著者
高橋 秀樹
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.431-439, 1998-05

個人情報保護のため削除部分あり
著者
横内 吾郎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.4, pp.576-603, 2005-07

エジプトは第二次内乱期の非常に早い段階においてマルワーン家によって支配が回復され、その統治はカリフ・アブド・アルマリクの弟アブド・アルアズィーズに委ねられた。彼はワリー・アルアフドであり、総督として王朝への貢献も大きく、強大な権力を保持した。一方で、エジプトは旧来の西方征服の拠点であったが、征服が進展し、その拠点がエジプト西方のイフリーキヤ地方に移動したことで、その軍事的意義を薄めていった。このために、マルワーン家のカリフたちはエジプトに求心力を有する総督を必要としなくなり、アブド・アルアズィーズの死後、総督の職掌を分割してその権力を制限し、自らの意の通じるマワーリーを「租税」職に任用して州の財政に介入した。その後この職掌分割体制は、エジプトが深刻な戦乱に見舞われなかったこともあるが、カリフの交替によっても覆されることなく王朝の滅亡まで維持された。
著者
横内 吾郎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.88, no.4, pp.576-603, 2005-07-01

エジプトは第二次内乱期の非常に早い段階においてマルワーン家によって支配が回復され、その統治はカリフ・アブド・アルマリクの弟アブド・アルアズィーズに委ねられた。彼はワリー・アルアフドであり、総督として王朝への貢献も大きく、強大な権力を保持した。一方で、エジプトは旧来の西方征服の拠点であったが、征服が進展し、その拠点がエジプト西方のイフリーキヤ地方に移動したことで、その軍事的意義を薄めていった。このために、マルワーン家のカリフたちはエジプトに求心力を有する総督を必要としなくなり、アブド・アルアズィーズの死後、総督の職掌を分割してその権力を制限し、自らの意の通じるマワーリーを「租税」職に任用して州の財政に介入した。その後この職掌分割体制は、エジプトが深刻な戦乱に見舞われなかったこともあるが、カリフの交替によっても覆されることなく王朝の滅亡まで維持された。
著者
夫馬 進
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.89, no.5, pp.645-677, 2006-09

これまで朝鮮通信使の研究では、これによって先進的な朝鮮の学術文化が日本に伝達されたとされてきた。しかし日本で古学が一世を風靡して以後は、この通説は成り立たない。一八世紀は両国学術関係の転換期に当たっていた。一七四八年通信使の一行は朱子学が尊ばれない日本の学術情況を知り、危機感のみを募らせたが、次の一七六四年のそれでは、徂徠学の何であるかを知ろうとして極めて積極的であった。彼らは日本で『徂徠学』を熟読し『弁道』『弁名』を手に入れただけでなく、彼の弟子たちの業績である『七経孟子考文』などを帰国直前にあっても獲得しようとした。ところが彼らが帰国後に行った徂徠学の紹介は、いずれもその核心を外したものであった。このような紹介しかできず、この時に徂徠学が朝鮮にほとんど伝わらなかったのは、当時朱子学以外を語ることが厳禁されていたなど、朝鮮の国内諸事情によるものである。
著者
長谷川 博史
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.76, no.3, pp.p346-378, 1993-05

個人情報保護のため削除部分あり鎌倉期守護の系譜を引く室町期塩冶氏は、その基盤である出雲国最大の河川水運の要衝を確保して、特に出雲国西部において強大な政治的実力を有し、十五世紀末には杵築大社両国造家など周辺諸領主と結集して、自立性の極めて強い地域秩序形成を企図している。しかも塩冶氏は幕府奉公衆を務めており、京極氏の守護権がほとんど及びえない存在として、出雲国内において最も特徴的な位置を占めていたと言える。尼子経久は、このような性格と動向を示す塩冶氏について、十六世紀のかなり早い段階で実子興久に家督を継がせ、やがてこれを武力討滅することにより、その権力基盤と歴史的性格の大部分を継承し、一国支配権の確立に不可欠な出雲国西部における権力の浸透を実現している。本稿においては、大名としての尼子氏権力形成過程における最大の画期であると考えられるにもかかわらず、従来非常に軽視されてきた塩冶氏掌握の歴史的意義を明らかにしていきたい。The main purpose of this paper is to make clear how important it was for the Amago to eliminate their rivals within Izumo 出雲 province, the Enya, on their way to becoming daimyo. Concerning the historical characteristics of the Enya in the Muromachi period we can indicate three main points : First, the Enya were the most powerful in the western part of Izumo. Their position was based on the financial strength derived from the area under their rule, which was located at a strategic location for river transportation in Izumo. Second, because the Enya were members of the hokoshu 奉公衆, the direct army of the shogun, they were thus independent of the authority of the shugo of the province, the Kyogoku 京極 family. So even after the Amago succeeded to the estate and the authority of the Kyogoku, they were unable to thereby control the Enya. Third, at the close of the fifteenth century, the Enya were allied with other adjacent lords (kokujin) against the Muromachi shogunate. This military alliance was a great force within the province and aimed at establishing an independent local order. Thus the most important problem facing the Amago at the close of the fifteenth century was how to eliminate the Enya and bring the entire province of Izumo under their control. The process was begun early in the sixteenth century when Amago Tsunehisa 尼子経久 made his son Okihisa 興久 the heir to the Enya, and completed in the 1530s when the Enya were wiped out by military force. The Amago succeeded to the Enya power base in western Izumo and to their connection with the neighboring kokujin. This was the crucial step in bringing the entire province of Izumo under Amago control.
著者
伊藤 之雄
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.p1-31, 1994-01

個人情報保護のため削除部分あり元老は慣例として形成され、後継首相推薦などの重要な国務について天皇の諮問を受ける役目を果たした。本稿は元老制度に関し、宮中関係者の手になる「徳大寺実則日記」などの史料を初めて本格的に用いて、制度の形成や運用過程における明治天皇と元老との関係や元老根互の関係など、元老制度の構造と機能について考察しようとするものである。元老制度は、日清戦争前後に明治天皇によって作られ始めたが、一八九八年に確立したときに主導権を握っていたのは、伊藤博文らの元老であった。天皇の厚い信任を得ていた伊藤は、元老中最も高い位置づけを得た。山県系官僚閥を率いる山県有朋でさえ、伊藤の格式に並ぶことはなかった。しかし日露戦争後は、元老の政治力の衰退が現れ、明治天皇が制度運用の実権を握った。その天皇の信任を背景として政治的に台頭していくのが、桂太郎である。そのことが山県有朋ら元老の反発を買い、大正政変で桂が失脚させられていく重要な背景となった。The Genro 元老, or elder statesmen, in positions established by convention, acted as consultants to the Emperor concerning important matters of state, such as the recommendation of candidate to succeed as prime minister, etc. In this paper, using Completely for the first time historical sources including "Sanenori Tokudaiji Dairy" 徳大寺実則日記 by a central participant in court affairs, I will examine the formation of the Genro system, and the relationships between Emperor Meiji and the Genro, and among the various Genro in the working of the system. Emperor Meiji began to form the Genro system around the time of the Sino-Japanese War. However, it was Genro such as Ito Hirobumi 伊藤博文 who acquired control over the system with its establishment in 1898. Ito Hirobumi was the most respected amongst the Genro because of the degree of trust which the Emperor placed in him. Even Yamagata Aritomo 山県有朋, who was the leader of the Yamagata Faction in the bureaucracy had less authority than Ito. However, after the Russo-Japanese War, the power of the leading Genro was greatly weakened, and Emperor Meiji was able to gain greater control over the system. Subsequently, Katura Taro 桂太郎, favoured with the trust of the Emperor, emerged as a major political force. The offence felt at this by the leading Genro, in particular Yamagata, was a principal factor in Katsura's loss power in the political upheavals of the early Taisho period.
著者
黒岩 康博
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.94, no.1, pp.125-153, 2011-01

奈良の言語研究者宮武正道は、従来マレー語の専門家と考えられていたが、残された旧蔵資料を見ると、彼がマレー語に至るまでに辿った「語学道楽」の跡が明らかになった。中学校時代、切手蒐集の延長として始めたエスペラントに対する熱意は、奈良エスペラント会を発足させ、機関誌『EL NARA』を生み出す。該語を飽くまで社交の道具と見倣す宮武主宰の同会には、パラオよりの留学生エラケツも参加していたが、宮武は彼からパラオ語で多くの民話を聞き取り、『南洋パラオ島の伝説と民謡』を上梓する。この一時期は土俗の研究へと傾いたが、昭和七年七月のインドネシア旅行以降、マレー語を本格的に研究し始める。当初はマレー語の新聞・雑誌を読むことを念頭に置いていたが、日本の南進政策がマレー語圏にも及ぶと、カナの普及やローマ字綴りの日本風改革を提唱するようになる。こうして書斎から出た好事家は、最後タガログ語辞書の完成を待たずに夭逝した。
著者
谷川 道雄
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.68, no.6, pp.p966-979, 1985-11

個人情報保護のため削除部分あり
著者
根津 由喜夫
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.260-293, 1991-03-01

金沢大学人間社会研究域歴史言語文化学系
著者
金 玄耿
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.100, no.4, pp.465-490, 2017-07
著者
松下 涼
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.91, no.4, pp.694-727, 2008-07

九三〇年頃の法と集会制度の成立から、一二六二/六四年のノルウェー王に対する臣従誓約に至るまでのアイスランドは、近代以降「自由国」と呼ばれ、大権を戴かない社会として知られている。本稿では、「自由国」とノルウェー王権受容との関係を再考する試みとして、アイスランド固有の散文物語「サガ」を主要史料とし、一三世紀のアイスランドにおける平和と権力の在り方を解析した。従来、一三世紀前半は、有力者間の権力闘争の激化により、王なき「自由国」を支えていた血讐(報復義務)を基盤とする平和維持システムに破綻を来す時期と捉えられてきた。しかし、ノルウェー王との関係も視野に入れると、支配者層に対し一定の発言力を保ち持ち続けていた農民集団が、新たな「平和維持者」としてノルウェー王を選択した可能性も窺える。また、王権受容後に関しては、王による法制度の改編のみに考察が偏ってきたが、同時期を描くサガに着目すると、血讐の存続も確認される一方、ノルウェー王の裁判権が直接対面することのない農民層にも徐々に拡大してゆく様子がみてとれる。すなわち、二二世紀アイスランドは、ノルウェー王権をも構成要素のひとつとする平和維持システムの緩やかな変容過程にあったのである。
著者
合田 昌史
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.90, no.1, pp.92-122, 2007-01-01

近世の二大海洋帝国スペインとポルトガルは「発見」されていない非キリスト教世界を二国間で排他的に分配し領有する「世界分割」(分界) の言説を展開した。本稿はこの言説の起源と成立と展開を扱う。分界の起源のひとつは一二〜一三世紀のレコンキスタにおける未征服地分配の諸条約と「回復」の理念にあるが、成立の直接の契機は両国がアフリカとアメリカへ進出する一五世紀後半にある。回復の限界を超えた進出を第三国向けに正当化するために「発見」の理念と教皇の「贈与」勅書が拠り所とされ、両国間で利害調整が行われた結果、仮想の分界線が引かれた。成立当初の分界は東西へ漸進するふたつのフロンティアを意味していたが、マゼランの大航海を契機に、世界の二等分割の解釈が両国間で共有されるようになり、アジアにおける対蹠分界線の在処が議論された。占有主義の第三国を排除する未征服地分配の言説は近世を通じて保持された。
著者
仲丸 英起
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.98, no.6, pp.838-870, 2015-11

本稿は、準男爵位を通じて近世イングランド社会における名誉と称号の意義を再検討するものである。一六一一年、王権は財源不足の解消を目的として男爵位とナイト位の間に準男爵位を設置し、その販売を開始した。従来の研究では、初期スチュアート朝期におけるこうした爵位の販売ないし過剰な供給が、名誉の価値を低下させると同時に、社会階層間の移動を容易にしたと論じられてきた。本稿ではこの点を実証的に探求するため、準男爵位被授与者全体の社会層、およびケント・ノーフォーク両州における同称号被授与者の州内における地位を総体的に検討した。その結果、準男爵位を授与された家系の社会層は、たしかに全般的には低下傾向を示していた。その一方で、称号を保有する意味について地域的な差異が存在し、また称号の獲得は従来想定されたほどには社会階層間の流動性を促進していなかったという状況も判明したのである。In 1611, James I created the order of the baronet. However, the gentry shunned this honour from its initiation up to the Restoration. What was the reason for this? By investigating the process by which a baronetcy was established and the social strata of its purchasers, this paper re-examines the significance of titles for political society in early modern England. While some historians such as J. Aylmer and J. Brewer have studied offices sold by monarchs, there have been few studies focusing on the titles of honour. L. Stone's The Crisis of the Aristocracy, 1558-1641 is the only authoritative study on this subject. He argues that the rapid increase in conferring titles by James I and Charles I diminished their prestige and this inflation of honour helped promote social mobility. This book was written to refute the thesis by H. Trever-Roper, who criticized R.H. Tawney's idea of 'the rise of the gentry'. Later, it was shown that there were serious faults in the assumptions of both sides in the 'gentry controversy', and the dispute ended without a clear resolution. However, consideration of social strata during this period has not lost their significance. This paper will critically review Stone's assertion, focusing on the baronetcy. Since his succession to the English throne, James suffered from a lack of funds. Baronetcies were originally introduced and began to be sold to make up the deficit, but the official stated aim of this policy was to contribute to promoting the plantation of Ulster. At first, the King and his councillors intended to set the maximum number of titles at 200 to prevent their deterioration in value. However, in the 1620s, this promise was broken and peerages also began to be sold. Moreover, the original scheme of a direct cash payment of £1095 to the Exchequer was abandoned, and the virtual authority to make baronetcies was granted to courtiers to be resold. As a result, the actual lowest selling price for this title fell to about £200. We first must inquire how this downward trend in prices affected the social strata of the purchasers. The results of a survey using the Complete Baronetage edited by G.E. Cokayne shows that the social estates of families that purchased baronetcies overall began to decline. On establishment of the order, the chief purchasers were holders of knighthoods, but this trend gradually shifted to esquires. While a large proportion of early purchasers were already MPs before acquiring the title, many of those acquiring a title from 1615 to 1624 were elected MPs afterwards, and few of those who obtained one from 1626 to 1630 got parliamentary seats at some point in their lives. How did the depreciation of this title affect local communities? To examine this problem, we take up two counties, Kent and Norfolk, and investigate herald visitations and a preceding topographical survey. The result shows that although in the 1620s the status of families who were granted a title dropped according to the fall in the title's value, there was not a great social gulf between the purchasers in 1610s and those in the 1620s. The acquisition of the baronetcy enhanced mobility to a certain extent within these social strata, but it should not be imagined that acquiring a baronetcy gave esquires, let alone yeomen, a great opportunity to achieve advancement in social rank. Still, it is necessary to consider regional variations in the influence of obtaining a baronetcy. In Kent, where the conflicts among families of the gentry rarely occurred in the later 16th century, the pressure to acquire a baronetcy did not increase. On the other hand, in Norfolk, where prominent families had been struggling for power since the 1570s, more applicants aspired to the honour. This survey seems to show that situations peculiar to each region had an influence on the extent to which the social and political value of baronetcy decreased. Even if these regional differences are considered, it can be confirmed that an inflation of honour occurred on the whole. However, we cannot affirm whether this comprehensively accelerated social mobility. In the early modern period, the easier it was to obtain titles, the lower their usefulness was as a means to achieve social promotion. As a result, the inflation of honour did not necessarily give lower-status gentry a great chance to rise to a higher social position. In the long run, the establishment of a baronetcy might even have enhanced the control of the landed gentry by increasing the number of title-holders.
著者
桂川 光正
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.91, no.2, pp.355-380, 2008-03-31

発足当初の関東州の阿片制度には、容易には理解し難い奇妙な事柄が三点見られる。これを一つ一つ、現地中国人阿片商の動向との関わりに留意しながら考察すると、関東州を台湾産煙膏の独占市場に仕立て上げるのが、この時の特許専売制導入の目的だったこと、しかしその企てが成功しなかった事実が明らかになった。更に、関東州に張り巡らされていた在来の経済的・人的・社会的ネットワークから関東州を切り離し、台湾と繋げることで、日本を頂点としたネットワークを新たに作り上げようとするのが、日本のこの時期の関東州統治の基本方策、ないしはこの時点での日本の帝国形成の基本戦略であったことも明らかとなった。関東都督府はその後、阿片制度の手直しを行なうのだが、それは、日本による関東州統治の進捗ないし安定化のために重要な柱を構築する意味があった。阿片・麻薬問題の歴史的研究は、このように、帝国史研究の一環として大きな意味を持っている。
著者
尾下 成敏
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.36-70, 2010-01

天正十三年(一五八五) 冬、羽柴(豊臣) 秀吉は島津義久に対し、九州における戦闘停止を命じたが、この出来事は秀吉の全国統一過程、すなわち戦国争乱の最終過程を論じる際に注目され、「平和」の実現を狙った政策か否かは今日重要な論点となっている。本稿は、天正十四年七月の対島津戦開戦以前の政治過程を復元し直すことで、上記の九州停戦命令を再考しようとしたものであり、(1)停戦命令は九州派兵が困難な情勢下で採られた方策で、「和戦」双方を視野に入れていた。そして畿内近国・東国・西国の情勢に規定されながら、ある時期は「和」の比重が、また、ある時期は「戦」の比重が高まり、遂には対島津戦突入へと至った。(2)「平和」の実現という切り口から、停戦命令を惣無事令として捉える学説には賛成できない。(3)島津攻めが既定方針であったことを強調する学説は、九州政策の変遷を踏まえた主張とは言い難い点などを主張している。