著者
田中 秀樹
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.101, no.1, pp.44-82, 2018-01

本論は朱子『四書章句集注』の解説書、いわゆる四書疏釈書が南宋で登場したその要因を考察した。宋代の経書注釈書の特徴は「議論」形式であるのに対し、『四書集注』は簡略を宗とする「訓詁」を重んじた。そのため該書は読者には理解が難しく、朱子は口頭での解説を積極的に行い、その結果多くの語録が残された。四書疏釈書はそのような語録を引用した書物であるため、朱子の意に反し「議論」形式に逆戻りしたものである。一方、経書を言葉で論理的に説明する方法を批判した陸象山も、自説拡大のためには時に多言を費やし、門人達も語録を編纂するなど師の言葉を多く残そうと務めた。しかし陸学派は朱子学との対抗上、「文字言語」を用いない学問として自己規定することで、自派の純化を図ったが、その勢力は朱子学に及ばなくなっていった。つまり、知識人の底辺が拡大した南宋社会にあって、大量に生み出された初学者たちは、言葉による丁寧な解説がなければ理解できず、四書疏釈書はそのような人々の需要に応じて登場したのである。The second section addresses the chief causes of the appearance of the Collective Commentaries. Because Zhu Xi made efforts to reduce the number of words in Sishu zhangju jizhu, he conversely became concerned that readers would misunderstand his thought. He wrote Sishu huowen 四書或問 in order to ease these concerns and carefully explained either orally or by means of his letters the gist to novices who did comprehend this work. These were then compiled as the Zhuzi yulei 朱子語類and the Zhuzi wenji 朱子文集. In other words, the Sishu zhangju jizhu commentary was difficult to comprehend without reference to the many other works of Zhu Xi. The Collective Commentaries are works based on many citations from the Zhuzi yulei or Zhuzi wenji etc. and thus without exploring the many works of Zhu Xi, one could learn the important points of his thought. Therefore, considering the commentarial tradition in the Song dynasty, the Collective Commentaries were writings that reverted to "discussion studies." They became annotations for annotations, which Zhu Xi had criticized. But why did such books become widespread despite Zhu Xi's intentions? This comes down to the fact of the demand for them after the death of Zhu Xi and his disciples. But this was thought by some to be a contradiction between, on the one hand, the idea of Neo-Confucians who insisted on the limitations of words in attaining experiential learning that would transcend comprehension by language to realize the way of saintly masters and the idea that one must use many words (language) to spread the master's thought. In order to analyze this contradiction, the third section focuses on the scholarly tradition of Lu Xiangshan 陸象山, who was an opponent of Zhu Xi and who most severely confronted this contradiction. As is well known, Lu Xiangshan criticized word-by-word interpretation (xungu) of the Classics and verbose logical explanation, and he did not leave many writings behind. Yet, he logically refuted Zhu Xi's interpretation of words in debate and was devoted to spreading this through the medium of letters. In addition, after Lu Xiangshan's death, his disciples strove to preserve as many of his words as possible, compiling collections of his writings and his analects. However, such a media strategy by the scholars in the tradition of Lu Xiangshan obviously went against his teachings, and in competing with the scholars in the tradition of Zhu Xi, they were unable to expand as a school or to write new books due to their self-discipline and effort to purify themselves as a school without "written language". In short, the scholars of the Lu Xiangshan school abandoned the way of compiling writings that the scholars of Zhu xi school had done in producing the Collective Commentaries. As a result, their influence never equaled that of the followers of Zhu Xi. Given the above argument, it was novices who could not comprehend Zhu Xi's Sishu zhangju jizhu who first called for the Collective Commentaries. The Southern Song is said to be an era when the bottom rung of the intellectual class expanded. During such a period, a considerable number of novices whether they were scholars of the tradition of Zhu Xi or that of Lu Xiangshan, could not comprehend the teachings well unless clear explanations were provided. Accordingly, the scholars of Zhu Xi's school responded to such demands with the Collective Commentaries and thereby increased the number of students in their school. In contrast, it was likely the case that the scholars of Lu Xiangshan's school failed to take in new disciples due to their loyalty to the teachings of their teacher.
著者
藤井 學
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.41, no.6, pp.520-541, 1958-11-01

近世初頭の京都町衆の法華信仰について、 (一) その信仰形態 (二) この信仰が彼等の生活や意識に如何に投影されるかを紹介したいのが本稿の趣旨である。信者の例として本阿弥・狩野・後藤・茶屋・尾形・佐野家等を取上げる。彼等は何れも代表的な京都上層町衆であり、宗門規制が影響して互に姻戚であり、一族「皆法華」であつた。法華宗寺は彼等「惣族」団結の精神的支柱として存し、実生活の規範もここに求められた。彼等は宗義を理論的に理解し、一族中より碩僧を輩出させた。町衆は教化する側に上昇したのである。本阿弥一門が支配経営した洛北鷹ヶ峰は、芸術家聚落であると共に町衆信者の集りであり、住民は実生活と合致した信仰生活を送り、此地は法華経支配の地域=「常寂光土」なる宗義的意義を持つていたのである。かかる町衆の法華信仰或はその止揚であつた鷹ヶ峰は、内には反幕府的要素を多分に含み乍らも、その存在した社会的条件と宗門宗義の変質によつて、質的変化を遂げ、近世封建社会の中に次第に解消して行つた。
著者
井上 満郎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.306-330, 1972-05-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
佐久間 大介
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.90, no.3, pp.425-453, 2007-05

本稿では、アルプスの南北にまたがり、多数派のドイツ語系と少数派のイタリア語系住民から構成されるティロールにおいて、ドイツ語系エリートがどのように「地域」や「境界」を認識していたかを考察した。分析対象としたのは、ティロールでは一七世紀に出現し、一八世紀に活況を呈した領邦に関する地誌、すなわち領邦誌である。 一七世紀における領邦誌の成立は、ティロールを他とは異なる一つの「祖国」とする見方を前提としていた。だが、当時の領邦誌作者は、独立した聖界領であったトリエント司教領、ブリクセン司教領とティロール伯領の国制上の栢違を無視できなかった。一八世紀には、ティロール伯領とトリエント、ブリクセン司教領の区別が重視されなくなり、かわって、新たな「境界」設定の基準が浮上する。ここで、ティロール内部の言語や「民族」性の違いへの言及があらわれたことは確かである。だが、ドイツ語系エリートは、産業・農業の正確な把握をより重視し、気候や植生におけるアルプスの南北の相違を、「地域」区分のもっとも重要な指標としていた。 ティロールが、外部から完全に切り離された空間とされていたわけではないことも重要である。一七・一八世紀の領邦誌作者は、ティロールが神聖ローマ帝国に属していることを当然視し、「ドイツ」の一部としてティロールを捉える認識も共有していた。一八世紀の領邦誌では、これに加え、ハプスブルク帝国という枠組みの存在感も高まったが、中央集権化に抵抗する諸身分の議論も反映された。地理的位置の特殊性を指摘することで、ハプスブルク帝国におけるティロールの重要性を強調するようになったのである。 一九世紀以降に強まったドイツ語系とイタリア語系住民の対立や、第一次大戦後の分割の歴史を持つティロールでは、その「一体性」が常に強調されてきた。しかし、本稿で明らかにしたように、一つの固有の空間として領邦を把握する領邦誌においても、「地域」の複合的性格や「境界」の流動性を見てとることができるのである。

2 0 0 0 IR 侍・凡下考

著者
田中 稔
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.p499-529, 1976-07

個人情報保護のため削除部分あり中世における社会身分として、侍・凡下の別が行われていた。現存する史料の上からは、この区別の実態がもっとも明瞭なのは検断沙汰・服装の面においてである。中でも犯罪の嫌疑をかけられた時、凡下は拷問されるが、侍は拷問されないのが当時の通例であった。この侍の拷問免除規定の法源は公家法の有官位者に対する免除規定にあるようで、侍身分は律令制的官位を帯することができる者と系譜的に密接な関連を有するといえる。鎌倉幕府法においても侍・凡下の区別は厳格になされており、この侍もまた有官位者と関連をもつようであるが、郎等は侍とは認めていない。しかし在地で侍・凡下の身分差をいう場合には郎等も侍に入っているようである。これらの侍・凡下の具体的な在り方を通じて、中世身分制度の解明の手懸りを探りたい。There was a status discrimination between the Samurai and the Bonge in the Middle Ages. According to the extant documents, it was in Kendansata (検断沙汰 the code of criminal procedure) and in the costume of those days that the discrimination was most evident. For example, as a rule, the Bonge was tortured when accused as a suspected criminal, but the Samurai was exempted from the torture. This privilege given to the Samurai seems to have originated in the privilege given to the person of official rank in the Kuge-law 公家法. So it may be said that the Samurai had a close connection genealogically with those who had been allowed the official ranks in Ritsuryō 律令 system. Then, when the status discrimination between the Samurai and the Bonge becomes an issue, it must be noticed that the Rōtō 郎等 was not included in the Samurai in the law of the Kamakura shogunale 鎌倉幕府, nevertheless, in reality in his residence it seems that the Rōtō was included in it. This article, by the consideration of the Samurai and the Bonge, aimes at finding a clue that should make clear the status system in the Middle Ages, especially in the days of the Kamakura shogunate.
著者
高嶋 航
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.98-130, 2010-01

アジア太平洋戦争時期は日本のスポーツ界にとって受難の時代と記憶されている。しかしこれを中国大陸からながめると、全く違った様相が浮かび上がる。純粋スポーツの信奉者で、満洲にスポーツ王国を築いた岡部平太は、満州事変にいちはやく国家主義スポーツを提唱した。この「転向」は、日中両国の激しい抗争の場であった満洲の現実が醸成したもので、国策への便乗として片付けることはできない。その後岡部は天津で、軍特務としてスポーツを通じた文化工作を試みる。日中戦争勃発後、国家主義スポーツは日本の青年たちを戦場へと駆り立てた。一方、華北の占領地でスポーツは文化工作の一環として実施された。かくてスポーツは戦争の加害者となった。これは軍の強制によるというよりは、スポーツ界が戦争という状況に主体的に対応した結果であった。軍自身は武道・体操を重視し、スポーツを敵視する態度を取っており、そのため一方でスポーツ受難のイメージが形成され、他方で加害者としてのスポーツのイメージが隠蔽されたのである。
著者
塚本 明
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.79, no.6, pp.819-851, 1996-11

個人情報保護のため削除部分あり近世日本の朝鮮観については、主に朝鮮から江戸幕府に派遣された朝鮮通信使を通して論じられてきたが、その総体を把握するためには当時の社会における朝鮮に関する知識の多様な要素を検討する必要がある。本稿はそのひとつとして、これまで十分な分析がなされてこなかった神功皇后伝説の影響について考えるものである。 神功皇盾伝説は蒙古襲来を期に、朝鮮を畜生視する内容を伴うようになる。だが秀吉の朝鮮侵略後には、神国観の転換に規定され思想家レベルでは中世的観念を脱し、近世中期以降には『古事記』、『日本書紀』に基づいて朝鮮蔑視論が展開される。しかし民衆の祭礼、信仰などの世界においては、中世的な伝説・異境観により、朝鮮を犬、あるいは鬼と表現する蔑視観が存在した。これらは統治者、思想家の影響によるものではない、近世民衆独自の朝鮮観であり、そして近代初期の征韓論を支え、また明治国家が神功皇后を国民統合のシンボルとなしえた、社会的な背景でもあった。

2 0 0 0 IR 片山潜

著者
立川 健治
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.p234-265, 1983-03

個人情報保護のため削除部分あり本論でわたしは、片山潜の思想と運動を「文献的」に解釈するのではなく、それへの執念を生みだし支えていたものが一体何であったのかという観点から片山をみていく方法をとった。このように考えたとき、片山の一八八四~九六年(二五~三七歳) の「在米生活」は、生涯の軌跡を決定したといってよいほどの意味をもっている。なぜならそこで片山は、 「欧米社会」のもっている圧倒的な重量を「先進(優越) 性」ととらえることによって「日本社会」の「後進(劣等) 性」を、いいかえれば「日本の現実」を棚上げあるいは欠落させることによって「欧米の先進(優越) 性」を手に入れたからである。そしてこのことが片山の場合、日本の健全かつ合理的な「近代化」のためには、欧米の「進歩的」な社会思想と運動を日本に移殖することが不可欠であるという「情念」と結びついていったからである。片山の生涯の軌跡から夾雑物をとりさってみれば、その根底には常にこの「情念」があり、それこそが片山の思想と運動の実体だった、というのがわたしの考えである。In this paper I do not analyse Katayama Sen's ideas and movements on the basis of documentary records and interpretations but try to grasp him by considering what made him cling to such ideas and what drove him to such movements. Seeing him from the viewpoint, his experience in the United States from 1884 to 96 (from his twenty-five years of age to thirty-seven) proves to count so much that it might be said to orient his future career. There in the United States he took the colossal massiveness and affluence which Euro-American societies seemed to him to show off in every respect for the forwardness (senshinsei) 先進性 and accepted it and acted as if he owned it, while he failed to put into question or shelved the backwardness 後進性, actual conditions, of Japanese society. This, in his case, led to the passionate obsession that, for the sound and rational modernization (kindaika) 近代化 of Japan, it was indispensable to transplant the advanced social ideas and movements of Euro-American societies in Japan. Taking away odds and ends from his career, there always remains the obsession. And it is the substance of his ideas and movements.

2 0 0 0 IR <彙報>・<會報>

出版者
史學硏究會 (京都帝國大學文學部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.407-424, 1938-04-01
著者
白川 哲夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.87, no.6, pp.812-842, 2004-11

「戦没者慰霊」の研究は近年急速な進展を見せているが、時期的変遷や、事例間の関連性が十分に整理されていないと思われる。本稿では、地域の招魂祭と戦死者葬儀の実態を論じ、それぞれの行事がどのような役割を近代日本社会の中で担っていたのかについて考察した。戦死者を集団として祭祀する招魂祭と、個人として弔う戦死者葬儀は、それぞれが平時と戦時の「戦没者慰霊」を担った。いずれも地域が一体となった行事であり、時代が下るにつれその公的性の度合いは強まった。また二つの行事は神道と仏教の果たす役割の違いを反映しており、前者は主として死者への顕彰と称賛、後者は死者への哀悼と弔いを受け持っていた。その役割は互いに自覚的に選び取ったものではなく、互いの領域を奪い合おうとする紛争が通時代的に起こり続けていたのである。
著者
稲本 紀昭
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.51, no.3, pp.1-29, 1968-05
著者
松尾 尊〔ヨシ〕
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.65, no.6, pp.p867-899, 1982-11

個人情報保護のため削除部分あり加藤友三郎内閣(一九二二年六月〜二三年八月) は貴族院を基礎とする非政党内閣であったにもかかわらず、衆議院議員選挙法改正の必要を認め、まず政府内に調査会を設置した。一九二三年はじめの第四六議会では、前議会同様の普選運動が展開し、大都市から、地方の小都市・農村へと侵透した。議席の過半数を占める政友会は、野党の統一普選法案を一蹴したが、新党議の地租委譲(国税→地方税) は選挙権の大拡張を必然化した。野党第一党の憲政会は政権担当の可能性を確実なものにするために、普選運動の煽動から統制へと態度を改め、各地の市民・農民政社を傘下におさめることにつとめた。他方日本共産党は、無産階級の普選運動参加はブルジョワジーの支配を安定さすことになるとして、これにブレーキをかけた。一九二三年六月、衆議院議員選挙法調査会は有権者の約三倍増を答申し、政府はこれを重要法律案の予備審査機関たる法制審議会に諮問した。加藤内閣によって選挙法改正は一九一九年いらいはじめて政治日程に上り、次期山本内閣にひきつがれる。Although the Government of Katô (Jun. 1922-Aug. 1923), based on the House of Peers, was never a party cabinet, it recognized the necessity for revising the election law; it organized an Advisory Committee under the Cabinet as the first step toward the rivision. On the other hand, early in 1923, the movement for the universal suffrage was noticeable during the 46th session of the Diet as much as in the previous one. The movement spread out of larger cities through local towns to the country. Meanwhile the ruling party, Seiyûkai 政友会, could easily kill the universal suffrage bill introduced by the opposition parties in chorus. But, in another context, the Seiyûkai determined to transfer the management of the land tax from the government to the local government, which made larger enfranchisement inevitable. For fear of missing the chance to take the helm of state affairs, the leading opposition party, Kenseikai 憲政会, which had instigated the universal suffrage movement, thereafter tried to control the political associations which were organized among the citizens and the farmers in various places. The Japan Communist Party tried to keep the proletariat from joining in the movement, because they were afraid that it might result in the stabilization of the bourgeois rule. In June 1923, the Advisory Committee on the Election Law in the House of Representatives suggested that the number of the enfranchised people should be tripled. The government referred this suggestion to the Hôsei-Shingikai 法制審議会, Legislative Council, which was in charge of investigating the important bills in advance. Thus, since the previous revision of the election law (1919), it was not till the Government of Katô that the new revisions was actually inscribed on the political calendar. And the cabinet of Yamamoto 山本 took over the revision work.
著者
沈 箕載
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.79, no.6, pp.881-912, 1996-11

個人情報保護のため削除部分あり本稿は、幕府から明治政府への政権交替による朝鮮との国交再調整問題に注目し、版籍奉還を前後にした時期においての明治政府(外務省) ・対馬藩(倭館) ・朝鮮政府(東莱府) 三者間の認識と対応、対朝鮮外交・貿易一元化への動きの一環として計画され、実際に派遣された佐田調査団の全貌(計画から帰国報告まで) 、そしてそれが以後の対朝鮮外交政策の樹立に与えた影響について検討したものである。これらの点を明らかにすることは、明治初期における日本の朝鮮政策の原型を理解する上で役に立つだろう。
著者
和田 萃
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.52, no.5, pp.646-704, 1969-09

殯とは、人の死後、埋葬するまでの間、遺体を小屋内に安置したりさらには仮埋葬し、遺族や近親のものが小屋に籠って、諸儀礼を尽して奉仕するわが国古代において普遍的に行なわれた葬制であるが、この殯について従来ほとんど研究されておらず、わずかに民俗学からの研究があるにすぎない。それも甚だ不十分であり、まだまだ考察の余地があるように思われる。それで本稿はまず殯に関する基礎的事実を文献史料から抽出し、そのあと特に天皇を対象とする殯をとりあげ、殯宮儀礼を手がかりにして、皇位継承に焦点を絞りながら、殯を政治史的視角から考察した。Mogari 殯 is the common funeral form in our ancient times that a dead man's body should be ensconced in a hut after his death till burial, or it be provisionally buried with his relatives confined to the hut and serve various rites in behalf of the dead. This form has hardly been investigated except for few unsatisfactory folklore studies. This article is to observe Mogari in the political view-point where succession to the throne should be considered throungh the forms of Mogari especially for the emperors by means of the fundamental facts from some historical resources.
著者
栗原 麻子
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.99, no.1, pp.3-38, 2016-01

一九八○年代以降、古典期アテナイのオイコス(家) をめぐる研究は、父系的な氏族支配からポリスの支配へという発展論的理解を脱し、単婚小家族を基盤とするより小規模な世帯へと焦点を移した。本稿においては、そのような夫婦を中心とする世帯を、ポリス法制上の構成単位とみなしうるかどうかについて、とりわけ「空のオイコス(エレモス・オイコス) 」の概念を中心に検討する。その結果浮かび上がるのは、夫のオイコスに対する妻の権利の希薄さである。アテナイ法制上にオイコスの存在を確認できるとすれば、それは夫婦を中心とする世帯というよりは、直系によって継承される系譜上の存在であった。しかるに民衆法廷での家族をめぐる言説は、とりわけ女性を通じて形成される世帯の親愛を示すエピソードに事欠かない。民衆法廷は、法制上のオイコス概念と実態上の世帯の親愛とのあいだを調整する場であったといえる。
著者
小塩 慶
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.99, no.2, pp.290-311, 2016-03

The aim of this article is to grasp the significance of auspicious omens (shozui) in the context of the policy of Tang-style Sinification and clarify the reception of Chinese conception of auspicious omens in ancient Japan. Two periods when records of auspicious omens were particularly rare are the object of my analysis: these are the Tenpyo Hoji era under the regime of Fujiwara no Nakamaro and the early Heian period from the Konin to the Kasho era during the reigns of the emperors Saga, Junna, and Ninmyo. In the first section, I indicate that there were cases of auspicious omens not being recorded due to the humility of the emperor during the Latter Han dynasty. The fact that there was a tendency to denigrate auspicious omens and emphasize practical politics during the Tang has been pointed out in earlier studies, but when considering attitudes toward auspicious omens in Japan from the 9th century onward, the Latter Han attitude toward auspicious omens is important. Moreover, on the relationship between auspicious omens and calamities, previous scholarship has argued there was a direct correlation between the two, but on reexamination of the relationship, I have clarified that there was a tendency for the number of auspicious omens to decline as the number of calamities increased. Behind this was the fact that the two had different characters; auspicious omens were mental phenomena and the calamities were physical realities. In the second section, I consider the relationship of the small number of auspicious omens in the early Heian period and the policy of Tang-style Sinification. I compare in particular the Shoku Nihonkoki for Jowa 1.1 (834) and the imperial edict of the ninth month of Zhenguan 2 (628) in the Tang da zhaoling ji, and judging from the similarity of the language of the two, indicate that the edict of the first year of the Jowa era reflected that of Emperor Taizong of the Tang. Therefore, the small number of auspicious omens from this period can be understood as a result of the fact that the Japanese court knew that the Tang emperor had not favored auspicious omens and that they would not be recognized without reserve. Moreover, it should be noted that as a result of the humility of the Japanese emperors of the ninth century, there were many cases when auspicious omens were not accepted, and this logic was closer to the Latter Han example rather than the Tang, From this, auspicious omens in the early Heian period should be understood as the reception of not only Tang but also Latter Han thought. In the third section I focus on the auspicious characters that were a special characteristic of the regime of Fujiwara no Nakamaro and attempt to demonstrate the Sinification of auspicious omens. Auspicious characters are a variety of auspicious omen that was seldom if ever seen in Japan, but there were examples in China and the political policy as regards auspicious characters by Empress Wu Zetian, which is thought to have had influence at the time on Japan, can be seen in historical sources. Based on these facts, it can be said that auspicious characters had a particularly Chinese quality and we can conclude that the auspicious omens were Sinified through the Tang-style Sinification policy of Nakamaro. In the era of Fujiwara no Nakamaro the Chinese theory of accepting the will of heaven was already known, and auspicious characters were Rot simply a matter of a superficial copying of the achievements of Wu Zetian, and this indicates the influence of a profound understanding of the entirety of Chinese culture. Considering their limited relationship to auspicious omens and the policy of Tang-style Sinification that I elucidated in the second section, the fact that auspicious omens were not seen under the regime of Fujiwara no Nakamaro, which did use Chinese auspicious characters, can probably be explained in the same manner. Moreover, using auspicious omens to rule politically and then the trend to distain auspicious omens itself can also be seen in China. Furthermore, as calamities were frequently seen in this period, this too seems to have been a cause for the paucity of auspicious omens. In the fourth section, I address the trend towards the disappearance of auspicious omens from the Six Dynasties onward. In regard to the elimination of auspicious omens, I state my view that it would surely be necessary to consider the change in the character of the monarchical regime that was profoundly related to auspicious omens rather than the problem of the state of extant historical sources. In conclusion, as evidenced in sections two and three, the decrease in the number of records of auspicious omens can be explained as the reception of the Chinese influence within the policy of Tang-style Sinification. In this article I demonstrated factual evidence of the relationship between auspicious omens and the policy of Tang-style Sinification through examination of records of auspicious omens themselves. Moreover, it can be surmised that the Japanese court was conscious of the historical dynasties such as the Five Emperors and Latter Han rather than the contemporary Tang dynasty in regard to the Sinification of auspicious omens. In this article, I posit the image of "multiple Chinas" as a concept that would include multiple Chinese dynasties. It may be said that during the period that was strongly influenced by the Tang, the reception of the concept of auspicious omens occurred with this conception of "multiple Chinas" as its source.
著者
今谷 明
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.63, no.6, pp.p976-992, 1980-11

個人情報保護のため削除部分あり
著者
岡本 託
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.98, no.3, pp.467-500, 2015-05

本稿では、近代フランス公務員制度の枠組みが確立されようとしていた一九世紀後半、上級行政官養成において先駆的役割を果たした、コンセイユ・デタ傍聴官の養成について分析をおこなった。そこでは、第二帝政期から第三共和政期という性質の異なる二つの政体を跨いで、登用、出自、経歴形態において、受容と変容という要素を含みながら傍聴官職の性質が変化していったことを明らかにした。そして、一九世紀後半の傍聴官制度が、中央集権的行政制度を人的側面から支えることを可能とし、また、他の行政機関における行政官登用制度に対しても影響を与え、若手官僚職の門戸開放を推し進める要因となった。このように、一九世紀後半の傍聴官制度は、国家政策と官僚制度の双方においてインパクトを与えるものであった。
著者
小塩 慶
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.99, no.2, pp.290-311, 2016-03