に各地で公演が行われているが、最近ではテレビでの放映も行われている。 クトプラで演じられる物語の主要なテーマは女性、領土、財物の奪い合いである。クトプラの人気を支えているのは、人々の情動に直に訴えかける通俗性である。この通俗性は自身の欲望に忠実な登場人物の姿に由来する。つまり、クトプラでは誰もが少ながらず持ってはいるが、日常的には抑圧されている欲望が舞台の上で鮮明に提示されるのである。そのために、観客は深い共感をもって観劇を楽しむことになる。 クトプラのもうひとつの特徴は、必ずしも単純ではない物語の筋を簡略化し、格闘シーンや笑いのシーンを適宜挿入しながら、柔軟に舞台を構成してゆくやり方にある。クトプラの芸人たちは、公演地における観客の嗜好を考慮し、かつ観客の反応をみながら、公演内容を臨機応変に組み立ててゆく。格闘シーンは舞台の進行にアクセントをっけ、弛緩した観客の注意を舞台に引き戻す効果をもっている。また、クトプラは笑いのシーンをふんだんに挿入することで、深刻さをさけ、観客に気晴らしの娯楽を提供している。理想と現実との垂離に日常的に直面し、緊張を強いられている観客は、笑いのシーンで、このズレを提示されて、それを笑うのである。 このように、人々の心に潜む欲望を的確にとらえて表現する技術や、観客の舞台に対する反応を鋭敏に感じとり、舞台を柔軟に構成してゆく技術にたけていることが人気クトプラ芸人の条件となっている。こうした能力は彼らの豊富な社会経験に由来する。クトプラの公演が行われる地理的範囲は広く、公演をおこなう機会も多様である。そのために、芸人たちはジョクジャカルタを中心に、中部ジャワの各地を訪れ、さまざまな人々と接触し、見聞を広め、広範な人的なネットワークを構築する。これらのことがクトプラ芸人の演技者や演出者としての能力を培っているのである。 こうした能力は舞台の外でもきわめて重要な役割を果たしている。このことを示す端的な例はペーエス゜バユの座長であるギトとガテイである。彼らは舞台の上で卑猥で低劣なジョークを連発し、ドタバタ喜劇を演じる。だが、舞台の外では強い倫理観を持った好人物とみなされている。こうした舞台の上でのパフォーマンスと非常にかけ離れた人物像は舞台外での芸人の「演技」から作られるところが大きい。彼らは、人に何を期待され、何が求められているかを鋭敏に感じとり、それを舞台の外においても自身の「演技」に生かしているのである。 そして実際に、ギトとガティは地域社会において名士やリーダーとしての役割を期待され、そうした期待にこたえている。また、ガティは集落長という公職についている。ギトとガティが居を構えている集落にすむ村人の大多数はあまり裕福とはいえない農民である。彼らは、何らかの事情で、まとまった額の現金を必要とする場合、ギトやガティのもとを訪れることが多い。あるときは、手持ちの装飾品などを質草にして現金を借り、またあるときは、所有する農地や水田を彼らに買ってもらう。これに加え、集落が共同で使用する水場の新設や整備、共同墓地の拡張、道路の舗装、青年団の活動などに際しても、ギトとガティは経済的援助を求められる。 こうした期待と要求に応えることは、とかくマイナスのイメージを付与されがちな芸人という存在が地域社会で生活していく上で、必要に迫られて行っている戦術ともいえる。たしかに、仮設の小屋掛けでおこなう巡回公演を中心とするクリリガンと呼ばれるクトプラ劇団の芸人の生活は、売春まがいの行為をおこなう等の理由から、ジャワ人の一般的倫理観から大きくずれている。そうしたこともあり、ギトとガティは自己の社会的イメージを大変重視している。それは人気クトプラ劇団のリーダーであり、ジャワ芸能界の人気者にして重鎮、かつ温厚で、人当たりのよい人物というイメージである。彼らはジャワ社会における期待されている人物像を舞台の外で演じているといってよい。 以上のように、ギトとガティがになう役割と彼らの行為を見てくると、彼らは地域社会(村)とその外にあるジャワ社会を結びつけ、情報、金銭、人的コネクションを地域社会にもちこむ存在だということである。ジャワ社会でトコ・マシャラ力(tokoh masyarakat)と呼ばれる地域社会における名士あるいはリーダー的存在にはさまざまな種類の人物がいる。それは篤農家であったり、宗教的指導者であったり、富裕な商人であったりする。ギトとガティはこうした多様なトコ・マシャラカの一例なのである。 ギトとガティは政治的、宗教的に特定の勢力と深く関係することなく、中立的な立場を保持してきた。そうすることが多方面からの公演依頼を可能にすると判断したためである。だが、クトプラ芸人のなかには公演依頼を増やすために、積極的に特定の政治団体、特にスハルト政権下の与党、ゴルカル党に参加し、活動を行う者もいた。ギトとガティの場合にもいえることだが、芸人たちは生き残りをかけて、ときには利用できるものは何でも利用するしたたかさを顕わにする。そのとき、芸人は豊富な経験に裏打ちされた彼ら独特の「嗅覚」あるいは現実的感覚を大いに働かせているのである。こうした生々しい現実的感覚をもつからこそ、クトプラ芸人はジャワ社会の変化に巧みに適応しながら、クトプラの人気を長きにわたり保持しつづけることができたのだと考えられる。 そして、1990年代、テレビの普及と並行してジャワ社会は大きく変化してきている。ペーエス・バユの公演活動から、こうした変化へ適応していく様子を窺うことができる。公演は儀礼的な要素が小さくなり、娯楽としての要素が中心となってきた。公演機会も村清めのようなジャワ固有の信仰に基づくものは少なく、インドネシアの独立記念日を祝う催しやムスリムが断食月明けを祝うサワラン儀礼が多くなっている。公演日の選択にあたっても、ジャワ暦よりも土日を優先するようになっている。舞台の内容も笑いとアクションの要素を強調する傾向にあり、漫才のみの公演も増えている。公演機会や公演内容はよりいっそう世俗化し、インドネシア化しつつある。その一方でテレビを通じてクトプラはジャワ王朝時代劇としてイメージを鮮明にしている。また、ムスリムにとって聖なる月である断食月と儀礼には適さないとされているジャワ暦のポソ月は、公演機会として現在でも避けられている。このように完全に世俗化し、ジャワ的なものがインドネシア的なものに置き換わってしまっているわけではない。1990年代の現代インドネシアにおいて、ジャワとインドネシアの間でクトプラ芸人は巧みに両者の要素を取り入れ、使い分け、生き残ろうと努めている。
著者
谷 由美子 山本 命子 深谷 幸子 青木 みか タニ ヤマモト フカヤ アオキ Y. TANI N. YAMAMOTO S. FUKAYA M. AOKI
雑誌
名古屋女子大学紀要 = Journal of the Nagoya Women's College
巻号頁・発行日
vol.24, pp.93-102, 1978-03-15

"1.リノール酸またはコーンオイル添食による脂肪酸の生体内における挙動 リノール酸5g摂取によって血清のリノール酸は低下しアラキドン酸が4倍以上に増加した.しかしコーンオイル60g摂取によって,血清脂肪酸組成はアラキドン酸がやや減少しステアリン酸とオレイン酸は増加した.この相違については今後検討するつもりである.皮膚分泌物の脂肪酸組成は,リノール酸またはコーンオイル添食によっていずれもほとんど変動なく,パルミテン酸が30~40%をしめ次にステアリン酸,アラキドン酸が多く,いずれの場合も血清には不飽和脂肪酸が多く皮膚分泌物は大部分飽和脂肪酸よりなっていた.即ち血清成分がそのまま皮膚に浸透して分泌されるのではなく,汗腺,皮脂腺などで選択されて分泌されると考えられる.尿中脂肪酸組成はオレイン酸,ステアリン酸,パルミチン酸が多く,バルミトレイン酸は個体差が大きかった.必須脂肪酸は血清に比べて少く,コーンオイル摂取によって血清中の必須脂肪酸はほとんど変動しなかったが,尿中多価不飽和脂肪酸は増加した.2.リノール酸またはコーンオイル添食による血清脂質成分の変動 CHはいずれの場合も減少し,特にコーンオイル添食で著しく,従来血中のCHを低下させる因子の1つとして高度不飽和脂肪酸を含む植物油がよいとされている事実を裏付けた.CHを約48%含むβ-LPも同様に食後減少がみられた.TGは食後3時問に有意に増加した.これらの現象はリノール酸5g摂取よりもコーンオイル60g摂取の場合の方がその影響は顕著であった."
著者
宮部 麻耶子 大島 賢治 青木 敏裕 泉水 仁 鬼束 優香 両角 光男 ミヤベ マヤコ オオシマ ケンジ アオキ トシヒロ イズミ ジン オニツカ エミカ モロズミ ミツオ Miyabe Mayako Oshima Kenji Aoki Toshihiro Izumi Jin Onitsuka Emika Morozumi Mitsuo
出版者
熊本大学工学部技術部
雑誌
熊本大学工学部技術部年次報告集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.130-131, 2010

熊本大学工学部は、平成17年度より、ものづくり創造融合工学教育事業を実施している。これを受け、技術部でも学科の実験・実習の垣根を超え、専門域外の学生に対して技術職員が日頃培った工学基礎技術を融合させ提供している。これにより受講生の好奇心を涵養し、学習意欲の向上と創造する楽しさを発見してもらうことを目的としている。同時に、技術職員も専門技術を超えて学び、学生と共に試行錯誤することで、技術の向上を図ることができる。今回は本事業の一つ、「ナタ・デ・ココの工学的アプローチ」について報告する。本研究はバイオ技術を手掛かりにした「ものづくり」と化学構造分析、材料加工、音声評価といった多分野にわたる技術の融合により成り立ち、参加する学生の専攻分野を問わず多様な目的や興味を満たすことができる。したがって、本事業の目的として最適であると考えられる。
著者
青木 孝 アオキ タカシ
出版者
神奈川大学総合理学研究所
雑誌
Science Journal of Kanagawa University (ISSN:18800483)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.9-16, 2019-06-30

Breadcrumbs made from "Denki-Pan" (breads baked using an electrode bread machine invented by Shozo Akutsu) are still on the market. We conducted an experiment to reproduce Denki-Pan, and compared stainless steel and titanium as electrode plate materials. The experiment revealed that the existing technology to cook rice with electrodes ("Denki-Rice") had been applied to Denki-Pan. Thus, Shozo Akutsu had put a two-purpose device into practical use. Electrodes to cook Denki-Rice are placed either parallel or at the bottom of a cooker. We investigated historical factors that influenced the process of materializing this idea.
著者
青木 健 アオキ タケシ Takeshi AOKI
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.22, pp.69-76, 2022-03-31

本稿は、仏教がイラン高原西部まで及んでいたか否かを論じる試論である。仏教がイラン高原東部(現在のアフガニスタン)まで及んでいたことは、今更論じるまでも無い。この延長線上に、先行研究の一部は、ナウバハールの地名の普及、ゴータマ伝説の普及、イラン・イスラーム神秘主義の思想構造などを根拠として、仏教はイラン高原西部まで到達していたと結論している。しかし、この所説は、未だ定説にはなっていない。 そんな中、筆者は、ペルシア湾岸にある二つの石窟遺跡に注目した。チェヘル・ハーネ石窟とガルアテ・ヘイダリー石窟である。両者は、陸のシルクロードの沿線には無く、イラン高原東部で栄えた仏教遺跡と結び付けて論じるのは無理筋と感じられる。その代わり、ペルシア湾岸からスリランカを結ぶ海のシルクロードの要衝に位置しているので、今後は、インド洋に於ける仏教伝播の一齣として研究する必要があるのではないだろうか。
著者
秋枝(青木) 美保 アキエダ(アオキ) ミホ Miho Akieda(aoki)
雑誌
福山大学人間文化学部紀要 = Journal of the Faculty of Human Cultures and Sciences, Fukuyama University
巻号頁・発行日
vol.6, pp.A21-A34, 2006-03-01

現代作家の中でも宮沢賢治の作品を最も多く引用している長野まゆみの作品において、その引用が童話「銀河鉄道の夜」に集中していることを示し、そこに「病む女性」という共通の要素があることを指摘する。さらに、それが一九八〇年代文化と一九二〇~三〇年代の文化的背景との共通の問題の基盤に由来することを示唆する。