著者
松原 康介
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.44.3, pp.889-894, 2009-10-25 (Released:2017-01-01)
参考文献数
26

シリアのアレッポは、世界各地との交易を背景として多様性豊かな商業都市として発展した。20世紀に入ると高度な資本主義の発展の下で歴史的市街地に開発圧力が集中したが、その時の都市計画の理念と実態はいまだ明確ではない。そこで本研究では、仏委任統治領時代に始まるフランス都市計画のアレッポにおける変遷を考察し、近代都市計画の導入に伴う都市空間の変容を明らかにする。旧市街における道路計画はダンジェによる最初の都市計画に既に現れていた。エコシャールは古代遺跡局出身者の立場から歴史的建築の修復計画をこれに加える一方、道路計画に変更は加えなかった。独立後、ギュトンの計画はこれまでの道路計画を更に発展させ、具体的な街路線計画を残した。この計画が旧市街の破壊につながったと言われるが、ギュトンは計画の背景にアレッポ市側の要請があったことを示唆している。その後に都市計画を担当した番匠谷尭二は、旧市街に道路を貫通させない方針を明確に示し、ギュトン計画にあった道路の多くを削除した。それでもダンジェ以来の道路計画のいくつかが方針に反する形で採用されており、そこには商業都市アレッポの開発圧力があったものと考えられる。
著者
松原 康介
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, pp.945-952, 2017-10-25 (Released:2017-10-25)
参考文献数
22

シリア第二の都市アレッポは、アレッポ城を中心にヘレニズム時代のグリッド型街路とイスラーム時代の稠密な街路網が複合して形成された旧市街を擁する。2011年以降の内戦による被害が大きいアレッポでは、戦後復興にあたって日本等の国際協力に基づく都市計画が必要とされることが期待されている。本研究では、た日本人計画家・番匠谷堯二が中心となって策定された1973年の「アレッポ旧市街空間整備計画」の計画思想と計画技術、方法論を計画図書及び関連資料から明らかにした上で、計画図と古地図との比較による妥当性を検証し、本計画の計画論的特徴を明らかにすることを目的とする。2章では、番匠谷の参画など、本計画の歴史的経緯を既往研究も踏まえて明らかにする。3章では、本計画の主要な一次資料である雑誌記事「アレッポ旧市街空間整備計画」の全テキスト・図版を対象に内容の注釈を行い計画的特徴を明らかにする。4章では、注釈から見いだされた特徴の一つである「進化型計画」の、番匠谷のそれまでの計画論との関連を議論する。5章では、主として計画図を当時の旧市街地図と対比する作業を通じて、本計画の妥当性を明らかにする。。
著者
松原 康介
出版者
筑波大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2014-04-01

本研究は、シリア内戦によって多大な戦災を受けた歴史都市アレッポを対象に、その戦災状況を把握し、これまでの日本の都市計画協力の実績を踏まえて、戦後の復興計画のための実践的な策定体制を構築し、大型案件への接続を目指したものである。戦災状況は、中東都市多層ベースマップシステムを活用し、現地からの情報提供に基づき明らかにした。また、アレッポ及びベイルートやハマー等の復興計画史から保全と近代化のバランスのとれた計画論の必要性を明らかにした。更に、JICAダマスカスプロジェクトの経験、日本の復興計画の実態調査、シリア人大学院生の教育活動、各支援者・団体との意見交換等を通じて復興計画原案の策定体制を整えた。
著者
松原 康介
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.1007-1014, 2021-10-25 (Released:2021-10-25)
参考文献数
32

本研究では、フェルナン・プイヨンの自伝『石叫ぶべし』(荒木亨訳)の精読から、プイヨンの参画内容を抽出・整理し、既往研究とも突き合わせながら文脈的に再構成することで、マルセイユ旧港復興の経緯と形成空間の特徴を明らかにする。まず旧港地区の形成と空間的特徴、老朽化の問題を既往研究より概括する。続いて、戦災の状況と、戦後市政におけるマルセイユらしい混乱の中でプイヨンが「追放」されるまでの経緯を戦史、政治史を踏まえて明らかにする。更に、石材ルートの確保やル・トロネ修道院等、地域の歴史的建築の調査を経て、プイヨンが主導権を握っていく過程を建築史も踏まえて明らかにする。その上で、計画論とファサード図を踏まえて、最終的に実現された旧港空間が、いかなる特徴を体現しているかを検討する。プイヨンは、先行計画を無理に否定することもなく、自らは柔軟かつ抑制的に6つの低中層住宅からなるファサードの計画に留めた。それが多様性を活かすプイヨンの計画論であった。南へ向かっては旧港、ひいてはノートルダム・ドゥ・ラ・ギャルドを臨み、北に向かっては斜面地の歴史的建築物が見え隠れする地中海的ヴィスタは、こうして実現されたのであった。
著者
松原 康介
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.86, no.790, pp.2799-2810, 2021-12-01 (Released:2021-12-01)
参考文献数
32

During the French colonial period (1830–1962), Algeria saw the introduction of modern architecture and urban planning, particularly in Algiers. In the late colonial period, however, the most pressing issue was the coexistence of the ‘Colons’, who had lived in the country for several generations, and the original habitants ‘Muslims’. The late colonial period pertains to when Jacques Chevalier, who was elected mayor on the promise of ‘coexistence’, was in charge of the city of Algiers from May 1953 to May 1958 and promoted the type of urban planning he had assured. The French architect Fernand Pouillon was invited for ‘coexistence’ urban planning and realised the ‘three districts’ of Diar es-Saâda (1953), Diar el-Mahçoul (1954), and Climat de France (1959). One of the concepts of the three districts was ‘Moorish architecture’ (hispano-maurisque )—a fusion of Roman and Islamic elements —which developed in the Iberian Peninsula and the Maghreb region. Indeed, Pouillon tried to reflect on the unique spatial characteristics of the region as a living space for Algerians, including Muslims. However, such attempts have often been criticised for their limitations. The purpose of this study is to clarify the characteristics of the three districts of Algiers, as officially advocated by Pouillon, by critically examining the location of each district, spatial composition, urban architectural elements such as ornament, the idea of symbiosis, and the process from planning to realisation. This study is a historical research. Primary sources include the minutes of the city council meetings of the time, texts, photographs, and drawings published in the city's public relations magazines and articles in architecture magazines. Additionally, several magazine articles by the Japanese Banshoya Gyoji, who was in Algiers at the time, will be used as the primary source for this paper. First, I will summarise the existing studies on Moorish architecture, especially the book, ‘Moorish Architecture in Andalusia’ and construct and present an analytical concept for the evaluation of the three districts (Chapter 2). As for the process from planning to realisation, I will use the minutes of the city council meetings published in the Bulletin Municipal de la ville d'Algers, articles on urban planning in the Bulletin and its successor, Alger Revue, as well as architecture-related sources such as Chantier and other architectural magazines (Chapter 3). This is then supplemented by Pouillon's autobiography, ‘Mémoire d’un architecte’, which is rich in content and contains his subjective but more concrete spatial ideas and value judgments (Chapter 4). As for the planning analysis, based on the above-mentioned primary data, the plan of each district is modified to create a base map, and then the photographs of each part are compared and analysed item by item (Chapter 5). In conclusion, it is clear that Pouillon advocated ‘Moorish Architecture’ in the three districts of Algiers. The planning theory was conceived based on this thought, and it was reflected to a certain extent in the realised space. The view from the slopes affronted by the Mediterranean Sea was liberating. The stone was massing, the spatial organisation of the square, the colonnade, and the market were organised on a small scale, the water and the planting were well equipped, and the human scale space and the diversity of the district were assured.
著者
松原 康介
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 第38回学術研究論文発表会 (ISSN:1348284X)
巻号頁・発行日
pp.155, 2003 (Released:2003-12-11)

本稿では、モスクの建設と利用を通した、新市街の現代モロッコ都市への再編過程の一端を明らかにし、モスクを核とした複合文化空間の意義の検討を目的とする。新市街は西欧型生活様式に即した空間であったが、今日の課題は既存ストックとしての新市街の、現代モロッコ本来都市への再編である。宗教生活の根幹としてのモスクは、小モスクの胎動期を経て少数で大規模な近代建築として普及したが、その存続のためにハブース店舗を埋設した点で、計画された複合施設としての発展形態をとっている。空間的特質としては、ブロック上で中庭をもたないが、複数の入口を通して外部へと開放されている。また、ハブース店舗が周辺の一般商店街と連坦し、かつ道路が露店スークとして利用され、商業を通した広場・道路との連携が見られる。バロック型の既存ストックを積極的に活用して、フランス文化とモロッコ文化の複合文化都市を目指すことが考えられる。
著者
松原 康介
出版者
The City Planning Institute of Japan
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.213-218, 2013

2011年3月に勃発したシリア内戦は今日まで終わりの気配がみられない。これまでの都市計画分野における協力の実績を考えると、内戦終了の折には戦災復興都市計画において日本が協力していくことが考えられる。この観点から、本稿はベイルートの都市計画通史の分析を行う。オスマン帝国時代の計画、フランス委任統治領時代の計画、あるいはエコシャールや番匠谷といった都市計画家の存在など、シリア主要都市との共通項が多いためである。エコシャールによる1943年の計画は、今日に至るまで後継計画に影響を与えており、ガルゴールとサイフィ二地区の再開発は、ハリーリー及びその後継者達による強いリーダーシップの下で現在進行中である。
著者
松原 康介
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画. 別冊, 都市計画論文集 = City planning review. Special issue, Papers on city planning (ISSN:09131280)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.889-894, 2009-10-25
参考文献数
26
被引用文献数
1

シリアのアレッポは、世界各地との交易を背景として多様性豊かな商業都市として発展した。20世紀に入ると高度な資本主義の発展の下で歴史的市街地に開発圧力が集中したが、その時の都市計画の理念と実態はいまだ明確ではない。そこで本研究では、仏委任統治領時代に始まるフランス都市計画のアレッポにおける変遷を考察し、近代都市計画の導入に伴う都市空間の変容を明らかにする。旧市街における道路計画はダンジェによる最初の都市計画に既に現れていた。エコシャールは古代遺跡局出身者の立場から歴史的建築の修復計画をこれに加える一方、道路計画に変更は加えなかった。独立後、ギュトンの計画はこれまでの道路計画を更に発展させ、具体的な街路線計画を残した。この計画が旧市街の破壊につながったと言われるが、ギュトンは計画の背景にアレッポ市側の要請があったことを示唆している。その後に都市計画を担当した番匠谷尭二は、旧市街に道路を貫通させない方針を明確に示し、ギュトン計画にあった道路の多くを削除した。それでもダンジェ以来の道路計画のいくつかが方針に反する形で採用されており、そこには商業都市アレッポの開発圧力があったものと考えられる。
著者
松原 康介
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 = Papers on city planning (ISSN:1348284X)
巻号頁・発行日
vol.46, no.3, pp.691-696, 2011-10-25
参考文献数
18
被引用文献数
1 1

番匠谷堯二の時代以来、シリアの首都ダマスカスでは日本の国際協力が継続されてきた。現在の最新のプロジェクトであるダマスカス首都圏都市計画・管理能力向上プロジェクトでは、都市保全が主題の一つとされ、カスル・ル=ハッジャージュ通りの歴史的ファサードの改善に焦点が当てられている。本稿は、ファサードの現地調査を実施して、歴史的正統性とイスラームに根差した空間構成に基づく、原状復旧型ファサード改善のあり方を考察する。土地利用計画図およびファサード立面図の分析に基づき、この地区は住宅地であり伝統的なまちづくりの材料がまだ生きていることがわかった。結論として、派手な観光開発ではなく、穏健な改善方針がこの静かな地区のために提案された。
著者
松原 康介
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画. 別冊, 都市計画論文集 = City planning review. Special issue, Papers on city planning (ISSN:09131280)
巻号頁・発行日
vol.43, no.3, pp.163-168, 2008-10-15
参考文献数
33
被引用文献数
4 2

番匠谷尭二は、生涯に渡って中東・北アフリカ地域の都市計画に携わった計画家である。清家清の門弟から出発して、パリのATBATでG.アニング、G.キャンディリスらに学んだ。その後アルジェに渡り、イスラム教徒とキリスト教徒が共存できるような住宅地計画に関する業務に従事した。1962年よりM.エコシャールとともに、国連開発計画の専門家として、ベイルート、ダマスカス、アレッポの都市基本計画を策定した。CIAMの理念も参照しつつ、彼らは自動車の導入によって旧市街の活性化を試みた。残念ながら、彼らの近代主義的政策には反対運動が起こり、番匠谷は失意の中で引退した。しかし、それでも彼の業績は多大であり、計画論的分析がなされるべきである。それは中東都市計画物語の序説となるであろう。
著者
松原 康介
出版者
筑波大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2010

本研究の成果は、(1)番匠谷尭二氏を初めとする国際的に活動した都市計画家の業績解明を通じた中東都市計画史の研究、および、(2)歴史から学びえた都市計画論上の教訓の、現在のわが国による都市保全プロジェクト(JICA)への還元、の二点から報告される。審査付き論文として、(1)について国内誌1/海外誌1、(2)について国内誌1/海外誌1、の成果を上げた。また、学術的知見をJICAプロジェクト「ダマスカス首都圏都市計画・管理能力向上プロジェクト」に反映し、歴史的街道のファサード改善への提言を実施した。
著者
松原 康介
巻号頁・発行日
2012

科学研究費助成事業(科学研究費補助金)研究成果報告書:若手研究(B)2010-2011