- 著者
-
土井 正男
- 出版者
- 一般社団法人 日本物理学会
- 雑誌
- 日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
- 巻号頁・発行日
- vol.73, no.8, pp.551-557, 2018-08-05 (Released:2019-03-12)
- 参考文献数
- 15
- 被引用文献数
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蒸発と乾燥は我々の身近にみられる現象である.皿の上の水滴がいつの間にか消えている,洗濯ものが乾いてゆく,茶碗の底のご飯粒がカチカチになってしまう,などは典型的な蒸発・乾燥現象の例である.蒸発とは,物質が液体から気体に変わる相転移現象であると学校では教わるが,実生活で我々が見ている現象はそれだけではない.洗濯ものが乾くときのことを考えてみよう.洗濯物が乾いてゆくとき,水はいきなり気体になっているのではない.水は繊維の間を流れつつ蒸発してゆくのである.この流れには表面張力,界面張力,繊維の弾性力などが関与しているが,原因となっているのは水の蒸発である.洗濯ものの乾燥では,蒸発によって水の流動,気液相転移,水蒸気の拡散などが同時に起こっている.同じようなことが燃料電池の中でも起こっている.燃料電池の中では,水素,酸素および水が気体や液体に状態を変えながら電解質材料の中を移動している.そのコントロールは電池の設計上重要である.洗濯ものの乾燥の問題は,先端科学と結びついている.一般に蒸発・乾燥は物質内部の流動や変形を引き起こし,それが乾燥後の物質の構造に影響を与えるので,蒸発・乾燥の物理を理解することは物質科学の上からも重要である.最初に蒸発速度について誤解を解いておく.蒸発は液体表面で起こる現象だから,蒸発速度は表面近傍の条件で決まっていると考えている人がいるが,これは大きな誤解である.通常の蒸発条件では,液体表面には液体と平衡になっている蒸気があり,蒸発速度は,この蒸気がどのくらい速く運ばれてゆくかで決まっている.これは蒸気の拡散と空気の流れの絡む流体力学の問題である.実際,蒸発速度は物質が置かれた環境に強く依存する.例えば,試験管の中の水の蒸発速度は,管の半径や入っている水の量によって大きく違う.蒸発には,気中の運動だけでなく,液中の運動も絡んでいる.皿の上のコーヒーの滴が乾くと,リング状のコーヒーのしみが残っているのが良く見られるが,この現象は,蒸発によってコーヒー滴の中に中心部から外縁部に向かう流れが誘起されることによってできる.この問題の厳密な取り扱いは難しいが,Onsager原理を応用した,近似的ではあるが,簡便な取り扱いをすることができる.この方法によって乾燥後に残された堆積物の形や,蒸発によって起きる液滴の運動などが理論的に議論できる.蒸発はまた,物質内の構造変化をもたらす.均質な溶液であっても,蒸発にともない,溶液内の溶質の分布は不均一になる.たとえば,高分子系では表面にスキン層と呼ばれる膜ができることがあり,これにより,表面に凹凸ができたり,内部に空洞が発生する.また,粒径の異なる大小のコロイド粒子の混合溶液では,蒸発後の表面にはサイズが小さい粒子が偏析する.これらの現象も物理の言葉で理解できる.