著者
藤井 讓治
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.93, no.3, pp.361-389, 2010-05
著者
松村 寛之
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.272-302, 2000-03
著者
水野 恭一郎
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.1-35, 1971-07
著者
坪井 剛
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.98, no.1, pp.32-68, 2015-01
著者
谷 徹也
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.98, no.2, pp.320-353, 2015-03
著者
森原 隆
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.p41-74, 1982-01
著者
岩本 佳子
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.93, no.2, pp.282-309, 2010-03

遊牧民の歴史研究において、定住化という現象は各地で見られてきたが、その要因や内容について明らかにされてきたとは言い難い。本稿では、法令集、租税台帳といった財務帳簿から、史料を作った行政側の遊牧民認識に主軸をおいて一六世紀前半の中央アナトリアに位置するボゾク県を対象として、遊牧生活を送っていた遊牧民が同地に急速に定住化していった理由を明らかにする。同時代のボゾク県では、行政側がボゾク県の住民を遊牧生活に従事する「遊牧民」から村に定住し農耕に従事する「農民」として扱うようにその認識が変化した。そのために、ボゾク県住民から徴收される諸税の大半が農耕に関連する税に移行し、部族集団から村単位で地域の区分がなされるに至り、村の大幅な増加を生んだ。すなわち、同地での「定住化」には住民を遊牧民ではなく農民として認識するようになったという行政側の認識の変遷が大きく寄与していたのである。
著者
小葉田 淳
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.58, no.2, pp.153-212, 1975-03-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
高橋 克寿
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.p259-294, 1988-03

個人情報保護のため削除部分あり形象埴輪研究のもっとも重要な意義は古墳祭祀の実態とその変遷を明らかにすることにある。本稿はその対象として古墳の墳頂に置かれる四種の代表的な器財埴輪を選び、その変化の中に古墳祭祀の変容を見ようとしたものである。基礎作業としてまず各器財埴輪にたいして型式分類を試み、靱形埴輪を二類四型式、盾形埴輪を二類二型式、甲冑形埴輪を三類四型式、蓋形埴輪を三類四型式にわけ、それぞれの型式変化を明らかにした。次に器財埴輪の各型式の古墳におけるセット関係と古墳の年代から器財埴輪の変遷を五期にわけて論じ、その消長を見た。その結果、器財埴輪は本来被葬者の眠る墳頂を厳重に隔絶し守護することを目的に鰭付円筒埴輪との強い関連のもとで四世紀後半に誕生したことが明らかになった。そして、製作技法の能率化、簡略化を進めながら発展した器財埴輪が五世紀後半から顕著に見せる衰退は、横穴式石室の導入などにかかわる新しい葬送観念の浸透によって引き起こされたことが考えられた。Haniwa figures are significant for illustrating the rites performed on tumuluses and for reflecting the concept of funerals of the Kofun 古墳 era. I have chosen four kinds of typical Haniwa figures called Kizai-Haniwa mainly of the Kinai 畿内 district and have tried to make a typological classification and a chronology for each one. Then I examined several instances of their assemblages on tumuluses and set up a five-stage chronology. Consequently, it was revealed that Kizai-Haniwa figures developed in the last half of the 4th century A. D. in order to defend the dead chieftain inside who was buried on top of the tumulus, with a special relation to Haniwa cylinders that had fins 鰭付円筒埴輪. In the 5th century Kizai-Haniwa figures prevailed over most of Japan, but their wane from the last half of the century was brought about by a new concept of funerals that came from the continent.
著者
寺山 恭輔
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.522-555, 1991-07-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
檀上 寛
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.92, no.4, pp.635-669, 2009-07-31

東アジアの国際秩序に関する従来の研究は、中国王朝が与えた官爵・王号から朝貢国の序列を検討することはあっても、国際秩序を原理面から考察したものは皆無であった。本稿は東アジア世界に働く国際秩序の原理性に着目し、爵制的秩序、官僚制的秩序、宗法秩序の三秩序の存在をまず明らかにする。このうち朝貢体制を支えるのは前二者の尊尊の君臣秩序であり、親親の宗法秩序は朝貢体制の埒外にある諸国家を、擬制的血縁関係により中国中心の国際秩序の中に取り込むものであった。この宗法秩序の役割が大きく変化するのが明代である。明は対外関係を朝貢制度に一元化し、極めて厳格な政治体制を採用する。さらに全ての朝貢国に冠服を下賜して宗法秩序を適用し、華夷一家の理念世界を可視化することで朝貢体制を正当化した。今まで朝貢体制と無縁であった宗法秩序が朝貢体制に内在化し、朝貢一元体制をイデオロギー的に補強したところに明の特徴があったといえよう。
著者
飯塚 一幸
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.92, no.2, pp.359-387, 2009-03-31

「大日本国憲法」は、国会期成同盟第二回大会前に作成された数少ない私擬憲法案であるが、関係史料が限られていて、作成者の確定、作成の経緯など、基本的な点がはっきりしていなかった。ところが稲葉家文書から発見された新史料により、一八八○年九月における筑前共愛会の和田操の宮津遊説が契機となり、同会の憲法草案の影響の下、天橋義塾社長沢辺正修が一気に書き上げたことが判明した。その後「大日本国憲法」は、丹後選出府会議員らの討議により若干の修正を加えられ印刷・配布されていった。「大日本国憲法」作成と沢辺の国会期成同盟第二回大会参加は、筑前共愛会側から言えば、同会の遊説活動の顕著な成功例である。いち早く起草した憲法草案を携え国会期成同盟第二回大会に臨み主導権を握ろうとした筑前共愛会は、九州の外に同志を得たのである。こうして沢辺正修ら京都府民権派と筑前共愛会は、坂野潤治の言う「在地民権右派」の中核を形作っていく。
著者
藤田 恒春
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.69, no.1, pp.111-138, 1986-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
橋川 正
出版者
史學硏究會 (京都帝國大學文學部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.96-103, 1925-01-01
著者
狩野 直禎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.86-106, 1976-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
河西 秀哉
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.4, pp.477-510, 2005-07-01

サンフランシスコ講和条約期になると、天皇退位論が再浮上した。その議論の特徴は二つある。第一に、敗戦後一貫して主張されてきた天皇の「道徳」的責任論を引き継いでいたことである。天皇は日本という国家の「道徳」を示す存在と考えられ、天皇が退位という「道徳」的行為を行えば人々はその姿に感動し、象徴天皇制はより強力な支持を得ると考えられた。それは「一君万民」「君民一体」を目指す動きだったと言える。 第二に、「新生日本」の国家像と適合的な皇太子が戦争イメージを持つ天皇よりも選択され、その結果退位が主張されたことである。マスコミが清新な若いイメージで皇太子を捉えて大々的に報道したことが背景にあった。「新生日本」の目指す国家像と象徴天皇像は接合され、国家としての再出発の時期に天皇制も再出発すべきであるとして退位が主張された。結局退位は実現しなかったものの、講和条約期の退位論は、象徴天皇制/像の展開の中で皇太子の存在が浮上するきっかけとなった。