著者
荒川 章二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.213-242, 2019-03-29

1968~69年における日本大学学生運動は,全国学生総数が約100万人と言われたこの時代に,学内学生3万人の参加という空前絶後の対理事会大衆団交を実現し,東京大学全共闘運動とともに当該時期の全共闘型学生運動の双璧に位置付けられている。本稿は,日大全共闘運動の組織論・運動論の特質を考察した拙稿「「1968年」大学闘争が問うたもの―日大闘争の事例に即して」の続編であり,日大闘争の展開過程を基本的な事実,諸資料から確定するという課題を継続している。前稿は,日大全共闘が,大衆団交という場において勝利できる展望を有していた時期までを対象とした。本稿では1968年9月30日「9.30 団交」への過程を再検討したうえで,日大闘争の戦術を象徴する各学部・各校舎のバリケードが一斉に解除・強制撤去される69年2月~3月までの基本的な経緯を示しながら,日大全共闘の組織と運動の時期的変化を検討する。具体的には,第1節で9月初めのバリケード撤去の強制執行をめぐる攻防を契機として,全共闘への求心力が高まり,6月以来要望し続けてきた大衆団交実施の意義がさらに掘り下げられていく過程,第2節は,大衆団交と政府の政治的介入を経て,各組織レベルでいかなる総括が行われ,他方で運動面ではどのような模索が行われたのか,さらに教員層や親たちの動き,警察権や司法権関与の変化,卒業・疎開授業強行問題,東大闘争との連携など10月~12月期の動向を多面的に追求し,第3節で,年明け以降3月までのバリケード闘争の終焉までの過程とその後の闘争継続の要因を指摘する。日大闘争の全過程を対象とした唯一の研究として,日本大学新聞研究会『日大紛争の真相―民主化闘争への歩み―』などに依拠した小熊英二『1968【上】』第9章「日大闘争」がある。本稿は,新たに利用が可能となった当事者の一次資料を中心に分析した。
著者
佐藤 宏之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.75-86, 2014-01-31

元和四年(一六一八)四月九日、幕府は大名改易後の居城の収公にさいし、城付武具はそのまま城に残し置くこととの方針を定めた。さらに、軍事目的のために備蓄した城米も引き継ぎの一環として、備蓄の有無と備蓄方針の確認を求めた。本稿は、国立歴史民俗博物館所蔵の石見亀井家文書のなかにある、元和三年の津和野城受け取りに関する史料を素材に、城受け取りのさいに引き継ぎの対象となる財(モノ)に着目する。城受け取りのさいには、城内諸道具の目録が作成され、それに基づいて引き継ぎが行われる。その目録化の過程において、武家の財は公有の財と私財とに峻別される。公有の財とは城付の武具・道具や城米であり、大名自身の私有物ではなく、幕府から与えられたモノといえる。すなわち、その帰属権が最終的に将軍に収斂していくものである。一方、私財とは大名や家臣の武具・家財や雑道具などであり、その処分は個々人の裁量に任せられたモノといえる。こうした動向の契機となったのが、天正一八年四月二九日に真田昌幸宛てに出した豊臣秀吉の朱印状ではないかという仮説を提示する。秀吉は、降伏した城々は兵粮・鉄砲・玉薬・武具を備えたままで受け取るという戦闘力を具備した城郭の接収確保を指示し、接収直後に破城とするのではなく、無抵抗で明け渡す城の力(兵粮・鉄砲・玉薬・武具)を温存した。秀吉は、その後の奥羽仕置を貫徹するなかで、諸国の城々は秀吉の城という実態と観念を形成していったのである。こうした城付の武具や城米を目録化することによって把握することは、城の力を把握することでもあった。したがって、近世の城の構成要素は、城付の武具と城米であったということができよう。このような城付の武具と城米を把握・管理した江戸幕府は、国家権力を各大名に分有させ、それを背景とした統治業務の分業化を行いつつも、幕府の国家的支配の体系のなかに編成していったと考えられる。
著者
濱上 知樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.220, pp.47-75, 2020-03

本研究では,デジタルアーカイブ画像のメタデータを生成し類似画像検索などに役立てることを目的にしている。一般物体認識でよく用いられている画像のヒストグラム表現手法,Bag-of-Features[4]ではSIFT [2] [3]に代表される画素の濃淡分布をもとに算出された特徴点および局所特徴量が用いられるが,その一方で一般物体認識の分野でDeep Learningを用いた技術[6]が注目を集めている。Deep Learning手法では,画像全体を入力し,画像中に存在する主となる物体を認識させることが一般的となっており,画像中の様々な局所的な情報が欠落してしまっていた。そこで本研究では画像をセグメントに分割し,各セグメントからDeep Learningを用いた特徴抽出を行い,クラスタリングによって分類された各セグメントのクラスタ情報を局所特徴としたBag-of-Featuresを行い,ヒストグラム表現とすることで画像に存在する意味情報を反映したメタデータ生成を提案する。また,ヒストグラム間の比較にはクラスタ間の類似関係を反映した距離計算を行うことでクラスタ数が細かすぎる際に,似ている画像が類似画像として判定できない問題を解決した。実験では,デジタルアーカイブとして小袖屛風画像[9]を用いてヒストグラム間の比較を行うことでDeep Learning[7]を用いてBag-of-Featuresの応用を行うことの有効性,さらにクラスタ間の距離関係を反映した距離計算を行うことの有効性を示した。
著者
森 公章
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.119-179, 2001-03-30

本稿は「額田寺伽藍並条里図」に描かれている額田寺と関係すると思われる額田部氏について、畿内の中小豪族の歴史とその存在形態を明らかにするという視点から考察を試みたものである。額田部氏はこの図に描かれている額田部丘陵を五世紀以来の本拠とし、六世紀頃に飼馬を以てヤマト王権に仕え、また額田部皇女の宮の運営・資養を担当する額田部の管理者として登場する。額田部皇女が推古天皇として即位するとともに、額田部氏も惰使の郊労など中央の職務分担に与り、飼馬の技術を生かした役割を果たしたりするが、基本的にはヤマト王権を構成する中小豪族として定着している。律令制下においても、中央の中下級官人や王臣家に仕えるなど、中央での地位は変化していない。と同時に、額田部氏は本拠地にも勢力を残し、大和国平群郡の譜第郡領氏族としての活動も有する。即ち、中央下級官人と在地での郡領の地位維持という二面性を保持していたと理解されるのである。この在地豪族としての額田部氏の経済基盤となったのが、額田寺の存在とその寺領であった。畿外の郡領氏族とは異なって、在地豪族としての力が弱い畿内の郡司氏族にとっては、寺院は精神面だけではなく、経営の一大拠点となり、この地域における額田部氏の勢力の存続を支えたものと思われる。以上のような額田部氏のあり方の一般化を求めて、畿内の郡司氏族全般についても検討し、畿内郡司氏族は畿内の中小豪族として名代の管理者や職業部民の管理者などとしてヤマト王権の実務を支え、律令制下においても中下級官人として国家の日常業務を担う存在であり、同時に郡司として在地での勢威も保持しており、中下級官人と在地豪族の二面性を備えた存在であったことを確認した。この二つの側面は畿内の郡司氏族にとってともに重視すべき要素であり、両立を以てこそ畿内中小豪族たる彼らの存立基盤を確保することができたのである。
著者
小島 美子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.371-384, 1993-02-26

日本音楽の起源を論じる場合に,他分野では深い関係が指摘されているツングース系諸民族についてその音楽を検討してみなければならない。しかしこれまではモンゴルの音楽についての情報は比較的多かったが,ツングース系諸民族の音楽については,情報がきわめて乏しかった。そのため私は満族文化研究会の共同研究「満族文化の基礎的資料に関する緊急調査研究―とくに民俗学と歴史学の領域において―」(トヨタ財団の研究助成による)に加わり,1990年2月に満族の音楽について調査を行った。本稿はその調査の成果に基づく研究報告である。この調査では調査地が北京に限定されていたため,満族とエヴェンキ族の音楽について多少の情報を集めることができたに過ぎず,とりあえずこの2つの民族の音楽に,参考資料として一部モンゴルの音楽の情報を加えて報告する。まず満族の音楽については,主としてビデオ資料によってシャマンの音楽を調査した。ツングースの文化にとってはシャマニズムは,きわめて重要な位置を占める。シャマンが用いる1枚皮の太鼓,ベルトなどにつけている多くの鈴などは,他のツングース系諸民族のシャマンと共通しており,また日本の少数民族であるアイヌ・ギリヤーク・オロッコのシャマンとも共通である。そしてこれは日本古代の有力なシャマンや朝鮮韓国の現在につながるシャマンとは明らかに別系である。また満族シャマンの歌は,テトラコード支配の強い民謡音階によっており,日本と共通するところが多い。エヴェンキ族の民謡について,現段階ではもっとも信頼のおける民謡集で調べたところ,エヴェンキ民謡は,モンゴル民謡と同じく拍節的タイプと無拍のタイプに分かれるが,後者は15%程度で意外に少ない。前者も2拍子系の曲と3拍子系の曲,変拍子や途中で拍子の変わるものが,それぞれ大体25%程度を占めており,韓国朝鮮の民謡のリズムに近い。また音階は民謡音階と律音階と呂音階にほぼ3等分されるが,テトラコードの支配はそれほど強くなく,むしろモンゴル民謡の方が日本民謡に近い。またメロディの装飾的な動きは,エヴェンキ族の民謡の方が日本民謡に近い。
著者
樋浦 郷子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.219, pp.1-20, 2020-03-27

本稿は植民地期台湾の一地域にとって「御真影」がいかなる役割を担ったのかということを,学校沿革誌,郡誌,当該時期の戸口統計等の資料を手がかりに検討したものである。第一に,台湾における御真影は,朝鮮への下付と異なり,戦闘状況下の日本軍の展開に合わせて開始された。1920年代以降学校への下付は中等教育機関から広まりだしたものの,公学校(台湾人初等教育機関)へはほとんど下付されなかった。第二に,新化尋常小学校は,「御真影奉護」の人員確保を考えれば,教員数の減少は避けねばならかったが,1930年代には新化街の日本人人口が減少していた。学級編成および教員の数を確保できたのは,台湾人児童の尋常小学校在籍数に支えられたことが推定される。第三に,新化尋常小学校への御真影下付が同校だけにとどまらず,新化公学校と農業補習学校児童生徒に対する一定の役割も担った。その人数を見れば天皇・皇后写真による「教育」の対象は台湾人児童が圧倒的多数である。御真影を下付されていない学校の児童生徒に対して,「紀元節」「四方拝」(一月一日)などの学校儀式のあと尋常小学校まで移動して拝礼を実施する,奉護燈設置の寄付金を拠出させるなどの要求がなされた。一方では学校として御真影下付校に選ばれないという構造的な劣位への配置と同時に,他方で天皇崇敬教育のために御真影およびその奉護設備を利用した「教育」には巻き込まれたことを具体的な事象をもって示した。
著者
中牧 弘允
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.349-379, 1993-03-25

日本の会社は社葬や物故社員の追悼儀礼をおこなうだけでなく、会社自体の墓をもっているところがある。このような墓は会社墓とか企業墓とよばれ、高野山と比叡山におおくみられる。本稿は高野山の会社墓一〇三、比叡山の会社墓二三をとりあげ、その基礎的なデータを提出するとともに、今後の課題を提示することを主な目的としている。会社墓には創業者の墓や物故従業員の供養塔がたてられている。本稿では、とくに物故従業員の供養塔に焦点をあて、その歴史をあとづけるとともに、名称や形態の分析をこころみている。さらに、関西に集中する会社や組合の地域的ひろがりや、その業種にも言及している。会社供養塔には建立誌が付随することがおおい。そうした建立誌を対象に、その趣旨を七項目に分類し、分析をおこなっている。その項目とは、①建立の契機、②会社発展(先人)に対する感謝、③先人の霊供養、④会社発展に対する祈願、⑤安全祈願、⑥顧客への感謝、⑦高野山や比叡山の賛美である。会社供養塔にかかわる物故者追悼儀礼については、コクヨと千代田生命の事例をとりあげ、若干の比較をこころみている。
著者
松崎 憲三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.141-168, 1988-03-30

Traditionally, folklorists have had a marked tendency to choose depopulated areas as their favorite field, because it was these remote places that seemed most likely to maintain folkways permitting them an efficient investigation. They never tried, however, to study seriously the problem of depopulation itself. In natural consequence, it has been rare for them to try methodological examinations, such as those aimed at discovering how to interpret depopulation and change in folkways.In accordance with these reflections, we tried to analyze the colony of Amagase in Nishihara Section, Kami-Kitayama Village, Yoshino District, Nara Prefecture. Three viewpoints, that are 1) the ecological viewpoint 2) the social viewpoint and 3) the religious view and consciousness structure, were defined as analysis indicators to be used in comprehension of the transformation of folkways.Nishihara is composed of five colonies of Amagase, Hiura, Izumi, Hosohara, Obara. The first two colonies are called ‟Amagase-gumi” (Amagase group), and the last three are called ‟Mikumi” (three groups). The Amagase and Mikumi groups were separated from each other by four kilometers, but the abolition, during the Meiji era, of the highway passing through the Amagase area left it abandoned far behind the main highway and urged some of inhabitants to move into the Mikumi area. The reparation works of the National 169 around 1970 made for a decisive urge to leave the Amagase area completely abandoned. Facilities for shopping and traffic communication as well as the human inclination for togetherness must have concentrated inhabitants' dwellings along the roads of Mikumi.However, even after they dispersed among the inhabitants of Mikumi, members of the Amagase group maintain their original unity performing their group duties in festivals or mutualaid association events and showing a greater attachment to the Kumi (group) than to the Daiji (section).In any case, it may be said that the Amagase group, in a way, overcame the danger of depopulation by moving to the Mikumi area and reorganizing their colonies. What made it possible was the their ownership of common forests and worship of a god as symbol of their unity. However, both the Amagase and Mikumi group show great attachment to the Kumi, and it is not so that the life of Nishihara area as a whole is reorganized. Depoputation of the Nishihara area as a whole is, as slow as it is, in progress. The area on the whole will face the need of some action in near future.
著者
松田 睦彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.171-185, 2018-03-30

小稿は,これまでおもに考古学的見地から進められてきた中世から近世にかけての花崗岩採掘技術や労働体制等の解明に,民俗学的手法によって寄与することを目指すものである。花崗岩採掘にかかわる知識や技術は,現在の職人にも保有されている。しかしながら,従来の研究は,それが十分に参照されないまま遺構や遺物の解釈が進められてきた傾向にある。そこで小稿では,現役の石材採掘職人から聞き取った花崗岩採掘の基本的な技術を提示するとともに,この石材採掘職人をともなって行なった小豆島の大坂城石垣石切丁場跡の調査で得られた職人の所感を紹介した。花崗岩採掘の基本的な技術については,①花崗岩の異方性,②キズの見きわめと対処,③石を割る位置,④矢の大きさと打ち込む間隔,⑤矢穴の形状,⑥矢穴の列と方向,の六点に整理して提示した。また,大坂城石垣石切丁場跡に対しては,割りたい石の大小等に関係なく,大きな矢穴が狭い間隔で掘られている点,矢穴底の短辺が長いことに合理性が見いだせない点,完成度の高い矢穴と低い矢穴が見られることから,熟練の職人と非熟練の労働者が混在していた点等が指摘された。現役の職人から得られたこれらの情報は,花崗岩採掘にともなう遺構や遺物の分析・解釈に資するものである。さらに,こうした試み自体が,民俗学と考古学との新たな協業関係を構築するものである。
著者
渡辺 滋
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.190, pp.29-55, 2015-01

古代社会で発生した揚名官職(肩書だけで権限・給与が与えられない官職)をめぐっては、有職学(儀式・官職などに関する先例研究)の一環として、また『源氏物語』に見える「揚名介」の実態をめぐって、前近代社会のなかで長期に渡り様々な人々による検討がなされてきた。ところが先行研究では、一部の上級貴族をめぐる個別的・断片的な事例を除き、その展開過程について十分な分析がなされないまま放置されている。そこで本稿では、関連資料が豊富に現存する広橋家の事例を中心として、中世貴族社会における関連研究の展開を解明した。具体的に取り上げたのは、おもに広橋兼秀(一五〇六~一五六七)による諸研究である。国立歴史民俗博物館に所蔵される広橋家旧蔵本から、兼秀によって作成された関連資料を検出・分析することで、従来未解明だった広橋家における情報蓄積や研究展開の諸過程を解明した。その結果、彼の集積した諸情報は家伝のものだけでなく、周辺の諸家からもたらされたものも少なくないことが判明した。そこで中世の広橋家における有職研究の過程で蓄積された情報や、それに基づく研究成果を相対化するため、同家の周辺に位置する一条家・三条西家などにおける研究の展開も検討した。このように中世貴族社会における関連研究の展開過程も分析した結果、諸家における研究が相互に有機的関連を持っていたことや、とくに広橋兼秀の場合、一条家における研究成果から大きな影響を受けていた実態が判明した。以上のような展開のすえ、最終的に近世の後水尾上皇などへと発展的に継承される解釈が、基本的には中世社会のこうした営みのなかで形成されたことが確認された。There have been several studies on honorary official posts arisen during the Nara and Heian period. These studies, however, focused mainly on the investigation of institutions covering relevant historical materials and a true picture of "yomei no suke ", neglecting the analysis of its developmental process. Therefore, this article clarifies the development of relevant studies on Japanese aristocratic society during the Middle Ages by focusing on the case of the Hirohashi family whose relevant materials are left in large numbers. Several studies conducted by Kanehide Hirohashi (1506–1567) were addressed. I unraveled the Hirohashi family's accumulation of information and research development which had been not explored by detecting and analyzing relevant materials of old book collection of the Hirohashi family collected by Kanehide which are kept in the National Museum of Japanese History. The analysis revealed that materials collected by Kanehide were not only the ones of the Hirohashi family but also the ones brought by other aristocratic families nearby. Therefore, I examined the research development on other nearby families such as Ichijyo family and Sanjonishi family in order to compare the study on the Hirohashi family with the one on other nearby families. The analysis of developmental process of other relevant studies on aristocratic society during the Middle Ages confirmed that researches on several families were related to one another systematically and the studies of Kanehide Hirohashi drew significant influence from the research on Ichijo family. This analysis confirmed that the interpretation handed down to the retired emperor Gomizunoo in the early modern period was formed through these endeavors during the Middle Ages.
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.47-92, 2004-03-01

維新後、旧幕臣は、徳川家に従い静岡へ移住するか、新政府に仕え朝臣となるか、帰農・帰商するかという選択を迫られた。一方、脱走・抗戦という第四の選択肢を選んだ者もいた。箱館五稜郭で官軍に降伏するまで戦った彼らの中には、洋学系の人材が豊富に含まれていた。榎本武揚ら幹部数名を除き、大多数の箱館戦争降伏人は明治三年(一八七〇)までには謹慎処分を解かれ、静岡藩に帰参する。一部の有能な降伏人は静岡・沼津の藩校等に採用されたが、「人減らし」を余儀なくされていた藩の内情では、ほとんどの者は一代限りの藩士身分と三人扶持という最低の扶持米を保障されることが精一杯であった。勝海舟は、箱館降伏人のうち優れた人物を選び、明治政府へ出仕させたり、他藩へ派遣したりといった方法で、藩外で活用しようとした。降伏人が他藩の教育・軍事の指導者として派遣された事例として、和歌山・津山・名古屋・福井等の諸藩への「御貸人」が知られる。なお、御貸人には、帰参した降伏人を静岡藩が直接派遣した場合と、諸藩に預けられ謹慎生活を送っていた降伏人がそのまま現地で採用された場合とがあった。一方、剣客・志士的資質を有した降伏人の中には、敵として戦った鹿児島藩に率先遊学し、同藩の質実剛健な士風に感化され、静岡藩で新たな教育機関の設立を発起する動きも現れた。人見寧が静岡に設立した集学所がそれで、士風刷新を目指し、文武両道を教えるとともに、他藩士との交遊も重視した。鹿児島藩遊学とそれがもたらした集学所は、藩内と藩内外での横の交流や自己修養を意図したものであり、洋学を通じ藩や国家に役立つ人材を下から上へ吸い上げるべく創られた静岡学問所・沼津兵学校とは全く違う意義をもつものだった。
著者
新川 登亀男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.277-327, 2015-03-31

本稿は,法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘が日本列島史上における初期の仏教受容のあり方を物語る長文の稀有な情報源であるとの問題意識に立つ。そして,この光背銘をいかに読み,解釈するかということに終始するのではなく,この光背銘がどのように成り立ったのか,そこにいかなる歴史文化が投映されているのかを重要視する。そのためには,銘文中の不可解な用語を単語として切り出し論じることの閉塞性を反省し,人々の行為や心情ないし思考を言い表わしていると思われる表現用法や文に注目する。そこで注目したのが,「深懷愁毒」と「當造釋像尺寸王身」の2か所である。この2か所の表現とその文脈に沿う先例は,けっして多くはない。しかし,そのなかにあって極めて注目すべき先例が,『賢愚經』巻1第1品と『大方便佛報恩經』巻1・2・3に見出せる。それは,釈尊本生の捨身(施身)供養譚や,その他の死病譚,そして優塡王像譚(仏像起源譚)などの譬喩物語に含まれている。この二経は,ともに中国南北朝期に定着し,易しい仏教入門書として流布した。光背銘文の作者は,この二経の譬喩譚を承知しており,そこで語られている王や釈尊の激烈な死(擬死)や不在(喪失)の様と,それに遭遇した人々のこれまた壮絶な哀しみや恐れの様を,現実の「上宮法皇」らの病や死とそれへの反応とに当てはめて事態を認識し,受け止めようとしたものと考えられる。加えて,そこには,自傷行為や馬祭祀などをともなう汎アジア的な葬儀習俗も作用していた。そして,このような作文を可能にするのは「司馬鞍首止利佛師」であるとみる。なぜなら,「尺寸」単位や仏像起源譚に関心をもつ「秀工」,また「司馬」でもある「止利」だからである。
著者
板橋 春夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.81-155, 2017-03

産屋が利用されなくなって久しい。産屋が遅くまで残った地域でも昭和三〇年代がおおむね終焉時期となっている。産屋習俗の終焉の要因は一様ではない。本研究のテーマは、なぜ産屋習俗は終焉を迎えたのかという根源的な問いである。私たちは、産屋とは主屋と別に小さな建物を建て、そこに産婦が血の穢れのために家族と隔離されて食事も別にする施設であると学び、産屋を穢れからの隔離・別火というステレオタイプ化された視点で認識してきた。しかし出産の穢れからの隔離・別火が所与のものでないとすれば、産屋の本質はいったいどこにあるのであろうか。本論文が産屋習俗の終焉過程に注目する理由の第一点は、現在(=平成二〇年代)が産屋体験者から直接話を聞ける最後の機会であること。産屋体験者からの聞き書きは緊急性を有し詳細な記録化が望まれる。第二点は産屋の終焉から過去に遡れば当該地域における産屋の変遷過程を明らかにできると考えた。現時点で伝承者からきちんと聞き書きを行うことは重要であり、産屋習俗の終焉過程の研究にも資するのである。先行研究では、産屋の発生は神の加護を得る籠もりにあるとされる。牧田茂・高取正男・谷川健一の所説は、産屋の原初的形態に視点を置いた論理である。実際に原初的形態を彷彿とさせる民俗事例が各地に伝承されているが、それをもって現行習俗を古代へ飛躍させるのは論理的に危険が伴うであろう。事例で取り上げた山形県小国町大宮のコヤバは、明治二二年以前は出産の都度小屋を建てていたが、警察署長の意見で常設のコヤバになったとされる。仮設から常設へ変化する傾向は、福井県敦賀市池河内の事例からも明らかである。福井県敦賀市白木のサンゴヤは、昭和五〇年代まで使用されており全国で最も遅くまで利用されていた。常設化の産屋は伝統を守りながらも、滞在期間の短縮化、休養の場の拡大化など、地域に応じた多様なあり方をみせている。The custom of using ubuya (delivery huts) has been extinct for years. The regions where it survived for the longest time also saw it dying out from the late 1950s to the early 1960s. The reasons why this custom lingered for a long time vary depending on the region. This paper addresses a fundamental question of why the custom of using ubuya died out. People were taught that ubuya meant a small hut built separately from the main house to isolate a pregnant woman from her family and prepare meals separately to contain defilement by blood; therefore, many people had a stereotype perspective that ubuya should be used for isolation and separate meal preparation to contain impurity by childbirth. However, if the isolation and separate meal preparation were not a matter of course, what was the essence of ubuya?There are two reasons why this paper focuses on the process of dying out of ubuya. The first one is because we will never have a chance to interview those who have experienced it if we pass up this opportunity now (in the 2010s). It is urgent to put such experiences on record based on firsthand oral recollections. The more detailed the record is, the more useful it would be. The second reason is because if we go back into the history of ubuya, we could reveal the changes in the custom in the region. It is very important to interview those who directly involved and record their experiences now. The results can contribute to the research of the process of dying out of ubuya.Previous studies suggested that ubuya had been originated from seclusion to pray for divine protection. The theories of Shigeru Makita, Masao Takatori, and Kenichi Tanigawa focused on the original form of ubuya. In fact, folk customs resemble to the original ones have been handed down in various regions. It is, however, illogical to link modern customs to ancient ones just because they are similar to each other. As referred to in this paper, koyaba in Ōmiya, Oguni Town, Yamagata Prefecture, is said to have been built for temporary use for each and every childbirth before 1889 but transformed into permanent facilities based on the opinion of a police chief. This shift can be demonstrated by another example from Ikenokōchi, Tsuruga City, Fukui Prefecture. In Shiraki, Tsuruga City, Fukui Prefecture, sangoya had been used until the early 1980s, which means this is one of the last regions where the custom lingered on. Permanent ubuya were used, in principle, in a traditional way, but there were regional variations, such as shortening the time of stay and expanding rest areas.
著者
フラッヘ ウルズラ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.587-621, 2008-12-25

本論文ではドイツ語圏の神仏分離研究の三つの側面を扱う。序論として「神仏分離」の独訳に関する問題点を述べる。第1ポイントとして,ドイツおよび欧米の日本研究におけるこれまでの神仏分離の扱いについて概略を記す。神仏分離が一般の歴史著作や参考図書で取り上げられるようになったのは最近の動きである。明治時代における神道研究では二つの傾向が見られる。一つは客観的批評する研究者(シュピナー,チェンバレン),もう一つは国家神道の視点を引き取る研究者(アストン,フロレンツ)。第二次大戦前の指導的な神道研究者(グンデルト,ボーネル,ハミッチュ)がナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道についての研究がタブー視され,当分の間完全に中止となった。1970年代に出版されたロコバントの研究に続いて,1980・90年代にいくつかの神仏分離に関する研究文献(グラパード,ハーディカ,ケテラー,アントーニ)が発行された。最近の研究(ブリーン,サール,アンブロス,関守)ではケーススタディーや地方史が注目される傾向にある。ドイツには宗教改革時代の偶像破壊という,明治時代の日本の神仏分離と非常によく似た出来事があったために,ドイツの研究者は神仏分離に特別な関心を寄せている。そこで,第2のポイントとして,ヨーロッパにおける宗教改革と絡めて偶像破壊運動を詳しく取り上げ,ヨーロッパの宗教改革と日本の廃仏毀釈の比較を行う。共通点として両者が宗教的美術に大きな障害をもたらした改革運動であることが挙げられる。相違点としてヨーロッパにおける宗教改革が宗教的な動機をもった運動で,神仏分離が政治的な動機をもった政策であった。終わりに第3ポイントとして,簡単に筆者の個人的な意見をまとめ,神仏分離が実際どの程度「成功」したのか,そして神仏分離の今日の日本における意味を考察する。
著者
宮内 貴久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.207, pp.183-221, 2018-02-28

福岡市は大陸に近い地政学的位置から,海外への玄関口という性格を持った都市である。戦後,空襲による家屋の焼失と約140万人におよぶ引揚者により,深刻な住宅不足問題に直面した。1950年の日本住宅公団の設立,1951年の「公営住宅法」により,公団住宅と公営住宅の建設が進められていった。しかし1960年,全国の世帯数1,957万に対して住宅数は約100万戸不足し,市営住宅募集倍率は数十倍という高倍率だった。福岡市では1973年までに14,020戸の市営住宅が建設され,公団住宅は19,417戸が建設された。南区警弥郷には,高度経済成長期を通じて1960年に市営警弥郷団地,1961年に市営上警固団地,1963年に分譲警弥郷住宅が建設された。こうした一連の住宅開発と1966年度からの第一期住宅建設五カ年計画により弥永団地が計画開発された。弥永団地は福岡市域に市営弥永団地,春日町域に分譲住宅と分譲地が都市施設とともに開発された。間取り2DKで,20~30代の若い夫婦と子供という核家族が多かったが,一種の約4%,二種の約12%が65歳以上の老人世帯だった。三世代同居もみられた。2DKは食寝分離,就寝分離を目的とした間取りだが,DKではなく畳の部屋で卓袱台で食事をしていた例が少なからずあった。統計上も3割が食事をする部屋で寝ており,公営住宅で食寝分離・就寝分離をしていたのは約47%に過ぎなかった。住民の属性は,技能工・生産工程作業員及び労務作業従事者の比率が約28%と高い。学歴は中卒・高卒,大卒の順に多い。共稼ぎ家庭が多く,母子家庭も多く低所得者が多かった。団地住民を見下す噂もある。二区には建設当初から現在まで入居している世帯が53世帯あり,18.3%を占めている。Fukuoka City serves as an international gateway to Japan as it is located close to the Asian Continent. When the Second World War ended, the city faced a serious shortage of housing not only because dwellings had been burnt down by air raids but also because approximately 1.4 million Japanese had returned from former colonies.Supported by the Japan Housing Corporation established in 1950 and the Act on Public Housing enacted in 1951, a number of public houses and apartments were constructed. Still, Japan remained a million units short of meeting the housing demand of 19,570,000 households in 1960. A municipal housing advertisement for tenants attracted tens of times more people to apply than available units. In Fukuoka, 14,020 units of housing had been built by the municipal government and 19,417 units by the Japan Housing Corporation as of 1973.During the rapid economic growth period, Keyagō in the Minami Ward of the city witnessed the construction of Keyagō Municipal Apartment Complex in 1960, Kamikego Municipal Apartment Complex in 1961, and Keyagō Collective Housing built for sale in 1963. In addition to these housing development projects, Yanaga Apartment Complex was planned and constructed under the first Five-year Housing Development Plan launched in fiscal 1966.The development program of Yanaga Housing Complex consisted of the construction of Yanaga Municipal Apartment Complex in Fukuoka City and the house and lot development in Kasuga Town as well as the establishment of urban infrastructure in the neighborhoods. Comprising two-bedroom units with a kitchen-cum-dining room, the housing complex was home mainly to young nuclear families (parents in their twenties or thirties and their children) but also to elderly households over sixty-five years old (accounting for approx. 4% of the Type I units and approx. 12% of the Type II units) and three-generation families.Although the two-bedroom unit with a kitchen-cum-dining room was intended to separate dining and sleeping spaces as well as parents and children's sleeping spaces, many families regularly took meals not in a dining room but at a low dining table in a tatami room. According to statistics, about 30% dined and slept in the same room, and only about 47% separated dining and sleeping spaces as well as parents and children's sleeping spaces in the public housing complex.As for the attributes of the residents, craftsmen, factory workers, and manual laborers account for a high share (approx. 28%). The most numerous residents are the junior high school- and high school-educated, followed by the college-educated. Many of the households are dual income. There are also many fatherless and low-income families. People living in public housing are sometimes looked down on. In Area II, 53 households have lived since the completion of the public apartment complex, accounting for 18.3%.

2 0 0 0 OA 玉纒太刀考

著者
白石 太一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.141-164, 1993-02-26

伊勢神宮の社殿は20年に一度建て替えられる。この式年遷宮に際しては建物だけではなく,神の衣装である装束や持物である神宝類も作り替えられる。アマテラスを祭る内宮の神宝には「玉纒太刀」と呼ばれる大刀がある。近年調進される玉纒太刀は多くの玉類を散りばめた豪華な唐様式の大刀であるが,これは10世紀後半以降の様式である。『延喜式』によって知ることができるそれ以前の様式は,環のついた逆梯形で板状の柄頭(つかがしら)をもつ柄部に,手の甲を護るための帯をつけ,おそらく斜格子文にガラス玉をあしらった鞘をもったもので,金の魚形装飾がともなっていたらしい。一方,関東地方の6世紀の古墳にみられる大刀形埴輪は,いずれも逆梯形で板状の柄頭の柄に,三輪玉のついた手の甲を護るための帯をもち,鞘尻の太くなる鞘をもつものである。後藤守一は早くからこの大刀形埴輪が,『延喜式』からうかがえる玉纏太刀とも多くの共通点をもつことを指摘していた。ただそうした大刀の拵えのわかる実物資料がほとんど知られていなかったため,こうした大刀形埴輪は頭椎大刀を形式化して表現したものであろうと推定していた。1988年に奈良県藤ノ木古墳の石棺内から発見された5口の大刀のうち,大刀1,大刀5は,大刀形埴輪などから想定していた玉纒太刀の様式を具体的に示すものとして注目される。それは捩り環をつけた逆梯形で板状の柄頭をもち,柄には金銅製三輪玉をつけた手を護るための帯がつく。また太い木製の鞘には細かい斜格子文の透かしのある金銅板を巻き,格子文の交点にはガラス玉がつけられている。さらにそれぞれに金銅製の双魚佩がともなっている。それは基本的な様式を大刀形埴輪とも共通にする倭風の拵えの大刀であり,まさに玉纒太刀の原形と考えてさしつかえないものである。こうした梯形柄頭大刀やそれに近い系統の倭風の大刀には,金銅製の双魚佩をともなうものがいくつかある。6世紀初頭の大王墓に準じるクラスの墓と考えられる大阪府峯ケ塚古墳でも双魚佩をともなう倭風の大刀が3口出土している。6世紀は環頭大刀や円頭大刀など朝鮮半島系の拵えの大刀やその影響をうけた大刀の全盛期であるが,畿内の最高支配者層の古墳では倭風の大刀が重視され,また古墳に立てならべる埴輪につくられるのもすべてこの倭風の大刀であった。大王の祖先神をまつる伊勢神宮の神宝の玉纒太刀がこの伝統的な倭風の様式の大刀にほかならないことは,6・7世紀の倭国の支配者層が,積極的に外来の文化や技術を受入れながらも,なお伝統的な価値観を保持しようとしていたことを示す一つの事例として興味ふかい。
著者
松田 睦彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.11-24, 2015-12-25

小稿は人の日常的な地域移動とその生活文化への影響を扱うことが困難な民俗学の現状をふまえ,その原因を学史のなかに探り,検討することによって,今後,人の移動を民俗学の研究の俎上に載せるための足掛かりを模索することを目的とする。1930年代に柳田国男によって体系化が図られた民俗学は,農政学的な課題を継承したものであった。柳田の農業政策の重要な課題の一つは中農の養成である。しかし,中農を増やすためには余剰となる農村労働力の再配置が必要となる。そこで重要となったのが「労力配賦の問題」である。これは農村の余剰労働力の適正な配置をめざすものであり,柳田の農業政策の主要課題に位置づけられる。こうした「労力配賦の問題」は,人の移動のもたらす農村生活への影響についての考察という形に変化しながら,民俗学へと吸収される。柳田は社会変動の要因として人の移動を位置づけ,生活変化の様相を明らかにしようとしたのである。しかし,柳田の没後,1970年代から1980年代にかけて,柳田の民俗学は批判の対象となる。その過程で人の移動は「非常民」「非農民」の問題へと縮小される。一方で,伝承母体としての一定の地域の存在を前提とする個別分析法の隆盛により,人の移動は民俗学の視野の外へと追いやられることになった。人の日常的な移動を見ることが困難な民俗学の現況はここに由来する。今後,民俗学が人びとの地域移動が日常化した現代社会とより正面から向きあうためには,こうした学史的経緯を再確認し,人びとが移動するという事象そのものを視野の内に取り戻す必要がある。
著者
高橋 一樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.75-92, 2003-10-31

王家や摂関家の中世荘園は、それぞれの家政機関(院・女院庁や摂関家政所)や御願寺に付属するかたちで立荘・伝領される。本稿はこのうち王家の御願寺領荘園群の編成原理と展開過程の分析を通じて、個別研究とは異なる角度から中世荘園の成立と変質の実態について論じた。具体的な素材は、関連文書と公家日記等の記録類とを組み合わせて検討しうる、十二世紀後葉に建立された最勝光院(建春門院御願)の付属荘園群をとりあげた。最勝光院領の編成と立荘については、落慶直後から寺用の調達を目的に六荘園がまとめて立荘され、その後も願主の国忌(法華八講)などの国家的仏事の増加に対応して新たに立荘が積み重ねられた。その前提には、願主やその姻族(平氏)と関係の深い中央貴族から免田や国衙領が寄進されたが、実際に立荘された荘園は国衙領や他領をも包摂した複合的な荘域構成をとっており、知行国主・国守との連携にもとづく国衙側と協調した収取関係(加納・余田の設定)をもつ中世荘園の形成であった。また、最勝光院領に典型的にみられる立荘と仏事体系のリンクが、御願寺および付属荘園群の伝領を結びつけており、御願寺の継承者が仏事を主催し付属荘園から用途を徴収する現象の原理をここに見いだしうる。鎌倉幕府の成立した十三世紀以降の最勝光院は、各荘園の預所職を知行する領家(中央貴族)たちの寺用未進に対処するべく、同院政所を構成する別当・公文の主導のもと寺用にみあう下地を荘園内で分割して、その特定領域における領家の所務を排除する事例が多くみられた。下地を分割しない場合も含めて、これらの寺用確保の下支えになったのは地頭請所であり、その背景には幕府との政策連携があったことが推測される。これは領主制研究の枠組みのみで論じられてきた従来の下地中分論や地頭請所論とは大きく異なる評価であり、荘園制支配の変質と鎌倉幕府権力との関係を問う視角も含めて問題提起を行った。
著者
中林 隆之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.147-169, 2015-03-31

正倉院文書には、天平二十年(七四八)六月十日の日付を有した、全文一筆の更可請章疏等目録と名付けられた典籍目録(帳簿)が残存する。この目録には仏典(論・章疏類)と漢籍(外典)合わせて一七二部の典籍が収録されている。小稿では、本目録の作成過程および記載内容の基礎的な検討を行い、それを前提に八世紀半ばの古代国家による思想・学術編成策の一端を解明した。本目録には、八世紀前半に新羅で留学した審詳所蔵の典籍の一部が掲載されていた。審詳の死後は、彼の所蔵典籍は、弟子で生成期の花厳宗の一員でもあった平摂が管理した。本目録は、僧綱による全容の捕捉・検定を前提として、内裏が審詳の所蔵典籍の貸し出しを平摂の房に求めた原目録をもとに、それを平摂房で忠実に書写し、写経所に渡したものであった。審詳の所蔵典籍には、彼が新羅で入手したものが多かった。仏典は、元暁など新羅人撰述の章疏類が一定の比重をしめた。それらの仏典は、写経所での常疏の書写に先だって長期にわたり内裏に貸し出されていた。内裏に貸し出された中で、とくに華厳系の章疏類は、南都六宗の筆頭たる花厳宗が担当する講読章疏の選定と布施額の調整などに活用された。漢籍も、最新の唐の書籍や南北朝期以来の古本、さらに兵書までをも含むなど、激動の東アジア情勢を反映した多様な内容であったが、これらも内裏に貸し出され、国家による諸学術の拡充政策などに活用されたとみられる。八世紀半ばの日本古代王権は、『華厳経』を頂点とする仏教を主軸においた諸思想・学術の国家的な編成・整備政策を推進したが、その際、唐からの直接的な知的資源の確保の困難性という所与の国際的条件のもと、本目録にみられたものを含む、新羅との交流を通して入手した典籍群が一定の重要な役割を担ったのである。