著者
藤澤 益夫
出版者
田園調布学園大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13477781)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-49, 2003-03-20

絶対に一過性の時間の流れのなかで,その速度を相対的に緩める努力の典型が情報の領域をめぐってみられる。それは,伝達速度改善の永い道程をへて,いまでは情報の生産と処理の全面におよぶが,情報伝達の即時性を高めるさまざまな工夫の文化史を近世日本を中心にして具体的にふりかえり,現代の情報社会のもつ社会的意味を考える。それを通じて,時間という資源の利用効率の飛躍的向上が拓く広大な可能性を評価し,反面で,管理社会での情報の集中的な支配と操作がもたらす危うさを問いかける。
著者
木山 愛莉
出版者
長崎純心大学・長崎純心大学短期大学部
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-13, 2006-03-01

近代中国は列強の侵略によって瓜分(分割)される危機に立たされていた。中国を亡国の危機から救うため,いちもく早く国民性の問題に気づいた梁啓超は,進んだ西洋の技術を取り入れることだけでは限界があることに気づき,独立国家を建設するため,まず国民性を改造し,独立自尊の国民を育てなければならないと考えた。梁啓超は,明治時代の日本における14年間に及ぶ亡命生活を体験し,当時の日本の思想家から多大な影響を受けながら,西洋思想も受容し,それを彼の国民性改造の取り組みにも生かされた。本稿は彼が国民性の改造において,もっとも注目した奴隷根性と愛国心という相対する二つの概念を軸に分析し,彼の国民性改造の思想を明らかにせんとしたものである。彼は,中国が数千年にわたって極めて衰え弱まったことについて,最大の原因は中国の古い慣習などによる人々の心に染み込んだ奴隷根性にあると分析し,その奴隷根性こそ,人々の自由人としての人格を奪い,自ら自己の権利を放棄するという弊害をもたらしたと指摘した。彼は国民性を改造するに当たって,最大の課題はその奴隷根性を取り除くことであると認識し,民権,つまり自由権の伸張を主張した。それは古い慣習を打ち破り,古人の束縛から抜け出して,他人に頼らず,自己の独立を確立することである。梁啓超は個人の独立を推し進めてこそ,はじめて一国の独立が実現できると認識し,己を愛する心から国を愛する心を喚起し,民衆に国家の一員である自覚を持つよう呼びかけたのである。
著者
貴田 美鈴
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.83-97, 2007-12-23

本稿は、里親制度不振をめぐる従来の議論への再考を目的とし、社会福祉の政策展開に着目して、政策主体による里親制度の位置づけとその意図を検討した。1960年代には、政策主体は里親制度の意義を強調するも、その運用方法を図りかね、里親施策はほとんど進展しなかった。一方で、政策主体は養護施設の規模縮小など見直しに対する反対運動を受けるなか、1960年代末には、里親制度重視の方向性を弱めていった。また、1973年に東京都で「養育家庭制度」が開始され、要養護児童サービスにおいてコミュニティケアの具現化が提起されたが、政策主体は里親施策に反映させることはなかった。1974年以降には、社会情勢に即応した里親制度の効果的な運用として短期里親を新設したが、里親委託を全国里親会によって展開させ、公的責任を希薄にしていった。短期里親の運用は養護問題に対する政策主体の表向きの対応を示したに過ぎなかった。1983年以降、社会福祉政策に民間活力やボランティア活動が導入され、社会福祉が拡大されると、里親制度をボランティア活動と明言したのである。また、里親委託促進を全国里親会の役割に位置づけ、公的責任を縮小させている。すなわち、1960年代から1980年代の政策主体による里親制度の位置づけは、養護問題や運動に基づくものとはいいがたく、大筋では社会福祉の政策展開に連動したものであった。
著者
森 哲彦
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.1-18, 2007-06-23

カント著書『純粋理性批判』を解読するに際し、カント哲学前批判期をどう取り扱うかについて、二つの問題が見られる。その際、まずカントのどの著作から取り扱うべきか、これが第一の問題である。さてカントは1781年のヘルツ宛の手紙で、批判期の『純粋理性批判』にあっては「(1770年著作)『可感界と可想界』という標題のもとで私たちが一緒に論究した....研究の成果を含む」とする。また1783年のガルヴェ宛の手紙や同年のメンデルスゾーン宛の手紙でも『純粋理性批判』について「少なくとも12年間に渡る反省の所産」であるとする。このことから『純粋理性批判』解明のための有効な方途として、前批判期を狭義には1770年著作『可感界と可想界』をもって始めるとする論者もある。 しかし広義に考えれば『純粋理性批判』で、認識対象でなく方法が重視される点は、早くもカントの1747年処女作『活力測定考』に見られるところである。また神の存在証明の問題も1755年著作『天界自然史論』に伺える。このことから本論では、広義の観点から解明する。この広義の立場を取るものに、例えば、カッシーラー(1918)、シュルツ(1965)、カウルバッハ(1969)、浜田義文(1967)、高橋昭二(1969)の諸研究がある。次に1755年著作『形而上学的認識の第一原理の新解明』は、大半が矛盾律、同一律、決定根拠律という形式論理学を論述するものであり、『純粋理性批判』の内容に直接的に関連しないためか、従来論評されることは少ない。例えば、カッシーラーやカウルバッハは、他のカントの著作に比してこの著作を簡単に取り扱う。これが第二の問題である。 しかしこの著作はカントの最初の形而上学の可能性を論究したものであるゆえ、本論では他の著作を同様に取り上げる。なおヤスパース(1957)は、カント哲学前批判期の諸著作のうち、この著作から論評している。
著者
菅原 真
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.125-134, 2011-06-30
著者
山本 淳子
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
no.38, pp.242-216, 2017-03-10
著者
成田 徹男
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.109-120, 2013-06-30

本稿では、「おぼうさん」「おてつだいさん」「おつかれさん」など、接頭辞「お~」および接尾辞「~さん」の両者をともなう、現代日本語の一群の語彙について、その意味用法を整理し、形態的なバリエーションの偏りなどを考察した。その結果、「固有名詞」の「人名」については、形態の変異が豊富であるのに対し、「固有名詞」の「神仏」については変異がとぼしくかなり一語化している、「親族呼称・親族関係」については「親族Ⅰ類」は形態の変異がかなりあるのに対して「親族Ⅱ類」は変異がとぼしくかなり一語化している、「職業・地位・性質」についてはかなり一語化している、「擬人化など」については、「おつきさま」「おつかれさま」のようにかなりかなり一語化しているものと、「おにんぎょうさん」のように、形態的変異があるものとがある、というように整理できた。
著者
成 玖美
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.43-56, 2005-01-14

アメリカの大学が地域サービスを重視しながら大学エクステンションを発展させてきたことはよく知られている。しかし南部黒人集住地域の地域開発に寄与した黒人大学のエクステンションについては、従来、等閑視されてきた。本稿は19世紀末から20世紀にかけてのタスキーギ学院におけるエクステンション活動を、地域開発教育の視点から検討するものである。タスキーギ学院は、タスキーギ黒人会議および地区会議ネットワーク、および数種の農業技術指導講習会を通して、農村生活改善に尽力した。また家庭を支える女性の役割を重視し、母親集会やセツルメントなどを通して、女性の意識向上に努めた。さらには地域図書館設立や農村公立学校の改善指導など、さまざまな形で地域開発教育を展開した。こうした実践は、学習機会が圧倒的に乏しく、差別の厳しい環境における切実な地域開発教育実践として評価されると同時に、体制内改良主義的教育としての限界をも持つ。それは現代多文化主義教育が構想される以前の、「近代」マイノリティ成人教育の光と影を示していよう。一方で、タスキーギ学院のエクステンションは、大学の専門性の地域還元という性格だけでなく、より幅広い対象へのアプローチを展開させており、地域開発の総合的教育機関としての役割を担っていたとも解される。地域開発を梃子として人種の地位向上を目指した、南部農村地域における黒人大学エクステンションの歴史的性格を、検討する。
著者
楢﨑 洋一郎
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.129-143, 2010-06-30

日本の指導要録・調査書の開示請求をめぐる議論に、アメリカ合衆国の「家族の教育上の権利およびプライヴァシーに関する法律」いわゆる「FERPA」が影響を与えた。本稿では、まず、FERPAについて解説を付し、次に、「教育記録」の定義と第三者開示が争点となったファルヴォ事件連邦最高裁判所判決(Owasso Independent School District No.I-11 v. Falvo(2002))の全訳を示した。最高裁判所判決の最大の意義は、学校で教員が用いる教育学的な根拠のある教育方法が、プライヴァシーの権利の概念から過度の制約を受けないように配慮したことである。近代以降の学校教育は集団で行われてきており、その教育学的な意義・効果にも十分留意せねばならない。
著者
佐々木 英哲
出版者
桃山学院大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:21889031)
巻号頁・発行日
no.4, pp.93-121, 2016-02-26

In "Mosses from an Old Manse" (1846), Nathaniel Hawthorne (1804-64) paradoxically dropped off his mask to blurt, "So far as I am a man of really individual attributes, I veil my face." In making sure of his hidden undissembled intention regarding the author-reader communion, this paper treats "The Minister's Black Veil" (1836), a short fiction written during Hawthorne's apprenticeship to become a professional writer. "The Minister's Black Veil" depicts the unintelligible behavior of the Reverend Hooper, who wears a black veil. Critics are divided over the problem of whether Hooper merits praise or harsh criticism. Existentially aware of the meaning of life, or to use Heidegger's phraseology, Dasein, Hooper warns his parishioners, it seems, of how foolish it is to stay ignorant in plausibly blissful daily activities. If closely inspected, however, Hooper is far from being an Existentialist. He forcefully imposes the same identity as sinners on one and all parishioners, in the name of Puritanism and its dogmatic doctrine, the notion of total depravity. He shows unawares his totalitarian inclination toward essentialism ---- the sort of attitude that Existentialists denounce. Furthermore, he neglects to hold communion with his parishioners and even with God, and thus incarcerates himself in his own solipsistic realm. When we recall the author's above-mentioned confession of "I veil my face," we confront this question: How close is Hawthorne to Hooper the veiled minister? The Deconstructionist Paul de Man points out that, because of its etiological definition of speaking about something other than itself, the deconstruction of the allegory is part of the allegory itself. From this perspective, we can understand that it is impossible for Hooper to allegorically represent the w/Word(s) (of God), the Origin, and the Cause (of Sin) with the use of his black veil, the proxy, symbol, letter, and or language with which he hopes to allegorically convince the congregation of the Puritan notion of total depravity. Aware of how he appears to the eyes of his parishioners, Hooper stops associating with them. He is openly avoided and secretly ridiculed by men and women, young and old. In these adverse circumstances, the degree of their misapprehension over the reason for his veil deepens all the more. In a negative way, Hooper exemplifies the process of what the leading Deconstructionist Jacques Derrida calls "Differance" and attests to Derrida's insistence that allegory deconstructs itself. More than a decade after publishing this story, Hawthorne became a canonical writer by dint of his masterpiece, The Scarlet Letter (1850). But around this time he also suffered severe hardships, most of which sprang from misunderstanding on the part of his contemporaries : he was expelled from the sinecure position at the custom house, targeted in a hate campaign by Charles Upham, and incurred the displeasure of locals through his sarcastic depiction of the locally employed officers at the custom house. Moreover, since the 1980s, Hawthorne's support for Franklin Pierce, the notoriously pro-lavery politician who went on to win the presidency, has induced left-minded critics to undermine the writer's literary reputation. In his apprenticeship to become a professional writer, Hawthorne already depicted his future self in the image of Hooper. Portraying both Hooper's liability to be a victim of misapprehension and his resigned acceptance of this fate, the author predicted the fate that was to befall him later in life and after his death. Through the Reverend Hooper, Hawthorne paradoxically allegorized his own nature of veiled otherness in the form of desacralized allegory/parable, and conveyed the difficulty of how to face the unexposed foreign self.
著者
鈴木 順子
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.113-126, 2007-12

現代の家族を特徴づけるものは核家族である。戦後の高度経済成長は急激な工業化や都市化を招き、都市への人口集中をもたらし、またその都市化の進行は家族形態を大家族から核家族へと移行させた。近年、それに加え、少子化傾向が見られ、政府はこの状況に対し、様々な子育て支援策を講じてきたが働く母親や育児負担を抱えている母親にとって充分な施策が行われているとはいえない。本稿では、この中で自治体の取り組みの一つであるファミリー・サポート・センターに焦点を当てる。このファミリー・サポート・センターが少子化対策の一つとして、また子育て支援システムの中でどのように子育てを支援し、位置づけがなされているか、実践報告を基に検討することで、ファミリー・サポートの住民相互援助という新しい形態が今後の子育て支援に重要な役割を果たしていくと考えている。
著者
三浦 哲司
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.1-18, 2014-07-31

わが国の大都市では現在、小学校区や中学校区において、地縁団体関係者とともに市民活動団体関係者が参加する地域住民協議会の設立が進んでいる。大阪市でも2012年度から、本格的に市内全域で大阪市版の地域住民協議会である「地域活動協議会」の設立を進めてきた。しかし、性急な協議会設立のうごきに対して地域の側の理解が深まっておらず、大半の協議会が試行錯誤している状況にある。そのようななかで、鶴見区の緑地域活動協議会は自主財源を確保しながら多面的な活動を実践している。そこで、この協議会について検証したところ、1)協議会設立以前からの地域活動の蓄積が協議会活動のあり方を左右する、2)活動の持続性向上には自主財源の確保が求められる、3)必要に応じた外部主体との連携が地域住民協議会にとって有効となる場合もある、という示唆を抽出することができた。今後の研究では、他事例との一致比較や差異比較を視野に入れながら、引き続き協議会活動の活性化要因の解明を進めていきたい。
著者
久田 健吉
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.61-75, 2003-01-10

この研究は、ヘーゲル研究にとって画期をなすものと自負する。本論末尾の「緒論攷」でまとめたように、『人倫の体系』は難解な書、挫折の書、シェリング哲学残滓の書とされ、イエナ実在哲学との関連で、そういうものだろう程度の研究しかなされていない。しかし人倫の体系は、挫折どころか、ヘーゲル哲学の根幹をなす研究をなしている。ヘーゲルはこの書物で問題にしたのは、人間による「絶対的人倫の理念の認識」だった。この認識に至る道は概念の絶対認識を通してであって、この認識を通して民族(国家)を自覚し、人間は民族(国家)を形成するとする。そしてこれを可能にするものこそは「直観と概念の相互包摂」である。直観とは人間の主観性、概念とは客観世界。人間は己を貫こうとして、客観世界に己を対置する。 しかしこの時、真に己を貫こうとしたら、客観世界に即して己を貫くのでなければならないことを知る。これが「直観による概念の包摂」から「概念による直観の包摂」への逆転であって、こうあることが直観による概念の真の包摂だと人間は自覚する。これが人倫の体系で問題にされたことであった。ヘーゲル哲学は精神の哲学と言われる。この研究の上に立つなら、精神が実現してきた世界理性をわがものとしてこそ真の実存、真の哲学と説いていることがよく分かる。私はヘーゲル研究において、新たな地平を提起したと自負する。
著者
伊藤 静香
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.99-107, 2013-06-30

日本におけるジェンダー平等政策は、新自由主義的改革が展開した時代と同時期に「男女共同参画」という国策で進められた。特に日本の経済活性化のために、女性の労働力活用が求められ、女性の就労を支援するさまざまな法・制度の整備が進められた。しかしながら、経済的・政治的にも女性の参画や男女の格差解消は十分ではない。「日本的経営」でオイルショックによる経済危機を乗り切った日本では、ジェンダー分業を内包したまま女性の労働力活用が促進され、新自由主義的改革のもとで女性の自立と社会参画をめざす「男女共同参画」政策が進められた。その結果、女性たちは男性社会のルールの中で、「競争」と「選別」を余儀なくされ、その選択は「自己責任」に帰されている。筆者が研究テーマとする女性/男女共同参画センターにおける労働現場では、低賃金・非正規雇用の問題などが指摘され、女性の就労における課題の典型であると言われている。本研究ノートは、筆者の研究テーマである女性/男女共同参画センターのあり方に対する視角を固めることを目的として、日本における新自由主義的改革と男女共同参画政策の関係性に焦点をあてた研究成果をアメリカのフェミニスト理論家であるナンシー・フレーザーの論考からヒントを得て、整理・検討を試みた。
著者
伏見 嘉晃
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.155-168, 2004-01-10

個人の「自由」、そして「自立」、これらは所与のものなのであろうか。近代以降、それらは個人が他者との関係のうちでみずから形成獲得してきたものである。こうしたことを考えると、各人が己の「自由」や「自立」を求めることは、他者との関係を必然的なものとして捉えることにつながると考えられる。このようにして「人間関係」、つまり個人と個人との関係(繋がり)を基礎とする社会は構築されると考えられる。すなわち、これが近代以降みられる「共同性」のあり方であると思われる。しかし、この「共同性」は漠然としたもしくは強制的な「人間関係」によるものであってはならない。諸個人が相互に尊重しあう関係を必然とする「共同性」でなくてはならないと思われる。なぜならば、「人間関係」のうちに諸個人の「自由」と「自立」が保障される必要があるからである。以上を考慮に入れると、「自由」と「自立」そして「共同性」を解明することは、諸個人がどのように他者との関係を形成するのか、ということの検証であろう。こうした理由により、諸個人間に展開される「承認」のあり方の考察の必要性が浮かび上がると思われる。以上の理由から、若きヘーゲルが本格的に検討をはじめた『イェーナ体系構想』に見られる「承認論」の考察を試みたいと思う。この考察により、「市民社会(社会一般としての)」の本性の一端も明らかになるであろう。