著者
米家 泰作
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.38-74, 1997-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
米家 泰作
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.122-127, 2003-01

個人情報保護のため削除部分あり英文タイトルは訂正(86巻2号p.291)による
著者
米家 泰作
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.122-127, 2003-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
村山 修一
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.139-170, 1970-03-01

宮廷陰陽道の爛熟時代ともいうべき院政期の陰陽道はめまぐるしい政局の推移とたび重なる天災、それに末法思想による社会不安を背景とし、院政の気まぐれで物ずきな奢侈性に影響されて極端にまで煩雑化俗信化の度を加えつつ社会の関心を高めて行った。一方、賀茂安倍両家の地位の固定化に伴い、無能な官僚陰陽師が多い中で、陰陽道的ムードの高まりから両家以外にも斯道の名士が相ついであらわれ、これに刺戟されて両家でも若干のすぐれた人材は出たのであった。同時に陰陽道関係の著作も新たに専門家や一般知識人の手で生み出され、これがまた様々の論議の種となったが、律令機構の一環としての陰陽寮は衰退の一途を辿りつつ変貌しゆき、宮廷陰陽家達はより広く一般社会を対象とした新たな活動の方向を見出さざるをえなくなったのである。
著者
村山 修一
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.139-170, 1970-03-01

宮廷陰陽道の爛熟時代ともいうべき院政期の陰陽道はめまぐるしい政局の推移とたび重なる天災、それに末法思想による社会不安を背景とし、院政の気まぐれで物ずきな奢侈性に影響されて極端にまで煩雑化俗信化の度を加えつつ社会の関心を高めて行った。一方、賀茂安倍両家の地位の固定化に伴い、無能な官僚陰陽師が多い中で、陰陽道的ムードの高まりから両家以外にも斯道の名士が相ついであらわれ、これに刺戟されて両家でも若干のすぐれた人材は出たのであった。同時に陰陽道関係の著作も新たに専門家や一般知識人の手で生み出され、これがまた様々の論議の種となったが、律令機構の一環としての陰陽寮は衰退の一途を辿りつつ変貌しゆき、宮廷陰陽家達はより広く一般社会を対象とした新たな活動の方向を見出さざるをえなくなったのである。
著者
吉川 敏子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.484-521, 1991-07-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
西沢 竜生 近藤 仁之
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.110-132, 1970-01

スペイン史学界の現況、並びに研究書誌につき一文をものすやう編輯子の依頼をうけたのは、昨年暮、筆者のマドリー滞在中であった。僅か一年そこそこの滞在であった上、明けて新年早々は帰国の旅に発つ身とあって、準備の暇もなく、取敢ずなほ年余に亙り滞在される近藤仁之氏(南山大学) に協力を仰いで快諾をえたのであった。ここに稿を起すにあたって最初にお断りしておきたいことは、この歴史的な「大国」の史学界につき紹介の筆を染めるのに筆者がいまだその任にたへぬ者であること、しかしならばこそまたなほのこと、拙文に盛られた以上に当の対象が遙かに深い奥行と大きな「問題」を含むことを御賢察いただきたいといふことである。従つて本篇の主たる内容は、生々しい現地報告もまじへた近藤氏の以下続篇に譲ることとし、ここでは僅かにその露払ひの役割を演じて当面の責を果すこととしたい。(西澤記)Al componer estas páginas bajo dicho título, he tenido el doble propósito de señalar importantes raíces de la historiografía moderna de España y de contribuir al estudio de la historia española en nuestro país, presentando un rico panorama de los rasgos fundamentales de esta ciencia : los archivos, colecciones de fuentes históricas, las revistas académicas etc., en un modo general. Acerca de los trabajos monográficos en cada ramo de investigación, esperemos que el señor profesor Y. Kondo los explicase profusamente en los números siguientes. R. N.
著者
彭 澤周
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.43, no.3, pp.452-471, 1960-05-01

一八八二年のいわゆる壬午の乱后、伊藤博文と井上馨との対韓方針は、必ずしも一致していなかつた。清国の哀世凱らは、朝鮮の事大党と結び、宗主関係をさらに増強したので、もし明治政府が積極的な対韓政策を進めれば、日清両国の衝突を招く恐れがあつた。そこで、外務卿井上は、朝鮮の独立問題に対して静観態度を持していた。ところが一八八四年、清仏両国は安南問題の失敗から、戦争状態に入つた。しかし、李鴻章は、フランスに対して妥協政策を主張したので、清国の軍事力は弱体化を免れなかつた。この戦争は李朝政府を不安な状態に陥し入れた。消極政策を考えていた井上は、ここに一転して伊藤らと共に金玉均らの独立党を援助して甲申変乱を惹起した。明治政府が、一方で、資本主義フランスに協力して日本の国際地位を向上せしめながら、同時に朝鮮の独立をはかつたことは、一挙両得の外交方針であつたといえる。
著者
彭 沢周
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.58, no.6, pp.p823-848, 1975-11

福沢諭吉と康有為はいずれも近代啓蒙思想家であった。日本と中国との近代史に占めるこの二人の地位は、いうまでもなく、きわめて重要であった。彼らの維新変革思想などについて、多くの人たちがたえず研究している。しかし、彼らの変革思想中における経済立国論、ことにそれらの比較と、両者の異同を明らかにする研究は、まだ未開発のままだといえる。本稿は福沢と康が資本主義国の経済体制をとり入れてそれぞれの維新変革をはかったことについて書いたものである。その主たる目的は、両者の経済変革思想から維新変革の過程に現われた彼らの現実主義と理想主義とを追求しようとするものである。
著者
勝山 清次
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.p169-211, 1987-03

本稿では、これまで「国司苛政上訴闘争」に対する朝廷の政策的対応の観点から把握されてきた公田官物率法の成立について、その前提の究明を試み、十一世紀前半には、それまで臨時雑役に包摂されていた諸賦課が順次田率賦課に移行し、官物体系改変の条件が整うとともに、諸国においては自然・地理的条件に規定されて、産業構造の地域的特化が進み、独自の官物率法が制定される前提が形成されていたことを明らかにした。また公田官物率法成立にともなう官物体系改変の歴史的意義についても、これまでの諸見解を踏えて、(1)受領による官物の賦課率の恣意的な変動を制約したこと、(2)官物が一個の独立した税目となり、中世的な年貢制を準備したこと、(3)中央への主要な貢納物が一律的に官物によって賄われる体制が成立したことなどに集約できるとした。
著者
飯塚 一幸
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.92, no.2, pp.359-387, 2009-03

「大日本国憲法」は、国会期成同盟第二回大会前に作成された数少ない私擬憲法案であるが、関係史料が限られていて、作成者の確定、作成の経緯など、基本的な点がはっきりしていなかった。ところが稲葉家文書から発見された新史料により、一八八○年九月における筑前共愛会の和田操の宮津遊説が契機となり、同会の憲法草案の影響の下、天橋義塾社長沢辺正修が一気に書き上げたことが判明した。その後「大日本国憲法」は、丹後選出府会議員らの討議により若干の修正を加えられ印刷・配布されていった。「大日本国憲法」作成と沢辺の国会期成同盟第二回大会参加は、筑前共愛会側から言えば、同会の遊説活動の顕著な成功例である。いち早く起草した憲法草案を携え国会期成同盟第二回大会に臨み主導権を握ろうとした筑前共愛会は、九州の外に同志を得たのである。こうして沢辺正修ら京都府民権派と筑前共愛会は、坂野潤治の言う「在地民権右派」の中核を形作っていく。
著者
古沢 直人
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.73, no.2, pp.p198-237, 1990-03

鎌倉末期における幕府訴訟制度の実態については、職権主義・即決主義が台頭し、和与が盛行するという指摘が行われているが、末期訴訟制度を最も特色付けるものは、むしろ欠席裁判の激増という問題である。この事態は、訴訟当事者の裁判への召喚命令無視という行為の増大を背景とし、幕府がそれに対して、成立後約半世紀にわたって実際の発動を行わなかった御成敗式目三五条の規定を機械的に適用したためであるが、結果的に裁判の半数近くが「欠席裁判」となったのが末期幕府訴訟制度の実態であった。この欠席裁判の問題は、これが最も激しく見られた九州、屈折した形をとった畿内・西国、辺縁部を中心にして鎌倉周辺では少なかった東国等、それぞれ地域的な個性をもって展開し、各地域の社会矛盾や権力関係などがそこに反映されていた。しかし同時に、共通の本質に支配されており、この点の解明が全国一斉に鎌倉幕府打倒に結集した原因を探る鍵である。
著者
根津 由喜夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.p44-72, 1987-01

十一世紀後半、ビザンツ帝国政府はマルマラ海に面した港町ライデストスに穀物専売制を導入した。この事件は、当時、帝国の置かれた政治・社会・経済の諸状況を理解するうえで、きわめて貴重な知見を我々に提供してくれる。本稿では、この事件に当事者として関係し、互いに対立する立場にあった二人の人物、すなわち政府高官ニケフォリツェスと史家ミカエル=アッタレイアテスに焦点を当て、彼らの意識の内面に迫ることで、この政策を実施した当局側の真のねらいと、それがやがて失敗に帰した要因を分析し、あわせて当時の時代状況を捉えようと試みた。その結果、ニケフォリツェスの一連の施策は、危機に瀕した帝国を立て直すため、経済活動への介入により、集権的国家体制の再建を意図したものであったこと、しかるにその失敗は、自己の所領で半ば自立的な生活を送る属州貴族たちの生活様式が中央政府内部に同調者を見い出すほどに浸透し、彼らに有利な自由な経済体制がもはや押しとどめられぬほどに進展していた結果であることが判明した。
著者
根津 由喜夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.p260-293, 1991-03

一〇二五年、バシレイオスニ世没時のビザンツ帝国は繁栄の絶頂にあるように思われた。だがその一方で、従来の膨張主義的な対外政策は限界に達しようとしており、国内でも、貴族勢力の台頭に伴なう社会の変質が進行していた。本稿の課題は、この時期にビザンツの帝位を占めたロマノス三世アルギュロスの行動の軌跡を追うことで、こうした過渡的時代のビザンツ皇帝権のあり方を考察することにある。とりわけここでは、皇帝が敢行した軍事遠征に焦点を当て、それが彼の政権強化策のなかで占めた重要性を解明したいと思っている。そこで、我々は、彼が皇帝に登位するに至る経緯と、彼の政権の主要構成員の特徴を明らかにすることで、ロマノスが大遠征に乗り出した動因を検証し、さらに、遠征の前後に発生した陰謀事件の分析を通じて、この軍事行動の失敗が彼の権威の失墜を必然たらしめたことを理解することになるのである。
著者
根津 由喜夫
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.80, no.5, pp.639-675, 1997-09

十一世紀の後半に相次いでビザンツ皇帝となったイサキオス一世とコンスタンティノス十世の治世は、対照的な外見を呈している。前者は典型的な軍人皇帝として軍備強化と厳しい緊縮財政を推進したのに対し、後者は民政を重視し、支持者に気前よく財貨を分配した。本稿の課題は、こうした両者の統治スタイルの違いが、彼らの追求した政治的課題の内容に起因していたことを立証することにある。考察の結果、小アジアの有力貴族出身のイサキオス一世が、自らの社会的背景を無視し、国家公権の強化、皇帝独裁権の確立を図ったことが彼の孤立と最終的な退陣を招いたこと、逆に貴族層の利害を尊重し、王朝樹立に精力を集中したコンスタンティノス十世は、貴族たちへの統制力を低下させ、軍事的危機が深刻化するなかで、充分な支配権を行使できなくなり、それが息子への権力継承の阻害要因になったこと、が明らかになった。
著者
井上 勝生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.p599-647, 1983-09

幕末の長州藩を素材として、藩体制の絶対主義化の前進を検証し、絶対主義化の要となった権力機構、推進者、そして権力闘争の展開を検討する。これによって、形成過程の日本絶対主義と幕藩体制の連続の問題、および絶対主義の日本的特質の一端が明らかになると思う。長州藩の藩体制の絶対主義化は、安政五年の藩政改革から始まる。要となった権力機構は、従来から存在した御前会議である。この改革によって、御前会議は、「規格(掟) 」とされ、拡大強化された。御前会議で藩主と政府員が決定した政策は、藩主の親政によるものであり、藩主の上意であるとして、藩士に強制されたのである。まず、このようにして、保守的家臣団の反対が強かった洋式軍制改革が強行される。やがて御前会議は、藩士大衆の意向を無視して、独自に政策を決定し、これを藩士に強制する機構となる。それを証明する事例のひとつが、文久二年、政府員内部の反対をすらも押し切って、尊王攘夷の藩是を決定した御前会議である。当然、藩士からの、この藩是にたいする反抗は強く、政府は、苦境に陥る。周布政之助、木戸孝允、高杉晋作は、この反抗を抑圧するために、文久三年、藩政改革を行い、江戸と萩に分かれていた藩政府を一元化するなどの、藩制の基本にかかわる改革を行った。権力機構の集中化であり、御前会議も、日常的に藩主が臨席する政事堂へと発展する。この権力集中を推進したのは、すでに藩政の実権を握り、天保期から「有司」と呼ばれていた、右筆(のち政務座役) を始めとする実務役入である。 「有司」の系譜のひとつは、天保改革の指導者、村田清風に始まり、周布、木戸へと続いている。彼らは、いずれも要職の右筆から昇進し、御前会議の主導権を握り、藩の絶対主義化を推進した。したがって、藩体制の絶対主義化は、実体としては、 「有司」の専制、形式としては、藩主の親政という独特の複合した構造を持っている。本稿は、これを「日本的な親政の体制」と呼ぶ。文久期までは、藩主の親政という形式が前面に出て、 「有司」の専制は、背景にあった。しかし、反政府派の反抗によって、藩主の弱体が明らかになり、慶応期には、 「有司」の専制の実体が前面に登場する。これは、親政という形式の希薄化であり、この形式から出発した藩体制の絶対主義化の崩壊は、避け難いのである。長州藩の「有司」は、日本の有司とならざるをえない。
著者
谷井 陽子
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.92, no.3, pp.491-524, 2009-05

モンゴル帝国は中国を軍事征服したが、明はモンゴル勢力を軍事的に屈服させることはできなかった。これは専ら軍事的条件の相違による。中国から草原地帯に侵攻しても占領地を経営することができないため、段階的に領土を広げていくことができず、軍事基地を維持することさえ困難であった。そのため、明側から攻撃をしかける場合、補給上の制約を受け、可能な軍事行動の範囲は著しく限定された。兵力において優勢であっても効果的に打撃を与えられず、逆に殲滅される危険性が高く、敵を追い詰めることは事実上不可能であった。しかも攻勢に出た場合の財政負担は甚大なものとなった。永楽帝の親征は、この制約下で最大限の努力をしたものと言えるが、実質的成果は僅かであり、最終的には財政的限界によって行き詰る。こうして明からモンゴル側への攻勢は無益と証明され、明は防衛に徹した軍事体制を維持するため、国内制度を整備することを余儀なくされた。
著者
上島 享
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.75, no.4, pp.p514-553, 1992-07

成功は「売位・売官」といわれ、その消極的側面が強調される傾向が強いが、本稿は国家財政の中で成功制という経費調達制度が果たした役割を積極的に評価し、その展開を考察しようとするものである。本稿では、地下官人の成功をとりあげ、国家財政の中でも恒例・臨時の公事に要する経費調達を中心に分析を行った。 成功制という経費調達制度は、一○世紀後半に造営事業の請け負いにおいて出現し、一一世紀後半には用途進納形態をも含み込み、幅広い経費調達が可能となった。一〇世紀後半に再編された国家財政では経費は国宛(諸国に割りあてること) により賄われていたが、一一世紀末の受領統制の弛緩、一二世紀中期の庄園公領制の確立により、国宛は順次、その経費調達機能を低下させた。これに対応し、地下官人の成功が多用されていく。一二世紀中期より、成功での経費調達を目的に臨時除目が行われるようになり、ここに成功制は国家財政の一翼を担うに至るのである。また、衛門・兵衛といった官職が広く社会に浸透する起源は、一二世紀中期の成功制の変化に求められると考える。