著者
吉田 毅
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.43-58, 2010-03-20 (Released:2016-10-05)
参考文献数
18

本稿の目的は、オリンピック金メダリストがどのような競技生活を送って金メダル獲得に至ったのか、また、金メダル獲得は金メダリストのその後の人生にどのような影響を及ぼしているのかについて、競技者のキャリア形成の視点を踏まえ解明することであった。ここでは、冬季オリンピック、ノルディック複合団体で金メダルを獲得した日本チームの1人を事例とし、ライフヒストリー法を用いて検討した。 氏は、スポーツ少年団で本格的なジャンプを、中学時代に複合を専門的に始めた。高校時代にはハードトレーニングに打ち込んだ結果、日本代表としてジュニア世界選手権に出場し、また、インターハイで優勝した。氏の競技者キャリアは、中学時代までは「導入・基礎期」、高校時代は「強化・飛躍期」、大学時代は「停滞期」、そして実業団時代が「仕上げ期」と捉えられる。これは、競技力養成という点で、早期には結果を求めるよりも基礎づくりが重要であることを示唆する1つのモデルとなり得るだろう。また、ピークに達する前段階での停滞が奏功したモデルともいえるが、氏はこの時期にもオリンピックに出場したいとの夢を保持していた。氏が金メダル獲得に至るまでには、金メダル獲得の追い風というべき運命的な要素がいろいろと見出された。おそらく金メダリストの競技者キャリアには、そうした運命的な要素を孕む金メダル獲得に至るストーリーがあるのだろう。 氏のこのストーリーには、さらに各段階の指導者、ならびに両親をはじめとした支援者と様々な他者が登場する。 氏にとって、金メダル獲得は至福の体験であり、ほとんど良い意味で氏の人生を変えるものであった。例えば、世間の注目を浴び、あらゆる面で自信を得、多額の報奨金を得た。現役引退後のセカンドキャリア形成プロセスでは、学校等からの度々の講演依頼、また複合のテレビ解説依頼があり、仕事では知名度の高さが有利に働いた。
著者
田中 東子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.51-61, 2016-03-25 (Released:2017-03-24)
参考文献数
27

本論では、フェミニズムの理論とスポーツ文化はどのように関わり合っているのか、今日の女性アスリートの表象はどのような意味を示しているのか、1990年代に登場した第三波フェミニズムの諸理論を参照しながら考察している。まず、アメリカにおける女性スポーツ環境の変化に注目し、そのような変化を導いたのがフェミニズム運動の成果であったことを説明する。ところが、スポーツ文化への女性の参画が進むにつれて、徐々に女性アスリートやスポーツをする若い女性のイメージは、商品の購買を促すコマーシャルの「優れた」アイコンに成り下がってしまった。そこで、女性アスリートやスポーツをする若い女性が登場する広告を事例に、女性たちが現在ではコマーシャリズムと商品化の餌食となり、美と健康と消費への欲望を喚起させられていること、そして、今日の女性とスポーツ文化との関係が複雑なものになったことを示す。最後に、複雑な関係になったとはいえ、スポーツ文化は今日においても「密やかなフェミニズム(Stealth feminism)」の現れる重要な現場であるということを、ストリート・スポーツの例を紹介しながら説明する。
著者
チョン ヒジュン トンプソン リー
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.17-24, 2007

本稿は、2002年サッカーワールドカップが韓国社会にもたらした劇的な社会政治的影響を分析し、それに基づいて2006年大会を考察する。2002年ワールドカップ大会は保守的な影響と進歩的な影響、という両方の逆説的影響があった。韓国代表チームの成功とその結果として生まれた応援は、長らく権威主義と家父長制的保守主義に支配されていた韓国に、革新的政権が誕生する決定的な要因であった。ワールドカップは階級や地域や性別などに分裂していた韓国社会を統合することができた。しかし、その統合はナショナリズムによるものであった。韓国代表の勝利によって引き起こされた狂気は、一部の知識人にはファシズムの現れとみなされた。レッドデビル現象の特徴は盲目的な愛国主義と歪曲されたナショナリズムが、政治的無関心を煽り個人の主体性を抑制する群集心理であった。それに加え、開催期間中に起こった多くの重要な政治的社会的出来事は、メディアによって無視され、忘れられたりもした。2002年に比べて2006年ワールドカップは、それと違う体験を韓国の人々に与えた。代表チームが勝ち進むにつれて国中が次第に熱狂していった2002年に対して、2006年には開催の数ヶ月前から様々な問題が出始めた。特に、民間放送局による全面的放送はチャネルを選ぶ権利を視聴者から奪った。メディアと資本とスポーツの三角同盟には研究しなければならない問題がたくさんある。
著者
迫 俊道
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.83-93,123, 2006-03-20 (Released:2011-05-30)
参考文献数
30

これまでに生田久美子は日本の芸道の修行過程を研究してきた。日本の芸道の修行過程の特徴は「非段階性」であると生田は主張している。しかし、生田は世阿弥の稽古に関する理論などを援用している。世阿弥の理論においては、芸道の稽古の過程は段階的であると綴られている。また、生田が芸道の身体教育の意義を提示している説明文においても段階性を示唆する表現が認められる。本論文の目的は、芸道の身体教育の段階性に関する生田の議論の矛盾点を指摘し、世阿弥、ヘリゲル、西郷らが記した文献を中心として取り上げ、それらの記述の中において、芸道の身体教育に特有な段階性があることを明らかにすることにある。その上で、生田が光を当ててこなかった、芸道における身体教育の段階性の意義を提示することにある。芸道において段階が創造される際には、指導者が学習者の段階の生成過程を見極め、次の段階への橋渡しをしていくという「段階的指導」が行われている。生田が想定した「段階性」とは、現代の学校教育等に象徴的に見られるような静的なものである。だが、芸道の身体教育における「段階性」は、ダイナミックに流動するものであるだろう。芸道における身体教育の段階性の意義は、指導者と学習者の間で展開されていく、複雑な生成過程を経ることを通じて、段階が創造されていくことを示唆している点にあると思われる。
著者
マンデル J.D. マンデル J.R. 松村 和則
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.51-58, 1997-03-19 (Released:2011-05-30)
参考文献数
15

In this paper we provide a critique of the work of Left intellectuals who have seen in sport a location where efforts to overcome capitalism might successfully be mounted. As an alternative to this perspective, we examine the content of sport, exploring the reasons for its influence and attractiveness. We conclude that sport is an activity which is important and positive in its own right. In particular sport, we believe, dramatizes aspects of human existence, referred to by the philosopher David Best, as “life issues.” Two of the most important themes which emerge in sport concern the nature of justice and the necessity for human cooperation. Because sport participants must rely exclusively on their own and their teammates' skill, motivation, and intelligence, competitive outcomes are determined exclusively on a meritocratic basis.Sport, we think, therefore represents an oasis of justice in society. Sport also dramatizes the fact that cooperation is the basis of human endeavor. It demonstrates how conflict can be handled without destroying social interaction, and how individuals can master skills cooperatively. Sport, in short, is neither an opiate nor an activity in which an explicit contestation for political power occurs. Rather, it is a location where important issues of justice, interdependence, cooperation, conflict and accomplishment are articulated.In this connection, we note that the incentives present in professional sport's compensation systems encourage individual and not collective achievement. Because that is so, we voice our concern that those systems may put at risk precisely the qualities which make sport attractive.
著者
菊 幸一
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.19, no.1, pp.21-38, 2011-03-20 (Released:2016-09-13)
参考文献数
63
被引用文献数
1

本稿の目的は、スポーツ社会学における歴史社会学の可能性とは何かを明らかにすることである。 そこで、本稿では第1に、社会学における歴史社会学の性格や位置づけの特徴が、近代社会に対する予見的で社会科学的な理論的認識を強化する方向性をもつことを明らかにした。その上で第2に、スポーツ社会学における歴史社会学の特徴も、そのような社会学における歴史社会学の成立に影響され、その範囲でスポーツの近代性を特徴づけるための「中範囲の理論」をスポーツの歴史現象に求める傾向があることを示した。そこでは、具体的にスポーツのプロフェッショナル化や暴力、あるいは伝統の発明や文化の翻訳というテーマが取り上げられている。また、このような歴史社会学的視点は、スポーツ社会学において主要な研究方法となっている量的社会調査の説明においても応用可能性をもつものである。 一方、歴史社会学の対象としての「近代」とそれに基づくスポーツ認識からの問題設定の限界を超えるためには、その歴史認識の限界を指摘しなければならない。本稿では、平野[2005]が述べる、所謂「詩人の追放」をキーワードにしてギリシャ哲学の認識論にまで遡り、グローバル課題に向けた社会学的想像力を生み出す歴史社会学の新たな可能性を模索した。そこでは、従来のメディア・スポーツ研究の射程を超えた、人類史的な観点を含んだメディアとしてのプレイやゲーム、スポーツに対する歴史社会学的研究の重要性と可能性が示唆された。なぜなら、スポーツ社会学における歴史社会学の新たな可能性が、「スポーツ」という対象だからこそ拓かれると考えるからである。
著者
杉本 厚夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.35-47, 2017-03-25 (Released:2018-04-06)
参考文献数
21
被引用文献数
3

本論の目的は、スポーツを見る行為の意味を解読したうえで、実際に競技場で観る場合とメディアを通して視る場合を比較し、さらに、スポーツを見ることに伴った応援という行為に注目し、主に駅伝・マラソンを分析対象として、スポーツを見るという社会的行為における相克を明らかにすることである。 スポーツを見るという行為は、「興奮」を求める社会的行為であり、それは、パフォーマンスとゲーム展開という競技性における挑戦と、ゲーム展開にみる物語性にあるといえる。 また、スポーツのリアリティはテレビというフレームによって転形され、メディア・リアリティをつくりだす。そして「臨場感」のあるものにするために、元のスポーツ・リアリティに回帰される。さらに、スポーツ・リアリティと差異化するために、テレビの技術を使って競技場では見られないような視線を提供する。しかし、それらはあくまでテレビがつくりだした視線であり、見る者が主体的に選択した視線ではない。また、競技場で身体が感じる雰囲気や、プレイヤーからみられているという身体感覚は、テレビでは味わうことはできない。そこには「みる」ことは同時に「みられている」という間身体性は存在しない。 さらに、スポーツを見ることによって発生する応援は、興奮を呼び覚ませる。とりわけ、応援のための集合的なパフォーマンスが人々の身体に共振し、一体感によって興奮は高まる。しかし、その興奮が暴走しないように、日本の場合は応援団が鎮める役割を果たしている。また、応援による興奮が許されるのは非日常の世界であり、いったんそこに日常性を見出すと興奮は鎮まる。駅伝や・マラソンの場合は、もともと日常の道路を非日常に変えてレースをするわけであるから、ランナーが通りすぎてしまえば、その興奮は日常世界の中で鎮められるのである。 結局、スポーツを「観る」ことと「視る」ことの相克は終わらない。
著者
柏原 全孝
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.9-23, 2018-09-30 (Released:2019-09-30)
参考文献数
9

本稿は、2006 年にプロテニスのツアーに登場した判定テクノロジー、ホークアイの社会学的含意を考察するものである。ホークアイは、それ自身が審判に代わって判定を下す点、および判定根拠となる映像を自ら作成して示す点で画期的なテクノロジーである。しかし、それは一種のフェティシズムを引き起こす。ホークアイには不可避の誤差があることが知られているが、にもかかわらず、あたかも無謬であるかのように取り違えられ、その無謬性によって礼賛される。誤差をもっともよく認識している開発元でさえ、このフェティシズムに取り込まれてしまう。この事態が引き起こされるのは、ホークアイが動画であることが大きい。本来、判定のためにはボール落下痕とラインの関係が明示された2Dの静止画で十分なはずだが、ホークアイは3D動画に編集された映像を見せることによって、自らの圧倒的な力、すなわち、すべてを見る力を誇示する。そして、われわれはその動画を見ることを通じて、正しい判定への期待を満たしつつ、ホークアイの判定を進んで受け入れていく。こうしてフェティシズムに囚われたわれわれはホークアイがあれば誤審が起きないと信じるわけだが、ここには明らかな欺瞞がある。なぜなら、ホークアイは誤審を不可視化しただけだからだ。 なぜ、ホークアイやそれに類する判定テクノロジーが広がっていくのか。それは、勝負として決着を目指す有限のゲームとしてのスポーツが、テレビとの出会いによって、その有限のゲーム性を強化されたからである。その出会いは、放映権を生み出し、広告費を集め、スポーツを巨大ビジネスに仕立て上げた。その関係を支え、加速させるのがホークアイやその他の視覚的な判定テクノロジーである。スポーツのもう一つの側面、決着を先送りし続ける無限のゲームとしての側面は、こうした趨勢の前に後景へと退却している。
著者
森津 千尋
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
pp.30-2-01, (Released:2022-07-28)
参考文献数
32

オリンピックは、1980年代からグローバルメディアのコンテンツまたは企業のマーケティング・ツールとしての側面を強化し、「商業主義」と批判を受けながらも大会を継続させるため、メディアやビジネス環境に適応しながら合理的に変化してきた。そのため2020年東京大会の国内スポンサーも、日本国内の事情に合わせて、各カテゴリーで複数企業がスポンサーとなる「東京方式」が導入され、新聞カテゴリーでは複数の新聞社がスポンサー契約をしていた。 本稿では、まず近年におけるオリンピックとメディア、スポンサーの関係の変化、さらに2020年東京大会で浮上した問題点を整理した。そして新聞社がオリンピックスポンサーになることの問題を考察するため、今回スポンサーとなった新聞とそうでない新聞の社説を対象にテキストマイニング分析を行い、その論点や言説の違いについて検討した。 その結果、スポンサー/非スポンサー新聞社説では、オリンピックについて扱う話題は同じだが、その論点と語られ方に違いがあることがわかった。非スポンサー新聞では「感染」や「復興」の問題がオリンピック開催と直接関連するものとして語られていたが、スポンサー新聞ではそれらの問題はオリンピックとは切り離され、大会外部の出来事として位置づけられていた。 またスポンサー新聞か否かに関わらず、大会スポンサーについての議論は各紙とも消極的であり、特に新聞のスポンサーシップについては、社説では言及されず、一般記事において外部からの問題指摘として数回掲載されるにとどまった。新聞社のスポンサーシップに関する報道は、世論(世間の空気)に追随するかたちであり、特にスポンサー新聞では、言論機関としての主体性がより曖昧であったといえる。
著者
高尾 将幸
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.71-82, 2010-03-20 (Released:2016-10-05)
参考文献数
23
被引用文献数
1

1990年代後半以降、日本における健康増進政策は、「生活習慣」の改善による疾病の「一次予防」を重視するそれへと大きくシフトしてきた。そして、改正を向かえた介護保険制度も、「予防重視型システムの確立」を明確に打ち出し、筋力トレーニングを含む「運動器の機能向上サービス」を介護費削減の目玉の一つに掲げた。 本稿では、こうした政策的動向に対しミシェル・フーコーによる「統治性論」の視角を援用することで、今日の私たちの身体と健康がどのような政治のただ中にあるのかを分析した。従来のスポーツ社会学領域において、身体の政治学をめぐるフーコーの「規律権力論」は大きな影響を及ぼしてきた。そこで主流をなしたのは、身体とその表象が既存の規範的な社会関係を維持するという枠組みであった。しかし、統治性論へのフーコーの展開は、集合的な身体である人口をめぐる安全性のメカニズムと、個別的身体への規律的介入との接点が、「正常性」の導出と「規範」の変化・生成に関わっているという新たな論点を含意するものであった。 この視角を援用することで、本稿では高齢者の身体活動施策を事例に、保険制度への保健事業の組み込みを分析した。そして、保険者機能の強化の一環とされた身体活動を含む予防的保健事業が、保険者の財政的ガバナンスを維持するツールとして、さらに財の負担と配分の公平性を担保する指標として機能している点を明らかにした。 私たちの健康をめぐるリスクと責任は、リスク・テクノロジーによる統計的数値が先行することで、個人だけではなく、健康保険組合や自治体といった組織的取り組みを介して解決されるべきものになりつつある。だが、果たして現在進んでいる保険制度下での予防的保健活動は、それに携わる専門職やサービスを受ける人びとが望む健康や福祉のあり方に資するものなのだろうか。最後に、この点について実証的に問い直していく作業を今後の課題として提示した。
著者
松田 恵示 島崎 仁
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.81-94, 1994-03-10 (Released:2011-05-30)
参考文献数
22

『タッチ』は、当初より若者たちの圧倒的支持を受けたマンガである。作品の終盤、甲子園出場を最後まで争ったライバルの「ま、そのうちまた、どこかのグラウンドで会うこともあるだろう」という言葉に対して、主人公の達也は「もういいよ、疲れるから」と間を外してしまう。このシーンはいわゆる「名場面」として刻印されるシーンなのだが、このシーンの解釈は、作者と読者が共有する生きられたスポーツ経験を掘り起こすことに他ならない。本稿の課題はこの作業を通して生きられた具体的、全体的経験としてのスポーツ (行為) を社会学的に捉える視角 (特に「遊」概念に照準したもの) について考察を深めることにある。この作品は、「アジール的空間、コミュニタス的時間と、その終わり」を主題とする青春マンガである。野球と恋愛が主な素材であるが、作品の前半と後半ではその描かれ方がちがうことに気づく。ここでそれを「出来事としてのスポーツ=コケットリーの戯れ」と「物語としてのスポーツ=コケットリーのイロニー」と呼んで区別する。検討の結果、「コケットリーの戯れ」と「出来事としてのスポーツ」は非〈目的-手段〉図式上の行為として親和性を持つ。この親和性は、意味を形成する主体の不在=伝統的主体概念を出発点とした思考の外側からの視線を共有することによって生じている。この親和性が持つ伝統的な主体性に対置されるパースペクティブは、近代化が進んだ社会の現実原則が伝統的な「主体性」を背景とするものであるならば、現実社会に対向するパースペクティブでもある。それゆえこれは、青春=アジールを現すものともなりえる。非主体と反主体あるいは不主体の混同が見られるために,「出来事としてのスポーツ」というパースペクティブをうまく捉えきれていないこれまでの「遊」概念は、スポーツを理解する上で今後さらに精練されなければならない。
著者
鈴木 明哲
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.21-33, 2014-03-30 (Released:2016-07-02)
参考文献数
16
被引用文献数
5

本稿の目的は、日本スポーツ界における暴力的指導に関して、体育・スポーツ史研究及び教員養成の観点からいくつかの問題提起をすることである。 本稿による提言は以下のようにまとめられる。 1)注意すべき最も重要な点は、スポーツにおける暴力的指導に対して我々が「自己反省」の意識をもつ必要があり、これらの問題に関する全ての発端が体育やスポーツの内部に由来しているという認識をもつ必要があるということ。 2)日本のスポーツ界における暴力的指導が軍隊のシステムに由来しているという説明がなされている。が、しかし、この説明は歴史的史料に基づいておらず、実際にいつ、どのようにして学校の体育やスポーツに入ってきたのか、その過程についてはほとんどわかっていない。それゆえ我々は、史料に基づいた歴史的事実の提示をしなければならない。 3)スポーツにおける暴力的指導に関する歴史的研究が進展してこなかった理由は、問題史研究という手法に注目してこなかったからであり、我々はこの研究手法に注目する必要がある。 4)体育やスポーツのあらゆる分野で暴力のない新しい、創造的な指導法を構築するために、我々は体育やスポーツについて全く知らない多くの人々と意見を交換しなければならない。 5)教員養成系大学における学生たちの受講態度に留意することは、カリキュラム改革よりも重要である。 最後に重要な点として、本稿では以下の点を強調しておきたい。日本のスポーツ界から暴力的指導を排除することはおそらく困難であろうと思われるが、我々は、そのためには、相当に長い時間を要することを覚悟しなければならないということである。
著者
伊藤 公雄
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.17, no.1, pp.3-12, 2009-03-20 (Released:2016-10-05)
参考文献数
20
被引用文献数
1

「日本人の特異な国民性は、彼らが自らの国民性に強い関心をもっていることだ」とは、しばしば指摘されるところである。日本人の特徴という点で、戦後日本社会においてほぼ例外なく共有されているイメージに「集団主義」がある。「個人より集団を優先する傾向」としての「集団主義」という視点から、(日本人は)「個人というものが確立していない」「和を尊び、つねに集団として行動する」とする見方は、海外においても、強固なイメージとして定着している。 スポーツを通じた「日本的集団主義」論として、よく知られた著書に、ロバート・ホワイテイングによる『和をもって日本となすYou Gotta Have Wa』(初出は1989年)がある。ホワイテイングは、こうはっきりと書いている。「集団的調和、すなわち和の概念は、アメリカ野球と日本のそれとをもっとも劇的に区分するものだ。和は、すべての日本人の生活とスポーツを貫いて作用している。『他人にかまわず思い切りやれ』とか『自分の思うことをやれ』は、現代のアメリカ社会のモットーだが、日本人の信条は、よく知られた次のようなことわざに示されている。『出る釘は叩かれる』。これは、実際、国民的なスローガンなのだ」(Whiting,1989:70 伊藤訳、翻訳書ホワイティング=玉木訳、1990:115頁相当箇所)。しかし、戦前期に書かれた比較スポーツ文化論には、「剣道、柔道にしても、二人の対抗勝負であるが、西洋の競技は多人数合同して、協同的動作を要する。…一体我が国の生活は従来は個人的であり、階級的であったから、勝負事までもそうであった」(下田、1928年)といった記述もみられる。 本稿では、こうした近代日本における集団スポーツの構図を、歴史的・文化的文脈に沿いながら、現在議論されつつある社会心理学分野での研究成果などを参照しつつ、「日本的集団主義」の問題について考察を加える。その上で、1990年代のJリーグ誕生以後の日本のスポーツ・シーンにおける「集団性」の変容の兆を、現代日本社会における社会関係の変化と重ねることで、スポーツ社会学からの日本社会論へのアプローチの可能性について論じようと思う。
著者
高井 昌史
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.94-105,137, 2001-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
20
被引用文献数
1

高校野球中継の視聴者が実際に行う主体的な意味付与や、そのゆらぎを分析する際、「本当らしさ」(Verisimilitude) という概念が極めて有効である。「本当らしさ」とは、実際になにが真実なのかということではなく、支配的文化が真実であるとしている何か、あるいは一般的に信頼できるものとして受け入れられている何かを意味している。さらに「本当らしさ」は「文化的本当らしさ」(Cultural Verisimilitude) と「ジャンル的本当らしさ」(Generic Verisimilitude) に分類される。前者は、テレビドラマのようなフィクションの外にあり、我々の社会生活における常識、基準に照らした本当らしさである。それに対して後者は、フィクションの中での本当らしさである。高校野球中継を視聴するとき、世代あるいは性によって「本当らしさ」の揺れ動く方向性に特徴がある。保護者の世代、および女子高校生は高校野球を「ジャンル的本当らしさ」に近いと認識しながらも「文化的本当らしさ」として見ようとする。そこには、努力をおしまず礼儀正しい、しかも男らしい若者像、あるいは男性像を求める大衆心理が働いている。それに対して、男子高校生の中の一部は、自分自身が高校球児との比較対照とされることを怖れ、高校野球をあくまでも「ジャンル的本当らしさ」として見ようとする。さらに彼らの中には「本当らしさ」に真っ向から対立し、それを否定しようとする「反-本当らしさ」(Anti-Verisimilitude) も見られるのである。このように、「本当らしさ」とは固定化された「静的」なものではなく、常に揺れ動く可能性を秘めた「動的」なものなのである。そしてその揺れ動きは個人の主観的な意味付与だけではなく、世代、性といった要因にも大きく規定されるのである。
著者
美馬 達哉
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.7-18, 2015-03-30 (Released:2016-06-03)
参考文献数
15

「治療を超えて」生物医学的テクノロジーを健常人に対して用いることで、認知能力や運動能力を向上させようとする試みは、「エンハンスメント(Enhancement)」として1990年代後半以降から社会学や生命倫理学の領域で注目を集めている。とくにスポーツの分野では、新しいトレーニング手法、エンハンスメント、ドーピング、身体改造などの境界は問題含みの混乱状況にある。本稿では、医療社会学の観点から、まず、カンギレムの『正常と病理』での議論を援用して、正常、異常、病理、アノマリーなどの諸概念を整理し、正常/異常が文化的・社会的な価値概念であることを明確化した。 次に、スポーツと身体能力のエンハンスメントに力点を置いて、エンハンスメントをめぐる生命倫理学での議論を概観した。病者への治療(トリートメント:treatment)と健常者へのエンハンスメントを対比して、前者を肯定し後者を否定して線引きする伝統的な議論では不十分であることを、具体的実例を挙げて示した。また、資質と努力の賜物としての達成(アチーブメント:achievement)とエンハンスメントを対比して、前者の徳としての重要性を指摘する議論を紹介した。加えて、本稿は、エンハンスメントの根本問題とは何かという点で、現代社会のテクノロジーによる人間的自然の支配こそが再考されなければならないという視点に立って、エンハンスメントを超える展望を提示した。
著者
渡 正
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.25-38, 2007-03-20 (Released:2011-05-30)
参考文献数
28

本稿は車椅子バスケットボールを対象として、そのスポーツとしての「固有性」と「面白さ」がどのように達成されているかを、クラス分けというルールに焦点を当て論じたものである。ルールに関心を向ける理由としては、当事者の実践を支えているのがルールであること、またルールによって個々の行為が実践として意味あるものになるためである。個々のスポーツの「面白さ」は、課せられた条件を戦略的に克服していく過程にある。そしてその「条件を課す」のがルールである。そのためクラス分けのルールが車椅子バスケットにおいて、どのように構成されているのかを考えることで、車椅子バスケットの「面白さ」・「固有性」も見えてくる。車椅子バスケットボールのクラス分けは「各人のインペアメントを持ち点とみなす」という構成的ルールである。日常において「できない」とされるものを、持ち点という形で車椅子バスケットにおける「できること」へと変換する。試合中の5人の持ち点の合計が14点を超えてはならないというクラス分けの規定は、試合において持ち点の違いという形ではあるが、コート上にいる選手の身体の平等を達成してはいないといえるのである。だがこれこそチームの持ち点構成や他のルール、さらには車椅子という「固定的な幅」をも視野に入れた車椅子バスケットの戦術性を生み出し、それに伴う面白さを作りだす。クラス分けはこの意味で、車椅子バスケット独自の「面白さ」を生むための構成的な要件であり、車椅子バスケットの「固有性」の前提を生み出しているといえることを論じる。それには、スポーツのもつ「勝ち/負け」のコード、競争という要素の存在が重要であることを指摘した。最終的には、本稿は、記録の達成や競争での勝敗を単純に否定してしまわない、つまりスポーツのもつ「勝ち/負け」というコードを中心に据えた adapted sports の可能性を指摘する。