著者
鳴海 邦匡
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.223, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 近年,里山のような身近な自然環境が注目され,保全への関心も高まっている.こうした自然環境の多くは,ここ100年程の里山の植生景観の変遷にみられるように,大きく変動するものであった。そのことは,保全をすすめていくうえで,いかにして変化する景観を評価するかが重要となることを示している。<BR> こうした観点から,報告者は神社林の森林景観の変動について先に検討した(鳴海・小林,2006).西日本の鎮守の森の多くは,現在,常緑広葉樹林として構成されている.それは多くの人々にとって昔から変わらないと認識される植生景観であった.しかし,先の検討を通じて,こうした森林景観のある部分は,近代以降に形成された比較的新しいものであることが明らかとなった.かつては矮小なマツ,恐らくアカマツの卓越する景観であったと考えられる.<BR> この議論をすすめていく過程で,近代における地域環境史資料としての正式2万分1地形図を基礎にしながら,近世の地図の有効性に注目した.そこで利用した近世の地図は,幕府の検地に際して作られたものであり,地目を表すうえで植生を描き分ける必要があった.近代以前の自然環境をみていくうえで,近世の地図は重要な資料であるが,十分な資料批判が求められる.<BR> 今回の報告では陵墓の景観変化に注目した.それは,陵墓の植生景観も,神社林と同様,現在にかけて大きく変動していたからである.その際,山陵図と呼ばれる資料に注目し議論を進めている.<BR><BR>2.山陵図について<BR> 山陵図は,近世から近代にかけて,陵墓の探索や修繕事業にともない作製された図を指している.また,陵墓地の比定は社会的にも当時の大きな関心事であったことから,山陵図に類した資料も存在する。ここで山陵図に注目したのは,この図が現地調査に基づく陵墓の現況の把握や,修繕結果の報告を目的に作られたものであり,地域環境史資料としての活用に堪えうると判断されるからである.また,関連する文献資料が多いのも理由である.<BR> こうした事業は,主として幕府(近代以降は明治政府)によって元禄以降,享保,文化,安政,文久,慶応,明治と度々実施されることとなった.そして,その度毎に山陵図が作製されている.この時期以降,陵墓は保護される対象へと次第に変化していく.実際,当時の陵墓の多くは年貢地や小物成地として登録されていたように,周辺の農民らが林産資源の採集地や耕作地として利用する場であった.そうした利用状況を反映して,山陵図に描かれた当時の墳墓の景観,特に植生景観は現在のものと比べて著しく異なっていた.以下ではその一例を挙げてみたい.<BR><BR>3.山陵図に描かれた植生景観とその変化<BR> 元禄期(1690年代),奈良奉行が京都所司代の指揮のもと,大和国内の陵墓調査を実施した.当時の状況を描く字王墓山古墳(景行天皇陵,山邊道上陵)の山陵図をみてみると,この時に村々から提出された記録(耕作地として樹木のない年貢畑であったと記す)の内容と一致する.他の陵墓の多くも,こうした植生被覆の乏しい景観となっていた.<BR> こうした陵墓の多くは近世を通じて次第に森林化していくこととなる.文久期(1860年代)の修陵事業に際して描かれた景行帝の山陵図をみると,灌木や竹の生い茂るなかマツ形の樹木が卓越しつつある状況が描かれており,元禄期と異なる景観を示し注目される.<BR><BR>4.まとめと今後の課題<BR> これまでみてきたように,山陵図は近世から近代にかけての植生景観の変遷を知る有効な資料であるといえる.ここまでみてきた近世の陵墓の景観は,明治に入るとさらに大きく変化していくこととなる.先にみた景行帝陵について正式2万分1地形図(1908(明治41)年測図)をみると,針葉樹の植生記号のみで示されているのが確認される.この後,帝室林野局により作製された陵墓地形図(1926(大正15)年測量)では,主に「松」樹の記号で覆われていることが確認され,この針葉樹がマツであることを示している.<BR> こうした近代以降の景観変化は,計画的な植樹や伐採を経た結果であった.先にみた神社林のように,現在,常緑広葉樹の卓越する陵墓の植生景観は,比較的新しいものであるといえ,身近な自然環境の変動をしる良い事例であると考えられる.
著者
鳴海 邦匡 渡辺 理絵 小林 茂
出版者
日本地図学会
雑誌
地図 (ISSN:00094897)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.17-35, 2022-03-31 (Released:2023-09-14)
参考文献数
63

For the Taiwan expedition (1874) and military action to suppress local resistance after the SinoJapanese War (1894-5), Japanese navy prepared nautical charts re-engraving from British Admiralty charts. Concerning place names, Japanese Hydrographical Office tried to transcribe those on British charts into Chinese characters locally used. However, it was not easy to infer exact Chinese characters on the basis of transliterated alphabetical local place names on British charts. Although a Chinese nautical chart titled Da Qing yi tong hai dao zong tu 大清一統海道總圖 (General map of the Chinese coast and sea-routes) re-engraved from a British chart was consulted, even place names of major ports of Taiwan on it were not always correct, because it transliterated many local place names phonetically into Chinese characters. After a process of trial and error up to 1905, place names in Chinese characters conformed to local use were put on Japanese charts of Taiwan.
著者
平井 松午 鳴海 邦匡 藤田 裕嗣 礒永 和貴 渡邊 秀一 田中 耕市 出田 和久 山村 亜希 小田 匡保 土平 博 天野 太郎 上杉 和央 南出 眞助 川口 洋 堀 健彦 小野寺 淳 塚本 章宏 渡辺 理絵 阿部 俊夫 角屋 由美子 永井 博 渡部 浩二 野積 正吉 額田 雅裕 宮崎 良美 来見田 博基 大矢 幸雄 根津 寿夫 平井 義人 岡村 一幸 富田 紘次 安里 進 崎原 恭子 長谷川 奨悟
出版者
徳島大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2013-10-21

本研究では、城下町絵図や居住者である侍・町人の歴史資料をもとに、近世城下町のGIS図を作成し、城下町の土地利用や居住者の変化を分析した。研究対象としたのは米沢、水戸、新発田、徳島、松江、佐賀など日本の約10ヵ所の城下町である。その結果、侍屋敷や町屋地区の居住者を個別に確定し地図化することで、居住者の異動や土地利用の変化を把握することが可能となった。その点で、GISを用いた本研究は城下町研究に新たな研究手法を提示することができた。
著者
佐藤 廉也 鳴海 邦匡 小林 茂
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100208, 2014 (Released:2014-03-31)

はじめに 演者らは、1945年8月までアジア太平洋地域で日本が作製した地図(広義の外邦図)の調査を継続する過程で(小林編2009など)、アメリカ国立公文書館Ⅱ(NARAⅡ)の収蔵資料の調査を重ね、同館でU-2機撮影の中国大陸偵察空中写真を公開していることを知った。地形図や空中写真の利用が厳しく制限されている中華人民共和国の地理学研究に際しては、すでにCORONA偵察衛星の写真が広く利用されてきた(渡邊・高田・相馬2006、熊原・中田2000など)。これに対しU-2機による空中写真は、高度約2万メートルで撮影されたもので、地上での解像度は2.5フィート(75センチ)といわれ、実体視も可能である。ただし、その撮影はアメリカの軍事的関心に左右され、また衛星写真と違い広範囲をカバーしないことなど、利用に際しては注意が必要である。まだ未調査の点も多いが、本発表ではここ一年間にわかってきたことを報告し、関係者の関心を喚起したい。U-2機による偵察撮影の背景 よく知られているように、U-2機はアメリカ合衆国の秘密の偵察機として開発され、当初はソ連の核兵器やミサイル開発の偵察に利用された。高空を飛行するため、その攻撃は容易でなかったが、1960年5月にソ連軍により撃墜されパイロットが捕虜になって以後、その存在が広く知られるとともに、ソ連上空の偵察飛行は停止された。当時CORONA衛星の開発が進行していたことも、この停止に関与すると考えられる(Day et al.1998)。これ以前より中華民国空軍のパイロットに訓練を施すなど、U-2による偵察の準備が開始されていたが、1962年初頭からその中国大陸上空飛行が本格的に開始された。 中華民国空軍では、すでに通常の飛行機による中国大陸の空中偵察をアメリカとの秘密の協力関係のもとで実施しており(通称「黒コウモリ中隊」による)、U-2機の偵察についてもアメリカの関与を秘匿するため特別の中隊(通称「黒猫中隊」)を創設し、アメリカ国家安全保障会議の専門グループと大統領および中華民国政府の承認のもとで偵察飛行を行った。撮影済みのフィルムはアメリカに運ばれてからポジフィルムが複製され、中華民国に戻されていたが、一時期には横田基地のアジア写真判読センター(ASPIC)で処理されたこともある(Pedlow and Welzenbach 1992: 226,229)。なお最近の台湾では「黒猫中隊」に関する公文書が公開されるようになっている(荒武達朗徳島大准教授による)。U-2機の撮影対象、写真の特色と今後の課題 以上のようなU-2機の偵察飛行については、CIAが刊行したCentral Intelligence Agency and Overhead Reconnaissance: The U-2 and OXCART Programs, 1954-1974 (Pedlow and Welzenbach 1992)が詳しい。2013年6月に新たに公開されたこのテキストにも伏せ字が残るが、核兵器開発や潜水艦の建造、飛行場やミサイル基地の偵察が主目的であった。また中印国境紛争(1962~3年)に際しても偵察を行い、インドのネルー首相に写真を提供している。ただし中華人民共和国の防空能力は徐々に向上し、1968年以降陸上の偵察は行われなくなり、電子偵察に移行する。 U-2機搭載のカメラは首振り型で、垂直写真のほかその両側の斜め写真も撮影し、いずれも各コマは進行方向に向かって長細いかたちとなる(47×22.5cm)。またフィルム・ロールは右と左に分かれている。1フライトで撮影されるコマは8000にのぼり、ロールが50本以上に達することもあり、特定の地域のコマを探し出すのに長時間が必要である。この背景としては、経度1度、緯度1度の表示範囲に分割されているNARAⅡ備え付けの標定図(マイクロフィルム)からフライトやコマの番号を知ることができても、目指す番号のコマを参照するにはフィルム・ロールの缶に記入された番号だけが頼りなので、場合によってはカンザス州の倉庫に保存されている当該フライトのロールを全部取り寄せる必要があるという事情がある。取り寄せに数日かかるだけでなく、1回の閲覧で参照できるのは10ロールにすぎない。また偵察飛行なので、雲のため地上が写っていないこともしばしばである。今後はU-2機による写真の全容を把握するためには全104のフライトの飛行ルートの図示も目指したいが、標定図のないフライトのある可能性もみとめられ、利用の条件整備には関係者の協力が必要である。なお、本発表の準備に際しては、岩田修二首都大学東京名誉教授のご教示を得た。
著者
平井 松午 溝口 常俊 出田 和久 南出 眞助 小野寺 淳 立岡 裕士 礒永 和貴 鳴海 邦匡 田中 耕市 渡辺 誠 水田 義一 野積 正吉 渡辺 理絵 塚本 章宏 安里 進
出版者
徳島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

本研究は、各地に所蔵される近世後期に作成された実測図もしくは実測図系絵図の作成法とその記載内容・精度の比較検討を行い、その上で近世実測図を用いたGIS 解析法の確立を目指したものである。その結果、徳島藩・金沢藩・鳥取藩では藩領全域をカバーする測量図がそれぞれ独自の手法によって作成されていたこと,また近世後期の城下絵図についても測量精度が向上して,これらの測量絵図が GIS 分析に適した古地図であると判断した。