著者
星野 高
出版者
日本演劇学会
雑誌
演劇学論集 日本演劇学会紀要 (ISSN:13482815)
巻号頁・発行日
vol.75, pp.1-19, 2022-12-15 (Released:2023-01-07)

This paper aims to demonstrate the relationship between Broadway revues and Japanese entertainment stages in the 1920s by examining one specific production. The revue style gained popularity on Japanese stages around 1930, but the influence of Broadway revues on performances on Japanese stages has not been discussed in Japanese theatre history studies. However, there were some Japanese people engaged in theatre productions who had contemporaneously watched Broadway revues in New York in the 1920s. Among such people, a female magician, Syokyokusai Tenkatsu, and her troupe performed some Broadway revues at Teigeki Theatre, Tokyo, in 1925. They did not advertise the details, but their “Jazz” songs, “Jazz Dances,” and “Sungeki” sketches at the Teigeki stage were programs picked up from some Broadway revues performed in 1924. A year before the Teigeki production, Tenkatsu's troupe performed in a vaudeville show at Hippodrome Theatre, New York, and got the opportunity to experience the popularity of those programs at the local level and judge their potential for Japanese audiences in the future. Understanding the relationship between Broadway revues of 1924 and Tenkatsu's Teigeki production can facilitate a comparison of other Japanese entertainment stages of the 1920s to Broadway revues of the same time. Tenkatsu's “Broadway revue” at Teigeki in 1925 is the key production to observe an untold aspect of Japanese theatre history in the 1920s.
著者
星野 高志 小口 和代 伊藤 正典 小笠原 沙映 田中 元規 松田 華加
出版者
公益社団法人 日本リハビリテーション医学会
雑誌
The Japanese Journal of Rehabilitation Medicine (ISSN:18813526)
巻号頁・発行日
pp.22005, (Released:2022-08-17)
参考文献数
38

目的:回復期リハビリテーション病棟入院中の片麻痺患者における病棟内杖歩行自立の客観的判定基準を,決定木分析を用いて明らかにする.方法:対象は3年間の脳卒中片麻痺患者のうち,退院時の杖歩行が監視以上の者とし,病棟内杖歩行自立群と非自立群に分けた.評価項目はSIAS下肢運動合計(SIAS-LE),Trunk Control Test(TCT),Berg Balance Scale(BBS),10 m歩行速度(m/s),入院時FIM認知合計(FIM-C)とし,自立群は歩行自立時,非自立群は退院時の評価を用いた.さらに歩行自立後の転倒状況も調査した.統計分析は単変量解析および決定木分析を行った.結果:自立群101名(平均68±13歳),非自立群47名(平均79±12歳)で,歩行速度,TCT,BBS,FIM-Cに有意差を認めた.決定木分析では歩行速度,FIM-C,BBSの順に選択され,①歩行 ≧ 0.42 m/s,FIM-C ≧ 22点(自立者割合97%/転倒者割合5%),②歩行 ≧ 0.42 m/s,FIM-C<22点,BBS ≧ 50点(100%/0%),③歩行 ≧ 0.42 m/s,FIM-C<22点,BBS<50点(52%/8%),④歩行<0.42 m/s,BBS ≧ 28点(49%/28%),⑤歩行<0.42 m/s,BBS<28点(0%/0%)に分けられた.転倒者割合は全体で8.9%,うち④が最も高かった.結論:歩行自立には歩行速度,FIM-C,BBSの順に関与し,各基準値が明らかになった.歩行速度の低い者は易転倒傾向であり,特に慎重な自立判断が求められる.
著者
星野 高徳
出版者
一般社団法人 廃棄物資源循環学会
雑誌
廃棄物資源循環学会研究発表会講演集
巻号頁・発行日
vol.27, 2016

本研究の課題は、東京市、大阪市をはじめとした他の都市に先立って屎尿処理市営化が推進された戦前期名古屋市における市営化政策の転換過程を検討することにより、同市がいかに市営化の際に直面した衛生問題と財政問題の双方の解決を図ったのかを明らかにすることである。<br>&nbsp; 1930年代の名古屋市では、衛生的で効率的な屎尿処理を実現するため、下水処理化、水洗便所化を推進した。ただし、市民が工事に必要な費用を負担することは困難であったため、名古屋市は屎尿流注所を建設することにより、可能な範囲で下水処理化、屎尿処分費の削減を実現した。しかし、屎尿流注所による処理には、技術面、財政面の問題が残されていたため、そうした問題に対処するため、肥料不足を背景として増大した近隣農村の屎尿需要に注目し、愛知県や愛知県農会と協力して屎尿の供給先の確保、農村還元処分の継続を図った。
著者
星野 高志 小口 和代 大高 恵莉 木戸 哲平 田中 元規 早川 淳子 佐藤 浩二 後藤 進一郎
出版者
一般社団法人日本理学療法学会連合
雑誌
理学療法学 (ISSN:02893770)
巻号頁・発行日
vol.48, no.4, pp.432-439, 2021 (Released:2021-08-20)
参考文献数
23

【目的】回復期リハビリテーション病棟(以下,回復期)における移乗・トイレ・歩行の自立判定と,自立後の転倒を調査した。【方法】対象は回復期の脳損傷者135 名とし,各動作の自立および自立後の転倒状況を調べた。自立は,①療法士が動作評価,②病棟スタッフが実生活で動作観察評価,③医師を含む多職種で判定した。また入棟時FIM,SIAS 運動,BBS を自立後の転倒の有無により比較した。【結果】各自立後の転倒者は,移乗自立77 名中9 名(11.7%),トイレ自立70 名中3 名(4.3%),歩行自立60 名中8 名(13.3%)だった。転倒者の入棟時の機能は,移乗ではFIM 運動,SIAS 運動,BBS,歩行ではBBS が有意に低かった。トイレでは有意差はなかった。【結論】移乗,歩行自立者の約1 割が転倒していた。移乗,歩行自立者のうち運動機能が低い者が転倒していた。今後,客観的指標を含めたさらなる検討が必要である。
著者
市川 智生 福士 由紀 平体 由美 星野 高徳 前田 勇樹 戸部 健 井上 弘樹 趙 菁
出版者
沖縄国際大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

本研究は、従来の医療社会史の中心的課題であった感染症対策ではなく、近代化の過程において健康とされる状態がどのように認識されてきたのか、すなわち「健康観」の歴史的解明を目標としている。日本(アイヌおよび琉球・沖縄を含む)、中国(上海、天津)、植民地統治期および戦後の台湾と朝鮮・韓国がその対象である。歴史資料の収集・検証とこれまでに利用してきた感染症関係資料の再検証をもとに、左記の地域を専門とする研究者が共同で歴史研究を実施する。政治、文化、社会経済、自然環境などに影響された多様な「健康観」形成の歴史を明らかにし、現代社会への継承のあり方まで特定する。
著者
星野 高徳
出版者
Business History Society of Japan
雑誌
経営史学 (ISSN:03869113)
巻号頁・発行日
vol.48, no.4, pp.4_29-4_53, 2014 (Released:2016-03-28)
参考文献数
80

After 1910, urbanization and increased use of other fertilizers resulted in the loss of the value of human waste as compost. The night soil recycling networks of Osaka, formed in the early modern period, collapsed and the city was forced to provide human waste dis-posal as a municipal service.Previous studies on the transition to this municipal service have shown that improve-ments in hygiene conditions in Japan came later than in Western countries because Japa-nese cities depended on systems of human waste recycling networked with suburban farming villages.However, Takeshi Nagashima compared statistical data of Osaka with that of Tokyo and raised questions about the effect of Osaka’s modern sewage disposal system. According to this study, Osaka’s typhoid morbidity rate in the 1930s was higher than that of Tokyo, which placed an emphasis on the night soil recycling system. In short, the sewage disposal system built in Osaka did not provide a fundamental solution, and problems of infectious disease persisted for a long time. Regarding reasons for this, Nagashima pointed out the city’s financial limitations but did not examine the more concrete problems Osaka faced when creating its sewage disposal system.Thus, this paper focuses on Osaka’s night soil disposal plan and examines obstacles encountered when building a modern sewage disposal system as well as factors that pro-longed the city’s continued sanitation problems.After human waste disposal became stagnant in the city center, the government revised the Filth Cleaning Law on May 17, 1930. The revised law included human waste as part of cities’ waste disposal obligations. After this revision, Osaka considered the construction of a sewage disposal system to be a more important municipal measure than its human waste removal service. However, despite the city’s plan, Osaka’s residents were opposed to such a measure because they were reluctant to spend much money on flush toilet installation. Therefore, the measure was ineffective in solving the city’s waste disposal problems.In the end, Osaka was entrusted with the final disposal of human waste. Because the measure preserved the livelihoods of night soil peddlers and reduced the city’s waste dis-posal cost, the city cooperated with Osaka Prefecture and agricultural associations to build human waste storage tanks, thereby intervening in the process of human waste disposal. As a result, the city of Osaka supplied human waste to many surrounding farming villages in the prefecture, simultaneously relieving its human waste problems.
著者
星野 高徳
出版者
一般社団法人 廃棄物資源循環学会
雑誌
廃棄物資源循環学会研究発表会講演集
巻号頁・発行日
vol.31, 2020

<p>戦前の東京市、大阪市、名古屋市では、近世以来の農村還元処分が重要な役割を果たしていたが、市営汲取、下水処理化については、異なる対応がとられ、汚物掃除費の水準に相違が見られた。東京市は部分的に屎尿の下水処理化が試みたものの、主に従来の農村還元処分を拡大することによって、屎尿問題の緩和を図っていたため、汚物掃除費は高い水準で推移した。それに対して、大阪市は汲取処理は根本的な解決策にならないと考えたため、下水道、下水処理場による処理を目指し、汚物掃除費ではなく、下水道整備に対する費用を充実させていた。名古屋市は下水処理と農村還元処分を併用することにより、衛生面と財政面の双方の問題に配慮しており、汚物掃除費は大阪市より高い水準で推移した。3市の政策に相違が見られた要因としては、①下水道の敷設、屎尿の運搬に関係する地勢の違い、②大阪市の関一のようなリーダーシップを持った市長の存在が挙げられる。</p>
著者
星野 高徳
出版者
一般社団法人 廃棄物資源循環学会
雑誌
廃棄物資源循環学会研究発表会講演集
巻号頁・発行日
vol.29, 2018

本研究の課題は、屎尿処理を改善する際に重要な論点になった肥料問題と衛生問題に注目し、行政や公衆衛生の研究者が、肥料の確保を重視する農村と衛生面の改善を重視する都市の双方にいかに配慮したのかを検討することにより、戦後日本における屎尿処理の特徴を明らかにすることである。<br>戦後になると、大都市を中心に下水道の建設が推進されることになったが、人口に対する普及率は低く、都市の屎尿処理は依然として農村還元処分や海洋投棄に依存せざるを得なかった。公共下水道の整備には多額の費用を要することから、戦後の日本では、農村部で厚生省式改良便所と糞尿分離式改良便所を使用した農村還元処分の継続が模索され、都市部では浄化槽による下水処理化が目指された。しかし、いずれも財政面、衛生面の限界を抱えていたことから、急速には普及せず、海洋投棄などの非衛生的な処理が残存することになったのである。
著者
星野 高徳
出版者
慶應義塾大学出版会
雑誌
三田商学研究 (ISSN:0544571X)
巻号頁・発行日
vol.51, no.6, pp.179-201, 2009-02

吉田正樹教授退任記念号論文本稿では,大正・昭和初期の東京において,資源回収業が民間事業として存続した要因について考察する。元来,再生資源の回収と塵芥の処理はほぼ同様の事業主体,業務内容で行われていたが,明治33年に汚物掃除法が施行されると,塵芥処理が市の責任で行われるようになったのに対して,資源回収業は依然として民間業者によって担われた。これまで資源回収業に関しては,主にスラム研究,貧民調査との関係から考察されることが多く,資源回収業の収益環境については1970年代の物価変動期や1990年代の行政回収に関するものに集約される。本稿では,これまで戦後の一時点を対象として行われてきた資源回収業者の収益環境に関する分析を戦前期にまで拡大することによって,業界全体の変容を明らかにするとともに,静脈産業の成立・存続要因に関して再生資源価格の上昇・低下以外の要因にも言及する。まず,資源回収業と塵芥処理業の関係の変化について,明治33年に施行された汚物掃除法の影響を中心に見ていき,資源回収業と塵芥処理業の役割が分離していく過程を明らかにする。続いて,明治後期から大正期にかけての衛生関係の法規制の影響と第1 次大戦前後の好不況期における資源回収業者の収益環境の変化に言及する。最後に,第1 次大戦後に再生資源価格が暴落した後も資源回収業者は屑鉄,アルミニウム,硝子,セルロイドなどの回収を重視しながら,民間事業として存続していたことを明らかにする。本稿では,資源回収業の収益環境や法令について,東京市の公文書や『都新聞』,『読売新聞』,『鉄と鋼』などの新聞・雑誌記事を主要資料として論じる。