著者
平田 昌弘 米田 佑子 有賀 秀子 内田 健治 元島 英雅 花田 正明 河合 正人
出版者
日本酪農科学会
雑誌
ミルクサイエンス (ISSN:13430289)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.9-22, 2010 (Released:2014-03-15)
参考文献数
27

The reproduction and identification of ancient dairy products in East Asia were conducted based on “SEIMINYOUJYUTU” which is the order ancient document available in East Asia and contains detailed explanation about milk processing, and then the spread pathway of these milk processing techniques into East Asia was discussed in this paper. As the results of reproduction and identification experiments, RAKU was identified as sour milk, KANRAKU could not be identified, ROKURAKU was identified as unmatured type cheese such as KHOROOT of Mongolian pastoralists and KURUT of Turki pastoralists, and SO was identified as butter and butter oil. Since some imprecise descriptions were found in SEIMINYOUJYUTU through the reproduction experiment, it was considered that Kashikyou, the author of SEIMINYOUJYUTU, was the just editor to use various texts which were gathered from different ethnic origins on milk processing and did not conduct processing milk products by themselves. The milk processing such as sour milk (RAKU) making from raw milk, butter (SO) making from sour milk (RAKU) by churning, butter oil (SO) making from butter by heating are wide spread techniques and still used among the current pastoralists in West Asia, South Asia, Central Asia and Inner Mongolia. As the comparison with components in milk products and the milk processing techniques of pastoralists in the Asian continent, it was concluded that the milk processing techniques adopted in SEIMINYOUJYUTU were mainly influenced from the pastoralists in North Asia and/or Central Asia.
著者
渡辺 恵 嶌本 樹 渡辺 義昭 内田 健太
出版者
一般社団法人 日本生態学会
雑誌
保全生態学研究 (ISSN:13424327)
巻号頁・発行日
pp.2127, (Released:2022-10-20)
参考文献数
34

近年、野生動物への餌付けは、個体の行動や生物間相互作用の変化を引き起こすなど、生態系への影響が危惧され始めた。そのため、生物多様性保全の観点から、一部の地方自治体では、餌付け行為を規制する動きが見られる。しかし、国内において餌付けが与える影響を調べた研究は、大型の哺乳類を始めとした一部の生物に限られているなど、未だ限定的である。本調査報告では、滑空性の哺乳類であるエゾモモンガへの餌付けの捕食リスクへの影響を明らかにすることを目的に、北海道網走市の餌台が設置された都市近郊林におけるルートセンサスにより、 1.餌台の利用頻度と、 2.自然由来の餌と人為由来の餌を利用する場合の行動の比較(採食中の滞在高さと一か所の滞在時間)、 3.聞き取り調査も加えてイエネコやキタキツネなどの捕食者の出現と捕食事例について調査を行った。調査の結果、エゾモモンガは餌台を頻繁に利用していた。人為由来の餌を利用する場合は、自然由来の食物を利用する場合よりも、採食中の滞在高さが有意に低く、一か所の滞在時間が有意に長かった。また、聞き取りから調査した冬に餌台周辺でイエネコによる捕食があったことがわかった。餌台を介した餌付けは、エゾモモンガの採食行動を変化させ、捕食リスクを高めることに繋がると考えられる。今後は、餌付けによる生態系への影響を評価するために、餌台のある地域とない地域での比較など、更なるモニタリングが必要だろう。
著者
平田 昌弘 板垣 希美 内田 健治 花田 正明 河合 正人
出版者
公益社団法人 日本畜産学会
雑誌
日本畜産学会報 (ISSN:1346907X)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.175-190, 2013-05-25 (Released:2013-11-25)
参考文献数
28

本研究は,BC1200~BC300年頃に編纂されたVeda文献/Pāli聖典をテキストに用い,古代インドの乳製品を再現・同定し,それらの乳加工技術の起原について推論することを目的とした.再現実験の結果,dadhi/dadhiは酸乳,navanīta/navanīta・nonītaはバター,takra/takkaはバターミルク,ājya/—はバターオイル,āmikṣā/—はカッテージチーズ様の乳製品,vājina/—はホエイと同定された.sarpiṣ/sappihaはバターオイル,sarpirmaṇḍa/sappimaṇḍaはバターオイルからの唯一派生する乳製品として低級脂肪酸と不飽和脂肪酸の含有量が多い液状のバターオイルであると類推された.Veda文献・Pāli聖典は,「kṣīra/khīraからdadhi/dadhiが,dadhi/dadhiからnavanīta/navanītaが,navanīta/navanītaからsarpiṣ/sappiが,sarpiṣ/sappiからsarpirmaṇḍa/sappimaṇḍaが生じる」と説明する.再現実験により示唆されたことは,この一連の加工工程は「生乳を酸乳化し,酸乳をチャーニングしてバターを,バターを加熱することによりバターオイルを加工し,静置することにより低級脂肪酸と不飽和脂肪酸とがより多く含有した液状のバターオイルを分離する」ことである.さらに,ユーラシア大陸の牧畜民の乳加工技術の事例群と比較検討した結果,Veda文献・Pāli聖典に記載された乳加工技術の起原は西アジアであろうことが推論された.
著者
平田 昌弘 辻 貴志 内田 健治 元島 英雅 木村 純子
出版者
日本酪農科学会
雑誌
ミルクサイエンス (ISSN:13430289)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.191-199, 2015

本稿は,1)フィリピンでの乳・乳製品の利用のされ方,2)フィリピンでの乳・乳製品の利用されるタイミングを把握した上で,3)非乳文化圏への乳文化の浸透・変遷の五形態を検証することを目的に,フィリピンのセブ州マクタン島コルドヴァ町の漁民を対象に観察とインタビューをおこなった。乳・乳製品は,中心的な食事となる魚料理には一切利用されず,朝食や間食にパンやビスケットなどと共に,主に副食的に摂取されていた。非乳文化圏と位置づけられるフィリピンに,乳文化はスペイン,日本,アメリカによる植民地支配の最中に主に伝播した。乳・乳製品は,特にスペインによる植民地統治と自然環境の影響を大きく受け,甘すぎるくらいに加工されるようになり,魚の利用を基本とした主食的な食事には浸透せず,朝食や間食として「補助栄養食」「嗜好品」「米との融合」「西欧型の食文化」の四つの形態で浸透・変遷したとまとめることができる。このような乳文化の非乳文化圏への浸透・変遷の当初の立ち位置は,フィリピンだけでなく,インドネシアなど東南アジア,そして,日本においても確認され,非乳文化圏に類似して確認される現象となっている。こうした特徴が,非乳文化圏に伝播した乳文化の浸透・変遷の当初の型なのである。
著者
宮城 正行 内田 健太郎 中脇 充章 川久保 歩 井上 玄 高相 晶士
出版者
一般社団法人 日本脊椎脊髄病学会
雑誌
Journal of Spine Research (ISSN:18847137)
巻号頁・発行日
vol.11, no.6, pp.878-882, 2020-06-20 (Released:2020-06-20)
参考文献数
19

椎間板は非特異的腰痛の一因となる.腰痛のほとんどは自然に改善するが,臨床上問題となるのは腰痛が慢性化する病態である.腰痛の慢性化の機序については,急性腰痛が遷延化した病態と,持続的にトリガーとなる損傷が繰り返し起こる病態の可能性がある.これらの病態に,椎間板内への神経伸長,椎間板内に発現する炎症性サイトカインや神経成長因子といった疼痛関連物質とその発現に関与するマクロファージ,椎間板に持続的に加わるメカニカルストレスが関与している可能性がある.
著者
内田 健一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.233-254, 2015-03

ダンヌンツィオの言葉は,マンゾーニ派の目指した「日常的」なものと全く異なる,とりわけ「文学的」なものであった。にもかかわらず,彼の言葉は社会に大きな影響を与え,低劣な「ダンヌンツィオ主義」を生み出した。そこで本稿では,彼の言葉の実像を,彼自身の証言を通時的に検討することによって,彼の人生との関わりも含めて明らかにする。 1888 年の記事〈ジャウフレ・リュデル〉で,カルドゥッチの散文における言葉の音楽性と語源の探求を賞讃するが,実はそれらはダンヌンツィオ自身の理想に他ならない(第1 章)。1889 年の小説『快楽』では,「詩こそ全て」と言葉の全能性を認め,トスカーナ語の伝統への愛着を表明する(第2 章)。1894 年の小説『死の勝利』の献辞で,ダンヌンツィオは自らを言葉の冒険者として描き,イタリアの威信を高める言葉の創出を目指す(第3 章)。1895 年の小説『岩窟の乙女たち』において,言葉と民族主義の深い結び付きを示す。ここで言葉は虚構の道具ではなく現実的な「武器」と見なされる(第4 章)。1900 年の講演〈ダンテの神殿〉でダンヌンツィオは,カルドゥッチに代わる「詩聖」として,言語の崇拝を司る(第5 章)。同じ1900 年の小説『火』で,作品という虚構の中ではあるが,理想的に芸術と人生が一致する。詩人の言葉は,英雄の身振りと同じように,「行為」と見なされる(第6 章)。1903 年の詩篇『マイア』では,「民族の神話的な力」として讃えられる言葉を用いて,詩人は新しい時代の訪れを告げる(第7 章)。1906 年の『散文選集』の出版の経緯から,ダンヌンツィオの言葉に対する誠実さが窺われる。その「前書き」には言葉の「師匠」としての自負が表れる(第8章)。1913 年の伝記『コーラ・ディ・リエンツォの人生』の献辞では,クルスカ学会を揶揄しつつ,言葉の「精華」を追求する自らの姿を描く(第9 章)。『鉄槌の火花』の一つ,1924 年の随筆『ルクレツィア・ブーティの第二の愛人』では,寄宿学校の日々を回想する中で,トスカーナ語への執着とマンゾーニ派への反感を語る(第10 章)。1935 年の自叙伝『秘密の本』で,年老いたダンヌンツィオは言葉を「交流」ではなく「表現」の手段と考える。そして彼の言葉と人生は神秘的な合一に達する(第11 章)。 ダンヌンツィオにとって,はじめカルドゥッチは言葉だけではなく新しい自由の指導者でもあったが,次第に束縛となる。1907 年の師匠の死によって解放されたダンヌンツィオは,劇場と戦場で本当の自分らしい人生を追求する。そこで彼は自らの生命のリズムに言葉を合わせることによって,より広く深い自由の世界を表現することができた。

7 0 0 0 IR 動機と語彙

著者
内田 健 Uchida Ken
出版者
早稲田大学社会学会
雑誌
社会学年誌 (ISSN:02887126)
巻号頁・発行日
no.54, pp.101-116, 2013-03

C.W.ミルズが1940年に論文「状況に布置された行為と動機の語彙」を公刊して以降、社会学的な「動機」研究は着実な進展を遂げてきた。だが、その過程で、「モーティヴ・トーク」にかかわるさまざまなコンセプトの精緻化が多くの論者の手ではかられてきたのにくらべて、ミルズがケネス・バークから継承した「動機の語彙」という発想じたいを彫逐する作業はなおざりにされてきたきらいがある。本稿は、「動機」の指示対象に何を含めるべきか、また、「語彙」に分析の焦点を合わせるとは何を意味するのかを検討し、「動機の語彙」という発想をもつポテンシャルを明らかにすることに目的を置く。
著者
内田 健一
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.57, pp.74-95, 2007-10-20

Nella seconda meta dell'Ottocento l'esaltazione positivistica della scienza si diffuse in tutti i campi della cultura. Nel 1882 Luigi Capuana, il principale teorico del verismo italiano, scrisse un articolo su Gabriele D'Annunzio. Osservo in Canto novo pubblicato di recente il carattere raffinato, complesso e corrotto dell'arte contemporanea influenzata profondamente dal positivismo. D'Annunzio, da "buon adoratore della santa Natura", creava le sue opere d'arte utilizzando la sua conoscenza scientifica. La piu grande conquista scientifica dell'epoca fu la teoria dell'evoluzione delle specie formulata da Charles Darwin. La teoria dell'evoluzione, spesso estesa dalla sfera della scienza naturale a quella ideologica, divenne popolare come il darwinismo sociale. Nel 1883 Francesco De Sanctis, in una conferenza dal titolo Il darwinismo nell'arte, espresse le sue preoccupazioni per la degradazione dell'arte in cui, a causa della dottrina di Darwin, l'uomo era rappresentato principalmente nella sua animalita e il sentimento diveniva sensazione. Questo "animalismo" si puo trovare facilmente anche nelle opere dannunziane sotto varie forme. In un articolo della Tribuna, D'Annunzio riporto un discorso di Jacob Moleschott per l'inaugurazione degli studi nell'Universita di Roma del 1887. Moleschott ebbe nell'Italia postunitaria un ruolo di punta nel diffondere una concezione materialista della vita e della cultura e nell'indirizzare la scienza e la filosofia in senso positivista. Secondo D'Annunzio, la sua parola aveva "pur nel suo impeccabile rigore scientifico una cosi calda potenza d'idealita" e la sua eloquenza scientifica si elevava "ad altezze quasi liriche". Descrivendolo come un eroe della civilta moderna ed anche un misterioso poeta, ribadi l'importanza di essere fedele al metodo scientifico, come osservazione, analisi ed esperimento, anche nel fare opere d'arte. Essendo curioso, onnivoro ed astuto forse per natura, D'Annunzio considero utili tutti i frutti degli svariati settori di studi scientifici (per es. psicologia, sociologia, ecc.). Nel 1889 pubblico il suo primo romanzo Il piacere che sarebbe poi divenuto il codice piu autorevole dell'estetismo. Ma gia nel proemio del Giovanni Episcopo (1893), ripudiando le sue opere passate, dichiaro la necessita di rinnovamento con il motto "Bisogna studiare gli uomini e le cose direttamente, senza trasposizione alcuna". Anche dopo le esperienze estetizzanti fu ferma la sua aderenza al metodo scentifico. L'amicizia cordiale con Angelo Conti, esponente dell'estetismo italiano di fin de siecle, fa spesso passare D'Annunzio per un esteta. Ma egli prese sempre le distanze dall'estetismo antipositivistico di Conti. Per esempio, in un'estesa disamina della monografia contiana Giorgione (1894), osservo che la singolarita di Conti stava nel risoluto dispregio che si professava contro la cosi detta critica scientifica, contro la teoria moderna delle influenze, delle derivazioni e delle diramazioni, e ne dubito. In D'Annunizo mai venne meno la fiducia nel positivismo scientifico. Sulle orme di Leonardo da Vinci che "studiando l'acqua e cercando le leggi che ne governano i movimenti trovo nelle liquide ondulazioni la linea del sorriso femminile", si mise a lavoro per arrivare alla realizzazione di un'opera, ad un tempo scientifica e artistica, cioe armonicamente divisa fra l'esattezza e la suggestione. Producendo il capolavoro Laudi del cielo del mare della terra e degli eroi (1903), credette di aver raggiunto l'ideale sognato, grazie all'alleanza fra "analisi e sintesi, sentimento e pensiero, imitazione e invenzione". Nell'interpretazione delle opere di D'Annunzio e indispensabile considerare l'influenza del positivismo che si era radicato profondamente nella sua mentalita.
著者
内田 健一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.233-254, 2015-03

ダンヌンツィオの言葉は,マンゾーニ派の目指した「日常的」なものと全く異なる,とりわけ「文学的」なものであった。にもかかわらず,彼の言葉は社会に大きな影響を与え,低劣な「ダンヌンツィオ主義」を生み出した。そこで本稿では,彼の言葉の実像を,彼自身の証言を通時的に検討することによって,彼の人生との関わりも含めて明らかにする。 1888 年の記事〈ジャウフレ・リュデル〉で,カルドゥッチの散文における言葉の音楽性と語源の探求を賞讃するが,実はそれらはダンヌンツィオ自身の理想に他ならない(第1 章)。1889 年の小説『快楽』では,「詩こそ全て」と言葉の全能性を認め,トスカーナ語の伝統への愛着を表明する(第2 章)。1894 年の小説『死の勝利』の献辞で,ダンヌンツィオは自らを言葉の冒険者として描き,イタリアの威信を高める言葉の創出を目指す(第3 章)。1895 年の小説『岩窟の乙女たち』において,言葉と民族主義の深い結び付きを示す。ここで言葉は虚構の道具ではなく現実的な「武器」と見なされる(第4 章)。1900 年の講演〈ダンテの神殿〉でダンヌンツィオは,カルドゥッチに代わる「詩聖」として,言語の崇拝を司る(第5 章)。同じ1900 年の小説『火』で,作品という虚構の中ではあるが,理想的に芸術と人生が一致する。詩人の言葉は,英雄の身振りと同じように,「行為」と見なされる(第6 章)。1903 年の詩篇『マイア』では,「民族の神話的な力」として讃えられる言葉を用いて,詩人は新しい時代の訪れを告げる(第7 章)。1906 年の『散文選集』の出版の経緯から,ダンヌンツィオの言葉に対する誠実さが窺われる。その「前書き」には言葉の「師匠」としての自負が表れる(第8章)。1913 年の伝記『コーラ・ディ・リエンツォの人生』の献辞では,クルスカ学会を揶揄しつつ,言葉の「精華」を追求する自らの姿を描く(第9 章)。『鉄槌の火花』の一つ,1924 年の随筆『ルクレツィア・ブーティの第二の愛人』では,寄宿学校の日々を回想する中で,トスカーナ語への執着とマンゾーニ派への反感を語る(第10 章)。1935 年の自叙伝『秘密の本』で,年老いたダンヌンツィオは言葉を「交流」ではなく「表現」の手段と考える。そして彼の言葉と人生は神秘的な合一に達する(第11 章)。 ダンヌンツィオにとって,はじめカルドゥッチは言葉だけではなく新しい自由の指導者でもあったが,次第に束縛となる。1907 年の師匠の死によって解放されたダンヌンツィオは,劇場と戦場で本当の自分らしい人生を追求する。そこで彼は自らの生命のリズムに言葉を合わせることによって,より広く深い自由の世界を表現することができた。
著者
内田 健一
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.59, pp.119-135, 2009-10-17

L'adorazione dell'eroe e uno dei motivi fondamentali della letteratura dannunziana: per D'Annunzio, infatti, l'eroe e la figura ideale dell'uomo il cui valore trascende il tempo. Tuttavia, il poeta, ben consapevole dell'anacronismo insito nel tentativo di risuscitare l'eroe dell'antichita nel tempo moderno, fa di questo contrasto fra il mondo <<vero>> e il mondo <<falso>> il nucleo tematico delle sue opere. Dal punto di vista terminologico, e opportuno premettere che attraverso i termini <<vero>> e <<falso>> intendiamo designare rispettivamente il mondo antico in cui l'eroe vive degnamente e il mondo moderno in cui si trova invece a vivere da emarginato. Piu che l'amore (1906) descrive crudamente il conflitto che viene a crearsi tra l'eroe di stampo antico e la societa moderna. Il protagonista, l'esploratore africano Corrado Brando, non viene apprezzato nel mondo <<falso>> della borghesia nonostante la gloria dell'impresa compiuta. Insoddisfatto, cerca di trovare il denaro necessario a recarsi nuovamente nel suo mondo <<vero>>, cioe in Africa, ma non ci riesce, e l'epilogo lo vede uccidere it baro che lo ha sconfitto al gioco. Questo atto, che viene certamente giudicato colpevole nella societa borghese, rappresenta invece per Corrado il simbolo della lotta eroica per trasformare il mondo <<falso>> in quello <<vero>>. Riteniamo che la speranza nutrita da Corrado nel mondo <<vero>> si rispecchi nelle <<nuove Erinni>>, piu volte da lui invocate nella parte finale della tragedia. Queste non sarebbero l'emblema della societa borghese che opprime Corrado, come alcuni studiosi sostengono, ma le dee che proteggono il mondo <<vero>> e riconoscono in Corrado un eroe. Allo scopo di individuare il significato delle <<nuove Erinni>>, in questo studio si esaminano le precedenti opere dannunziane in cui si trovano riferimenti ad esse. Nelle due novelle veriste, Gli idolatri (1884) e L'eroe (1885), le Erinni non sono nominate esplicitamente, ma la comunita primitiva che D'Annunzio descrive e molto simile al mondo <<vero>> ed e degna di essere governata dalle Erinni. In questa prospettiva, i membri di quella comunita i quali agiscono istintivamente costituirebbero il prototipo dei vari eroi dannunziani. Nel discorso elettorale Agli elettori di Ortona (1897), D'Annunzio parla dapprima dell'origine della sua adorazione dell'eroe, ricordando la propria infanzia. Lancia poi invettive contro il governo italiano che avrebbe distrutto la Bellezza dell'Italia sia materialmente che spiritualmente e subito dopo, come per esaltare il contrasto tra il mondo <<vero>> e quello <<falso>>, comincia a raccontare le vicende dei militari che hanno combattuto eroicamente a Macalle in Etiopia. Invoca infine l'Erinni perche punisca il mondo <<falso>> che ha ingiustamente violato il mondo <<vero>>. Nella Laus vitae (1903) D'Annunzio espone la visione del mondo che ha maturato nel corso di anni di intenso lavoro. Tra i numerosi episodi presentati, spicca per la sua importanza quello della Cappella Sistina, definita come <<dominio di violenza/e di dolore immortale,/sublimita del Male>>: espressione del mondo <<vero>> in cui si puo vivere eroicamente. Altrettanta importanza puo essere attribuita all'episodio della Via Aurelia, net quale l'io protagonista incontra persone che continuano a vivere come gli antichi. Fuori della citta <<falsa>>, l'io ama <<l'animale umano/[...] che divora, s'accoppia,/urla, combatte, uccide,/inconsapevole e vero>> e se ne rallegra, perche si sente vicino al mondo <<vero>>. Infine, nella <<selva d'arbori eguali>> vede l'Erinni e medita sulla legge della natura, sul destino della nazione e sul sacrificio dell'eroe. Ritornando al nostro esame di Piu che l'amore, le <<nuove Erinni>> chiamate da Corrado nel finale del dramma possono essere interpretate come simboli della polizia o della magistratura, cui spetta il ruolo di punirlo. Certo e che nella societa borghese il grave delitto commesso da Corrado e assolutamente imperdonabile, quindi anche il poeta esita a perdonarlo apertamente, attraverso l'uso dell'espressione ambigua <<nuove Erinni>>. Tuttavia, come si e detto, nella letteratura dannunziana le Erinni non simboleggiano il mondo <<falso>> della borghesia, ma amministrano il mondo <<vero>>. Nel proemio a Piu che l'amore, infatti, D'Annunzio afferma con chiarezza che il compito delle <<nuove Erinni>> e quello di giudicare Corrado secondo la legge del mondo <<vero>>. Riteniamo percio che sia preferibile pensare che l'invocazione alle <<nuove Erinni>> non sorga dal timore della condanna, quanto piuttosto dalla speranza del proprio riconoscimento come eroe.
著者
渡辺 亮 内田 健康 藤田 政之
出版者
The Society of Instrument and Control Engineers
雑誌
計測自動制御学会論文集 (ISSN:04534654)
巻号頁・発行日
vol.35, no.7, pp.861-868, 1999-07-30 (Released:2009-03-27)
参考文献数
22
被引用文献数
3 4

The actual control systems possess some kind of restrictions on the control inputs like saturation, rate limit, and so on. It is known that these restrictions usually cause the large overshoot of the controlled variables for step reference signals. This overshoot phenomenon is called the windup phenomenon. Though the windup phenomenon crucially causes the undesirable performance of the actual control systems, formulation of the windup phenomenon from a control-theoretical point of view has not been proposed yet.In this paper, we characterize the windup phenomenon via output reachable sets and propose analysis technique for the windup based on reachable set analysis. Then we propose a new framework for anti-windup technique and characterize its anti-windup performance via output reachable sets. We also propose analysis technique for anti-windup performance based on reachable set analysis.
著者
丸山 起誉幸 山崎 泰男 内田 健二
出版者
一般社団法人日本消化器外科学会
雑誌
日本消化器外科学会雑誌 (ISSN:03869768)
巻号頁・発行日
vol.37, no.5, pp.600-603, 2004-05-01
被引用文献数
1

症例は65歳の女性,既往歴 : 1994年3月,十二指腸癌に対し幽門輪温存膵頭十二指腸切除を受けている(T4, tubl, med, INFα, ly0, v0, n0, H0, P0, M0, stage IIIA).現病歴 : 健康診断で便潜血陽性,大腸内視鏡検査を施行し,横行結腸に1.5cm大の頂部に潰瘍を有する粘膜下腫瘍を認めた.生検結果から高分化型腺癌と診断した.2001年11月29日,横行結腸部分切除を施行した.病理組織学的所見として,大小不整形の異型腺管が漿膜から粘膜下層にかけて多数みられ, wel, ss, v_o, ly_1, n_3, (+)(No.223), stage IIIbであった.十二指腸癌の組織像と比較検討した結果,十二指腸癌の大腸癌転移として矛盾しない組織像であった.転移性大腸癌の頻度は0.1%から1%とされている.転移性大腸癌は術後7年以上で発症する場合もあり,定期的な消化管検査が必要である.その予後は不良であるが,治癒切除可能であれば原発性大腸癌に準じた手術を行うべきである.
著者
出口 亮 内田 健一郎 栗正 誠也 脇田 史明 羽川 直宏 野田 智宏 西村 哲郎 溝端 康光
出版者
一般社団法人 日本外傷学会
雑誌
日本外傷学会雑誌 (ISSN:13406264)
巻号頁・発行日
vol.36, no.3, pp.291-296, 2022-07-20 (Released:2022-07-20)
参考文献数
16

患者は72歳の男性. 4m下の道路に墜落し, 鈍的頸部外傷を受傷した. 頸髄損傷に加えて第6頸椎レベルでの右椎骨動脈閉塞と左椎骨動脈損傷を認めたが, 併存する頭部外傷により抗血栓療法の早期開始は見送られた. 第6病日より抗凝固療法を開始したが, 第19病日の頭部MRI検査で左出血性小脳梗塞および左椎骨動脈閉塞を認めた. 椎骨動脈損傷の治療は早期の抗血栓療法が中心となるが, 他の併存する外傷のために抗血栓療法を導入できない時期には, 後方循環の脳梗塞を回避するため早期のコイル塞栓術の検討も必要と思われた. また抗血栓療法の導入に併せ少なくとも7~10日は経時的な画像検査を行い, 損傷血管の血流について評価する必要があると考えられた.
著者
山中 一雄 内田 健康 示村 悦二郎
出版者
The Society of Instrument and Control Engineers
雑誌
計測自動制御学会論文集 (ISSN:04534654)
巻号頁・発行日
vol.13, no.4, pp.318-323, 1977-08-30 (Released:2009-03-27)
参考文献数
7

In a stochastic linear composite system, which is composed of several subsystems, it may be desired to obtain an estimate of the state of only one particular subsystem. A usual approach to this problem will be to construct a Kalman-Bucy filter for the total system, and to obtain the required partial state estimate as a part of the total one. That is, a dynamical filter of the same dimension as that of the total system is necessary for only the partial state estimation. From the computational view point, it is preferable to obtain a partial estimate by a suitable dynamical filter, which is not necessarily optimal, of the dimension of that subsystem. In this paper, we consider a class of composite systems in which two subsystems are coupled and their time responses are widely different. And we propose a method to synthesize an approximate filter for the “slower” subsystem. It is also shown that the approximation error vanishes as the ratio of the maximum eigenvalue of the “slower” subsystem to the minimum eigenvalue of the “faster” subsystem approaches to zero.
著者
内田 健一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 = Acta humanistica et scientifica Universitatis Sangio Kyotiensis (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.52, pp.125-151, 2019-03

ダンヌンツィオにとってのペトラルカに関する唯一の本格的な先行研究として,ジベッリーニの『ダンヌンツィオとペトラルカ』(2006)が挙げられる。この網羅的な調査は,詩,小説,評論などのジャンル別で,必ずしも年代順ではない。一方,本稿は,ダンヌンツィオのペトラルカに対する態度を,若い頃から晩年に至るまで通時的に分析し,屈折した微妙な関係の推移を明らかにする。 ダンヌンツィオの最初の明確なペトラルカとの接点はセスティーナという詩形で,それを使って『結びのセスティーナ』(1886)や『深淵カラノ溜息』(1890)を作った。また『カンツォニエーレ』第22番セスティーナの一節を『ヴィッラ・キージ』(1889)で用い,恋人のバルバラ宛ての手紙にも書いた。詩人パスコリに関する評論(1892)では,セスティーナの音楽的な神秘を重視した。 その後,ペトラルカはカンツォーネという詩形と結びつけられる。ダンヌンツィオは『アテネ人への演説』(1899)でイタリア文学の代表としてペトラルカを挙げ,『沈黙の町たち』(1903)で文学の不滅性を讃える。しかし,1906年のジャコーザ追悼文では,カンツォーネなどの定型詩が時代遅れだと述べる。 1889年の『快楽』の詩論で,11音節詩行の名匠ペトラルカは,詩の創作のインスピレーションの源泉とされる。1900年の『夾竹桃』は,ペトラルカがインスピレーションを与えた最後の重要な作品である。そこでダンヌンツィオは,ダプネーを月桂樹ではなく夾竹桃に変身させ,ペトラルカにはない官能性を付け加えた。 自伝的な『快楽』に描かれた若いダンヌンツィオの桂冠詩人の栄光への夢は,約10年後の『火』の作品の虚構の中で実現されることとなる。『コーラ・ディ・リエンツォの生涯』(1905–6)で桂冠を授与されるペトラルカは,社会の平和をもたらす使者のようである。 しかし,詩形と同じように,ペトラルカは桂冠詩人モデルとしても古くなり,1913年の『コーラの生涯』の序文では,20世紀の自由で大胆な詩人に相応しい激しい人生観が表明される。第一次大戦中,平和主義的なペトラルカはほとんど言及されない。戦後に出版された『鉄槌の火花』(1924)で提示される新しい桂冠詩人は,謙虚さではなく高慢さ,人間性ではなく獣性を特色とするものだった。 ダンヌンツィオとペトラルカは,桂冠詩人という外面においては共通していたが,社会観や人間観という内面については違っていた。それゆえダンヌンツィオはペトラルカを強く意識しながらも,あまり多くを語ることをせず,屈折した微妙な関係が深まっていったのである。