著者
宮川 泰夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.71, no.5, pp.351-361, 1998-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
28

中部圏開発整備の課題について,地域計画の理念と計画地域の領域との両面から考察した.中央日本,中部圏,中京という計画地域の概念は戦時体制下での地域計画成熟していたが,計画地域として明示されるに至ったのはいずれも高度経済成長期の1960年代である.しかしその後は国土庁大都市圏局や東海旅客鉄道のような中央日本を管理領域とする官民の地域計画主体が誕生しても,1960年代のような三者の関連についての議論は深あられていない.中央日本の要となる計画領域としての中京が中部圏において明瞭に位置付けられ,中京の役割を内外のクロスロードとして明示することが,構造的に中部圏開発整備の一つの課題となってきた.地域計画理念の上では,地域からの発想と地域主体による自主的な工業振興計画が継承されてきている.これに加えて,地域が培ってきた地域住民の生活と地域環境の改善とを重視し,地球の環境と人類の厚生に配慮して,地域自らが自律的に内外の地域と連携してそれらを実現する計画の立案が,中部圏開発整備において今求められてきている.
著者
小池 洋一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.33, no.12, pp.615-625, 1960
被引用文献数
4 3

レクリェーションはそれぞれ:地域によつて独自の形態を示すが,とくに都市においてそれがどのような地域的関係を示すか,大阪市を例にとり,主として場所的移動を伴うものにつき,この関係を検討した.<br> その結果は,市内でのレクリェーションは全体の約85%以上を占め,市外へ遠ざかるにつれて減少する.しかも市内では映画観賞など受動的なものが主で,市外におけるものとその形態が異なる.市外でも1時間までのところでは通勤者の休息が主となり, 3時間までは日帰りが多いが, 3時間以上になると日帰りはなく,宿泊による観光旅行となる.<br> このような都市を中心とする地域における都市住民のレクリェーションの頻度と形態の違いは,ひいてレクリェーション景観の違いをもたらしてくる.そこで市内には歓楽商店街などが発達し,1時間以内の地域には住宅群を中心に緑地遊園地が発達し, 3時間以内の地域には,ハイキング・ドライヴなどの能動的なレクリェーションの対象景観が発達する. 3時間以上の地域は広範に亙り,温泉・景勝地・史跡地など特定の観光地が不連続に分散し,それらの場所に市内歓楽街と同様なサービス施設が伴い,いわゆる観光地景観を呈する.このように都市を中心とするレクリェーション地域は都市圏と類似した構造を示す.
著者
大和田 道雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.283-300, 1978

北海道平野部のうち6地域の卓越風向および風速の分布を偏形樹調査によって明らかにした.1973~74年にかけて十勝平野,サロベツ原野およびサロマ湖周辺地域を調査し,先に発表した石狩平野,斜網地域,根釧原野の調査資料も加えて考察した.<br> 十勝平野では,約140地点のカラマツの偏形樹を調査した結果,5つの風系すなわち狩勝峠から吹き出す西よりの風は (1) 石狩山地に沿って南西風として吹き上がるもの, (2) 十勝平野を西風として吹き抜けるもの, (3) 芽室付近から向きを変えて北あるいは北西風として吹いているものと,太平洋からの南東風が, (4) 十勝川の河川低地に沿って吹き上がるもの, (5) 日高山脈に沿って南風として吹き上がるもの,とに区分できた.なお, (1) の風道では風下波動の影響と思われる強風域が10~15kmの間隔で分布する.サロベツ原野では,約70地点について調査した.そこでは日本海からの西よりの風は, (1) 西風として吹いているもの, (2) 局地的な地形の影響によって南西風に変化しているもの, (3) 天塩川に沿う河川低地に沿って北西風に変化するもの,の3つの風系に分類できる.<br> さらに,平均風速と偏形度との関係は,W<sub>sp</sub>(m/s)=1.1+1.19G<sub>spl</sub>で表わされる.ここでW<sub>sp</sub>は,春(3・4・5月)の農業気象観測所の平均風速(m/S)であり, G<sub>sp1</sub>はカラマツの偏形度である.また夏季においては,W<sub>s</sub>(m/s)=0.86+1.07G<sub>sfa</sub>となる。同様にして付字sは夏季(5~9月)を示し,G<sub>sfa</sub>は石狩平野とサロベツ原野におけるヤチダモ・ハンノキの偏形度である。根釧原野における夏の平均風速とカラマツの偏形度:との関係式(大和田,1973)と,前記2式から,6地域における平均風速の分布図を作成した.平均風速4.0~5.0m/sの強風域は, (1) 石狩平野においては石狩川河口, (2) 斜網地域においては南側山地およびオホーツク海岸沿いの地域, (3) サロマ湖湖岸の周辺, (4) 根釧原野においては尻羽岬・浜中湾および昆布森の周辺, (5) 十勝平野においては新得町の周辺および瓜幕付近,および (6) サロベツ原野においては日本海に沿って約5~10kmの海岸地域,にみられる.一方,弱風域は,根釧原野の中央部,十勝平野における日高山脈に沿う風陰地域および石狩平野における札幌市の周辺地域に見出された.
著者
ミデール ライムンドS.
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.59, no.6, pp.362-369, 1986

第2次大戦後のポーランド経済,とくに工業の急激な発展によって,急速な都市化過程が生じた.1950~80年の間に,都市人口割合は総人口の38.4%から58.7%へ増大した.この時期に,ポーランドの市・町の人口は1,140万人(54.3%)増加した.そのうち,ちょうど42.4%は自然増加, 33.9%は農村地域からの流入, 23.7%は行政区域の変更によるものである.<br> 1980年末には,ポーランドには804の都市と都市的集落とがあった.ポーランドの町のうちでは,小さい集落(人口1万人以下)が圧倒的に多い.それらの小集落は,都市的集落総数のうち55.9%を占め,同時に全都市人口の約10%を占めている.同年,人口5万人以上の町は75(都市的集落総数の9.3%)を数え,全都市人口の62%以上を占めている.<br> 空間的視点から見て,最も都市化しているのはポーランド西部および南央部であり,全国の都市化指数を超えている.国土には16の都市アグロメレーションがつくり出され,その中で9つが充分に発達したもの(上シロンスク,ワルシャワ,ウッジ,クラクフ,プロツラフ,ポズナニ,シュチェチン,グタニスク・グジニア,ビドゴシュチ・トルニ)であり, 7つがある程度発達した都市アグロメレーションである(スデーティ,スタロ・ポルスカ,ビエルスコ,オポーレ,チェンストホバ,ルブリン,ビアウイストック).顕著な16の都市アグロメレーションは,全国人口の20%以上,都市人口の60%以上,全産業人口の約65%以上を占めている.別に, 4つの都市アグロメレーションの発生が目立つ.すなわち,タルノブジェック—スタロバ・ボラ—サンドミエシ,周カルパチア,下シロンスク,カリシュ・オストルフである. 20世紀末には,ポーランドの総人口は, 3,900~4,000万人の水準に達し,そのうち65~75%は都市人口と推定される.現在目立つ16の都市アグロメレーションは,多中心地結合集落システムの内部で主要な経済的中心地の機能を果たし,ポーランドの都市人口の約80%が集まっているであろう.

2 0 0 0 OA 地割の進展

著者
井上 修次
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.33, no.2, pp.51-79, 1960-02-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
3
被引用文献数
1

1. 地割の進展を,それと不可分な居住-直接には居宅配置,間接には全生活との連関において眺めた.この揚合まず何よりも,地割・居住両者の進展それ自身の客観的描写,展開を,応分の意義あるものとした. 2. そのため,図面を多用し,資料はなるべくそのなかに織込み,図主文従の形をとり,解説の紙面は最小限にした(地理学における地図の価値・活用は,もつと強調されてよいと思う). 3. 説明に当つては,次の点を考慮した.地割も居宅配置も,あくまで時の函数として進展する.その時は,たとえば両者に,いかなる年齢的行動をとらせているのか?それは,具体的にいつて,どのようなものが,どんな速さで,どのように変つてゆくのか?場所や,時代や,その他多勢は,その際,どんな役割を演ずるのか? 4. 実例としては,次の7つをとつた(括弧内は観察期間). a. 南米PampaのPirovano農場 (1875-1930). b. 北満克山県第172号井 (1913-1935). c. 北海道芽室原野の上伏古 (1910-1955). d. 武蔵野の上富村 (1696-1954). e. その2隣村北永井と藤久保(特定期聞なし). f. 北海道旧美唄兵村 (1892-1954). g. 夜見浜の旧富益村(特定期間なし). 5. これらのうちでは,上富がその資料と価値とから,主動となつているが,他のものもこれを助けて,問題点の客観化による理解に役立てられている.
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.27, no.11, pp.490-496_1, 1954

1) プロローグで筆者の言わんとする所は,学問の世界での偶像(イドラ)の破壊であり,既成概念を疑つてかかれというごとである.この立場から,主題の2つの学問の正しい結びつきが,何故かくも妨げられているのかという形で,問題が整理されるごとになる.人文地理に縁が深いはずでありながら,案外,地理学徒から顧みられずにいる.「生態学」に注意を喚起しつゝ「植物生態学の成長に役立つたのは,ブローラを群落によつて捉え,それを遷移の諸相に即して考察するという研究態度」であつたことを指摘し,これを社会科学の用語にいいかえてみれば,「人交地理は,地域的社会集団をその発展の諸相,発達の諸段階に即して考察するということに外ならない」とし,転じて「人類の地域社会と自然との関係を検討しようとする場合にかぎつて,非歴史的・非社会的な立場に義理立しなければならぬといういわれはない」と切言する.<br> 2)「近代地理学のたどつてきた道」については,「地理と歴史との歩み寄りの前提」・「宿命論」・「地理的決定論」・「ドイツ浪漫主義」・「ダーウィニズム」・「歴史の行末不明」などに分けて,それぞれ克明な史的実証に基いて論究しているだけに,人文地理学の現実を明かにするには屈竟の所論であり,従って従来学史的研究の乏しい日本地理学界に対しては,空谷の跫音ともいうべきもので,これを筆者の名著『人交地理学説史』と併せ読むことによつて,一層啓発に資する所が多い.<br> 3)「フランス学派の人文地理学」は,筆者が巳に多くの飜訳書『人文地理学原理』・『大地と人類の進化』などによつて紹介されておるせいか, (2)や(4)に比べると,頁数は10頁にまとめてあるに過ぎないが,在欧留学前後から今日に至るまでの長い研究生活の成果が滲み出ている.ブラーシュの高弟たちの分厚な『地域的特殊研究』の諸篇に関連して,「この世代の人たちは,ピカルディーとかノルマンディー,ブルターニュといつだような,習慣的に1つの地域として扱われているどころを各自の研究のフィールドとして,いちおうその地域の生活を規定し,地域の特色を作りあげていると思われる,あらゆる要因を洗つてみるという仕事からはじめた1つの地誌を仕上げるのに, 1人前の学者がかゝり切りで,それぞれ7, 8年を要しているのは,そのためである.この学派の人々の勉域を分担するチーム・ワークの見事さは,後に体系的な『世界地理』15巻・23冊の完成にもあますところなく発揮された」と述べている.<br> 4)「世界史と地理」には,「郷土の知識」・「郷土への全面的な依存関係からの解放」・「地域間の大商業」・「郷土地理から世界地理へ—そして世界地理も,世界史も,まず近代西洋の立場から書かれたということ」・「世界史における中世ヨーロッパの取扱いと地中海地域」を論じ,最後に「東洋における西洋,西洋における東洋」を加えての30頁に亙る長篇である.<br> 5) エピローグは,空前絶後の海上制覇—航空網の支配」と副題してある. 19世紀から20世紀も,第1次大戦め世界秩序は英国が中心で,それは産業革命の先駆者としての同国の工業力に淵源している.「世界の海上交通の要所要所は,殆んど独占的に自己の掌中におさえ,こうして用意された交通地理上の優越性を存分に自国の政治経済上の要求のために活かすという有利な条件は,およそ世界交通の大動脈といえば,海上交通を連想してまちがいのなかつた最後まで英帝国のものであつた」しかしながら第2次大戦を境として,急速に実現された長距離航空の時代は,いぜん,海上交通の要所・要所を英国の手にのこしたまゝ,このかたちで交通地理的優越性を全く過去のものとしてはいないまでも,すでに2次的なものとして歴史の中に置去りにしつゝあることをいなめないともいい,次いで,アメリカの世界的規模をもつ航空網の支配に注意を喚起しつゝ,世界史の舞台が新しい観点から吟味し直されねばならぬ所以を論じている.
著者
長尾 隆
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.33, no.4, pp.219-231, 1960-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
17

年平均の太陽黒点数が変化したとき,シンギユラリティおよびその前後の天気の性質がどうかわるかを, 12月30日, 2月5日, 4月6日のシンギユラリティを例にとつて調べた.調査はLettauの“Specific singularity”の方法に従つて,各暦日の資料を太陽黒点数が60より大きい場合,60と15の間にある場合, 15より小さい場合の3つに層別化した.得られた結果の主なことは次のとおりである. (I) シンギユラリティ当日の天気は太陽黒点数が増加すると,日本内地の雨は全般的に増加するが,減少するときには,日本の南岸を除いて全体として著るしく雨が少い. (II) シンギユラリティの前後の日には太陽黒点数が60より多いときは,九州南部から四国にかけて著るしく雨の少い地域が見られるが,少い日にはむしろ反対の傾向が見られる. これらの結果をもたらす機構は,太陽黒点数の変化により日本付近を通過する高低気圧の数が増減するために起るものであり,このことは各暦日における気温の度数分布の変化からも間接に証明される.
著者
藤目 節夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.235-254, 1997-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
22
被引用文献数
1

ある特定地域の生活の質 (quality of life, QOL) を評価する場合には,当該地域のみならず隣接する地域のQOLを構成する指標をも考慮する必要があるとの基本的認識から,近接性を考慮したQOLを評価する方法を提案し,これを愛媛県70市町村に適用し,近接性を考慮した場合と考慮しない場合のQOLを求めた.その結果,近接性を考慮した場合のQOLのパターンは,考慮しない場合のそれとはかなり異なること,とくに松山市などの中心都市の周辺地域でのQOLの評価の向上が顕著であること,などが明らかとなった.周辺地域住民が短時間で容易に中心都市を訪問できることを考えると,この結果は,近接性を考慮しない場合に比較し,各地域のQOLをより的確に評価していると考えられ, QOLを評価する対象地域が相互に隣接している場合には,近接性を考慮する必要性があることが示唆された.
著者
山極 二郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.50-61, 1925-03-01 (Released:2008-12-24)
被引用文献数
1
著者
山極 二郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.1, no.2, pp.155-165, 1925-04-01 (Released:2008-12-24)
被引用文献数
1
著者
町田 洋
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.35, no.4, pp.157-174, 1962-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
14
被引用文献数
2 3 15

富山県の常願寺川流域を対象として,過去およそ100年間の侵蝕,堆積とそれによる地形変化の過程を追究した. 1) 常願寺川上流部にある河岸段丘(第2図)は,主として土石流砂礫層から作られており,土石流で埋積された谷がふたたび刻まれて生じたものである.この土石流砂礫層は, 1858年の「大鳶崩れ」といわれる変災時の絵図記録を検討してみると,このときに発生した大土石流の堆積物である. 2) 1858年の土石流は,地震のために源流部の立山カルデラの一部(鳶崩れと本文で呼んだ部分)が大規模に崩れて生じたもので,下流部の扇状地,三角州まで流下形態をほとんど変えずに流下した・しかし土石流の主要な部分は上流部(海抜550m以上の部分)にとどまり,谷を深く埋めた.このため埋積谷の縦断形の傾斜は増した. 3) 1858年の変災以後,崩壊地から供給される岩屑が少なくなるにつれて,埋積谷の侵蝕は,上流部,とくに,谷の合流により流量がかなり増し,しかも河床傾斜の大きい部分から始まつた.崩壊地から4km以下の高位段丘で,土石流砂礫層の上にのり,やや円磨され,成層した砂礫層はこの開析初期の土石流砂礫層の2次的堆積物である.この上流の部分から始まつた下方侵蝕はさらに上流へ谷頭を後退させたばかりでなく,下流へも進行した.回春谷の上流部の河床は土石流の堆積直後から急速に低下し,下流部の河床は一時2次的堆積物によつて上昇した後に,相対的にはゆつくりと低下した. 4) 1858年に発生した土石堆積物の量はおよそ4.1×108m3,それ以後100年間の侵蝕物の量はおよそ2.1×108m3,このうち約10%が扇状地に堆積し,天井川を作つた. 5) 常願寺川における過去100年間の,山地の大崩壊を契機とする谷の侵蝕は,谷底部の著しい地形変化をひき起して,急速に進んだ.そしてこのことがこの川の砂防を難しくした.
著者
久野 久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.12, no.1, pp.18-32, 1936-01-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
3

洪積期の初期多賀火山・湯河原火山の斜面が形成され,地殻運動によつて此斜面上に隆起部(玄岳一池〓山峠附近)と沈降部(田代・丹那盆地)とを生じ,斜面上には谷系も出現した後,丹那斷〓の著しい活動が起つた。そして斷〓を境にして其の西側の地塊が東側地塊に對し南方に役1粁水平移動をなし,且つ池ノ山峠附近では東側地塊に對しさらに役100米〓の隆起運動を行つた。丹那斷〓は丹那盆地の盆地地形成因の重要な要素ではない。同盆地は多賀火山斜面が楕圓形に沈降して生じた構造盆地である。丹那斷〓は此盆地の中央を横ぎつて生じ,盆地の外形を稍複雑なものにしたに過ぎない。
著者
鈴木 毅彦
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
地理学評論. Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.73, no.1, pp.1-25, 2000
参考文献数
81
被引用文献数
15 11

飛騨山脈南西部の貝塩給源火道から噴出した貝塩上宝テフラ (KMT) は,大規模火砕流堆積物と中部~東北南部を覆った降下テフラからなる大規模テフラである.本稿ではその特性・分布・年代を示し,噴出前後に形成された地形面の編年・古地理について論じた.KMTの認定においては,黒雲母・石英・高ウラン濃度ジルコンの存在,火山ガラス・チタン磁鉄鉱の化学組成を指標とした.従来の放射年代値と房総半島上総層群中での層位から,KMTは海洋酸素同位体ステージ (MIS) 17.3~15.2に降下し,その年代は0.58~0.69Maの間と判断された. KMTは関東の狭山面・阿須山面・喜連川丘陵上位面,松本盆地の梨ノ木礫層堆積面形成後まもなく降下した.これら地形面はMIS17~16に形成されたと推定され,当時は扇状地面を広く発達させる地形形成環境があったとみられる.また, KMT噴出時,飛騨山脈中軸部がすでにかなりの高度を有していた可能性を指摘し,阿武隈山地に発達する小起伏面群の形成年代の上限を示した.
著者
松原 宏
出版者
日本地理学会 古今書院(発売)
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.p165-183, 1982-03
著者
太田 陽子 平川 一臣
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.52, no.4, pp.169-189, 1979-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
32
被引用文献数
17 8

能登半島の海成段丘を調査して,第四紀中・後期における古地理の推移と地殻変動を考察した.能登半島の海成段丘は,高位からT, H, M, Lの4群に大別され,さらにTは7段,Hは4段,Mは3段に細分される.M1面は最も連続的に分布し,貝化石と海進を示す厚い堆積物とを伴う広い面で,最終間氷期の海進(下末吉海進)に形成されたと考えられる.M1面より高位に約10段もの海成段丘があるので,その分布から,能登半島の大部分が更新世中期以降の離水によって生じたものであるとみられる.M1面の旧汀線高度ば北端の110mから南部の20mまで,全体として南下り,富山湾側への緩い低下を伴う傾動が推定される.しかし,半島全体が一つの傾動地塊をなすのではなく,1辺10~20km,それぞれが南下りの傾動を示す数個の小地塊の集合からなっている.M1面とそれより古期の段丘の傾動の量はほぼ等しいので,各地塊の傾動はM1面形成後に活発になったと考えられる.北端部での平均隆起速度は1m/1,000年となる.
著者
望月 勝海
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.8, no.3, pp.171-195, 1932-03-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
15

The so-called Honshu arc, the main part of Japan, was formed as the result of a ‘peri-Japan-Sea’ tectonic movement. The arc is divided geologically into two parts north-eastern and south-western Japan, by a line drawn from Itoigawa to Shizuoka. The Noto Peninsula and Sado Island, which are similar in form and on the concave side of the arc, were both elevated by this movement. At the eastern end of South-Eastern Japan, we observe several mountain ranges arranged en échelon. The uplift of the Kaga-Mino range extends northwards and joining that of the peri-Japan-Sea movement, formed the great Noto Peninsula. At Sado Island, however, the two blocks that compose the island were elevated parallel with the tectonic features of the main part of the Honshû arc. Therefore Sado has remained an island. In consequence of periodical uplifts of land, a step-like topography is developed extensively in the two districts. These steps are wider on the peninsula than on the island, but are at higher levels on the island than on the peninsula.