著者
宮本 幸子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.71-82, 2023-03-30 (Released:2023-04-26)
参考文献数
29

子どもが団体・クラブ等に所属して行うスポーツ(以下「スポーツ活動」と表記)においては、保護者に様々な関与・支援が求められる。特に母親は、競技そのものに直接関わらない、子どもたちの世話などの「周辺的役割」を共同で担うことが多い。このような状況に対しては、先行研究においてジェンダーの観点等から問題も指摘されている。それにもかかわらず、子どものスポーツ活動においては、なぜ母親が主に「周辺的役割」を担う構造が維持され続けるのだろうか。本研究は 小学生の母親に対して実施したフォーカス・グループ・ディスカッション(FGD)のデータ分析を通し、社会関係資本の概念を援用してそのメカニズムを明らかにすることを目的としている。 FGDは、1)子どもが地域クラブでスポーツ活動をし、母親の関与の度合いも高いグループ 2)子どもが現在、スポーツ活動をしていないグループ の2グループ(計10名)に対して実施した。 母親たちは、保護者ネットワークで得られる「利益」よりも「投資」の負担を強く認識している。そのため、子どものスポーツ活動における「周辺的役割」に対して自らが労力や時間をどの程度「投資」できるか、判断を試みる。そのためには、「ママ友」を頼りにしたインフォーマルな「情報」収が欠かせない。 「情報」が得られた母親たちは、それをもとに「投資」の可能性を判断し、スポーツ活動の「選択行動」に移る。「投資」できないと判断した母親はスポーツ活動を諦め、できると判断した母親たちは、その程度によって所属するクラブを「選択」する。このようにして、子どものスポーツ活動においては、同程度の「負担」が可能な保護者同士のネットワークが構築され、そこでの情報はまた既存の「ママ友」ネットワークにもたらされる。結果、各クラブの「周辺的役割」の程度は固定化され、母親が「周辺的役割」を担う構造が維持される。
著者
高峰 修
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.17-27, 2019-09-30 (Released:2020-10-15)
参考文献数
18

本稿では、スポーツ領域における女性の商品化の問題を男性学の視点から検討した。この問題を検討するための事例として“セクシーラグビールール動画”、“女子プロ野球の美女9総選挙”、“プロ野球における女性の始球式” が取り上げられ、その内容が分析された。ワールドカップやプロリーグというホモソーシャルな場において、女性という存在はそもそも馴染まないか異質な存在である。そうした場に女性は受け入れられたが、その場に生じる違和感を緩和するために、女性はパロディ化されていた。さらに3つの事例における女性の表象には、異性愛主義を前提とする、女性に対する男性からの性的欲求、そして女性嫌悪が描かれていた。 次に、伊藤による男らしさを示す三つの志向性(優越志向・権力志向・所有志向)と性的欲望との関係について検討した。これらの志向性が女性に向けられるとき、男らしさは異性に対する性的欲求として表れる。スポーツの実践が現代社会における男らしさを学ぶ場になっているとすれば、そして男らしさに異性への性的欲求が含まれているのであれば、現代の男たちはスポーツを通じて、異性への性的欲求を自覚し、再確認し、あるいは実現しようとしていることになる。男たちがスポーツを通じて異性への性的欲求を実現しようとしている例として、始球式に登場した女性タレントが男子中学生たちに取り囲まれる事例を示した。
著者
大沼 義彦
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.55-65, 2018-09-30 (Released:2019-09-30)
参考文献数
9

本稿は、自らが参加したマラソン大会の事例に基づき、ランナーが利用する自己モニタリング装置とそれがもたらす自己の変化、及び現代マラソン大会が提供する情報サービスから、スポーツにおけるモニタリングの意義と限界について考察するものである。 まず、初心者ランナーのトレーニング期におけるモニタリング装置の利用を分析する。初心者ランナーがフルマラソン完走を果たす上で重要な役割を果たしたものにGPS付きランニングウォッチがある。これにより、走行ペース、運動負荷を内観できるようになり、フルマラソンは「配分のゲーム」と認識され、ゴール時刻の計算可能性が高まった。同時に疲労回復という観点から、サプリメントの摂取、トレーニング時刻の設定等、自身の生活全般を反省的にモニタリングし再編していくことになった。 第二に、現代のマラソン大会そのものが巨大なモニタリング装置であることを分析する。ランナーは大会においてICチップを装着する。このICチップによる記録測定システムは、大会の規模拡大を可能にし、さらにはランナーだけでなく観客といった他者に対しても情報を提供するようになった。このことは、ランナーの大会記録とその共有など、新たな二次利用の可能性を開いている。 最後に、こうしたランナーと大会そのもののモニタリングとの関係について検討する。ランナーは、ランニングウォッチが提供する情報をリアルタイムで活用するが、大会というモニタリング装置からの情報は受け取ることがない。ランナーにとってこれらは、全て事後的である。大会の間、鳥瞰図的にランナーたちをモニタリングできるのは応援者や運営者といった外部の誰かである。経過時刻により再構成されたランナーをモニタリングする他者と実際のランナーとの間にはタイムラグと意味内容のズレを生じさせる。ここにスポーツにおけるモニタリングの限界がある。
著者
樋口 聡
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.53-67, 2013-09-30 (Released:2016-08-04)
参考文献数
48

武道とダンスが中学校の保健体育で必修になった。その必修化が、学校教育に何をもたらすのか、武道とダンスを学校教育で教えることでどのような教育的可能性を考えることができるのか。その展望を示すことが、本稿の目的である。 まず、武道とダンスの必修化をめぐって、武道やダンスの研究者や学校現場の教員によってすでになされている議論を、『体育科教育』(大修館書店)の特集号で概観した。体験の楽しさの探求、生徒の知的好奇心の刺激、歴史学習の大切さ、道徳教育・人間教育の方向性が、関係者によって論じられ、共有されていることが明らかになった。次に、文化の伝承の問題を、武道とダンスのそれぞれについて検討した。特に武道について、我が国固有の伝統と文化の強調が、必修化の背景にあると考えられるからである。「型」の文化の学びと、西洋近代のメカニックな合理性からずれた身体運動技法との出会いが、武道・ダンスの文化の伝承の契機として指摘された。そして、武道やダンスを学校教育で教えることの根源的意義として、「身体感性の学び」の生成についての議論が提示された。武道もダンスも、感覚・感受性、表現、技能、主体性といった身体感性の学びの場として捉えることが、学校教育で武道やダンスを必修化することによってもたらされる可能性であることが明らかになった。武道とダンスの必修化の結果、学びの広がりに応じて、教科の枠組みの融解がより一層進む可能性も示唆された。
著者
須藤 春夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.23-37,122, 2005-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
28

メディアにとってスポーツの存在は、競技の事実を伝える報道対象にとどまらず、メディアの普及やメディア間の競争を有利に展開する手段として利用されている。日本では戦後、全国紙の部数競争にプロ野球が広告シンボルとして利用されたが、民放テレビの全国普及によってプロ野球は視聴率を獲得する有力な番組コンテンツとしての機能を担うようになった。1990年代以降は、国際的潮流においても人気の高いプロサッカー、オリンピックなどのスポーツ競技が、メディア (とりわけテレビメディア)の有力なコンテンツとしての地位を占めるに至り、これらのスポーツ放送権を獲得する競争が熾烈化している。メディアとスポーツの癒合は、一方でメディア技術の発展によって進行するが、他方ではメディア市場におけるスポーツの独占的な「囲い込み」の結果であり、スポーツはメディアの経営戦略に大きく影響を受けることになる。メディアにとってスポーツはコンテンツ商品であり、メディアマーケティングの対象として扱われるが、スポーツも自らの商品価値を高めるためのマーケティングによってメディア対応を図ることから、市場を媒介とする両者の融合はいっそう進展する。マルチメディア時代に入りメディアの多様化と競争の激化は、スポーツコンテンツをさらに重視するが、スポーツビジネスに成功することがスポーツの発展を意味しないのは、ヨーロッパのプロサッカーチームの消長が示している。スポーツを楽しむファンの存在を脇に置き、市場の作用力がスポーツ全体を覆い尽くす現状は、メディアで「見るスポーツ」を人間の身体性の表現行為からエンターテイメントと広告媒体のコンテンツに変容させたといえよう。
著者
伊藤 公雄
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.5-15, 2019-09-30 (Released:2020-10-15)
参考文献数
22

近代スポーツは男性主導で発展した。しかし、ジェンダー平等への大きな歴史的社会的展開は、現在、近代スポーツそのものの変容を生み出している。 本論文では、まずイヴァン・イリイチらによる全近代社会における地域的・文化的多様性を帯びたヴァナキュラーなジェンダー構造が、産業社会の登場によって、ある均質的な方向(イヴァン・イリイチのいう「経済セックス」)へと水路づけられた経過を概観する。その上で、イングランドにおいて誕生した近代スポーツが、ヨーロッパに特有なヴァナキュラーなジェンダー構図の上に、産業社会の生み出したジェンダー構造が結合するなかで成立した可能性についてふれる。また、このことは逆に、ヨーロッパ以外の伝統スポーツにおけるジェンダー構図の多様性を示唆していることを指摘する。 ノルベルト・エリアスの指摘が明らかにしているように、近代スポーツは、暴力の規制を伴って発展した。他方で、近代国民軍は、近代スポーツを基礎とした身体の規律・訓練の徹底をともなって発展した。そこには、戦争とスポーツとの密接な関わりとともに、男性同盟という特異な同性間の結合形態を見出すことができる。ここから、男性たちのスポーツシーンに今なお見出しうる、ホモセクシュアリティとは異なるが、(イヴ・セジウイックのいう)ホモソーシャリティといったレベルを超えた強い(ともに生死をともにすることで生まれるような)結合といった課題が浮上してくるだろう(これを、ホモエロティシズムと呼びたい)。 1970年代以後、急速に拡大したジェンダー平等の動きは、従来の男性主導の社会の根本的変化を生み出しつつある。産業構造の変容や価値観の変化は、従来の男性のヘゲモニーを食い破りつつある。その結果、剥奪感の男性化現象さえ可視化されつつある。こうした社会変容は、近代男性主導社会の象徴であったスポーツの世界においても、さまざまな病理現象をうみだしつつある。いわゆる中毒性を帯びた悪しき男性性という課題が、スポーツの世界においても大きな課題になっているのは、そのためだろう。 現代スポーツの変容を男性性という視座から再検討することは、近代スポーツの総括をするための必須の作業であるとともに、スポーツの今後を展望するためにも重要な視点といえるだろう。
著者
釜崎 太
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.47-60, 2021-09-30 (Released:2021-10-15)
参考文献数
31

現代においては、国や自治体だけではなく、企業や地域住民にも公的な課題への貢献が期待されている。ドイツでは、非営利法人が共的セクターとなって、自治体、企業、地域住民と連携し、公的な課題に取り組む事例が見られる。 本研究が対象とする非営利法人は、ドイツのVerein(フェアアイン)である。Vereinは、法体系からは「社団」と訳される。しかし、スポーツクラブを運営するVereinが公的優遇を受ける登記法人(eingetragener Verein)であり、特にブンデスリーガの関係者にとっては、市場経済に対抗しつつ公益性を担保する自治的集団として意識されていることを重視する立場から、本研究では「非営利法人」と規定している。 ドイツにおいて非営利法人が運営するスポーツクラブが急増する1960年代以降、非営利法人をひとつのセクターとしながら数多くの社会運動が展開され、対抗文化圏が形成されていく。特に空き屋占拠運動で知られるアウトノーメは、FCザンクトパウリを動かし、反商業主義と反人種主義の運動を象徴するプロサッカークラブ(を一部門とする総合型地域スポーツクラブ)を生み出す。その一方で、90年代後半、プロサッカークラブの企業化が認められたブンデスリーガにおいては、非営利法人の議決権を保護する「50+1ルール」が定められ、プロサッカークラブ(企業)によるファンの獲得が、総合型地域スポーツクラブ(非営利法人)の資金を生み出す仕組みがつくられると同時に、非営利法人を軸とする市民社会のもとで、多様な地域課題への取り組みが実現されてきた。 本研究では、SVヴェルダー・ブレーメン非営利法人理事長、1FC. ケルン合資会社社長と顧問弁護士、FCザンクトパウリ非営利法人理事への聞き取り調査をもとに、ブンデスリーガに見られる市民社会の特徴と非営利法人の機能を明らかにした。
著者
迫 俊道
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.36-48,134, 2002-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
49
被引用文献数
3 3

チクセントミハイは, 日本の伝統的な文化活動においてフロー状態が生まれる例として, 茶道や弓道などの芸道をあげている。しかし, 日本の伝統的身体技法におけるフロー体験に関する研究は, これまでほとんど行われてきていない。本稿の目的は, スポーツにおけるフロー状態の特質と比較考察することにより, 日本の伝統的身体技法におけるフロー体験の特質を明らかにすることにある。その際, アフォーダンス理論やボルグマンの「命じてくる実在」対「思いどおりになる実在」といった観点を援用する。チクセントミハイが考案したフローモデルによると, 行為者の能力が行為の機会とバランスがよく取れている時, フロー状態が生じる。しかし, チクセントミハイ自身が気づいているように, こうしたフロー体験には,「環境を支配する能力」と「支配感などどうでもよくなる感じ」が知覚されるというパラドクスが認められる。一方, 日本の芸道においては,「環境に対する支配」ではなく,「支配が消失する状態」の生成こそが初めから目指されていると言えよう。こうした芸道の特徴は, 知覚と行為の協応関係を主題化した「アフォーダンス」理論や, 活動的な関わりを人に課してくる実在の非妥協的な側面に光を当てたボルグマンの「命じてくる実在」概念により, その意義がより明確に把握されうるだろう。いわゆる「無心」,「無我」の境を目指す日本の芸道の特質は, 実在の命じるところに細心の注意を向けつつ, 環境との一体化 (フロー), つまり, 行為的身体と環境との間の理想的な協応関係の到来をひたすら「待つ」修練の過程にあると言えよう。
著者
瀬尾 恭子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.49-59,135, 2002-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
28
被引用文献数
1

本稿は, 人間の身体の社会性を生きられる経験からとらえつつ, それと他者 (外部) との相互作用の様態を明らかにしていこうとするものであり, それらをコンテンポラリー・ダンス「作品」の「作品以前」のプロセス, つまり「作品」の制作過程におけるコリオグラファーとダンサーの相互作用のなかに見出そうとするものである。対象は1999年6月から2000年10月の期間に筆者が実際にコリオグラファーとして制作した二作品の制作過程であり, その直接的な経験の具体的な記述を試みている。(1) 作品の構想を共有し, コリオグラファーの提示する動きやたとえとして発することばを頼りにしながらダンサーが動きを創出していくこと(2) 創出された動きは, ダンサーがそれを自動化していくプロセスにおいて意味を剥奪され, 純粋な動きになることで多様な表現の可能性に開かれていくことを分析した。以上のことから, ダンサーの動きのなかに, コリオグラファーが抱く作品の構想, 動きのモチーフと, コリオグラファーのことばから想起されるダンサー自身の経験に根ざしたイメージの絡まり合いのなかに, 両者の相互作用がみてとれる。また, そのとき身体はコリオグラファーとダンサーとの生きられる関係のなかにあることで, あるひとつの固定的な意味のなかにとどまることを拒否し, 生成の過程であり続ける。このような生成の過程は, 身体がもつ社会性の一つの実相として捉えることができる。
著者
森山 達矢
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.87-99, 2008-03-20 (Released:2011-05-30)
参考文献数
8
被引用文献数
1

本稿のテーマは、武道の「身体技法」がどのように伝えられるのかということである。武道の身体技法の習得において重要なのは、その外面的「型」だけではなく、「内部感覚」、すなわち「身体感覚」を身につけることである。しかし、この身体感覚は、デジタル情報のように、完全なコピーを指導者から学習者に伝達することは出来ない。本稿では、筆者自身のフィールドワークに基づき、この感覚を伝達する実践の記述をおこなう。筆者は、合気道の稽古を実際におこなっている。本稿では、合気道の技の基礎を成している「呼吸力」に焦点を当てている。この呼吸力は、普段われわれが意識せず使う力とはまったく異なるため、発揮するためにさまざまな稽古が必要である。筆者がフィールドとしている合気道の流派は、この呼吸力の習得に重点を置いている。この流派では、呼吸力は、開祖植芝盛平の精神、すなわち合気道の精神を体現したものとして捉えられている。この呼吸力を発揮するための「身体技法」がいかに伝えられるのか、その独特の感覚をいかに伝えるのかということ。これが本稿の論点である。この問題に関して、伝達実践において使用される言葉に着目し、感覚を「学ぶ」という側面と感覚を「教える」という側面から、感覚伝達の実践を記述する。感覚伝達の実践においては、稽古者が自身の感覚に対して注意を向け、さらに自分の身体感覚についてより微細に感じることが可能となるような稽古体系となっていることを指摘する。そして、技遂行時の感覚が、師範が示している世界観に基づいて意義づけされることによって、指導者から学習者へと伝達されていることを指摘する。
著者
森山 達矢
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.17, no.2, pp.65-75, 2009-09-30 (Released:2016-10-05)
参考文献数
23

本稿は、身体の感性的次元の分析という論点に関わるものである。近年身体研究のなかで、パフォーマンスに着目する研究がなされている。本稿ではそのなかでも特に、研究者が研究対象としているパフォーマンスを実際に習得しながら研究をおこなっているものに注目する。本稿では、そうした研究を「実践的パフォーマンス研究」と呼び、その研究の意義を検討する。こうした研究は、パフォーマンスが遂行されるときの身体感覚やその感覚がどのように獲得されるのかということを問題にしている。本稿で取り上げる論者は、ボクシングを研究したL.D.ヴァカン、カポエラを研究したG.ダウニー、空手を研究したE.バー- オン=コーエンである。本稿では、この3人の研究に表れている身体に関する議論をブルデューの議論と比較しながら、身体の感性的次元に着目する身体論の可能性を検討している。本稿ではブルデューのハビトゥス概念と象徴権力概念を中心として、検討をおこなう。ダウニーとバー- オン=コーエンは、ハビトゥス概念が説明していない実践が生み出される過程を現象学的に記述し、ヴァカンは、象徴権力が身体の感性的次元でいかに作用しているのかということを内在的に記述している。 実践的パフォーマンス研究の意義は、以下の3点にまとめられる。すなわち、この研究の意義とは、感性そのものに着目することで、①ブルデュー理論の死角となっている論点を補完している、②感性による現実の構築を記述している、③パフォーマンスに対する新たな認識のありかたや方法論を提供している、ということである。
著者
秋吉 遼子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.25-40, 2021-03-31 (Released:2022-04-20)
参考文献数
100

本稿では、スポーツ社会学においてどのような社会調査が行われているのか、トライアンギュレーションの視点から検証する。2000年以降に発行された「スポーツ社会学研究」の(原著)論文74本を対象にレビューを行い、生涯スポーツの視点から、運動・スポーツ実施関連調査を踏まえ、今後のスポーツ社会学領域研究の展望を考察する。 2000年以降の「スポーツ社会学研究」の(原著)論文は、現代思想、カルチュラルスタディーズ、歴史学的な分析視点が多く、研究手法は、文献研究が43.2%(32本)で最も多く、インタビュー調査(36.5%)、ドキュメント分析(20.3%)の順であった。文献研究、ドキュメント分析、インタビュー調査等の質的調査は、2000年以降継続して用いられている。特にここ5年間は、フィールドワーク・参与観察とインタビュー調査という組み合わせが多い傾向にある。一方、質問紙調査を用いているのは、2010年の後藤論文が最後であった。 また、わが国では、運動・スポーツ実施等に関する全国的な社会調査が複数行なわれており、運動・スポーツやレジャーに関する概観図は明らかになってきている。それらの調査によって経年変化を捉えることもでき、貴重なデータである。しかし、質的調査で得られているような、表象されていない事象等を調査項目として組み込むことで、現在の生涯スポーツ実践のシステムから疎外されている人たちを見つけ出すことが可能になるかもしれない。
著者
熊澤 拓也
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.63-80, 2015

本稿の目的は、1933年から1937年までの日本におけるアメリカンフットボール(以下「フットボール」)を事例に、その中心的な活動主体だったアメリカからの日系二世留学生に焦点を当て、日本スポーツ外交史の一端を読み解くことである。<br> 日本においてフットボールは1902年に初めて行われたが、競技の危険性などから、その後30年間は定着することがなかった。しかし、1933年に日系二世留学生によって始められた活動は、1934年の統括団体の結成と公式戦の開催、1935年の全米学生選抜の来日、1936年から1937年にかけての全日本選抜のアメリカ遠征など、数年の内に急速に展開し、現在の日本フットボール界の起源となった。<br> この背景には、1931年の満洲事変、1932年の上海事変と満洲国の建国、1933年の国際連盟脱退通告などを背景に、国際社会の中で進む日本の孤立化という時代状況があった。当時、日本の政府関係者や指導者層は、日本の正当性を国際社会に向けて喧伝する目的で、2つの手段に着目した。 第1は国際交流やスポーツ外交であり、第2は日系二世留学生である。スポーツに関しては1932年のロサンゼルスオリンピックの成功を受け、その外交的有用性が認知されていた。また、1931年の満洲事変を機に急増した日系二世留学生に対しては、日米の懸け橋というまなざしが向けられていた。これは、留学生が本国に帰った後、日本の立場を擁護する代弁者としての役割を果たすよう期待する考えである。<br> 以上より、1933年から1937年までの日本において、フットボールの活動が急速に展開した要因は次の2点が考えられる。第1は、日米の懸け橋というまなざしを向けられていた日系二世留学生が中心的な活動主体であったこと、第2は日米親善を目的としたスポーツ外交が求められていたことである。このことは、1937年の日中戦争勃発を機に、日系二世留学生の数が減り始め、国際交流やスポーツ外交が沈静化すると同時に、フットボールの活動も停滞し始めることと無関係ではないだろう。
著者
松田 恵示 島崎 仁
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
no.2, pp.81-94, 1994

『タッチ』は、当初より若者たちの圧倒的支持を受けたマンガである。作品の終盤、甲子園出場を最後まで争ったライバルの「ま、そのうちまた、どこかのグラウンドで会うこともあるだろう」という言葉に対して、主人公の達也は「もういいよ、疲れるから」と間を外してしまう。このシーンはいわゆる「名場面」として刻印されるシーンなのだが、このシーンの解釈は、作者と読者が共有する生きられたスポーツ経験を掘り起こすことに他ならない。本稿の課題はこの作業を通して生きられた具体的、全体的経験としてのスポーツ (行為) を社会学的に捉える視角 (特に「遊」概念に照準したもの) について考察を深めることにある。<br>この作品は、「アジール的空間、コミュニタス的時間と、その終わり」を主題とする青春マンガである。野球と恋愛が主な素材であるが、作品の前半と後半ではその描かれ方がちがうことに気づく。ここでそれを「出来事としてのスポーツ=コケットリーの戯れ」と「物語としてのスポーツ=コケットリーのイロニー」と呼んで区別する。検討の結果、「コケットリーの戯れ」と「出来事としてのスポーツ」は非〈目的-手段〉図式上の行為として親和性を持つ。この親和性は、意味を形成する主体の不在=伝統的主体概念を出発点とした思考の外側からの視線を共有することによって生じている。この親和性が持つ伝統的な主体性に対置されるパースペクティブは、近代化が進んだ社会の現実原則が伝統的な「主体性」を背景とするものであるならば、現実社会に対向するパースペクティブでもある。それゆえこれは、青春=アジールを現すものともなりえる。非主体と反主体あるいは不主体の混同が見られるために,「出来事としてのスポーツ」というパースペクティブをうまく捉えきれていないこれまでの「遊」概念は、スポーツを理解する上で今後さらに精練されなければならない。
著者
杉本 厚夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.35-47, 2017

本論の目的は、スポーツを見る行為の意味を解読したうえで、実際に競技場で観る場合とメディアを通して視る場合を比較し、さらに、スポーツを見ることに伴った応援という行為に注目し、主に駅伝・マラソンを分析対象として、スポーツを見るという社会的行為における相克を明らかにすることである。<br> スポーツを見るという行為は、「興奮」を求める社会的行為であり、それは、パフォーマンスとゲーム展開という競技性における挑戦と、ゲーム展開にみる物語性にあるといえる。<br> また、スポーツのリアリティはテレビというフレームによって転形され、メディア・リアリティをつくりだす。そして「臨場感」のあるものにするために、元のスポーツ・リアリティに回帰される。さらに、スポーツ・リアリティと差異化するために、テレビの技術を使って競技場では見られないような視線を提供する。しかし、それらはあくまでテレビがつくりだした視線であり、見る者が主体的に選択した視線ではない。また、競技場で身体が感じる雰囲気や、プレイヤーからみられているという身体感覚は、テレビでは味わうことはできない。そこには「みる」ことは同時に「みられている」という間身体性は存在しない。<br> さらに、スポーツを見ることによって発生する応援は、興奮を呼び覚ませる。とりわけ、応援のための集合的なパフォーマンスが人々の身体に共振し、一体感によって興奮は高まる。しかし、その興奮が暴走しないように、日本の場合は応援団が鎮める役割を果たしている。また、応援による興奮が許されるのは非日常の世界であり、いったんそこに日常性を見出すと興奮は鎮まる。駅伝や・マラソンの場合は、もともと日常の道路を非日常に変えてレースをするわけであるから、ランナーが通りすぎてしまえば、その興奮は日常世界の中で鎮められるのである。<br> 結局、スポーツを「観る」ことと「視る」ことの相克は終わらない。
著者
山本 敦久
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.119-128,139, 2001-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
14

本稿は、キックボクサーたちの試合に備えた禁欲的な生活や厳しいトレーニングによる身体の磨き上げのプロセスに注目し、なぜ彼らが身体的危険や苦痛が伴うにもかかわらず「闘い続ける」のかを、フィールドワークをもとにしながら分析した。第1に、試合前2週間の減量や欲望の抑制に注目し、ジムの選手たちの相互監視によって、身体が自己規律化されるプロセスに注目した。第2に、キックボクサーの禁欲的な生活実践と、彼らが生きている社会的コンテクストとの結びつきを分析した。第3に、それらをふまえた上で、なぜ彼らは「格闘し続けるのか」を分析した。その結果、彼らが生きてきた (生きている) 社会的な条件のもとで繰り返される欠如 (「ハングリーの場所」) の体験を刻み込んだ身体図式が、試合に備えて減量や欲望の抑制によって欠乏感を駆り立てる身体図式のパターンときわめて一致することが明らかとなった。そして、試合前の減量の体験や欲望の抑制による禁欲的な生活実践を繰り返していくうちに、そこから生みだされる欠乏感を格闘に向けていくことなしには、自分のアイデンティティを保てないほど、彼らは格闘を欲していくことになるのである。
著者
坂本 幹
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
no.14, pp.71-82,122, 2006

本研究は、ガーナの農村におけるサッカー活動について、フィールドワークに基づき経験的に描くことを目標にしたものである。具体的には、サッカーを通じて形成された社会関係が、「約束金」というローカルな試合システムを通じて、スポーツの場のみならず、日々の職探しや食物の相互提供といった生活保障システムに組み入れられていくダイナミズムに焦点を当てた。<br>このことを明らかにする理由は二つある。一つは、スポーツのような文化的活動が生活どころか「生存」レベルの危機を抱えている社会において行われることは稀であり、また仮に行われることがあっても、それは生活の根源的諸問題とは位相を異にした単なる娯楽活動であるとする、これまでの第三世界スポーツ論に通底した認識を打破するためである。<br>もう一つは、従来第三世界のスポーツ活動を扱った研究が、スポーツの実践されている場のみを対象化したものであり、その場を構成する人々が同時に生活の諸問題を抱え、それに対処していく「存在」であることを等閑視してきたことにある。しかしながら本稿で実証データから明らかにしたのは、村のサッカー選手たちが、グラウンドでの「最高の気分」と「生活不安」の双方を携えて生きていることであり、スポーツの活動が生活の場と密接につながっているばかりか、むしろ大変重要な機能を備えているということである。<br>本稿では、こうした生活保障システムを支える、人々の「生活の論理」について、人類学者のJ. スコットと松田素二の議論を参照し、それをガーナの村落における若者達のサッカー活動から検討する。
著者
岡田 桂
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.5-22, 2010-09-30 (Released:2016-10-05)
参考文献数
38
被引用文献数
2

本稿では、スポーツがジェンダー/セクシュアリティ研究の対象として浮上してきた1970年代から現代までの約40年間について、研究と理論の変遷を概観し、後半部分では、その理論と対応する現実のスポーツ界での出来事を解説する。この際、スポーツをジェンダーおよびセクシュアリティ研究で扱う大きな意義として、以下の二点を前提とした。 1.スポーツという文化が、その当初より男性による実践を前提として発達してきた強固な男性ジェンダー領域(ホモソーシャルな領域)であること。 2.スポーツが、身体そのものを用いたパフォーマンスによって、その能力の優劣を可視的に提示するという、現代に残された数少ない身体を中心とした文化であること。 これらの特徴は、特に1990年代以降、クィア理論によって従来のジェンダー理解が覆されていくことで重要度を増している。即ち、スポーツがホモソーシャルな領域であると仮定すれば、従来「男性ジェンダー」領域とされてきたスポーツは、その“男らしさ”の定義の中に既に(ヘテロ)セクシュアリティの要素も含み込んでいることになる。また、 セックス(身体)とジェンダーの連続性が恣意的であり、ジェンダーがその絶え間ない身体的パフォーマンスの結果だとすれば、スポーツもまたその身体パフォーマンスのイメージによって仮構される男性ジェンダーの理想像を形作ってきたことになり、そのジェンダーの理想と身体を結びつけてきた神話も失効することになる。 これらの理論を踏まえた上で、現実のスポーツ界におけるジェンダー/セクシュアリティを巡る状況が、そのアイデンティティの普遍化/マイノリティ化(本質化)の間を揺れ動いていることを紹介し、理論や研究の流れと一致していることを示して結びとする。