著者
吉田 毅
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.53-68, 2016

<p> 本稿の目的は、中途身体障害者の車椅子バスケットボール(以下「車椅子バスケ」)への社会化に関する研究の一環として、交通事故に遭い受傷した後に車椅子バスケとともに他種目への参加というキャリア、言わば複線的スポーツキャリアを形成していった元カーレーサーが、受傷してから車椅子バスケへの社会化を遂げていくプロセスで寄与した主な具象的な他者について解明することであった。それにあたり困難克服の様相にも着目した。方法はライフヒストリー法を用いた。ここでは、対象者へのインタビューで得た語りを基にライフヒストリーを構成した。主な知見は次の通りである。<br> 対象者は受傷したことにより、障害との闘いをめぐる困難及びレース活動からの現役引退をめぐる困難を経験した。氏が前者を克服していくプロセスで寄与した主な他者としては、〈かけがえのない他者〉(父親)及び〈寄り添う他者〉(親友)が見出され、これらは〈親密圏〉を築く他者とも捉えられた。また、氏は車椅子バスケとともに、受傷前に貴重であったレース活動をレクリエーション的に継続することで後者を克服していった。氏にとってはいずれも貴重であり、車椅子バスケへの社会化を遂げていくプロセスはそれらが並行する様相を呈していた。このプロセスで寄与した主な他者としては、車椅子バスケへと〈誘う他者〉(入所仲間)及び〈導く他者〉(車椅子バスケクラブの先輩)、車椅子バスケ活動の精神的支えとなる〈寄り添う他者〉(親友)、それにレクリエーション的なレース活動へと〈つなぐ他者〉(レース仲間)が見出された。これらのうち〈誘う他者〉以外は親密圏を築く他者とも捉えられた。</p>
著者
金子 史弥
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.63-75, 2012-03-25 (Released:2016-09-06)
参考文献数
34

本稿の目的は、イギリスのニューレイバー政権の下で展開された地域スポーツ政策を批判的に読み解くことで、昨今のイギリスにおける国家政策としての地域スポーツ振興の背後に存在する政治的思想、すなわち「統治性」を理論的に明らかにすることである。 本稿は、ニューレイバー政権の地域スポーツ政策には「地域のクラブ、コミュニティやボランタリー組織を含めた『諸アクターとの協働』によるスポーツ振興」と「地域社会の再生やコミュニティの形成をはじめとした多様な役割を期待されてのスポーツ振興」という2つの特徴が見られることを、関連する政策文書の分析を通じて指摘した。その上で、ニューレイバー政権による地域スポーツ振興の背後にはミッチェル・ディーンやニコラス・ローズらが「アドヴァンスト・リベラリズム」と名付けた統治性が存在していたことを明らかにした。すなわち、ニューレイバー政権の下で、政府とスポーツイングランドは自らが直接地域スポーツを振興するのではなく、一方ではスポーツ競技団体や地方自治体などの「パートナー」に権限を与えながら、他方では政策目標の設定、助成金の分配、政策評価などの様々な「統治のテクノロジー」を駆使することによって各パートナーを「遠隔統治」することを目指していた。加えて、地域スポーツを含めた社会全体のアドヴァンスト・リベラルな統治を支える「個人」と「コミュニティ」を地域スポーツの振興を通じて構築しようとしていた。 以上のような作業を通じて本稿は、ニューレイバー政権の下での地域スポーツの統治と前保守党政権の統治との間に存在する差異と連続性を理論的に説明した。さらに、ニューレイバー政権の地域スポーツ政策の主眼はもはや「スポーツ・フォー・オール」にはなく、アドヴァンスト・リベラルな統治を支える「個人」と「コミュニティ」を構築する「統治のテクノロジー」としての地域スポーツ振興にあると指摘した。
著者
森川 貞夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.27-42, 2010-03-20 (Released:2016-10-05)
参考文献数
11

日本の全国的統轄スポーツ組織である体協(Japan Sports Association)・JOCはオリンピック大会に参加するために1911年に創立された。しかし体協・JOCは創立以来、スポーツの振興を多くのスポーツ愛好者に基礎を置いて進めるというよりは、政府・財界に寄生しながら今日まで進めてきたために未だ財政的にも組織的にも自立しえないでいる。したがって、戦前も戦後も「国策としてのスポーツ」への協力・推進と「競技力向上」に実際の活動・事業の力点が置かれてきた。 1970年代前後の国際的な「スポーツ・フォア・オール」運動の進展に呼応するように一時日本でも国のスポーツ政策に路線の転換が行われたが、21世紀直前より再びオリンピック大会での「メダル獲得率」を目標にした「強化策」と結びついた「スポーツ立国」論という、大国主義的イデオロギーを中核にした「国策としてのスポーツ」論が幅をきかせ始めている。 本論では、これまでの「国策としてのスポーツ」論を歴史的に追求しながら、さらに今日の「スポーツ立国論」が結局は「メダル獲得率」を目標とする「強化策」と結びつき、必然的に「実績主義」「メダル主義」に陥らざるを得なくなるという問題点を指摘し、それをどのように克服していくかの展望を「スポーツの高度化とスポーツの大衆化の統一」という視点から叙述する。
著者
亀山 佳明
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.3-20, 2013-03-20 (Released:2016-08-04)

E.コッブの『イマジネーションの生態学』は洞察に満ちた魅力的な書物である。その内容は二つに要約できるであろう。ひとつは、潜伏期の子どもたちはその旺盛なイマジネーションを使って、見るもの・聞くもの・触るものに〈なる〉のであるが、それは「世界づくり」という創造活動でもある、ということ。もうひとつは、そこで養われた創造力は子どもから大人になるときに要求される、個性的人格を形成するさいに必要な創造性を左右する、ということ。これら二つの洞察を説明するコッブの方法には理解しにくいところがある。そこで、コッブとは異なった説明の方法を導入することで、以上の二つの洞察を生かす道を探ってみた。身体の生成論という立場から、次のように解釈してみよう。 第一の問題について。ベルクソンの記憶論を修正して、イマジネーションという概念をこう定義する。世界において知覚・行動するには記憶と身体とが合体する必要があるが、子どものイマジネーションにおいては、半―記憶と半―身体とが合体する、と。このために、子どもが〈なる〉ことができるのは、想像する主体と想像された対象とが相互に浸透し合って、そこに世界を成立させるからである。彼らは次々に世界を創造し、それらを生きることになる。 第二の点について。イメージと知覚・行動が一体化するということは、主体のリズムと対象のリズムとが共鳴することでもある。二つの異なった波長をもつリズムが共鳴すると、そこには第3の波長が生じる。「世界づくり」とはこの第3の波長を生じさせることである。子どもたちがその作業を繰り返すなら、彼らのうちに創造性の源となる基盤が形成されることになる。子どもたちが大人になるときに要求される個性的な人格の創造も、この基盤を通して達成されると思われる。従って、もしもこの基盤が貧弱であったとするならば、人格の創造は困難にならざるを得ないことになる。
著者
藤田 紀昭
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.70-83,128, 1997-03-20 (Released:2011-05-30)
参考文献数
25
被引用文献数
1

スポーツへの社会化過程に影響を及ぼす, マクロレベルの要因に注目した研究や, 社会化の要素の一つである, 社会化される者の個人的属性について深く掘り下げた研究は数少ない。本研究ではこの点に注目し, 身体に障害のあるスポーツ選手の個人史を使い, スポーツへの社会化過程, すなわち, 社会化される主体的個人と社会化のエージェントとの相互作用の過程を, コンテクスト, 制度, 文化といった枠組みの中で明らかにする。そのために, 車いすバスケットボール選手 (若田瞳さん, 仮名) からの聞き取り調査, 個人史の確認を目的とした, 関係者への聞き取り調査および, 関係文書・文献調査を行った。その結果, 次のようなことが示唆された。1. 重要な社会化のエージェントは時間経過とともに変化していること, また, 複数のエージェントが同じ時期に, 重層的に影響を及ぼしていた。2. 若田さんは社会化される個人であると同時に, 自らをスポーツへと社会化していく主体的個人でもある。3. 二分脊椎という先天的障害のあった若田さんにとって, 低年齢時のリハビリテーションは, その後のスポーツ活動に重大な影響を及ぼしていた。4. 統合された, 遊び, 運動, 教育 (体育) の場での相互作用過程は若田さんのスポーツ的社会化 (スポーツへの社会化および,スポーツを通しての社会化) に大きな影響を与えていた。5. スポーツへの社会化過程は文化, 制度, コンテクスト, エージェントと関連しあっていた。
著者
黒田 勇
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.22-32,148, 2003
被引用文献数
1

1. 本学会の研究プロジェクト「日韓ワールドカップとメディア」のもとで、日韓にかかわる言説に注目し、今回のワードカップがどのようにメディアで意味づけられたのかを、研究プロジェクトのメンバーである黄盛彬と森津千尋の研究を中心に中間報告としてまとめる。それは、主に日韓のアイデンティティをめぐるポリティクスがワールドカップを通していかに現象したかを明らかにするものである。2. テレビビジネスのグローバル化の中で、サッカーがキラーコンテンツとしてビジネスの中心となり、ワールドカップもスポーツの「祭典/祝祭」という意味合いからメディアビジネスのメガ・イベントとなり、日本のメディアも大きな利益を上げた。3. 日本のメディアは、日本のナショナルとしての熱狂を自明化する一方で、ステレオタイプイメージに従って韓国の熱狂を特殊化し、また、主要メディアの「韓国応援」に対し、インターネット上では「反韓」メッセージが溢れ、その中で欧州サッカーの「よき」消費者である日本のサッカーファンも、アイデンティティをめぐるポリティクスに巻き込まれていった。4. 韓国においてもワールドカップを韓国社会の「世界化」の契機とする戦略とそれへの市民の動員を目指すメディアの動きがあったが、「韓国代表躍進」の結果、そうした戦略の目標とは異なる韓国市民へのインパクトの兆しがある。
著者
笠野 英弘
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.43-58, 2018-03-30 (Released:2018-04-06)
参考文献数
41

本稿の目的は、制度論の限界を克服する主体的なスポーツ組織論の理論構成を提示し、その意義を論じることである。 制度論では、スポーツ制度によって行為者の社会的性格が形成される論理が示されているが、そのスポーツ制度を形成・変革する主体がみえ難い。また、社会的性格形成過程における行為者の主体性の発揮を把握する枠組みも不足している。すなわち、スポーツ制度を形成・変革する主体と行為者の主体性を把捉する理論的枠組みの欠如が制度論における限界として捉えられる。 そこで、制度論と主体的社会化論を援用しながら、スポーツ組織をスポーツ制度や行為者の社会的性格を形成・変革する積極的な主体として位置づけるとともに、行為者の主体性を把捉することが可能な主体的なスポーツ組織論の可能性を提示した。 この主体的なスポーツ組織論においては、スポーツ組織と行為者の両者の主体性を把捉することが可能であり、また、マクロな視点とミクロな視点を包摂するメゾ的視点を提供する意義がある。 主体的なスポーツ組織論では、愛好者の組織化が求められるこれからのスポーツ組織において、特に愛好者が主体性を発揮して積極的にスポーツ組織に働きかけると同時に、スポーツ組織も、登録者に限らず未登録者の要求を積極的に制度形成・改革に反映していく姿勢が求められる。
著者
海老原 修
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.67-82, 2014

社会科学による質的なデータの数量化は主に同じ土俵上での相対的な重みづけを志向しており、変換されたダミー変数は説明変数であって被説明変数にはなりにくい。量的研究が質的現象を説明するのか、質的研究が量的現象を説明するのか。はたして、両者は対称的な位置づけなのか、もしかすると非対称ではないだろうか。このスタンスに基づき、体育・スポーツ研究領域で長い間、普遍的なデータを提供している内閣府「体力・スポーツに関する世論調査」に質的研究事例を、文部科学省「体力・運動能力調査報告書」に量的研究事例を求めて、それぞれの解釈と課題を提供した。 質的なデータが示す時系列分析は当事者のみならず社会の変容を理解する好材料を呈示する。一方で、量的データはウソをつくかもしれない。平均値の表示は作為的か不作為か判然としないが、体力低下がまやかしである可能性を教えてくれる。2人の得点が50点ならば平均値は50点であるが、2回目に1人が0点となってしまった。したがって平均点50を維持するには残る1人が100点を取らねばならない。3人の平均値が50点であるが、2回目には2人が0点となってしまったので、残る1人は150点を獲得しなければならない。平均点を表示する体力・運動能力の年次推移の背後には、運動やスポーツを行なったりやめたりする子どもたちの運動習慣の変動があり、運動実施状況別にたどると体力・運動能力そのものは不変である可能性が浮かび上がる。このような錯誤を指弾する姿勢は肉感的なフィールドワークによってかたちづくられる、ほんとかしらん、なぜなのかしらん、といった不思議の開陳である。聞き取りや参与観察、インタビューなど質的なアプローチが、研究対象にたいして多元的・多段階的な昆虫の複眼と単眼による量的な分析を刺激し続けている。
著者
山本 教人
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.5-26, 2010

<p> オリンピックメダルやメダリストが、メディアによってどのように描かれているのかを物語の観点から明らかにするために、1952年ヘルシンキ大会から2008年北京大会を報じた「朝日新聞」の記事を対象に、内容分析を行った。<br> 我が国のメダリストに関する分析から、次のことが明らかとなった。メダルの多くが体操、柔道、レスリング、水泳などの種目で獲得されていた。近年、オリンピック新種目での女子選手の活躍が顕著であった。多様な企業に所属する選手が増加傾向にあった。<br> オリンピックでメダルを獲得することは、我が国の国力を世界に向けて示すことであり、メダリストの養成は国策として報じられていた。1970年代前半までのメダリストのメディアイメージは、類い希なる「根性」の持ち主であり、メダリストには超人的な存在の名が冠せられた。精神主義を介してつながる、国家と個人の関係イメージを指摘できた。<br> 東西両陣営によるオリンピックを通した国力の誇示、オリンピックの商業主義が進行する状況で、商業資本を利用したメダルの獲得は、ますます国策として位置づけられるようになった。この時期のメディアは、プレッシャーに負けず実力を存分に発揮する選手を理想のアスリート像として提示した。<br> 1990年代前半のスポーツをめぐる状況の変化のなかで、新しいタイプのメダリストがメディアに登場した。この時期の報道は、メダリストの個人情報に焦点化したものが多く、彼らをひとつのロールモデルとして位置づけているように思われた。このような報道においては、国策としてのメダル獲得と、メダリスト個人の体験はつながりを失ったものとしてイメージできた。しかし時に、選手の振る舞いや言動を通して、国家や組織から自由ではないアスリートの姿がメディアに描かれることもあった。スポーツの商業主義化やメディアの多様化は、今後、国策としてのメダル獲得とメダリスト個人の関係をますます複雑・多様化すると考えられた。</p>
著者
山口 泰雄 土肥 隆 高見 彰
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.34-50, 1996-03-19 (Released:2011-05-30)
参考文献数
29
被引用文献数
3 4

本研究の目的は、生活の満足度とスポーツ・余暇行動との関係を分析した“Brown & Frankel のモデル”を追試し, わが国における独自の規定要因を加えた修正モデルを検証することにある。加古川市に在住する458名の中年者と212名の高齢者に対して, 質問紙調査を実施し世代間の差異を検討した。パス解析によるデータ分析の結果, Brown & Frankel モデルはわが国でも妥当であり, 適用可能であることが示された。修正モデルの分析により, 世代差と性差が明らかになった。中年女性と高齢男性において, スポーツ実施と生活の満足度との強い関係が示された。また, 生活満足に対して, デモグラフィック要因や経済的指標よりも, 余暇の満足度が最も強い影響力をもっていた。将来的に, アクティブな生活スタイルはクオリティ・オブ・ライフの重要な要因になるかも知れないことが指摘された。また, スポーツ実施と生活満足における性差の理解に関する縦断的研究が求められる。
著者
黒田 勇
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.22-32,148, 2003-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
14
被引用文献数
1

1. 本学会の研究プロジェクト「日韓ワールドカップとメディア」のもとで、日韓にかかわる言説に注目し、今回のワードカップがどのようにメディアで意味づけられたのかを、研究プロジェクトのメンバーである黄盛彬と森津千尋の研究を中心に中間報告としてまとめる。それは、主に日韓のアイデンティティをめぐるポリティクスがワールドカップを通していかに現象したかを明らかにするものである。2. テレビビジネスのグローバル化の中で、サッカーがキラーコンテンツとしてビジネスの中心となり、ワールドカップもスポーツの「祭典/祝祭」という意味合いからメディアビジネスのメガ・イベントとなり、日本のメディアも大きな利益を上げた。3. 日本のメディアは、日本のナショナルとしての熱狂を自明化する一方で、ステレオタイプイメージに従って韓国の熱狂を特殊化し、また、主要メディアの「韓国応援」に対し、インターネット上では「反韓」メッセージが溢れ、その中で欧州サッカーの「よき」消費者である日本のサッカーファンも、アイデンティティをめぐるポリティクスに巻き込まれていった。4. 韓国においてもワールドカップを韓国社会の「世界化」の契機とする戦略とそれへの市民の動員を目指すメディアの動きがあったが、「韓国代表躍進」の結果、そうした戦略の目標とは異なる韓国市民へのインパクトの兆しがある。
著者
森川 貞夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.24-49,126, 2000
被引用文献数
1

東京高等師範学校-東京文理科大学-東京教育大学につながる同窓組織「茗渓会」は, 戦前戦後を通じて日本の教育界に有数の人材を輩出したばかりでなく, 日本のスポーツの普及・発展にも大きな役割を果たした。しかしそれは同時に天皇制ファシズムの下では国家的イデオロギーと結びついたスポーツ政策と一体のものであった。しかも東京高師設立の目的が師範学校校長および教員を養成することであったこと, また実際に卒業生の大半が戦前においては全国の中等学校・師範学校および教育行政の中枢にあったためにかれらは, その国家的イデオロギーを率先実行する「下士官」の役割をになわざるを得なかった。したがってスポーツに限ってみても日本のスポーツの普及・発展に貢献すると共に戦前のスポーツによる国威発揚・体力向上・思想善導政策に積極的に加担していくという東京高師出身者の歴史的・社会的役割は避けがたいものであった。しかしその体質は戦後のスポーツの民主化の際に「戦争責任」や「戦争反省」を深く問うこともなく, 無批判に体制に順応し自らが積極的に従属していくというものであり, 今なおその体質が問われるところである。このような体質はスポーツ界にあっては支配的ではあるが, すべての者がそのような立場に立つというわけではない。それを分けるのは東京高師出身者の社会的階層が丸山真男のいうところの中間層の, 主として「第一類型」に属しているところから来るものであり, 国民大衆の側につくのか, 支配的権力の側につくのかの「動揺」はたえずつきまとうものであり, その選択は個人の主体形成に関係する。しかもそれはまた内部での「凌ぎ合い」に加えて, 外部での茗渓外出身者との「覇権争い」もあり, たえず自己矛盾に苛まれざるを得ないものである。
著者
山岸 智子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.53-66, 2010-09-30 (Released:2016-10-05)
参考文献数
24

イランにおいては、20世紀前半から「健全な精神は健全な肉体に宿る」という考え方が広まり、学校体育と女性解放のための諸政策が導入された。女性のスポーツは、健全な社会と家族の健康のために必要と認められたが、女性の身体は繊細で優美なものであるべきとする身体観や家父長主義的な価値観も維持された。 1970年代からのイスラーム復興は、イラン・イスラーム共和国の樹立をもたらした。イスラーム復興は、それ以前の近代化を見直し、ジェンダー平等についても独自の対応をめざしている。イスラーム体制下でも、1991年ファーイェゼ・ハーシェミーはイスラーム女性スポーツ連盟を創設し、4回のイスラーム女性競技会などを開催した。 イスラームの命じる男女隔離と女性の頭髪や体を覆うヴェール(ヒジャーブ)をどのように実施するかについて、イランで政治問題化する一方、フランスなどでは公の場所でのヒジャーブ着用が規制されるようになった。こうしたヒジャーブをめぐる社会= 政治的環境において、イランの女子サッカーチームのユニフォーム問題が生じたのである。FIFAが認められるのはうなじの見えるキャップまでとされ、イラン体育協会はキャップをイスラーム的に適正とは認めがたいとした。その結果イランの女子サッカーチームは2010年ユースオリンピックへの参加が危ぶまれる状況にまで追いこまれた。この例はスポーツ機関をめぐる政治=社会的環境が、国際試合への参加をめぐる対立にまで至りうることを浮き彫りにしていると理解できる。

1 0 0 0 OA 特集のねらい

著者
石坂 友司
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.3-6, 2014-03-30 (Released:2016-07-02)
参考文献数
12
著者
美馬 達哉
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.7-18, 2015

「治療を超えて」生物医学的テクノロジーを健常人に対して用いることで、認知能力や運動能力を向上させようとする試みは、「エンハンスメント(Enhancement)」として1990年代後半以降から社会学や生命倫理学の領域で注目を集めている。とくにスポーツの分野では、新しいトレーニング手法、エンハンスメント、ドーピング、身体改造などの境界は問題含みの混乱状況にある。本稿では、医療社会学の観点から、まず、カンギレムの『正常と病理』での議論を援用して、正常、異常、病理、アノマリーなどの諸概念を整理し、正常/異常が文化的・社会的な価値概念であることを明確化した。 次に、スポーツと身体能力のエンハンスメントに力点を置いて、エンハンスメントをめぐる生命倫理学での議論を概観した。病者への治療(トリートメント:treatment)と健常者へのエンハンスメントを対比して、前者を肯定し後者を否定して線引きする伝統的な議論では不十分であることを、具体的実例を挙げて示した。また、資質と努力の賜物としての達成(アチーブメント:achievement)とエンハンスメントを対比して、前者の徳としての重要性を指摘する議論を紹介した。加えて、本稿は、エンハンスメントの根本問題とは何かという点で、現代社会のテクノロジーによる人間的自然の支配こそが再考されなければならないという視点に立って、エンハンスメントを超える展望を提示した。
著者
ムーアハウス H.F. 岡田 桂
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-12,129, 2001-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
23

本稿は、過去30年にわたるヨーロッパのサッカー社会学の発展に関しての批判的な検討である。具体的には、サッカー社会学が「フーリガニズム」と暴力というテーマに支配され、その双方に関する研究が不完全、あるいは過剰であるということを問題にする。また、主として暴力に関する議論の焼き直しである「アイデンティティ」や「ファン性」といったものに対する最近の新たな強調と、「ファン」を若い男性サポーターと同義と見なすような誤りや多くの分析上の欠陥についても指摘する。これらの一般的な誤りを実証する上で、多様な文献を用いた考察を行う。本論文ではまた、イングランドの研究者が「フーリガニズム」と「アイデンティティ」に対する過度な強調姿勢をヨーロッパに広めたため、ヨーロッパのサッカー社会学がサッカーに関する他の多くの重要な問題点を見落とすことになった事実についても議論する。不適切な問題設定とお粗末な方法論によるビジネスとしてのサッカー論に関する新たな出版ラッシュとは裏腹に、サッカーにおける財政的な取り決め、ユース世代のトレーニングや育成、購買者によるサッカー関連商品の実際的な消費のされ方、女性とサッカーなどの問題は、重要でありながら関心が払われてこなかった。この論文は、サッカー社会学が社会分析の一分野としての重要性を増すためにも、これまでの伝統的なテーマから脱却すべきであることを示唆するものである。
著者
堀 響一郎
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
pp.25-01, (Released:2016-11-30)
参考文献数
12

本稿は、これまでスポーツ空間で「健常者」とされてきた人々の中にも障害を有している人々が存在していることを議論の俎上に上げ、彼らにとってスポーツ実践はどのような役割を果たしているのかを問うことが目的である。障害者スポーツは障害の程度に応じてクラス分けがなされ、かつ多くの他者の援助によって実現してきた。だが近年、障害学の分野において注目されている軽度障害という概念をスポーツ領域に用いてみると、彼らは障害者スポーツの範疇からこぼれ落ちるためにクラス分けには含まれず、かつ存在が不可視であるために周囲の人々からの援助を受けられないという問題がある。そこで、吃音症当事者のスポーツ選手2名に対してインタビュー調査を行なった。 調査では、第一に、健常者スポーツの中にも運動機能そのものに影響をおよぼさない軽度障害者が存在し、こうした障害/非障害の線引きの恣意性によりスポーツ空間で困難や不利益を被っているということがわかった。例えば、吃音症ゆえに、体育会系特有の嘲笑や揶揄の対象となったり、選手間でのミーティングの際にうまく話すことができなかったこと、また時として指導者に質問することができずに、結果として上達の機会が奪われたりことなどが挙げられた。 第二に、軽度障害者にとって健常者スポーツは、承認を受ける可能性があるということが示唆された。彼らによると、学校では満足な居場所を獲得することができなかった学生時代にも野球や体操競技でよい成績を残せば周囲の人々から認められるという経験をすることがあったと語られた。 以上のように、軽度障害者たちは、健常者によるスポーツ空間に参加せざるを得ないため、様々な困難を抱えることとなるが、その一方で、スポーツは彼らが承認を受けるための契機としても機能しているということが明らかになった。
著者
高橋 豪仁
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.60-72,128, 2000
被引用文献数
1

1998年7月4日に実施したオリックス・ブルーウェーブのホームゲーム観戦者を対象としたアンケート調査によると, 被害を受けた人の9割以上が1995年の震災の年に, オリックスの優勝によって勇気づけられたと回答した。この集合的記憶の形成には, メディアの果たす役割が大きいのではないかという問題意識の下に, 1995年と1996年の神戸新聞において, オリックスの躍進・優勝と震災に関して, どのような「物語」がどのような形態で掲載されているかを, メディア・テキストが受け手によって積極的に読解されるという見方に基づいて検討した。そして, この物語が被災経験を有するひとりのオリックスファン (Kさん) の個人的経験の中でどのように受けとめられているかを明らかにした。主要な結果は以下の通りである。(1) 社説などにおいて,「被災地の試練」→「オリックスの躍進と被災地復興との重なり」→「優勝による被災地への勇気・元気」→「ありがとう」→「復興への希望」というモチーフが見出された。(2) 優勝を伝える記事において, ファンや著名人のコメントを載せる記事の構成が見られ, このことによって, 読者がオリックスの優勝に対してどのように反応すればよいかを読者に例示し, 優勝の意味づけの同意を構築することに役立つテキスト構成になっていることが推察された。(3) しかしながら, 面接調査によって, 被災経験をもつ献身的なオリックス・ファンであるKさんは, その物語と実際の生活との間にズレを感じていることが分かった。(4) メディア・テキストの受け手の側には, 自らの生活の延長線上において, テキストが積極的に読解され, 受け手の側で意味が補完・再構成される以上の能動性, すなわち, このメッセージを拒み, 跳ね返す程の能動性があることが推察された。
著者
王 篠卉
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.39-51, 2007

本稿は、中国ナショナルチームに所属した男子高飛び込み選手である田亮の「除名事件」を手がかりに、「改革開放」の過渡期にある中国スポーツ選手が従来の「国家的英雄」から「大衆的スター」として社会に受け入れられることを通し、市場経済が引き続き成長する社会背景の下で、「国家」の政治性が漸次的に衰退しつつある中国におけるスポーツ改革の現状が今後どのように変化していくのかについて分析するものである。田亮は「挙国体制」下の中国で育てられたオリンピック金メダリストであり、中国スポーツにおける代表的な「国家的英雄」であった。国家は彼のようなオリンピック金メダリストらを理想的な「中国人」の像として形作り、ナショナルアイデンティティの具現化に役立たせた。一方、「改革開放」政策の進展にしたがって、国家の権力により統制されたスポーツの「挙国体制」に対峙して「スポーツ市場」が成立し、拡大しつつある。経済面でのメリットを図る国家は、田をそこに送り出したが、メディアによって田のイメージが作り直され、「国家的英雄」像に全くそぐわないものとなった。「国家」はこれを理由として田をナショナルチームから除名したが、それにもかかわらず、彼は「大衆的スター」としてスポーツ市場のメカニズムの中で人々に認められるようになった。田の「除名事件」は中国スポーツ改革の軋轢を反映する事件であり、そのうえ、彼が国家から見放された後でも「大衆的スター」として社会に受容されることは、市場経済の影響で進化しつつある社会に対して、「国家」が徐々に支配し得なくなる現状を語っている象徴的な例でもある。このような状況における中国のスポーツ改革は今後いかに改革の方向を調整するか、これについて、本稿は最後に明らかにした。