著者
大津 忠彦 古瀬 清秀 山内 和也 岡野 智彦 前杢 英明 千代延 恵正 千代延 惠正
出版者
(財)中近東文化センター
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1999

1999〜2000年度:イランにおける外国調査隊の考古学調査活動に関する対外情報の不明朗さから、当初計画したイラン西北部ギーラーン州との共同調査は、イラン文化遺産庁(Iranian Cultural Heritage Organization,以下ICHO)より不可とされた(1999年)。2000年度末にやっと、共同調査実施のためにはその前提として、ICHOと中近東文化センターとの間にイラン遺跡調査に関する「協定書(合意書)」の締結がなされなければならない旨が判明。この間、遺跡への調査目的での立ち入りは禁止となったので、周辺域概観踏査と博物館収蔵品調査に重点を置いた結果、デイラマーン地域に見られるイラン青銅器〜鉄器時代の指標的土器が東方はるかのゴルガーンやダームガーンにおいても認められること、ギーラーン州域ではその存在が疑問視されてきた遺丘がキャルーラズ渓谷内に一基(ジャラリイェ・テペ)あること、ターレシュ地域の石灰岩地帯には200余基の洞窟が存在し、石器、人骨資料採集伝聞があること等々を確認。2001年度:6月の「協定書(合意書)」締結をうけて発足した「日本・イラン合同調査団」は、セフィードルード川西岸域における踏査によって26遺跡をデータ化。それらの帰属年代はイラン鉄器時代からイスラーム時代とみられるが、採集資料はすべて表採品であるので時期の細分は比較資料皆無の現状では困難。この意味でも先年確認したジャラリイェ・テペの発掘が有用と判断できる。地勢学的観察によれば、遺跡は概して水の得易い、地滑りによって形成された山の緩斜面や侵食平坦面の縁に分布し、遺跡数の大半を占める古代およびイスラーム期の墓域は、基本的に同じ場所に営まれたらしい。これら墓域に近接の平坦面あるいは緩斜面が、当該地において未確認の古代における生活空間と想定できる。
著者
相馬 秀廣 山内 和也 山藤 正敏 安倍 雅史 バレンティナ サンコバ ヴァレリー コルチェンコ 窪田 順平 渡辺 三津子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

<b>はじめに:</b>天山山脈西部北麓には,オアシスを連ね唐代には「天山北路」が通り,北方にはカザフ草原が広がる.ヌリアン(2009)によれば,アクベシム遺跡は,紀元5-6世紀にソグド人による建設後,交易の発達により繁栄し,7世紀には西突厥の中心地として玄奘も滞在し,657年以降は断続的に唐,西突厥,吐蕃の支配下に置かれ, 682年の唐の「杜懐寶石碑」が出土している.「タラス河畔の戦い」の後も、カルルク、カラハン朝の中心的な都城址として13世紀初頭まで居住されたとされ,仏教寺院,ネストリウス派キリスト教会などの遺跡も複数存在する. 考古発掘により,アクベシム遺跡の概要は大まかには判明しているものの,何故この場所に同遺跡が建設されたか,南東部のラバドの性格など,基本的な点で未解決な部分も少なくない.また,同遺跡からおおよそ25km圏(アクベッシム遺跡地区)内には,数多くの遺跡の存在が知られているものの,それらの立地条件については,必ずしも明らかではない.そこで,発表では,高解像度衛星画像・同写真の判読と現地調査結果により,各遺跡の立地条件などについて報告する.本研究は,1967年撮影のCorona衛星写真(地上解像度約3m. Corona)および2007年観測のQuickBird衛星画像(同約0.6m)などによる衛星考古地理学的手法を用いた.<b>アクベシム遺跡地区の囲郭遺跡の立地条件</b>:当地区の囲郭遺跡の立地条件は, a)段丘面上端,b)段丘面上(一辺が数10mの小規模囲郭),c)扇端(アクベシム遺跡),d)沖積低地(ブラナ遺跡)に区分される.aは一辺の長さが100mオーダーで囲郭の一部に段丘崖を利用し,幅数から10mの空堀を周囲に巡らせており,防御に重点がおかれた可能性が高い.同様な囲郭址がイシク湖南岸にも存在する.bは烽火台である. アクベシム遺跡は,東西両側を南からチュー川に延びる2つの大きな開析扇状地扇端付近のほぼ合流部に位置する.当地区の遺跡の中では地下水を最も得やすく,また,両側からの河川氾濫に対して最も被害を受けにくい立地にある.ブラナ遺跡は,アクベシム遺跡の後,当地区の中心だったとされる囲郭であるが,アクベシム遺跡両側の扇状地の間を流下する小河川の沖積低地に立地する.以上の点から,アクベシム遺跡は,当地区において,中心となるのに最も望ましい立地にあることが判明した.
著者
松岡 秋子 島津 美子 邊牟木 尚美 影山 悦子 山内 和也
雑誌
保存科学 = Science for conservation
巻号頁・発行日
no.49, pp.265-274, 2010-03-31

The National Research Institute for Cultural Properties, Tokyo and The Institute of History, Archaeology and Ethnography, Academy of Science, Tajikistan have been conducting conservation activities for mural painting fragments which are part of the collection of The National Museum of Antiquities of Tajikistan. The painting fragments excavated in Kala-i Kakhkakha are currently the main subject of our studies and conservation treatments. The image of the mural was painted by "a secco" technique on the loess rendering as in other mural paintings in Central Asia. The fragments were consolidated in the 1970's using Polybutylmetacrylate (PBMA). However, they are still structurally unstable. The fragments should be realigned closely together and mounted. In parallel with the conservation and inventory making of the fragments, treatment on one of the fragments' groups, KH7-1, was carried out. The main treatment processes consisted of cleaning of the surface, consolidation of the fragile rendering and surface layers, assembling of the fragments, and mounting. Further procedures for other fragments with multiple damages would be to find an appropriate application for consolidation of the rendering and the surface layer, and better mounting materials and methods.
著者
山内 和也 山藤 正敏 吉田 豊 城倉 正祥 櫛原 功一 久米 正吾 中村 俊夫 増渕 麻里耶
出版者
帝京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2015-04-01

本研究の目的は、シルクロードの交易拠点都市の成立と展開の実態を明らかにすることである。そのために、中央アジアのキルギス共和国北部に位置するアク・ベシム(スイヤブ)遺跡において発掘調査を実施し、考古学的な研究を行った。発掘調査によって都市のプランや構造を明らかにするとともに、周辺地域の調査によって、都市の成立と繁栄に不可欠な水利システムの存在を解明することができた。こうした成果によって、シルクロード沿いの拠点となる交易都市の成立と展開、そして同都市が位置する地域の発展過程について考察することができた。
著者
家島 彦一 黒木 英充 羽田 亨一 上岡 弘二 川床 睦夫 飯塚 正人 山内 和也
出版者
東京外国語大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1998

本調査の主たる目的は、イスラム圏における統合と多様性のメカニズムを理解する-助として、当地における交通システムの歴史的変容を解明することであった。この目的を達成すべく、1988年度から2000年度にかけて-連の現地調査と文献調査を実施した結果、以下のような重要な研究成果を得ることができた。1.1988年度から2000年度にかけて行った南イラン・ザグロス山脈越えの古いキャラバン道調査では、バーチューン、アーザーディガーン、ローハーニーなどの地で、これまで記録のなかったキャラバンサライ(隊商宿)、水場、拝火神殿、石碑、城塞等の新たな歴史的遺跡群を発見した。この調査によって初めて、シーラーズ・シーラーフ間の正確なルートが明らかになった。2.2000年初頭に行ったエジプト南部のクース/エドフー(ナイル渓谷)〜アイザーブ(紅海岸)を結ぶキャラバン道調査では、イブン・ジュバイル、アブー・カースィム・アル=トゥジービー、イブン・バットゥータといったアラビア語メッカ巡礼書に登場する地名の同定に成功するとともに、新たな歴史遺跡数か所を発見。時代と場所を確定し、GPSを用いて図面に記録した。また、アバーブダー部族のベドウィンから当地の聖者廟に関する情報を得た。3.2001年初めに行ったホルムズ海峡からオマーンにかけての現地調査では、カルハート、ミルバート、スハールなどの港市遺跡を訪れるとともに、外国人労働者ネットワークの最近の動向について調査を行った。その結果、港湾における諸活動や人間移動の構造と機能は過去も現在もそう変わっていないことが明らかになった。この地域ではまた、最近のダウ船による貿易とダウ造船業の現況に関する調査も実施した。以上の成果を総合した結果、イスラム圏における共生と接触のダイナミズムをより深く理解するためには、交通システムに関する調査が今後も必要不可欠であることが確認された。