著者
釜崎 太
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
pp.29.2.1, (Released:2021-08-30)
参考文献数
31

現代においては、国や自治体だけではなく、企業や地域住民にも公的な課題への貢献が期待されている。ドイツでは、非営利法人が共的セクターとなって、自治体、企業、地域住民と連携し、公的な課題に取り組む事例が見られる。本研究が対象とする非営利法人は、ドイツのVerein(フェアアイン)である。Vereinは、法体系からは「社団」と訳される。しかし、スポーツクラブを運営するVereinが公的優遇を受ける登記法人(eingetragener Verein)であり、特にブンデスリーガの関係者にとっては、市場経済に対抗しつつ公益性を担保する自治的集団として意識されていることを重視する立場から、本研究では「非営利法人」と規定している。 ドイツにおいて非営利法人が運営するスポーツクラブが急増する1960年代以降、非営利法人をひとつのセクターとしながら数多くの社会運動が展開され、対抗文化圏が形成されていく。特に空き屋占拠運動で知られるアウトノーメは、FCザンクトパウリを動かし、反商業主義と反人種主義の運動を象徴するプロサッカークラブ(を一部門とする総合型地域スポーツクラブ)を生み出す。その一方で、90年代後半、プロサッカークラブの企業化が認められたブンデスリーガにおいては、非営利法人の議決権を保護する「50+1ルール」が定められ、プロサッカークラブ(企業)によるファンの獲得が、総合型地域スポーツクラブ(非営利法人)の資金を生み出す仕組みがつくられると同時に、非営利法人を軸とする市民社会のもとで、多様な地域課題への取り組みが実現されてきた。 本研究では、SVヴェルダー・ブレーメン非営利法人理事長、1FC. ケルン合資会社社長と顧問弁護士、FCザンクトパウリ非営利法人理事への聞き取り調査をもとに、ブンデスリーガに見られる市民社会の特徴と非営利法人の機能を明らかにした。
著者
稲葉 佳奈子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.53-67,124, 2005-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
33

本稿は、日本のスポーツとジェンダー研究の新たな視角を提示することを目的とする。日本のスポーツとジェンダーを問題にしたいくつかの研究をとりあげ、それらがスポーツの何を問題にし、それをどのように分析し、スポーツのどこに変容の可能性を見出しているのかという点に注目しながら、これまでの議論を整理した。このとき理論的に依拠しているのは、バトラーの『ジェンダー・トラブル』[1990=1999]におけるジェンダー論である。したがって、本稿が用いるジェンダーという語には、社会的・文化的な「性」のみならず、身体レベルでの「性」が含まれる。これまでの研究によって、スポーツによる/における「男/女」の構築や、それを支えるのが異性愛主義であることなどが明らかにされてきた。それらは日本のスポーツとジェンダー研究の大きな成果である。しかし一方で、本稿がとりあげた先行研究の検討から、それらが異性愛主義の問題性をいかに認識するかという点においていくつかの課題をもっていること、それゆえに、模索されているスポーツの変容の可能性においても、ある「限界」が内包されているということが明らかになった。そうした状況の乗り越えを図るために、以下の結論を示した。変容の可能性は、異性愛主義体制において「男/女」が構築されるときの「失敗」に見出せる。したがって、今後の研究に向けて想定され、日本のスポーツとジェンダー研究におけるもう一つの視角として提示されるのは、異性愛主義体制の「内部」からの「攪乱」である。そのような視角からの理論的検討は、スポーツによる/における「『男/女』の完璧な構築」プロセスでつねにすでに起きているはずの「失敗」を、あるいはその瞬間を、そして「失敗」を生みださずにはいられない体制の非本質性を、理論的に可視化して示してみせることになる。
著者
下窪 拓也
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.41-54, 2021

本研究は、メガスポーツイベントの招致開催がもたらす長期的な無形の影響の解明を目的とし、オリンピック競技大会の招致開催が、人々のナショナルプライドに与える影響を検証する。メガスポーツイベントの開催と開催国の人々が持つナショナルプライドとの関連はこれまでにも議論されてきたが、先行研究では、開催時期の時代背景による影響は等閑視されてきた。<br> 時代的背景から、1964 年東京オリンピックと1972 年札幌オリンピックの開催は、戦後の復興と国際社会への復帰という意味合いを強く持つため、日本人のナショナルプライドに強い影響を与えたことが想定される。本研究では、この東京オリンピック経験世代と札幌オリンピック経験世代の世代効果に着目して、大会の開催がナショナルプライドに与える長期的な影響を分析する。分析では、社会調査の二次データを用いて、東京オリンピック経験世代と札幌オリンピック経験世代の世代効果が、スポーツに関するナショナルプライド(スポーツプライド)と一般的なナショナルプライド(ジェネラルプライド)に与える影響を検証した。<br> 分析の結果は、仮説とは反して、世代効果はスポーツプライドには統計的に有意な負の影響を示し、ジェネラルプライドに対しては統計的に有意な関連を示さないことを明らかにした。オリンピック競技大会の商業主義化に伴いナショナルな表象が薄れたことで、かつての国威発揚の意味合いを強く持つ東京オリンピックや札幌オリンピックを経験した世代は、昨今のスポーツに対してもはや国への誇りを重ねなくなったのだと考えらえる。あるいは、先行研究では、1990 年代以降の日本社会の不安の蔓延に伴い、若者のスポーツプライドが高まっていることが示唆されていることから、相対的に東京オリンピックや札幌オリンピックを経験した世代のスポーツプライドが低く観測されている可能性も考えられる。最後に、本研究の限界を議論した。
著者
森田 浩之
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.37-48, 2012-03-25 (Released:2016-09-06)
参考文献数
14

本稿は、東日本大震災後にメディアに表れたスポーツにからむ「物語(ナラティブ)」を検証し、その功罪を検討する。 「未曾有の国難」に沈む日本と被災地を、スポーツとトップアスリートが元気づける──そうした動きと思想は、まずヨーロッパでプレイするサッカー選手3人が出演するACジャパンの公共CMにみられた。「日本の強さは団結力です」「日本がひとつのチームなんです」という選手たちのせりふは何げないものに聞こえるが、そこには日本のメディアスポーツが語りつづけてきた物語が詰まっていた。 メディアが大震災と最も強く結びつけた大ニュースが、「なでしこジャパン」の愛称で知られるサッカー日本女子代表のワールドカップ優勝だった。ひとつは国家的悲劇であり、もうひとつは国民的慶事と、対照的にみえるふたつの出来事が、メディアによって強く接合された。なでしこジャパンは被災地から「元気」をもらったとされ、なでしこが世界一になったことで被災地も「元気」をもらったとされた。それらの物語はどのメディアをとっても均質的、類型的であり、東北出身の選手や東京電力に勤務したことのある選手には特別な役回りを担わせていた。しかもメディアが意図したかどうかにかかわらず、「あきらめない心」や「粘り強さ」といったなでしこジャパンの特徴とされるものは、3.11後の「日本人」に求められる心性と重なっていた。 このような均一化された物語の過剰は、「絆」ということばが3.11後のキーワードになることに加担した。被災地との「絆」がつねにあるかのように語られることで、現実には存在する非・被災地との分断が覆い隠されるおそれもある。
著者
佐伯 年詩雄
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.25-44, 2015-10-15 (Released:2016-10-07)

2020年7月、再び東京でオリンピックが開かれる。周知のように、現代五輪は様々な欲望を刺激し、それをパワーゲームに組織する巨大な装置である。そして、「復興五輪」のキャッチフレーズに典型化されるように、このグローバルイベントには「理想と現実」、「ブランドと偽物」、「本音と建て前」が交錯している。本稿は、この東京五輪大会の「招致過程」、「招致計画」をケースにして、この状況を「虚と実」の視点で整理し、オリンピックが直面している根本問題を明らかにする。 始めに、東京五輪招致の動機と背景を取り上げ、それが石原元都知事による都の臨海副都心開発計画破綻の累積債務清算という「負のレガシー」処理であることを示す。 次に招致活動を取り上げ、五輪招致「オールジャパン」の捏造を、「広島・長崎共催五輪構想」の消滅との対比、「震災復興」の政治的利用の分析によって明らかにする。 次いで東京五輪レガシー戦略を取り上げ、新国立競技場建設問題、開催計画書におけるレガシー約束を分析し、五輪競技と市民スポーツの現実との乖離等から、レガシー戦略の失敗を指摘する。 特に、「オリンピック・レガシー戦略」は、近年提唱され、世界的にも好意的に受け取止められているものであるが、その虚実を明らかにすることによって、それは、行き詰まっている五輪大会の存在意義を再構築し、五輪イデオロギーを再建しようとするIOCのあらたなパワー戦略であることを示す。 最後に、この視点からIOCの新政策「アジェンダ2020」を取り上げ、それがIOCと現代五輪の権力保持を意図するヘゲモニー戦略であることを明らかにする。
著者
酒本 絵梨子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.65-77, 2012

本研究の目的は、「共振」という概念が持つ、スポーツ独特の社会関係における「楽しさ」を理解する上での重要性を、チクセントミハイが提唱した、「流れ」=「フロー(Flow)」という概念と「引き込み現象」の概念を統合させることで、明らかにしていくことである。<br> 「引き込み現象」とは、異なった周期を持ったリズムがその周期を一致させる現象であり、自然界や人のコミュニケーションにおいて見ることができる。<br> この「引き込み現象」をクラーゲスのリズム論から見てみると、「共振」という広い概念として捉え直すことができる。亀山によれば、「共振」とは、日常の制約から脱して生命のリズミカルな脈動の中に入ることを意味し、ここに音楽やスポーツの活動でリズムに乗るときに襲う「楽しさ」の由来があるという。<br> チクセントミハイはこの「楽しさ」を「流れ」=「フロー」という概念で説明している。このフローの概念は個人的な心理的な状態を表すことでその「楽しさ」を捉えており、個人的な挑戦を超えた、集団スポーツを含んだスポーツで得られる「楽しさ」は捉えきれないという弱点を持っている。しかし、フローの概念をリズムの「共振」として捉えるならば、集団スポーツにおける「楽しさ」を「共同性の次元のフロー」として見る視点が与えられる。
著者
石原 豊一
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.59-70, 2010-03-20 (Released:2016-10-05)
参考文献数
32

グローバル化に伴うスポーツの世界的拡大の中、野球も資本との関わりの中、北米トップ・プロリーグMLBを核とした広がりを見せている。本稿ではその拡大における周縁に位置するイスラエルに発足したプロリーグであるイスラエル野球リーグ(IBL)の観察から、スポーツのグローバル化をスポーツ労働移民という切り口から探った。 IBLの現実はプロ野球という言葉から一般に想像されるような華やいだ世界ではない。ここで展開されているのは、ひとびとが低賃金で過酷な労働を強いられている周辺の世界である。しかし、IBLの選手の姿は、搾取される低賃金労働者というイメージともすぐには結びつかない。それは、彼らが自ら望んでこの地でのプレーを選んだことに由来している。特に先進国からの選手の観察からは、本来労働であるはずのプロとしてのプレーが、一種のレジャーや社会からの逃避に変質を遂げている様さえ窺えた。 この新たなプロリーグに集った選手たちへのインタビューを通じた彼らのスポーツ労働移民としての特徴の分析は、スポーツのグローバル化が経済資本の単一的な広がりというよりは、選手個々の背景や動機が絡んだモザイク的な拡大と浸透の様相を呈している現状を示している。 従来の世界システム的観点から見たスポーツの地球的拡大の文脈においては、プロアスリートの国境を越えた移動もその要因を経済的なものに求めがちである。アスリートの移籍理由を経済的要因以外に求める研究もなされてはいるものの、本稿での事例分析の結果得られた「プロスペクト」型、「野球労働者」型、「バケーション」型、「自分探し」型というスポーツ移民の分類のうち、先進国からの「バケーション」型、「自分探し」型は従来の研究の枠組みには収まりきらないものである。このことはスポーツのグローバル化がもたらした人間の移動要因の変質という点において、今後のグローバリゼーション研究に新たな地平を開拓する可能性を持つ。
著者
高尾 将幸
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.59-70,121, 2006

〈身体〉が権力の対象となることを、近代への転換のメルクマールとしたのは、他ならぬミシェル・フーコーの功績だった。体育・スポーツもまた、彼の指摘する規律=訓練権力の一端を、国家の制度的教育として担ってきたのだった。しかしフーコーが切り開いた〈身体〉の政治技術に関する議論は、抽象的なものに終始するのではなく、近年の政策的動向や人々の実践を踏まえたうえで再考される必要があるのではないだろうか。こうした問題意識から、本稿では「健康」とスポーツが交差する地点として高齢者の健康増進施策における事例調査を行った。健康増進施策から誕生したT会の人々は、単に健康不安に煽られ、メディアの提示する公準や理想的な「健康」観を追い求めているのではなかった。そこでは、参加者の暮らす地域の歴史性や構造的要因が存在し、それは同時に参加を規定する要因ともなっていた。また、〈身体〉に病や「老い」を生きる彼らは、同時に教室に「楽しみ」を見出していた。薄れていった共同性への郷愁、自らの〈身体〉をお互いに確認しあう場として運動教室が存在していたのである。しかし、それは同時に彼らの「隠す」という行為と表裏の関係にあった。そして、こうした人々の実践が、現在の政策的動向を支えていくことを示した。結論として、〈身体〉の政治についての視角として、フーコーの提示した「生-権力」論を敷衍させつつも、変動する政策的動向と、それを支えていく人々の歴史や関係性の記述から再考することの必要性を論じた。
著者
浅川 重俊
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.59-70, 1997-03-19 (Released:2011-05-30)
参考文献数
39

本研究は, これまでの相撲研究において扱われることのなかった「タニマチ」をネットワークをもとに分析することによって, 相撲社会が現実的な社会全体においてどのように位置付き, どのような役割を果たしているのかを明らかにすることを目的としている。具体的な分析対象である「タニマチ」は, 相撲社会とそれを取り巻く外部の社会との間で様々な形の相互関係を媒介する存在である。そこで, 一般的な構造を持つ組織としては捉えきれないインフォーマルな集団を理解していく有効な手段であるネットワーク分析は, 相撲社会の内外で強い影響力を行使しているにもかかわらず, その位置付けが曖昧な「タニマチ」という個人を体系的に把握することを可能にしてくれる。こうして分析した「タニマチ」のネットワークの特質から, 相撲社会は「タニマチ」を介して外部社会からの政治的, 経済的な援助を受けると同時に, 外部社会の恣意的な政治的, 経済的なネットワークを隠蔽するという役割を果たしているということと, そうした役割を持つ社会的な装置として全体社会の一部を構成していることが明らかになった。
著者
ドネリー・ ピーター
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.3-22, 2015-10-15 (Released:2016-10-07)
参考文献数
35

スポーツの当局者や政治家たちが未だに「スポーツは政治と関わりあうべきではない」と力説するのを耳にするかもしれないが、それが事実だと信じる人をみつけることは増々難しくなっている。 特にこのことは、あからさまなナショナリズムからそのイベントの経済活動まで、その全てのプロセスが非常に政治化されている国際的なスポーツイベントについてあてはまる。オリンピックのような大きなスポーツイベントの開催は、非常に多くのアクターを引き合わせる。それらは互いに異なり、時に利益を争っている。これまで大抵の研究は国際オリンピック委員会と相互に関係する「札つきたち」―様々なレベルの政府・自治体や国内/国際企業―に焦点を当ててきた。しかし、考察すべき権力軸は他にもある。本稿で私は、第1に、ヨーロッパの人間が未だに組織のほとんどの権力を保持していることを示す最近のデータを参照しながら、それに対するオリンピック・ムーブメントにおけるアジアの相対的な政治的権力について考察する。第2に、「札つきたち」が保持している高度な権力について考察する。「ソフトパワー」の手段として国際的なスポーツを利用することや、彼らによって引き起こされたオリンピック・スポーツのいくつかの問題について指摘する。第3に、学術論文ではほとんど研究されていないが、オリンピックの形態や意味に影響力をもつ、諸個人や諸集団、諸組織によって保持されている中間レベルの権力について考察する。特にここでは、どの国も大規模な国際的スポーツイベントを開催するときにはいつもサービスを提供し、時によっては雇用もされる、国際的なコンサルタントや専門家の組織に焦点を当てる。更に、間接的ではあるがしばしば予期せぬ影響力をもつ、オリンピックの批判者や抗議者たちについても考察する。
著者
栗山 靖弘
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.65-80, 2017-03-31 (Released:2017-03-24)
参考文献数
21

高校時代の運動部活動の実績が評価されて大学に進学する人びとがいることを、我々は経験的にも認知しており、スポーツ推薦によって大学に進学するという現象は、特に珍しいものではない。しかし、スポーツ推薦による進学先がどのように決定されるのかというメカニズムに関しては、実証的に明らかにされていない部分が多い。 そこで本稿では、大学入試におけるスポーツ推薦を進路決定の仕組みのひとつと捉え、当該試験を利用した進路形成の特徴を明らかにした。具体的には、ある私立の強豪校野球部を事例とした、スポーツ推薦を利用した進学先決定のメカニズムの解明である。強豪校運動部のスポーツ推薦による大学進学は、高校と大学の指導者間の関係によって規定されており、いわば、指導者の人脈を経由した進学先の決定が行われている。このことを、野球部員と指導者へのインタビュー調査と、部員の進路先が把握可能な個票という、経験的なデータを用いて示した。 はじめに、全国の私立大学におけるスポーツ推薦入試の実施状況を、マクロ・データによって概観し、続いて事例研究から、進学先決定のメカニズムを描き出すという順序をとった。 これらの作業を通じて、強豪校運動部員の進路形成が、部活を通じて行われていることを明らかにした。そして、最後に、部活を通じた進路形成が重視される理由として、その進路形成機能自体が強豪校の存立基盤であることを示した。先行研究では、一般的な学校の運動部活動を成り立たせるのは「子どもの自主性」であるとされてきたが、強豪校を成立させる基盤については明らかにされていなかった。本稿の知見により、強豪校を成り立たせているのは、部活を通じた進路形成機能であることを主張した。
著者
渡 正
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.53-65, 2014

本稿の目的は、スポーツ社会学が質的研究を行う上で重要だと考えられる論点を提示することにある。それは端的に言ってそのスポーツ実践がもつ固有の論理を描くべきだという点に尽きるだろう。スポーツ実践固有の論理を見つめることによって、スポーツ実践の中に研究対象の「社会的なるもの」を描くことが質的研究のダイナミクスである。だが、これまでのスポーツ社会学は、こうした「スポーツ実践固有の論理」を描くことにどこまで自覚的だったろうか。<br> かつての機能主義的なスポーツ社会学においては、「スポーツを社会に従属するもの」と想定し、全体社会の変化や特徴がスポーツにそのまま反映されるという立場をとった。ここで採用されたスポーツと社会の関係性のありようは、今なお質的研究を行おうとする際に陥りやすいものでもある。そこで、スポーツ実践固有の論理を描いた最近の研究としてフィリピンのローカルボクサーと車椅子バスケットボール実践のエスノグラフィを取り上げた。<br> 前者は、スポーツ実践とそれが存立する社会的機制を問題化し、その交差点にボクサーの日常、つまりスポーツの経験があるとする。後者は、スポーツ実践のさなかに様々な「社会なるもの(the social)」が現出するとする。つまり、スポーツの経験とは、その実践の文脈における相互行為とし て達成されるものと捉える。いずれにせよ、この二つのスポーツ実践の質的研究は、当事者たちの実践が行われるその「固有の論理」に照準し、質的な調査や分析はその把握のために用いられている。 「固有の実践の論理」を描くことを重視する立場は、スポーツをとりまく社会的事実(社会構造や規範)を外挿することでスポーツ実践を説明しないという態度でもある。徹底して相互行為の中で/中からスポーツ実践を捉え、その実践の固有の論理を描くことが、スポーツの経験を社会学することなのだろう。
著者
レス バック 有元 健
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.7-18, 2016-03-25 (Released:2017-03-24)
参考文献数
23
著者
山本 教人
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.13-25, 1995

本研究の目的は、大学生のライフスタイルとスポーツの活動選好の関連を検証することであった。この目的のために、1,000名の大学生を対象に質問紙法による調査が実施された。本研究を通じて得られた結果は、次に示す通りであった。1) 活動選好の類似性によってスポーツ種目の分類を行うたに、71種目 (項目) に対して因子分析を適用した。分析の結果、マリンスポーツ、ダンス、格闘型球技、スカイスポーツ、ラケットスポーツ、アウトドアスポーツ、ターゲットスポーツ、パワー型スポーツ、武道、陸上競技、野球・ソフト、持久性スポーツ、水泳競技の13のスポーツの活動選好因子が抽出された。2) 大学生のライフスタイルの構造を把握するために、41のAIO項目を因子分析にかけたところ、ファッション志向、達成志向、スポーツ志向、ボランティア志向、個性化志向、リーダー志向、ブランド志向、出世志向、調和志向、自然志向の10のライフスタイル因子が抽出された。3) スポーツ志向を除く9つのライフスタイル因子のクラスター分析を通じて、調査対象者は、ファッション重視型、生活無目的型、調和重視型、アンチブランド型、積極生活型、出世重視型の6つのタイプのライフスタイルグループに分類された。4) 6つのライフスタイルグループについて、スポーツの活動選好度を検証した結果、ライフスタイルのタイプと活動を選好するスポーツとの間には、明瞭な関連が認められた。しかも、相対立するライフスタイルを示すグループ間においては、活動選好のパターンが逆転していることが明らかとなった。
著者
高橋 豪仁
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.79-88, 2014

「スポーツ基本法」において、法文上初めて「スポーツ権」が明記されたことは、憲法13条の幸福追求に対する国民の権利がスポーツの次元においても存在することを根拠づけるものではあるが、その保障内容については議論の余地がある。本研究では、下記の訴訟事件を、スポーツを見る側の権利の観点から検討し、この裁判の過程で問題となったプロ野球の公共性について考察を加えた。 また、こうした私設応援団の排除や応援不許可を、単に反社会的勢力の排除の一環であるという表層的な見方で説明するのではなく、その背景に存在するスタジアムにおける管理・監視システムの視点から検討する。<br> プロ野球暴力団等排除対策協議会は、2008年3月、ある私設応援団に所属する26人に排除命令、7つの応援団から構成される1団体には特別応援許可を出さないことを決定した。これに対して当該の応援団は、2008年6月、名古屋地方裁判所にNPB と12球団らを相手取り、入場券販売拒否と特別応援不許可の撤回を求める訴訟を起こした。<br> 原告らはプロ野球の公共性を根拠に「スポーツ権」を主張したが、プロ野球は営業の自由や契約自由の原則が適応される私的事業の領域であるとの理由でプロ野球の公共性は否定された。公的セクターには公共性があり、私的セクターにはそれがないとする判断であり、現在社会におけるスポーツのあり方を説明するには一面的である。また被告側の応援団や観客への関係性には自由な討論の場も公開性もなく、ハーバーマスの言う「市民的公共性」の観点から批判することができる。ここで取り上げた訴訟事件は、興行主である日本野球機構や球団が、プロシューマーである私設応援団を、データベース化と自己規律化に基づく管理によって、自らの生産活動の中に囲い込んでいるという構造を顕在化させている。
著者
高橋 豪仁
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.69-83,125, 2005
被引用文献数
2

本研究では、スポーツ観戦を介して形成された同郷人的結合を検討するために、1つの事例として、関西に在住する広島東洋カープのファンの集まりである近畿カープ後援会を取り上げ、この集団の設立母体であった近畿広島県人会に言及しつつ、後援会が如何にして形成されたのかを明らかにすることを目的とする。戦後の復興期において広島と大阪の間の物流のパイプ役として近畿広島県人会は機能しており、広島県から近畿圏への労働力のスムーズな移動に貢献していた。目に見える形で広島との繋がりを意識することのできるスポーツ観戦は、広島県人会のメンバーにとって、大阪の広島県人としてのアイデンティティを確認する場であり、広島県人会の政治経済的秩序を正当化する上でも必要とされていた。大阪カープ後援会結成のための共感の共同性を作り出したものは、単なる故郷に関する共通の記憶ではなかった。それはカープによって上演されたV1の物語であり、広島から大阪に出て来て働くという共通の体験を再帰的に映し出す社会的ドラマだった。このドラマの持つ力によって、広島県人会の活動の一部であったカープの応援が、1つのアソシエーションとして県人会組織から独立し、大阪カープ後援会となったのである。後援会はその設立以来、広島県人会と同様に同郷集団的機能を有しており、後援会に所属する広島出身者は大阪で「故郷」広島を発見し、アイデンティティをそこに見出しつつも、自らを大阪に結びつけながら、自己のアイデンティティを位置化していた。しかし、一方で、1970年代後半からのカープ黄金期には、カープによって同郷的アイデンティティを持ち得ない人も入会し始めることとなった。同郷団体である広島県人会の体制を象徴的側面から支えていたスポーツ観戦・応援行動が、1つのアソシエーションとして独立した時、そこに同郷人的結合に拠らない結節が混在するようになったのである。
著者
中川 敏子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.81-89,110, 2004-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
21

これまでの日本におけるスポーツとジェンダーに関する研究の多くは、ステレオタイプに基づいた女性選手像とそれを報道するマスメディア批判に終始している。女性たちは、歴史的にスポーツの発展に貢献していることが明らかにもかかわらず、表象においては、保守的な男女の性役割に基づいた言説におしとどめられてきた。フィギュアスケートは、かつて男性のスポーツとされていたが、女子選手が進出し、今日では女性のためのスポーツとさえ言われている。こうしたなかで、女子選手がどのように表象されてきたのかを分析することは重要と思われる。本論文では、1920年代から1930年代に活躍し「銀盤の女王」と呼ばれたソニヤ・ヘニーを取り上げる。彼女の氷上での功績および映画での役柄、実人生を見ながら、女子フィギュアスケーターがどのように表象され、どのように位置づけられてきたのかを歴史的コンテクストに着目して考察する。まず、1900年以降においては、フィギュアスケートの発展に貢献した4人の女性たちに着目し、彼女たちの功績があってヘニーの活躍が可能になったことに言及する。つぎに、1930年代にヘニーが出演した映画作品6本からヒロインの表象のされ方を明らかにする。それによって、「銀盤の女王」のステレオタイプがどのように形成されたのかを分析する。そして、どのように新しい理想の女性像が出現し、その一つであったはずの「銀盤の女王」が保守的で伝統的な男性中心の思想により歪曲されてしまったのかを論じる。
著者
小林 勉
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.83-93,136, 2001-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
15
被引用文献数
1 2

ここでは、グローバル化するスポーツが途上国の人々に与える影響について、メラネシア地域を事例に検討した。スポーツ社会学において近年、スポーツのグローバリゼーションに対する関心が高まっているが、そうした研究の多くは途上国の存在を見過ごしてきた。スポーツ社会学者が、多様化へ向かう現在のスポーツの姿情を強調していくなかで、いったん途上国に目を向けてみると、そこでは異なったグローバリゼーションの実相が展開されていることがわかる。先進諸国を中心に「楽しさ」を主眼においたニュー・スポーツや市場経済を基盤としたレジャー活動が台頭しているのに対し、ヴァヌアツ共和国のような小さな島嶼国では、IOCやIFを中核とした組織化へ向かう動きが、いまだ活発に展開されている。このように、グローバル化するスポーツといえども様々な位相があり、そこには一義的には語ってならない異質な層が重なり合っている。本稿においては、スポーツにおけるグローバリゼーションを包括的な言説で一括りにしてしまうのではなく、様々な論理が絡み合う空間に身を置きながら、その交錯関係から出発して考えていくことの重要性を指摘し、そうしたエスノグラフィックな調査の積み重ねが、今後スポーツのグローバリゼーションについて考えていく際に重要であることを示唆した。
著者
有賀 ゆうアニース
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.93-106, 2023 (Released:2023-10-26)
参考文献数
20

近年、ソーシャルメディアの普及を背景として、人種的マイノリティのアスリートによるレイシズムへの抗議が様々な競技で顕在化している。先行研究では、アスリートたちがアスリートとしての立場とアクティビストとしての立場の間でのジレンマに、またときには大規模なバックラッシュやファンとの葛藤に直面することが報告されてきた。本稿では、こうした状況のなかで例外的に反レイシズムに訴えつつ好意的な支持を広く集めたとされる、あるアフリカ系のプロ野球選手のBlack Lives Matter運動に関するTwitterの投稿を事例として取り上げる。人種的マイノリティとしての背景を持つプロアスリートがこうした困難な状況にいかに関与しているのかを分析する。テクスト上の表現を通じて人種や人種主義をめぐるアイデンティティや行為がいかに産出されるのかという視座からその投稿とそれに対するリプライを分析し、以下の知見を得た。彼は人種差別として理解されうる経験を物語りつつ、それが誰かへの非難として受け止められないように自らの物語を慎重にデザインすることで、レイシズムへの抗議とファン、ユーザーとの協調的関係の維持という困難な2つの課題を同時に追求していた。そしてその投稿に対するリプライも、一方では反差別の観点からアスリートへの共感や同調、他方ではスポーツの観点からアスリートへの賛美・応援にそれぞれ分岐することで、アスリートとオーディエンスたちの間で複合的な同調的関係が現出していた。以上の知見は、日本のスポーツ界において人種的マイノリティとしての背景をもつアスリートがいかなる課題に直面し、それを達成しようとしているのかを明らかにしている点で、スポーツ社会学研究へ貢献する。