著者
成 玖美
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.43-56, 2005-01-14

アメリカの大学が地域サービスを重視しながら大学エクステンションを発展させてきたことはよく知られている。しかし南部黒人集住地域の地域開発に寄与した黒人大学のエクステンションについては、従来、等閑視されてきた。本稿は19世紀末から20世紀にかけてのタスキーギ学院におけるエクステンション活動を、地域開発教育の視点から検討するものである。タスキーギ学院は、タスキーギ黒人会議および地区会議ネットワーク、および数種の農業技術指導講習会を通して、農村生活改善に尽力した。また家庭を支える女性の役割を重視し、母親集会やセツルメントなどを通して、女性の意識向上に努めた。さらには地域図書館設立や農村公立学校の改善指導など、さまざまな形で地域開発教育を展開した。こうした実践は、学習機会が圧倒的に乏しく、差別の厳しい環境における切実な地域開発教育実践として評価されると同時に、体制内改良主義的教育としての限界をも持つ。それは現代多文化主義教育が構想される以前の、「近代」マイノリティ成人教育の光と影を示していよう。一方で、タスキーギ学院のエクステンションは、大学の専門性の地域還元という性格だけでなく、より幅広い対象へのアプローチを展開させており、地域開発の総合的教育機関としての役割を担っていたとも解される。地域開発を梃子として人種の地位向上を目指した、南部農村地域における黒人大学エクステンションの歴史的性格を、検討する。
著者
楢﨑 洋一郎
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.129-143, 2010-06-30

日本の指導要録・調査書の開示請求をめぐる議論に、アメリカ合衆国の「家族の教育上の権利およびプライヴァシーに関する法律」いわゆる「FERPA」が影響を与えた。本稿では、まず、FERPAについて解説を付し、次に、「教育記録」の定義と第三者開示が争点となったファルヴォ事件連邦最高裁判所判決(Owasso Independent School District No.I-11 v. Falvo(2002))の全訳を示した。最高裁判所判決の最大の意義は、学校で教員が用いる教育学的な根拠のある教育方法が、プライヴァシーの権利の概念から過度の制約を受けないように配慮したことである。近代以降の学校教育は集団で行われてきており、その教育学的な意義・効果にも十分留意せねばならない。
著者
佐々木 英哲
出版者
桃山学院大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:21889031)
巻号頁・発行日
no.4, pp.93-121, 2016-02-26

In "Mosses from an Old Manse" (1846), Nathaniel Hawthorne (1804-64) paradoxically dropped off his mask to blurt, "So far as I am a man of really individual attributes, I veil my face." In making sure of his hidden undissembled intention regarding the author-reader communion, this paper treats "The Minister's Black Veil" (1836), a short fiction written during Hawthorne's apprenticeship to become a professional writer. "The Minister's Black Veil" depicts the unintelligible behavior of the Reverend Hooper, who wears a black veil. Critics are divided over the problem of whether Hooper merits praise or harsh criticism. Existentially aware of the meaning of life, or to use Heidegger's phraseology, Dasein, Hooper warns his parishioners, it seems, of how foolish it is to stay ignorant in plausibly blissful daily activities. If closely inspected, however, Hooper is far from being an Existentialist. He forcefully imposes the same identity as sinners on one and all parishioners, in the name of Puritanism and its dogmatic doctrine, the notion of total depravity. He shows unawares his totalitarian inclination toward essentialism ---- the sort of attitude that Existentialists denounce. Furthermore, he neglects to hold communion with his parishioners and even with God, and thus incarcerates himself in his own solipsistic realm. When we recall the author's above-mentioned confession of "I veil my face," we confront this question: How close is Hawthorne to Hooper the veiled minister? The Deconstructionist Paul de Man points out that, because of its etiological definition of speaking about something other than itself, the deconstruction of the allegory is part of the allegory itself. From this perspective, we can understand that it is impossible for Hooper to allegorically represent the w/Word(s) (of God), the Origin, and the Cause (of Sin) with the use of his black veil, the proxy, symbol, letter, and or language with which he hopes to allegorically convince the congregation of the Puritan notion of total depravity. Aware of how he appears to the eyes of his parishioners, Hooper stops associating with them. He is openly avoided and secretly ridiculed by men and women, young and old. In these adverse circumstances, the degree of their misapprehension over the reason for his veil deepens all the more. In a negative way, Hooper exemplifies the process of what the leading Deconstructionist Jacques Derrida calls "Differance" and attests to Derrida's insistence that allegory deconstructs itself. More than a decade after publishing this story, Hawthorne became a canonical writer by dint of his masterpiece, The Scarlet Letter (1850). But around this time he also suffered severe hardships, most of which sprang from misunderstanding on the part of his contemporaries : he was expelled from the sinecure position at the custom house, targeted in a hate campaign by Charles Upham, and incurred the displeasure of locals through his sarcastic depiction of the locally employed officers at the custom house. Moreover, since the 1980s, Hawthorne's support for Franklin Pierce, the notoriously pro-lavery politician who went on to win the presidency, has induced left-minded critics to undermine the writer's literary reputation. In his apprenticeship to become a professional writer, Hawthorne already depicted his future self in the image of Hooper. Portraying both Hooper's liability to be a victim of misapprehension and his resigned acceptance of this fate, the author predicted the fate that was to befall him later in life and after his death. Through the Reverend Hooper, Hawthorne paradoxically allegorized his own nature of veiled otherness in the form of desacralized allegory/parable, and conveyed the difficulty of how to face the unexposed foreign self.
著者
鈴木 順子
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.113-126, 2007-12

現代の家族を特徴づけるものは核家族である。戦後の高度経済成長は急激な工業化や都市化を招き、都市への人口集中をもたらし、またその都市化の進行は家族形態を大家族から核家族へと移行させた。近年、それに加え、少子化傾向が見られ、政府はこの状況に対し、様々な子育て支援策を講じてきたが働く母親や育児負担を抱えている母親にとって充分な施策が行われているとはいえない。本稿では、この中で自治体の取り組みの一つであるファミリー・サポート・センターに焦点を当てる。このファミリー・サポート・センターが少子化対策の一つとして、また子育て支援システムの中でどのように子育てを支援し、位置づけがなされているか、実践報告を基に検討することで、ファミリー・サポートの住民相互援助という新しい形態が今後の子育て支援に重要な役割を果たしていくと考えている。
著者
三浦 哲司
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.1-18, 2014-07-31

わが国の大都市では現在、小学校区や中学校区において、地縁団体関係者とともに市民活動団体関係者が参加する地域住民協議会の設立が進んでいる。大阪市でも2012年度から、本格的に市内全域で大阪市版の地域住民協議会である「地域活動協議会」の設立を進めてきた。しかし、性急な協議会設立のうごきに対して地域の側の理解が深まっておらず、大半の協議会が試行錯誤している状況にある。そのようななかで、鶴見区の緑地域活動協議会は自主財源を確保しながら多面的な活動を実践している。そこで、この協議会について検証したところ、1)協議会設立以前からの地域活動の蓄積が協議会活動のあり方を左右する、2)活動の持続性向上には自主財源の確保が求められる、3)必要に応じた外部主体との連携が地域住民協議会にとって有効となる場合もある、という示唆を抽出することができた。今後の研究では、他事例との一致比較や差異比較を視野に入れながら、引き続き協議会活動の活性化要因の解明を進めていきたい。
著者
久田 健吉
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.61-75, 2003-01-10

この研究は、ヘーゲル研究にとって画期をなすものと自負する。本論末尾の「緒論攷」でまとめたように、『人倫の体系』は難解な書、挫折の書、シェリング哲学残滓の書とされ、イエナ実在哲学との関連で、そういうものだろう程度の研究しかなされていない。しかし人倫の体系は、挫折どころか、ヘーゲル哲学の根幹をなす研究をなしている。ヘーゲルはこの書物で問題にしたのは、人間による「絶対的人倫の理念の認識」だった。この認識に至る道は概念の絶対認識を通してであって、この認識を通して民族(国家)を自覚し、人間は民族(国家)を形成するとする。そしてこれを可能にするものこそは「直観と概念の相互包摂」である。直観とは人間の主観性、概念とは客観世界。人間は己を貫こうとして、客観世界に己を対置する。 しかしこの時、真に己を貫こうとしたら、客観世界に即して己を貫くのでなければならないことを知る。これが「直観による概念の包摂」から「概念による直観の包摂」への逆転であって、こうあることが直観による概念の真の包摂だと人間は自覚する。これが人倫の体系で問題にされたことであった。ヘーゲル哲学は精神の哲学と言われる。この研究の上に立つなら、精神が実現してきた世界理性をわがものとしてこそ真の実存、真の哲学と説いていることがよく分かる。私はヘーゲル研究において、新たな地平を提起したと自負する。
著者
伏見 嘉晃
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.155-168, 2004-01-10

個人の「自由」、そして「自立」、これらは所与のものなのであろうか。近代以降、それらは個人が他者との関係のうちでみずから形成獲得してきたものである。こうしたことを考えると、各人が己の「自由」や「自立」を求めることは、他者との関係を必然的なものとして捉えることにつながると考えられる。このようにして「人間関係」、つまり個人と個人との関係(繋がり)を基礎とする社会は構築されると考えられる。すなわち、これが近代以降みられる「共同性」のあり方であると思われる。しかし、この「共同性」は漠然としたもしくは強制的な「人間関係」によるものであってはならない。諸個人が相互に尊重しあう関係を必然とする「共同性」でなくてはならないと思われる。なぜならば、「人間関係」のうちに諸個人の「自由」と「自立」が保障される必要があるからである。以上を考慮に入れると、「自由」と「自立」そして「共同性」を解明することは、諸個人がどのように他者との関係を形成するのか、ということの検証であろう。こうした理由により、諸個人間に展開される「承認」のあり方の考察の必要性が浮かび上がると思われる。以上の理由から、若きヘーゲルが本格的に検討をはじめた『イェーナ体系構想』に見られる「承認論」の考察を試みたいと思う。この考察により、「市民社会(社会一般としての)」の本性の一端も明らかになるであろう。
著者
村井 忠政
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.49-69, 2006-12-24

1965年のアメリカ合衆国の移民法改正は、それ以前の人種差別的移民制限法の下で保たれてきていたエスニック集団間の均衡を突き崩すという結果をもたらした。65年移民法体制の下、1970年代の合衆国は合法移民、「不法」移民、そして難民を合わせて恐らくは毎年100万を越えると推定される新しい移民の波に見舞われ、ラテンアメリカからのヒスパニックや従来ほとんど認められていなかったアジア系移民の激増を見ることとなったからである。1970年代以降、20世紀初頭の第一の移民の大波に次ぐ第二の大量移民時代にアメリカ合衆国が突入したことを受けて、アメリカの移民研究は現在新しい段階に入っている。本稿では、現代アメリカ合衆国のラテンアメリカとアジアからの「新移民」の同化をめぐる社会学的実証研究に精力的に取り組み、目覚しい成果を挙げているキューバ系アメリカ人社会学者アレハンドロ・ポルテスに着目し、彼の移民の同化をめぐる議論に焦点を当てることにする。本稿のねらいは、(1)アメリカ合衆国における20世紀初頭の新移民と現代の「新移民」の比較考察をすることで、現代の「新移民」の同化が持つ多様性、独自性を明らかにすること、(2)さらに、これら「新移民」の第二世代に当たる子どもたちが、現代アメリカ社会に適応し、社会経済的地位を向上させていくためには、いかなる条件が必要とされるかを明らかにすることにある。
著者
有賀 克明 水野 恵子 山田 美香
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.171-183, 2006-12-24

香港の幼児教育改革で特徴的なのは、幼保一元化(調和)が行政レベルでは既に2004年から開始されていることである。現在の就学前教育・保育は、教育統籌局Education and Manpower Bureauの管轄の幼稚園Kindergarten、社会福利署管轄の幼児園・幼児センターChildcare centerに二分される。2005年9月に両者の行政組織を調和harmonizationさせた。質の高い幼稚園は当然人気が高い。しかし多くの家庭はメイドを雇っていて、その数は20数万人にものぼるため、幼児園(幼児センター)等の役割は相対的に低く、政府による就学前教育への投資は抑制しがちになる。メイドの平均月給は3,500香港ドル(以下、ドルと略称、1ドル=16円程度)前後で、全日制幼児園の平均的な学費2,000数百ドルより高いが、メイドが家事全般をこなしてくれることを考えると割安と言えるので、幼児園よりメイドを選ぶ家庭が多くなるのも当然であろう。
著者
鋤柄 増根
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.31-46, 2006-01-10

性格記述用語(136語)の反対語を大学生177名に調査した.その結果,相互に反対語どおしの関係にある対と,反対語がなかったり,拡散してしまうものがあった.この結果は,性格記述用語が表すと考えられる性格特性次元が双極性か単極性かに関連しており,反対語どおしの関係にある対は双極性を表す性格次元であり,反対語のない刺激語が表す次元は単極性であるといえる.この結果は性格次元の構造を明らかにするのに利用できるだけでなく,質問紙法で反応の偏りである黙従傾向を防ぐのによく使われる逆転項目の作成にも利用できるものである.
著者
手嶋 大侑
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
no.23, pp.38-58, 2015-03-30

「三宮」は通常、太皇太后・皇太后・皇后の総称とされているが、史料を見ると、太皇太后・皇太后・皇后を指していない事例に多く出会う。この問題を解くために、各時代の史料を検討した結果、「三宮」の語は時代によって概念が変化していたことがわかった。すなわち、藤原威子の立后以前においては「三宮」は「三つの宮」の意で使用されており、「宮」と称されるものは「三宮」に含まれることがあった。そして、威子の立后以降、「三宮」は徐々に「三后」と同意語であるとの認識が浸透していき、十五世紀には完全に定着した。また、「三宮」概念に関連して、「准后」と「准三宮」も考察し、封千戸を与えることは「准后」に付随し、年官年爵は「准三宮」に付随することも指摘した。
著者
平 雅行
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
no.40, pp.350-296, 2018-03-10
著者
西村 俊範
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
no.39, pp.139-159, 2017-12-20
著者
梶田 美香
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.127-140, 2008-06-25

音楽科教育は表現領域と鑑賞領域に大別されているが、鑑賞教育は常に表現領域と比べて軽視される傾向にある。これは教材選択や評価方法などについての困難が大きな要因のようだが、根底には音楽の持つ抽象性や鑑賞行為が極めて個人的であるという特性との関連があるのではないだろうか。本稿では、はじめにアメリカで論争となった音楽教育哲学の二つの音楽観(美的音楽教育とプラクシス的音楽教育)を提示する。ベネット・リーマーの掲げる美的音楽教育は1980年代のアメリカで支配的な音楽教育観となったものであるが、音楽至上主義とも言えるこの教育観は、美的経験こそが音楽教育の目指すものであるとするもので、そのためには音楽の構造理解こそが必要であるとの立場である。これに対して音楽が社会の中で何らかの意義を持っているとの立場に立ったのがディヴィッド・J・エリオットのプラクシス的音楽教育である。これは音楽の実用性を指すものではなく、個人の目的に応じた「正しい行為」としての音楽との関わりを指している。この二人の音楽観は「本質知」と「行動知」の対立としてアメリカで音楽教育哲学論争を引き起こすものとなった。筆者はこの二つの音楽観から日本の鑑賞教育への何らかの示唆があるのではないかと考え、学習指導要領(音楽科)が掲げる目標と内容を分析し、本稿で課題の提示を試みる。