著者
中町 美香子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.4, pp.546-575, 2005-07

里内裏は、平安宮内裏焼亡を契機として平安中期に出現した京内(里) の天皇在所であるが、以降、次第に平安宮内裏に取って代わっていく。里内裏の空間構造に関して、その邸宅の周囲三町四方に、大内裏に擬せられる「陣中」という空間が存在することが、先行研究で指摘された。それは里内裏の性格や意義を考察する上で重要な指摘であった。しかし、その空間の成立や変化などについてはまだ検討の余地があると考え、本稿ではその再検討を行った。得られた結論は、里内裏には、平安宮内裏の「陣中」から連なる衛門陣を境界とする邸宅内陣中と、邸宅の外に広がる三町四方の邸宅外陣中の、二つの「陣中」が存在し、邸宅外陣中の確立は一一世紀末であるというものであった。そして、その確立は里内裏の一つの変質点であり、白河朝からの、里内裏本宮化という皇居制度変革の流れの中に位置付けられると考えた。The sato-dairi first appeared during the mid-Heian period when the Heiankyu- dairi (originally the residence of the emperor) burned down and it became a temporary imperial residence in Heiankyo (sato 里). Thereafter, the sato-dairi gradually came to replace the Heiankyu-dairi. Previous studies have pointed out that in regard to the spatial-structure of the sato-dairi there existed a residential area called the jinchu (陣中) that extended out for a distance of three cho (町) in each direction, patterned on the Heiankyu. These findings are an important factor in considering the character and significance of the sato-dairi. However, I believe there has been insufficient consideration given to the formation and changes in the jinchu, and thus I have carried out a re-examination of the jinchu in this study and arrived at the following conclusions. I believe there were two jinchu in the sato- dairi. One jinchu assumed the character of the jinchu in the Heiankyu-dairi, with gate of the residence serving as its border. The second jinchu extended outward 3-cho every direction from the residence. The latter was formed at an end in the eleventh century. I have concluded that its formation was a turning point in the development of the character of the sato-dairi, and it can be judged a part of a series of changes in the imperial palace system instituted from the time of the Emperor Shirakawa.
著者
高橋 秀直
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.76, no.5, pp.673-709, 1993-09-01

個人情報保護のため削除部分あり
出版者
史學硏究會 (京都帝國大學文學部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.17, no.3, pp.508-522, 1932-07-01
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.460-463, 1959-05-01

1 0 0 0 IR <学界消息>

出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.263-263, 215, 1957-05-01
著者
藤井 崇
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.6, pp.765-799, 2003-11-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
藤井 崇
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.6, pp.765-799, 2003-11

近年、ローマ共和政をめぐる議論が盛んである。クリエンテラを基盤としたノビレス貴族が排他的な貴族政を展開したという従来の通説にたいし、一般市民の制度的権利を重視すべきとの見解が提出され、統一的な理解はいまだ形成されていない状況である。本稿は、この問題を考えるために、共和政中期の同時代史料、ギリシア人歴史家ポリュビオスの『歴史』を分析した。議論は、まず、『歴史』第六巻の混合政体論の検討から進められる。これは、「共和政=民主政」論の重要な根拠となるものであるが、考察の結果、混合政体中の民主政的要素の実態は上層のローマ市民であり、混合政体論は一般市民の政治的重要性を示唆するものではないことが明らかとなった。さらに、『歴史』全四〇巻を体系的に考察したうえで、ポリュビオスは前一六〇年代以降のローマ国政を混合政体からの没落と把握していること、そして、その国政変化に一般市民の政治的意義の増大を看取していることを指摘した。そして、以上の分析で明らかになったポリュビオスの認識を軸としながら、『歴史』以外の史料もあわせてローマ国政を具体的に検討し、前一六〇年代以降、一般布民の政治的重要性が国政において顕著になっていること、その政治的重要性は静態的な制度的権利ではなく、徴兵忌避などにみられる直接的な政治的圧力に基づいていることなどを、最終的に結論として提示した。

1 0 0 0 IR <彙報>・<會報>

出版者
史學硏究會 (京都帝國大學文學部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.477-490, 1939-04-01
著者
米田 治泰
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.249-278, 1964-03-01

聖俗貴族の大土地所有とそれにもとずく小土地所有農民の隷属化は、十一批紀ビザンツにおいて、もはや国家の阻止しえざるものとなっていた。十一世紀末に成立したコムネノス朝は、それ自体、小アジアの軍事貴族であり、他の「同等者」の利益を無視することは許されなかった。ここに、レーン的結合を構成するというよりはむしろ皇帝による恩賞行為に近いのではあるが、皇帝と貴族の結合、前者の後者把握を可能ならしめるべき一種の「条件」が生起した。それは手短かにいえば、国家による「一定数量の農民、国税収入の贈与・移譲」であるが、単なる好意を越えて、国家の必要、特に軍事的な必要を充分させる意図も持っていた。我々はこの「条件的土地保有」をプロノイアに、さらにはアリスモス、カリスティキアに見るのであるが、それらの具体的内容、実体をどう理解するか。「ビザンツ封建制」は屡々、アウトプラギア (自発的徴税権) から構成されるといわれ、この点からいっても、条件的保有は少なからぬ意味をもつのであるが、そこに生ずる領主・農民関係はどうであったか。本稿は、こうした間題に若干の考察を加えんとしたものである。
著者
山尾 幸久
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.56, no.6, pp.900-922, 1973-11-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
図師 宣忠
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.268-300, 2007-03

近年、修道院が編纂したカルチュレールに関する研究は隆盛を見せている。それに比して、都市カルチュレールを扱った研究は少ない。本稿は、南フランス都市のトゥールーズを対象として、都市によるカルチュレールの編纂の意味を探っていく。公証人の登場と文書量の増加という一二世紀以来の流れのなかで、都市はいかなる目的でカルチュレールを編纂したのか。また、その編纂作業を担った社会集団の活動は、都布社会においてどのように位置づけられるのか。こうした点の検討から、本稿では以下のような指摘を行なった。都市トゥールーズのカルチュレールは、一二世紀初頭の都市と周辺諸勢力との関係のなかに自らを位置づける手段として作成され、都市アイデンティティを象徴する書冊と看做されていた。これには、一二世紀後半以降の都市における公証人による文書作成の慣行が背景にあり、都市のコンシュルは、公証人が作成した文書の有効性を強調することで、トゥールーズの公証人の文書に特権的な地位を与えていた。こうしたコンシュルの権力と密接に結びついた公証入の存在が、都市カルチュレールの有効性を都市内外に示すことを可能にしていたのである。
著者
野村 玄
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.93, no.6, pp.719-747, 2010-11

本稿は、天和・貞享期の綱吉政権による対天皇政策について、従来必ずしも論証されてこなかった同政権の政策実施目的の解明を目指した。その結果、天和期の綱吉は、廃一宮により傷ついた皇位継承行為の権威回復を図り、その一環として立太子節会の再興を容認していたことが判明した。また、貞享期の綱吉は、京都所司代と宮中との必要以上の接近による幕府の威光の減退を恐れ、京都所司代・稲葉正往を更迭し、宮中の奢移抑制及び霊元天皇の素行是正と、次代の東山天皇への悪影響防止のため、霊元天皇の譲位の早期実現を目指したこと、その過程で霊元天皇から示された大嘗会再興の要望も、譲位の早期実現の観点から容認していたことが明らかとなった。綱吉は「武家之天下」の主宰者として、幕府の威光と外聞を意識し、皇位とその担い手の皇族を慎重に管理しようとしたが、儀式の再興は、将軍綱吉の皇位管理政策を実現させる一つの手段であったこと等を指摘した。
著者
石田 俊
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.94, no.3, pp.371-407, 2011-05

本稿では、霊元天皇在位時の奥について、天皇の「母」である東福門院の役割に注目し、幕府の動向にも留意して具体的に検討した。天皇幼年時の奥は、東福門院と三条西実教などが統括する体制であった。皇継をめぐって禁闕騒動が起こると、幕府と後水尾院・東福門院は奥の統制を強め、鷹司房子を入内させて皇継問題を整理するとともに、女院を中心に作成された掟書によって、伝奏や禁裏附が「御前」の情報を直接入手する体制が整えられた。しかし奥の争いや天皇の成人により女院の影響力が減退すると、その体制は形骸化していった。女院や後水尾院の没後、天皇は奥の再編成を進め、譲位にあたっては外戚の女中を禁裏奥に配置して院政の基盤としたのである。
著者
上垣 豊
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.p612-648, 1995-07

最近の研究によれば、一九世紀もなお、フランス貴族は財産を保持し、根強い社会的な影響力を維持し、革命後の社会にも適応能力を示したとされる。本稿ではこのような研究動向を踏まえつつ、一九世紀における貴族と国家の関係を論じた。そのなかでも七月革命による貴族制度の実質的解体に注目し、近世貴族制の特徴である「公式のエリート」としての貴族の属性がこれ以後失われることを強調した。また帝政と復古王政の「新旧エリート」の融合政策は旧貴族内部で進んでいた統合の動きと矛盾していたことを明らかにし、さらに七月革命後顕著となる「偽貴族」現象を貴族の国家からの自立との関連で論じた。ただし、名門、あるいは富裕な貴族は立身出世し、国家の要職につくことを望み、富裕でない貴族に関しては副収入源として官職に頼らざるをえなかった。貴族の近代国家への統合はむしろこうした形で進んだのであろう。
著者
佐藤 宗諄
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.47, no.5, pp.631-665, 1964-09

公民の分解もすすみ、律令的な土地制度も負担体系も根本的に動揺していたにも拘らず、とにかく九世紀を通じて、まがりなりにも律令政治が展開しえたことは事実である。それが基本的には律令的支配階級にとってかわるべき階級的勢力の未熟さによっていたこともまた周知のことである。だが直接政治の局面について考えると、それは当時、国家によって "良吏" として把握された官人-とくに国司-逹を分析することによって理解できるようである。彼ら "良吏" はまぎれもない律令官人でありながら、従来にはみられない現実性をもっている。本稿ではそれを論証するために、六国史の史料性を検討することからはじめ、その登場の要因等を考察し、その歴史的性格にまで論及したつもりである。本稿でその分析の中核として、わざわざ数的には例外とも考えられそうな "良吏" に注目したのは、従来のように彼らを例外としてのみ理解することによっては、この律令政治の多様な可能性を含む崩壊過程を正しく把握できないと考えたからに外ならない。 まだ九世紀には "良吏" のもとで公民の大多数が基本的には国家に対抗するよりも依存する動きを示さざるをえなかったことが、この政治の一応の成功の原因であったし、それが次に律令国家を変形させた古代国家としての摂関政治体制の出現を保障する一つの前提的役割を果したと考えられるのである。In spite of the dissolving public 公民 and the tumultuous landholding and tax-bearing systems, it is the fact that Ritsuryo 律令 government could develop at any rate; and it is also established that the fact was substantially due to the immaturity of the class power to take the place of the ruling class in Ritsuryo government. A study on the aspect of direct governing enables us to understand it by analysing the then officials……especially Kokushi 国司……taken for "Ryori" 良吏 by the state. They, "Ryori", had, in spite of the very officials of Ritsuryo government, the reality that had never been seen before. To demonstrate it, this article, starting from the judgement of the importance of Rikkokushi 六国史 as a source book, traces to its cause of entrance on the stage and is to reach for its historical character. The opinion that the dissolving process of Ritsuryo government with verious possibility cannot be properly understood by the traditional treatment of "Ryori" only as a exceptional case is the reason why "Ryori" was taken as a subject for consideration. The fact that most of the public 公民 under the "Ryori" in the nineth century still had substantial trend for the movement depending on the state rather than against the state caused a temporary success of this government, and in turn played an assuming part to secure the establishment of the Sekkan 摂関 political system as an ancient state which transformed the Ritsuryo state.
著者
笠井 倭人
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.116-132, 1957-03-01

幾度かの結集期を経て成立した記紀系譜は、そのうちに実に多様な歴史的条件を輻輳さしており、後代的な改変・添加のあとをそこに認め得る。記紀研究はまずこの改変・添加のあとを丹念にときほぐし、そのあとを刻明に追求して行くことからはじめねばならない。本論はそうした問題意識のもとに、主として婚姻史料をとりあげ、記紀成立の一側面を考察してみた。そしてその結果、開化天皇以前の皇統系譜・日子坐王系譜・天日矛系譜等の諸系譜には、天武朝の婚姻形態を土台として成立したと思われる要素の存在が明らかとなった。そしてこのことは、その成立をめぐって幾多の議論が重ねられて来た開化天皇以前八代の記載についても、一つの解決の見通しが与えられるであろう。
著者
杉本 直治郎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.37, no.2, pp.127-147, 1954-04-15

インドシナにおけるインドの一植民地であったチャムパに、初期に移住したインド人が、インドのどの地方から来たものであったか。チャムパの名そのものから、それを探ってみたいというのが、この小篇の目的である。そのため考えられることは、移住民は、たださえ故郷を忘じがたい上に、その移住先に、これを偲ばしめるものがあるばあい、故郷名を附けがちであると思われる限り、この点から、解決の鍵が見出されないであろうか。
著者
堤 一昭
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.75, no.3, pp.p322-357, 1992-05

個人情報保護のため削除部分あり一三世紀後半におけるモンゴル帝国〜元朝の南宋征服戦は、その歴史的重要性から、戦争経過については研究がなされているが、戦争を実行した軍団については研究が手薄である。本稿は、華北戦線に参加したモンゴル軍国を対象とし、軍団長の家系を探り、その歴代の人物の歴史をたどった。探し得た家系はウリャンカン部族スベエテイ家、ジャイラル部族ブジェク家、ナイマン部族マチャ家、タングト部族チャガン家、マングト部族ボロゴン家、フウシン部族タガチャル家、ジャライル部族チョルカン家の七家である。彼らが長となった軍団の軍府名は「蒙古軍都元帥府」「山東河北蒙古軍大都督府」「河南淮北蒙古軍都萬戸府」である。彼らの家系はトルコ・モンゴル系であるが、有力部族長の家ではない。多くはチンギス・ハンとの個人的な繋がりを持つ者を祖先に持つ。オゴデイ・カアン時代の金朝征服戦、対南宋戦を華北への駐屯の始まりとする。軍団長の職を世襲するとともに、行省・行台の高官を務め江南支配に関与した。彼らは、本拠地の所在・所領・官職・行動等からみて、王族や有力部族長の家系に次ぐ層を構成していたと考える。Because of its historical importance, large numbers of studies have been made on the process of the war between the Mongol Empire-Yuan dynasty and the Southern Song. But only a few studies have been made on the army which carried out the war. The author, concerned with the analysis of the Mongolian army which fought at the front in North China, traced the family-lines of the generals of the army from historical sources, and inquired into the personal histories of these families. The seven families which can be found are the Sube'etei family of the Uriangqan tribe, the Bujeg family of the Jalair tribe, the Maca family of the Naiman tribe, the Caɣan family of the Tangɣud tribe, the Boroɣon family of the Mangɣud tribe, the Taɣacar family of the Hu'usin tribe and the Coruqan family of the Jalair tribe. Generals from these families had become the chiefs of the "Supreme Marshal Office of the Mongol Army", the "Chief Military Command of the Mongol Armies in Shandong and Hebei", and the "Supreme Myriarchy Office of the Mongol Armies in Henan and Huaibei". These families were of Turkish or Mongolian descent, but they did not belong to the families of the chief of the main tribe. Many of them had an ancestor who had a personal relationship to Cinggis qan. During the Ogodei era, they were first stationed in North China, in order to fight against the Jin and the Southern Song. They held the rank of general of the army in their family for generations, assumed high official posts of Branch Secretariat and Branch Censorate, and took part in the rule of South China. Judging from the location of their bases, their domain, government posts and actions the author concludes that they comprised the stratum under the royal family and the families of the chief of the main tribe.
著者
森 悦子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.76, no.4, pp.p553-570, 1993-07

個人情報保護のため削除部分あり