著者
川田 耕
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
vol.37, pp.178-149, 2016-12-10
著者
福島 利奈子
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.161-175, 2011-02-01

現代ではあまり馴染みのないコルセットだが、昔の女性たちには欠かすことのできないものだった。コルセットの歴史は長く、中世以降、衣服における男女差が確立し、女性の身体の曲線美をコルセットの使用によって表現するようになった。一時は鳴りを潜めていたコルセットだが、その後復活し、女性には「女らしさ」が求められ、長く着用されていくことになる。女性は社会的に抑圧された存在であり、女性たちが求められた女らしさは、男性の視線によって理想化されたものであった。そして、人々が装うのは、身体を保護するというためだけではなく、社会的な属性や地位等の表現手段ともなっていた。その後、次第に女性の衣服改革が起こるようになる。女性のライフスタイルの変化が理想の女性像まで変え、自然で直線的な身体の表現へと移行した。第一次世界大戦を境に、より女性の社会進出は進み、仕事に適さないコルセットや丈の長い衣服は消えていく。その過程を、コルセットの追放に貢献したとされるアメリア・ブルーマー、ポール・ポワレ、ガブリエル・シャネルの三人に焦点を当てて検討する。以上の問題を踏まえて、近代から現代にいたるまで長きに亘って女性が身につけてきたコルセットとはどのようなものであったのか、そしてそのコルセット着用の要因と、それほどまでに広く普及していたコルセットを女性たちがどのように脱ぎ捨ててきたのかを考察する。
著者
村田 志保
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.119-133, 2012-12-21

「お忙しいですね。」「お元気ですか。」など、ごく自然に会話のなかで使われる。これらは形容詞の敬語表現であり使用頻度も高いのだが、日本語教育において、形容詞の敬語教育を体系的に導入している教材は数少ない。また「お/ご」の選択に関しても、「お」は和語で「ご」は漢語であるといった語種による判別しか今のところ基準はないので、その基準を導入せざるを得ない。しかし実際には語種だけでは判別しにくい、「?おおもしろい」「?おシンプルな」「?ご危険な」というような、「お/ご」の付きにくい例もある。本稿では初級教材で扱われている形容詞を抽出した約150語を初級形容詞とし形容詞の意味的な側面、そして文法的な側面より「敬語としての形容詞分類」、「形容詞の敬語表現」、「「お/ご」の付加」の3点を軸に考察を進め、2つの考察結果が得られた。「(お/ご)~ て/でいらっしゃる」は「?社長のおかばんは大きくていらっしゃる。」のように、高めようとする人を主語にはせず、「もの」のときには「お/ご~ です」を選択する傾向が強いことがわかった。また「お/ご」は初級形容詞の範囲では「外来語」「「お」で始まる語」には付かず、その他の条件である「モーラ数の多い語」「悪感情を持つ語」「ある意味の語」はあくまで付かない傾向にあるというに留まり、条件として提示するには例外も多いことがわかった。
著者
鈴木 明美
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.13-24, 2008-06

本稿は、明治期に渡豪した初期移民、柏木坦の半世紀にわたる足跡を考察し、オーストラリアにおける日本人移民史の一端を明らかにすることを目的とする。オーストラリアにおける日本人移民は、北部のトレス海峡に位置する木曜島で真珠貝採取業に従事した自由・契約労働移民とクィーンズランド州のサトウキビ農園で契約労働に従事した人々に大別できる。移民のなかには、オーストラリアに定住し、実業家となったり、契約労働期間終了後に別の事業に従事した人々がいる。これらの人々は、連邦結成後、白豪主義が導入されたオーストラリアで、外国人登録をして生活していたが、第二次世界大戦開戦と同時に、「日本人」であることを理由に、「敵性外国人」として強制収容された経験を持つ。終戦後、ほとんどの「日本人」が本国送還されたが、木稿で取り上げる柏木坦は、オーストラリア人の妻とオーストラリア生まれの娘がいたことなどを理由に、残留を許可された少数の「日本人」のうちの一人である。和歌山県出身の柏木は、木曜島で日本人コミュニティーのリーダー的存在として活躍後、ブリスベンで実業家として成功した。オーストラリア連邦公文書館には、敵性外国人として強制収容された「日本人」の個人ファイルが保管されており、一部を除いて公開されている。木稿は、公文書館のファイルをもとに、オーストラリアにおける日本人移民史を個人の記録から読み解こうとするものである。
著者
成田 徹男 榊原 浩之
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.41-55, 2004-01-10

現代日本語の表記原則では、およそ次の3つの規則がある。規則1:漢語は「漢字」で書け。規則2:和語は「漢字」または「ひらがな」または「両者の交ぜ書き」で書け。規則3:外来語は「カタカナ」で書け。つまり、当該語の、語種の認定が前提となっているのである。 しかし、最近ではこの規則に合致しない、和語や漢語のカタカナ表記例が多くなっている。それをインターネット上の新聞・雑誌などのサイトに見られる実例について調査して、延べで2119語、異なりで855語の例を得た。そのような表記がさかんになされる背景には、語種以外の、語の分類を、表記文字の使い分けの基準とするような意識があると考えられる。そこで、上記のような規則とは別に、次のような表記戦略を仮説として提示する。語種を基準にしてカタカナを使うのは明らかな外来語についてだけ。それ以外については、たとえば動物名かどうか、などの語の分類が基準として優先される。日本語の、文字の使い分けの習慣は、この方向へ変化しつつあると思われる。
著者
石川 洋明
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.37-49, 2006-06-24

男性の「男らしさ」について、調査データ(N=218、非無作為抽出、回答者は男女双方)の二次分析により検討した。多変量解析の結果、「男らしさ」は、行動様式で6つ、意識でも6つ、配偶者とのコミュニケーションで3つの成分が抽出された。成分得点の回答者属性による差から、50代既婚男性が性暴力問題に最も懐疑的で家庭外達成志向が強く、20代男性が最も感情表現や子のケアに積極的であることがわかった。また、男性の回答から、「男らしくない」と言われるのは、配偶者への期待が低く、仕事を断れる人、「男らしくありたい」と思う人は、近所づきあいがよく、仕事を断ることができず、男は経済力・忍耐が必要で家事には向かないと思っている人であることがわかった。総じて、ワークライフバランスのうちではワークに特化することが男らしさである、と考えられていることが確認された。ただし、40代と既婚者に、それにとどまらない傾向も見られた。
著者
原口 耕一郎
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.150-132, 2006-01-10

かつて大和の国の吉野山中には国栖とよばれた人々が暮らしていたという。『記紀』では彼らの先祖が王権と出会うことにより贄を献じ歌笛を奏上することになった起源譚が語られている。日本古代において夷狄とされた人々の中においても、国栖はこれまであまりとりあげられることがなかった。研究の蓄積がある隼人や蝦夷とは異なり、国栖について論じた研究はきわめて少ないといえる。しかしながら、国栖は吉野という飛鳥・奈良・京都にほど近い場所に居住しているのであり、また、大嘗祭など王権にとって重要だとされる儀礼に贄を献上し歌笛を奏上することが規定されているのである。このような点から、国栖は夷狄研究の文脈において無視することのできない存在であるといえよう。小論では『古事記』『六国史』『延喜式』といった史料をもとに、国栖の歌笛奏上と、これまで具体的な研究のなかった国栖の歌笛奏上に関わる官司について論じたい。まず国栖の服属を説く説話/「神話」について触れ、国栖の特徴について大まかに論じる。次に国栖の歌笛奏上を管轄した官司について考察し、貞観年間において国栖の歌笛奏上が宮内省に管轄されていたことを確認する。またそれは遅くとも天長年間後半まではさかのぼることを指摘する。さらに天武朝以降の歌舞に関する王権の関わりや、隼人司の成立状況などに言及し、大宝令制定の時期あたりまで宮内省管轄下に国栖の歌笛奏上が行われていた可能性に触れ、最後に国栖という「概念」自体が遅くとも『記紀』編纂の最終段階までにはほぼ成立していたことを論じる。
著者
穐丸 武臣 丹羽 孝 勅使 千鶴
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.57-78, 2007-06-23

本研究は幼稚園と保育所の保育教材として導入されている「伝承遊び」の実施状況と保育者の認識について、郵送法によるアンケートの全国調査を分析したものである。調査対象は全都道府県の都市部とそれ以外の市町村から多段階抽出法によって幼稚園568ヵ園、保育所590ヵ所、合計1158ヵ所を抽出した。回収数は651ヵ所、回収率は約56%であった。その結果、日本ではほぼ全て(99%)の幼稚園・保育所において伝承遊びが実施されており、保育教材として活用されていた。保育活動への伝承遊び導入の理由は、(1)子どもの成長や発達に有効であること、(2)日本の遊び文化の継承のためとするものであった。しかし、伝承遊びを普及・充実する際の隘路としては、幼稚園教諭と保育士(以後 保育者)自身の伝承遊びに対する力量不足を認識しており、研修の必要を認める結果であった。
著者
森 哲彦
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.1-14, 2007-12
被引用文献数
1

神の存在証明についてヤスパースは「カント以来、誠実な思索にとっては、神の存在証明が不可能であることは確実である」(Jaspers:Glaube,32)とする。本論で見るようにカント自ら、この神の存在証明の不可能性を論証している。そこでは先行する哲学者たちの神の存在証明、つまり自然〔物理〕神学的証明、宇宙論的証明、および存在論的証明(デカルト的証明)は成立しえず、これらの神学、すなわち自然〔物理〕神学、宇宙論的神学、そして存在論的神学は、超越論的神学のゆえに批判される。しかしこのカントの主張は、理性の思弁的原理や認識論的立場からでなく、存在論的立場からの批判である。それゆえカントによれば「道徳諸法則が根底に置かれ」る「理性の神学」(A636,B664)は存在する。これがカントの道徳神学である。戦後ヤスパースは、先行する哲学者たちの「あらゆる神の存在証明を、カントが見事に論駁したあとを受けて、またヘーゲルが思想的には豊かだが安易で誤った仕方で再び神の存在証明を復活させたあとを受けて…今日では、神の存在証明を新たに哲学的に我がものにすることが、是非とも必要なことである」(Glaube,33)としている。しかも自らその必要性を急務としている。なぜなら神の存在証明を獲得しなければ「哲学者は、一般に何事も主張せず、何事も否定しえないところの懐疑的哲学の立場を取る。かまたは哲学者は、自分の立場を対象的に規定された知、すなわち科学的認識に限定して、我々は知りえない事柄については、沈黙を守るべき、という命題をもって哲学することをやめる」(Einfiihrung,40)と自戒する。本論で取り上げるカントの神問題については、問題史的、概念史的解釈を行う。しかし問題の概念史的解釈を行うには、それに先行して発展史的解釈が必要である。そのため本論ではカント前批判期と批判期(『純粋理性批判』)の発展史的解釈による小論(後掲引用・参考文献)を前提としているものである。
著者
吉田 一彦
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.186-175, 2008-06-25
著者
〓 苗苗
出版者
長崎純心大学・長崎純心大学短期大学部
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
vol.6, pp.1-7, 2008-03

外来語は各民族間において政治,経済,文化およびテクノロジー等の交流により必然的に生まれたものである。現代中国語の中の有機的一部分であるし,不可欠な一部分でもある。外来語は中国漢民族の文化を豊かにし,人々に様ざまな新しい概念をもたらした。また,現在のグローバル社会においても,意思の媒介手段の一つとして重要な役割を果たしている。本稿は,中国語(漢語)における外来語を概観するものである。中国語において外来語の借用の歴史的発展および外来語の受入形式を例に挙げながら,外来語の受容の多様性を明らかにする。また,近年の外来語使用状況を調査し,日本と中国との外来語の受入状況を比較しながら,現代中国語において外来語使用の目的・機能の観点を分析する。時代の発展と共に,各領域において外来語の出現や借用がますます増える状況にあるが,中国語の言語構造的特性や中国人の意味を重視する心理的特性から,外来語の受容スピードは日本ほど速くないと推測できる。
著者
藤澤 益夫
出版者
田園調布学園大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13477781)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-49, 2003-03-20

絶対に一過性の時間の流れのなかで,その速度を相対的に緩める努力の典型が情報の領域をめぐってみられる。それは,伝達速度改善の永い道程をへて,いまでは情報の生産と処理の全面におよぶが,情報伝達の即時性を高めるさまざまな工夫の文化史を近世日本を中心にして具体的にふりかえり,現代の情報社会のもつ社会的意味を考える。それを通じて,時間という資源の利用効率の飛躍的向上が拓く広大な可能性を評価し,反面で,管理社会での情報の集中的な支配と操作がもたらす危うさを問いかける。
著者
木山 愛莉
出版者
長崎純心大学・長崎純心大学短期大学部
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-13, 2006-03-01

近代中国は列強の侵略によって瓜分(分割)される危機に立たされていた。中国を亡国の危機から救うため,いちもく早く国民性の問題に気づいた梁啓超は,進んだ西洋の技術を取り入れることだけでは限界があることに気づき,独立国家を建設するため,まず国民性を改造し,独立自尊の国民を育てなければならないと考えた。梁啓超は,明治時代の日本における14年間に及ぶ亡命生活を体験し,当時の日本の思想家から多大な影響を受けながら,西洋思想も受容し,それを彼の国民性改造の取り組みにも生かされた。本稿は彼が国民性の改造において,もっとも注目した奴隷根性と愛国心という相対する二つの概念を軸に分析し,彼の国民性改造の思想を明らかにせんとしたものである。彼は,中国が数千年にわたって極めて衰え弱まったことについて,最大の原因は中国の古い慣習などによる人々の心に染み込んだ奴隷根性にあると分析し,その奴隷根性こそ,人々の自由人としての人格を奪い,自ら自己の権利を放棄するという弊害をもたらしたと指摘した。彼は国民性を改造するに当たって,最大の課題はその奴隷根性を取り除くことであると認識し,民権,つまり自由権の伸張を主張した。それは古い慣習を打ち破り,古人の束縛から抜け出して,他人に頼らず,自己の独立を確立することである。梁啓超は個人の独立を推し進めてこそ,はじめて一国の独立が実現できると認識し,己を愛する心から国を愛する心を喚起し,民衆に国家の一員である自覚を持つよう呼びかけたのである。
著者
貴田 美鈴
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.83-97, 2007-12-23

本稿は、里親制度不振をめぐる従来の議論への再考を目的とし、社会福祉の政策展開に着目して、政策主体による里親制度の位置づけとその意図を検討した。1960年代には、政策主体は里親制度の意義を強調するも、その運用方法を図りかね、里親施策はほとんど進展しなかった。一方で、政策主体は養護施設の規模縮小など見直しに対する反対運動を受けるなか、1960年代末には、里親制度重視の方向性を弱めていった。また、1973年に東京都で「養育家庭制度」が開始され、要養護児童サービスにおいてコミュニティケアの具現化が提起されたが、政策主体は里親施策に反映させることはなかった。1974年以降には、社会情勢に即応した里親制度の効果的な運用として短期里親を新設したが、里親委託を全国里親会によって展開させ、公的責任を希薄にしていった。短期里親の運用は養護問題に対する政策主体の表向きの対応を示したに過ぎなかった。1983年以降、社会福祉政策に民間活力やボランティア活動が導入され、社会福祉が拡大されると、里親制度をボランティア活動と明言したのである。また、里親委託促進を全国里親会の役割に位置づけ、公的責任を縮小させている。すなわち、1960年代から1980年代の政策主体による里親制度の位置づけは、養護問題や運動に基づくものとはいいがたく、大筋では社会福祉の政策展開に連動したものであった。
著者
森 哲彦
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.1-18, 2007-06-23

カント著書『純粋理性批判』を解読するに際し、カント哲学前批判期をどう取り扱うかについて、二つの問題が見られる。その際、まずカントのどの著作から取り扱うべきか、これが第一の問題である。さてカントは1781年のヘルツ宛の手紙で、批判期の『純粋理性批判』にあっては「(1770年著作)『可感界と可想界』という標題のもとで私たちが一緒に論究した....研究の成果を含む」とする。また1783年のガルヴェ宛の手紙や同年のメンデルスゾーン宛の手紙でも『純粋理性批判』について「少なくとも12年間に渡る反省の所産」であるとする。このことから『純粋理性批判』解明のための有効な方途として、前批判期を狭義には1770年著作『可感界と可想界』をもって始めるとする論者もある。 しかし広義に考えれば『純粋理性批判』で、認識対象でなく方法が重視される点は、早くもカントの1747年処女作『活力測定考』に見られるところである。また神の存在証明の問題も1755年著作『天界自然史論』に伺える。このことから本論では、広義の観点から解明する。この広義の立場を取るものに、例えば、カッシーラー(1918)、シュルツ(1965)、カウルバッハ(1969)、浜田義文(1967)、高橋昭二(1969)の諸研究がある。次に1755年著作『形而上学的認識の第一原理の新解明』は、大半が矛盾律、同一律、決定根拠律という形式論理学を論述するものであり、『純粋理性批判』の内容に直接的に関連しないためか、従来論評されることは少ない。例えば、カッシーラーやカウルバッハは、他のカントの著作に比してこの著作を簡単に取り扱う。これが第二の問題である。 しかしこの著作はカントの最初の形而上学の可能性を論究したものであるゆえ、本論では他の著作を同様に取り上げる。なおヤスパース(1957)は、カント哲学前批判期の諸著作のうち、この著作から論評している。