著者
David J. Minton
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.49-93,

The first of these three articles was concerned with the context of Shakespeare's songs, in the plays and the mythological framework within which he was writing. The second is concerned with performance, and how the songs compare with those written for the court and aristocratic patrons by his contemporary, John Dowland, considered to be among the finest English song-writers, alongside Henry Purcell.The article presents an analysis of seven of Dowland's lute songs, the poetic structure but also their musical brilliance and techniques; how an understanding of these is vital to their performance, along with the context in which they were to be sung. Shakespeare became rich by knowing exactly what would sell, and changed according to the climate change after 1601. We have to see all art as conditioned by the climate and context for which it was produced. It is one of the greatest absurdities that all art is treated as serious, even lugubrious, when much of it was produced to lighten the soul in a spirit of fun and frequently sexual delight.Dowland was among the first composers in England to write music which exploited the system of harmonic progressions within major and minor diatonic scales recently devised in Italy, where he spent several years in the early 1590s. His First Book of Ayres composed in this new idiom was published in 1596, the date Romeo and Juliet was staged in London. The sexual freedom of the play is clearly one with the atmosphere relating to sexual dalliance and behaviour among the aristocracy of the 1590s, within which John Donne wrote his Songs and Sonnets and Elegies and Dowland his lute songs.The article describes the nature of the change from modal polyphonic writing, mainly for religious use, and the new harmonic and melodic forms called diatonic music that released the enormously inventive compositions of the next three centuries in Western Europe. Which was for use in secular contexts, principally in the theatre and courtly entertainments. Dowland was early in writing music for the last. In 1598 he became lutenist in the court of Christian IV of Denmark, a possible link to the setting for Hamlet. He returned to London and published in 1605 his Lachrimae, Greek for Tears, which contains the most moving instrumental music for a consort of viols, the string quartet of the time. This music exploited the sorrowful quality of the minor scales for the first time so that it earned the epithet Doleful Dowland. Performance of all his music has tended to relate to this epithet.The change in tastes on the accession of James I, a dour Scot from Calvinist Scotland with an obsession for the evils of witchcraft, had a very obvious effect on plays Shakespeare wrote, the poetry of such as John Donne and music such as that of Dowland. Donne wrote his hatred of Calvin and Luther. The 17th century saw the triumph, then humiliation of Puritans.Performance of Elizabethan music is typically sombre and serious; the escapism and great jollity which it provided for the circles in which it was played is lost. While the article demonstrates the poetical and musical jokes written into Dowland's songs. Shakespeare plays are attended by those who go expecting high language and literature, when plays of the 1590s to the death of Elizabeth I in 1601 were written to entertain an illiterate London populace and a decadent court, who wanted to laugh or be startled by excitements and horror like audiences everywhere. The last Twelfth Night written to lighten the atmosphere of religious conflict and doom as the old queen was dying, mocks posturings of love and is a heavy jibe at the Puritans in the gulling of Malvolio; which reflects the conflict between the Puritan City of London and the aristocratic court of Elizabeth. Romeo and Juliet of the mid-1590s is full of sexual jokes.Dowland's songs cover a very wide emotional range, many of them are courtly dances and others are just plain fun. There are, of course, those which express sorrow and the pain of love in various stages of the lover's progress. The article provides a brief look at this range.
著者
多ケ谷 有子 タガヤ ユウコ Yuko Tagaya
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.7-32,

バラッド`Sir Patrick Spens'は、王の命令で大時化(しけ)の時期に出航し、難破した事件をうたった作品である。この中で、「古い月を抱いた新しい月」を見たから海は荒れると、このような月の出方が凶兆であるとして言及される。「古い月を抱いた新しい月」とは、科学的には「地球照」と呼ばれる現象で、本来、海の時化とは無関係である。ただ、「地球照」の現象の理由がわからず、その現れる時期と海が大時化になるときとが重なっていたために、`Sir Patrick Spens'では凶兆とされたのである。日本でも、出るはずのない時期に出る「満月」が観測されて、不吉な徴(しるし)としてとらえられていた。これは「地球照」が極端に現れた場合と考えられる。しかし、宮沢賢治は、同じ「地球照」に良いもの、尊いものを見て、それを作品にあらわしている。本稿では、バラッドと宮沢賢治の作品の比較を通して、「地球照」の現象の果たしている意味について考察したい。
著者
多ヶ谷 有子
出版者
関東学院大学文学部人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.128, pp.21-41, 2013

中世後期のヨーロッパに見られる宗教抒情詩には、天国への希求とともに地獄への恐怖が鮮やかに描かれている。地獄の恐怖はまた、天国の対比として、絵画や造形美術に表された。これらの絵画や造形美術は、文字を理解しない多くの庶民に、死後の審判、そして天国と地獄を強烈に印象付けた。一方、日本では、仏教の普及とともに、地獄の思想が受け入れられていった。仏教の地獄は六道の一つであり、輪廻転生の世界である。仏教では元来、輪廻転生を断ち切ることを理想としている。平安時代以降、浄土思想とともに、地獄・極楽の思想が人々の間に広まった。化野、紫野、鳥辺野、蓮台野など風葬地は、現世無常を教えるとともに、極楽を望み、地獄の恐怖をかきたて、仏教布教に影響を与えた。キリスト教世界の地獄と日本における仏教の地獄を対照させると、興味深い相違が見えてくる。キリスト教の地獄は永遠の罰であるが、日本の地獄は六道の一つであり、気の遠くなるような長い時間を経るとしても、永遠ではない。日本の地獄絵には、地獄の中に仏がいる。こどもを救う地蔵、女性を救う観音。仏教の地獄は期限があり、かつ、地獄からも救われる。その意味で、日本の地獄にはキリスト教の煉獄に当たる要因がある。キリスト教の地獄と煉獄、日本の仏教の地獄を比較検討したときに、そこには救済を希求する普遍的な人間性の一側面を見ることができる。本稿では、文学、絵画などを通して、キリスト教と日本仏教の天国(極楽)の対比にある地獄(煉獄)観についての一考察を行いたい。
著者
深沢 広助
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.1-13,

『南海物語』は8つの作品から成る短編集である。ハリケーンや鮫など南海特有の自然の猛威が、人間や建物に与える甚大な被害を活描している。また、白人の優越性、権力、大胆不敵さなどを強調している。しかし、この短編集に登場する白人は、自分の使命に忠実で真摯な宣教師もいるが、アル中のスコットランド人、相手構わず暴力を振うドイツ人、射撃以外は能なしのヤンキー、といった甚だ偏った人物である。一方、南海の島民の場合は、沈着冷静、素朴さ誠実さなどを備えた人物を登場させ、白人の危急を救ったり誠心誠意白人に尽くしたりしている。ロンドンは『南海物語』を通して、白人がその優越性や権力をやみくもに振り回すのはマイナスであり、愚かな行為である、南海の島民が持つ沈着冷静、素朴さといった人間的徳性を兼ね備えるべきだと示唆している。
著者
鈴木 正夫
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.116, pp.61-93, 2009

太平洋戦争勃発によって、上海は全面的に日本軍の支配下に入った。柯霊はあえてここに止まり、演劇活動や雑誌の編集活動に携わりながら、抗日的姿勢を崩さなかった。そのために抗日戦勝利までに2度、日本の憲兵隊に逮捕された。2度目は死線をさまようほどの苛酷な拷問を受けた。戦後間もなく、彼はその憲兵の蛮行を8首の打油詩にしたため、「獄中詩記」として発表し暴露した。李健吾も同じ憲兵隊に逮捕され、これまた残酷な拷問を加えられた。李健吾は戦後、3篇の文を書いて、これを訴えている。戦時中、人気作家になった張愛玲は、柯霊がその育成に与ったところがある。柯霊の最初の逮捕時、拷問に会わなかったのは、張愛玲の夫で漢奸の名高い胡蘭成の働きかけがあったことを柯霊が知って、複雑な感情を抱くとともに、張愛玲に感謝するのは、戦後長くたってからである。抗日戦勝利前後の柯霊を中心に、これらの状況を考察した。
著者
島村 宣男
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.113, pp.21-51, 2008

アメリカ映画のジャンルの一つに「西部劇」(westerns)がある。アメリカは19世紀末の西部辺境(frontiers)を舞台に展開する人間ドラマは、さしずめこの国の時代劇は江戸期の「股旅もの」に匹敵するだろう。東に一宿一飯の旅鴉がいれば、西には流れ者のガンマン(gunslingers)がいて、編み笠にはカーボーイ・ハット、腰に差した長刀差には腰に吊るした拳銃、寒風吹きすさぶ河原での出入りには砂塵舞う大平原でのガンファイトといった好対照、物語りのプロットは共通して「勧善懲悪」、端から一般大衆の嗜好に見事に適っている。この国の時代劇についても然り、半世紀前にはかの国の西部劇にも John Wayne, Gary Cooper, Burt Lancaster, Kirk Douglas といった大スターがスクリーン狭しと暴れまくり、映画ファンの血をたぎらせたものである。ところがどうだろう、昨今ではその隆盛の面影すらない。本稿は、2007年度に全米で公開されて高い評価を得た西部劇(日本未公開)で、James Mangold 監督作品の 3: 10 to Yuma のなかで描かれた主要なキャラクターの人間性の在り処を検証する試論である。この作品で興味深いのは、主人公の一人を聖書の読者に仕立て、旧約は「箴言」(Proverbs)の聖句を再三引かせていることである。西部劇における聖書の引用は特に珍しいわけではなく、これまでにも、Pale Rider(1985年度作品、監督・主演 Clint Eastwood)や Tombstone(1998年度作品、監督 George P. Cosmatos、主演 Kurt Russell, Val Kilmer)では、ともに新約は「ヨハネの黙示録」(The Revelation)を典拠とする引喩・引用がある。もとより本稿は、映画評論の域を超えるものとして、ことばを中核に据えて見えてくるはずの、アメリカ文化論の構築を企図する筆者の一連の作業に属する。
著者
多ヶ谷 有子
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.131, pp.75-102, 2014

江戸期およびそれ以前の日本の文学作品において、いかなる時刻がどのように表記されて来たかを検討する。『延喜式』、宇多・醍醐両天皇の日記、『拾芥抄』から、宮中では定時法の時刻が用いられていた。一方、『今昔物語集』『蜻蛉日記』から、不定時法の時刻が寺院および一般に用いられていた。江戸時代には定時法から不定時法採用になったと言われるが、定時・不定時の両法は、いずれも古代から継続して併用されていた。不定時法で解すべき古典の時刻を、定時法で解しているとの批判もなされている。近松『曽根崎心中』や西鶴『好色五人女』の「七つ」を例に考察する。近松『賢女手習』にある表現「400年に3日」は、グレゴリウス改暦時の文書に影響を受けた可能性がある。一般に時間帯を示す用法が多く、後記軍記の『豊鑑』までは、そうである。江戸期には、時間帯より特定時点を示す用法が多くなった(『膝栗毛』など)。時間帯と理解すべきであるとの主張もなされていた(滝沢馬琴『燕石雑志』)。
著者
谷本 誠剛
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.195-210,

第二次大戦後のイギリス児童文学は「現代児童文学」の始まりの時期とされる。この時期のファンタジーに特徴的なのは、現実主義的なリアリズムの要素の強さである。そのことはこの時代をリードしたルーシー・ボストンの『まぼろしの子どもたち』に典型的に示される。タイムファンタジーとしての作品は、過去の人物が現世において感知される不思議を描いているが、同時にそれが主人公たちの心中のヴィジョンにすぎないのではないかということを終始問題にしている。さらに作品の文体も、児童文学的な語り口を持ちながらも、小説的リアリズムになっているといえる。そもそもタイムファンタジーと云うジャンル自身、歴史というリアリズムと、異なる時代が交流するというファンタジーの手法が重なり合ったものである。リアリズムの要素のきわめて強いこの期の作品が大人読者を獲得したのも当然であり、その作風は魔法の不思議などを当然の前提とする物語的なそれまでの児童文学とはっきり異なるものであった。現代のファンタジー文学のありようを認識するためにも、現代児童文学の出発の時期を振り返っておきたいと思う。
著者
湯浅 陽一
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.124, pp.1-36, 2012-03

2011年3月11日に発生した東日本大震災と福島第一原発事故は、システム災害である。この2つの出来事を併記しなければならない現実は、私たちが形作ってきた社会システムの産物である。社会システムは複数のサブシステムによって構成されるが、本稿では、電力システムと地域社会システムを取り上げ、両者の性質と相互関係について検討する。電力システムについては現状の原子力システムと、代替案として提示されている再生可能エネルギーシステムを対置し、互いの相違点をみる。そして原子力システムと地域社会システムの相互関係について、立地手順や立地自治体の財政に与える影響から分析する。日本での原子力発電所の立地には、土地収用を用いず、主として広告や教育、交付金などの手法によって進められてきたという特徴がある。とくに電源三法交付金などの原発マネーは、立地自治体に対して一時的に、極度の豊かさをもたらす。しかしそれは持続可能なものではなく、地域社会の自律性を低下させていく効果をもつ。原子力システムと地域社会システムの関係は支配的システムと従属的システムとして成り立っており、このような構造のもとでは、立地の民主性と地域社会の自律性は相反関係を示す。原子力システムから再エネシステムへの移行は、単に技術的に発電施設を置き換えるということだけでなく、電力システムの基本的性質を変え、地域社会システムとの関係性も変化させながら、立地の民主性と地域社会の自律性を相乗関係へと切り替えていくことでもある。
著者
山本 宏義
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.122, pp.161-171, 2011

公の施設の管理に関して指定管理者制度が始まって8年になるが、この間、指定管理者が管理する図書館において、どのような運営上の課題があるかを明らかにしたい。制度設計に起因するものについてはあちこちで語られてきたが、運営上の問題についてはあまり論議されていない。そこで、人権上問題があるとされた「老いの超え方」という図書の取扱いについてアンケートを行い、それによって運営上の課題を探ろうとしたものである。しかしながら、震災のこともあり、本格的な調査を行うことができなかったので、これを予備調査として、本格的な調査は後日に譲る。指定管理者側の問題もさることながら、指定管理者から報告を受けた設置者側がそれを良しとするかしないか、良しとしなかったときはどのような対応になるか、といったところに問題が潜んでいそうである。いずれにしても本格調査によって明らかにしたい。
著者
山本 宏義
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.122, pp.161-171, 2011

公の施設の管理に関して指定管理者制度が始まって8年になるが、この間、指定管理者が管理する図書館において、どのような運営上の課題があるかを明らかにしたい。制度設計に起因するものについてはあちこちで語られてきたが、運営上の問題についてはあまり論議されていない。そこで、人権上問題があるとされた「老いの超え方」という図書の取扱いについてアンケートを行い、それによって運営上の課題を探ろうとしたものである。しかしながら、震災のこともあり、本格的な調査を行うことができなかったので、これを予備調査として、本格的な調査は後日に譲る。指定管理者側の問題もさることながら、指定管理者から報告を受けた設置者側がそれを良しとするかしないか、良しとしなかったときはどのような対応になるか、といったところに問題が潜んでいそうである。いずれにしても本格調査によって明らかにしたい。
著者
郷原 佳以
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.131, pp.121-141, 2014

モーリス・ブランショ(1907-2003)はフロイトの精神分析とどのような関わりをもったのだろうか。まず気づかれるのは、ブランショが同時代の作家や批評家たちと異なり、精神分析を文学に導入することに対してきわめて慎重であり、文学作品の精神分析的解釈を繰り返し批判したことである。文学言語は作者の精神分析には還元しえない「終わりなきもの」への接近であるというのがブランショの見解であった。他方でブランショは、精神分析理論における「反復強迫」や「死の欲動」に関しては、同じ理由から、文学の経験との親近性を見出していた。注目すべきは、ブランショが1956年の論考「フロイト」において、多くの留保は示しながらも、精神分析における「対話」に「終わりなきもの」との関わりを認めたことである。ブランショにとって、精神分析は治癒のための制度である限りでは文学とは相容れないが、その「対話」においては文学の経験と接近するのである。
著者
井上 和人
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.131, pp.305-322, 2014-12

西沢一風作『風流今平家』(元禄十六年三月刊)の副題簽をとりあげ、その記載内容を検討、自作における方法を一風自らがどのように解き明かしているのか考察する。主な考察の対象は、副題簽中で使われている表現技法に関わる語彙である。作品本文や他の一風浮世草子にも対象範囲を広げ、導き出した要点を整理すれば、以下のとおりである。(一)一風の語法に従えば、「やつす/やつし」とは「面影をうつす/うつる」ことに等しい。(二)「うつす/うつる」のみで「面影をうつす」の意味で用いている例もあり、それらも「やつす/やつし」と同意である。(三)「面影をうつす/うつる」とは、「どことなく似ている」程度ではなく、「酷似する」こと。一風の語彙では「生きうつし」である。(四)右記三項から、一風の語彙においては、「やつし」は原拠に似ることを必要条件とする。
著者
澁谷 昌史
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.123, pp.159-171, 2011

子ども虐待への対応は、起きている現象をどのように認識するかということと不可分である。本研究は、子ども虐待認識にかかる主たるイシューを歴史的にたどり、明確にし、以って認識のウロボロスを切断していく実践的な試みである。研究の結果、今では虐待とされる現象を社会的な介入の対象とみなすかどうかをめぐって、以下の3つのイシューの存在が確認された。1子ども虐待の性格付けに関する学際的協力関係に関する混乱、2科学的虐待概念と社会常識との対立、3子どもの「安全」と「福祉」の対立。本稿の最後では、これら研究成果を踏まえた上で、我が国の子ども虐待防止へ示唆されるものについて議論を行った。
著者
島村 宣男
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.114, pp.17-76, 2008

2008年夏、米国の映画界はファン期待の新作The Dark Knightの話題で沸騰した。この作品はグラフィック・ノベル(劇画)を原作とする新バットマン・シリーズの第一作Batman Begins(2005)の続編、監督はイギリスの俊英C. Nolan、キャストはタイトルロールのC. Bale以下、M. Caine、G. Oldman、M. Freemanといった錚々たる名優たちの続投に加え、H. Ledger、A. Eckhart、M. Gyllenhaalなど、個性豊かな演技派が競演する超大作である。多くの批評家がジャンルの枠を超えた「傑作」と絶賛するなか、The Dark Knightは7月中旬に全米公開されるや圧倒的な支持が拡がり、「全米歴代新記録 7冠」という快挙を達成した。すなわち、(1)公開劇場館数(4,366館)、(2)ミッドナイトプレヴュー興収(1,850万ドル)、(3)公開初日興収(6,716万ドル)、(4)公開週末3日間興収(1億5,841万ドル)、(5)興収2億ドル突破最短記録(5日間)、(6)興収3億ドル突破最短記録(10日間)、(7)興収4億ドル突破最短記録(18日間)がそれである。8月末現在、国内総収益(all time grosses)は5億ドルを突破して史上第二位、Titanic(1997)の最高記録6億ドルを追っている。The Dark Knightが「傑作」と評される所以は何か?完成度の高いスクリプトを通して、この叙事詩的な風格さえ漂わす「ブロックバスター」の倫理的なメッセージを読み解きながら、アメリカ的精神の在り処を探る本稿は、先考「"a guy who dresses up like a bat clearly has issues<--映画Batman Beginsの記号論」(2006)の続編でもある。
著者
井上 和人
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.129, pp.177-194, 2014-01

『風流今平家』(元禄十六年三月刊)は、西沢一風の浮世草子で唯一副題簽をもつ。副題簽は当該巻の大意を内容とし、書式は「此巻は……のせたり(しるせり・うつせり)」で統一されている。この『風流今平家』の副題簽は、どこから着想を得たものであろうか。一風以前の浮世草子で副題簽をもつ作品といえば、西鶴『好色一代女』(貞享三年六月刊)が周知のところ。だが、『風流今平家』の副題簽と『好色一代女』のそれとは、明らかに書式が異なり、『好色一代女』にならったものとはいいがたい。本論文では、『風流今平家』の副題簽は、枕本型軍記の目録形式、とりわけ目録に備わる大意を模していると考えた。そこで、まず枕本型軍記の流行と特色について整理し、ついで浮世草子に及ぼした影響について述べる。