著者
植村 清加
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.271-291, 2004

本論文はフランス、パリ地域に住むマグレブ系移民第二世代が語る<つながり>のかたちを検討することから共同体を再考する。個人を基礎とする「市民たちの社会的つながり」に価値をおくフランス社会において、マグレブ系の人々はその「民族的共同体」や「共同体的属性」が可視化され周辺化された状況にある。その周辺化された「共同体」を自身の生活空間および社会関係の一部とする第二世代の人々は、親たちと自分を差異化し、「出身共同体の文化」から身を引き離してフランスの市民像にうまく合致する自己表象を行うが、その語りからは具体的な生活空間における対面的な関係をさす共同体への言及がみられる。本論文では、そうした彼らの語りと空間実践を、マルク・オジェが提示した「非-場所/場所」の概念、およびミシェル・ド・セルトーが提示した実践される場所としての「空間」概念にヒントを得て検討していく。こうした空間概念を用いることの主眼は、彼らの生活空間を形作ってもいる匿名的な「非-場所」としての都市において対面的な関係がもたれる「空間」に注目するためであり、そうした視点から<つながり>を分析することにある。彼らの語る「私たちの共同体」および「私は私たちの共同体からでている」という語りと空間実践の分析を通して本論文が提示するのは、彼らがローカル化された意味をもつ生活空間における対面的な交換や異なる意味の関係の重ねあいを通して<つながり>を語るとともに、そうした<つながり>を、意味づけの異なる関係と空間へと分割しながら共同体を維持しているということである。本論文は、「公私の区別」という空間概念を導入して提示されるフランス市民像における「個人」と「共同体」のあり方と並存して、そうした区分を横断する形で「個人主義的」であると同時に多民族的で、差異を含みもつ<つながり>としての共同体が生きられていることを、こうした彼らの実践から明らかにする。
著者
梅屋 潔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.274-284, 2018

<p>This paper argues the effectiveness of a strategy by President Museveni's campaign for reelection to conduct a series of government re-burials of or commemorative ceremonies for great men with West Nilotic origin who had been murdered by then-President Idi Amin. The attempt is to describe the attitude of the Western Nilotic peoples in Uganda towards a series of events, and to confirm how individuals with voting rights are inseparably connected to the identity and sentiments of their ethnic group. The re-burials clearly show that modern presidential elections in Uganda have an emotional aspect as well as a civic one. The series of events, and the strategic effectiveness displayed, force us to rethink the universality of the idea of the concept of "citizenship." That concept—as with all concepts of Western origin believed to be universal—has been interpreted and appropriated reasonably within an autochthonous cosmogony, and might be seen to be interwoven with autochthonous concepts in Africa and other areas after being imported from the West.</p><p>Because of the series of events, the people of Western Nilotic origin, or at least those who can assert to have some connection, supported President Museveni as he honored the great dead men of their ethnicity. This time, the reburial was an epoch-making strategy to address the issue, and even successfully managed to integrate people based on their ethnicity, even though the late Oboth-Ofumbi was not especially beloved by all his neighbors. Another issue was the role of religious and spiritual dimensions in peopleʼs voting behavior. The government's honoring of the dead positively affected people in neighboring communities. It can be said that the dead thus demonstrated agency to the living, having intervened in the actions of the living. In a sense, they—ontologically, the dead—shared a social space with the living in terms of personhood, which, for people of Western Nilotic origin, inevitably includes those who have already died. A consideration of the state of the dead can thus greatly influence their voting behavior.</p><p>(View PDF for the rest of the abstract.)</p>
著者
田原 範子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.233-255, 2018

<p>本稿は、アルル人の死者祈念の最終儀礼をとおして、死者と生者の交流について論考するものだ。死者祈念の最終儀礼は、死後10年くらいまでに、死者のクランが、他のクランを招待して饗宴をもつことで完了する。2つのクランは、笛と太鼓と踊りに3夜連続、興じながら、死者のティポ(精霊)を祖霊の世界へ送りだしてきた。ところが、ウガンダ共和国ネビ県においては、死者祈念の最終儀礼は1987年が最後であった。このまま儀礼が消滅することを案じた筆者は、パモラ・クランのウヌ・リネージの人びとに協力し、2009年より準備を重ね、2012年3月に簡略化した死者祈念の最終儀礼を行った。</p><p>調査対象の社会に対して、こうした働きかけをすることに迷いがなかったわけではないが、消えゆく儀礼を若い世代へ継承する一助になればという気持ちがあり、映像化を試みた。また、対話的に儀礼を生成する過程をとおして、当該社会の意思決定過程や社会関係を学べるのではないかと考えた。人びとと共に死者祈念の最終儀礼の再興を模索する過程で、パモラ・クランの人びとがコンゴ民主共和国の人びとの支援を受けたり、ウガンダ国内の異なるクランの人びとから助けられたりする状況が明らかになった。この儀礼は、日常生活では関係を密にしない生者たちが再会し、音楽と踊りを楽しみ、共に飲み、共に食べることをとおして、友好関係を再確認する場でもあった。本特集に執筆しているニャムンジョの言葉を借りれば、死者祈念の最終儀礼とは、一過的で集合的なコンヴィヴィアリティを構築する場であった。</p><p>本稿では、こうした死者祈念の儀礼空間に、緩やかな連帯関係にあった生者が参入し、儀礼を共同して構築すること、この一時的で流動的な共同性を、リチュアル・シティズンシップと名付けた。それは、死者という存在によって生者たちが構築する共同性であり、死者と生者が交流する場に現れるシティズンシップである。従来、シティズンシップにかかわる研究は、生者を中心に行われてきた。なぜならシティズンシップの根幹には、法的・政治的・経済的、すなわち現世的な権利や義務の制度があり、そこに死者の存在は勘案されることはなかったからだ。しかし死者や祖霊の存在は、私たち生者の日常生活に深く根をおろしている。本稿では、死者という存在を含めた共同性を考察するために、従来のシティズンシップ概念に死者を含めるリチュアル・シティズンシップという新たな概念を提唱した。その概念を使用することにより、死者祈念の最終儀礼の記述をとおして、アルル人のクラン間の緩やかなつながりを考察し、生者の共同性の底流にあるものを明らかにすることを試みた。</p>
著者
藤本 武
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.21-43, 2007

人類共有の財産とみなされてきた世界各地の多様な作物は、今日地域の文化資源や世界の遺伝資源と認識され、保護が模索されるとともに、そのアクセスと利益配分をめぐって国際的な議論がかわされつつある。ただ、そうした多様な作物がもっとも豊富にみられるのは周辺地域の諸社会であり、文化人類学からの貢献が期待される。本論が分析するのも、アフリカのなかで例外的に長い国家の歴史をもつエチオピアにあって、その西南部という十九世紀末に国家体制に編入され、今日数多くの民族集団が分布する周辺地域における一少数民族の事例である。従来の研究では、各民族集団における固有の生態条件や文化的慣習との関連でその多様性が考察されることが多かった。しかし時間・空間的な範囲を広げて検討した本論の分析からは、今日の民族集団の枠組み自体が自明なものでなく、国家体制に組み込まれる以前、人びとは境界をこえて活発に移動をくりかえしてきており、むしろそうした広範な移動・交流によって今日の多様な作物・品種の基礎が築かれていたことが示唆された。また自給自足的だった経済は国家編入を契機に変化し、二十世紀に外部供出用の余剰生産を企図した穀物栽培が拡大するなかでその品種への関心は低下し、一部の穀物品種はすでに失われ、あるいは現在消失の危機に直面している。その一方、果樹や香辛料、野菜などの副次的な作物が外部から次々ともたらされ、庭畑に積極的に植えられることで全体の作物の種類は増えてきている。つまり、近年の作物の多様性の動態は一様ではない。ただ、いずれも社会のあり方と密接にかかわって変化するものであることを示している。今後作物資源の保護を模索する際は、民族集団などの単位で閉じた静態的なモデルにもとづいて構想するのでなく、より広い範囲を対象に人びとどうしのつながりや交流を促していく動態的なモデルにしたがって構想していくことが望まれる。
著者
大村 敬一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.105-127, 2012-06-30

本稿の目的は、カナダ極北圏の先住民、イヌイトの人びとの間にみられる一連の諸技術を一つの事例に、「自然=人間(社会・文化)」の一元論的視点から人類の技術の営みを世界生成の機械として捉える自然=文化人類学の技術複合システム論を提示し、その可能性を探ることである。そのために、本稿ではまず、イヌイトの生業システムについて検討し、その生業システムによって、「自然」も「人間」もない一元的な世界から、イヌイトやさまざまな野生生物など、さまざまなカテゴリーが絶え間なく産出され、一つの秩序化された生活世界が持続的に生成されてゆくメカニズムを明らかにする。そのうえで、この生業システムがイヌイトのさまざまな技術の営みを組織化する統辞法になっていること、すなわち、この生業システムによって、野生生物を含めた生態環境とのかかわり合いをめぐる技術と知識から、社会関係をめぐる社交の技術にいたるまで、イヌイト社会にみられる一連の諸技術が、一貫した技術複合システムとして安定的かつ柔軟に組織化されている様子を追跡する。そして最後に、このイヌイトの技術複合システムの考察を通して、「自然=人間(社会・文化)」の一元的な存在論から出発し、人類の技術の営みを世界生成のための機械として捉える自然=文化人類学の視座を提示し、その自然=文化人類学の視座が人類の技術の研究に対して拓く可能性について考える。
著者
佐藤 斉華
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.95-117, 2007-06-30

本論文は、ネパールのチベット系ヨルモにおいて急速に過去のものとなりつつある嫁盗り婚(略奪婚)という結婚締結の一選択肢がいかに語られているかを考察することを通じ、グローバルな広がりを持つ「開発」という「近代」的価値言説との交叉において構築されつつある彼らの現在の一段面を照らしだそうとするものである。比較的近年までかなりの規模で嫁盗りを実践してきたと見られる彼らが、この慣行について自ら積極的に語ることは現時点では基本的にない。知りたがりの外部者(例えば筆者=人類学者)に促されて語るとしても、例外なく否定的に、消え去るべき「昔のこと」として語るのみであり、その語り口は近代(西欧)が嫁盗り婚に向けた「過去の」「野蛮な」慣習という視線と一見軌を一にするとも見える。しかし、語りの内容や語る行為において遂行されること(=発話のパフォーマティヴな側面)を子細に腑分けしていくにつれ浮かびあがってくるのは、彼我の類似性・同一性であるより、むしろ彼我の間に横たわる距離であった。即ち、彼らによる嫁盗り婚の否定は、「女性の権利」や「解放」といった嫁盗り婚否定を支える「近代」的価値観の採用によるものではない。それは彼らにおいてローカルに培われてきた価値観の、さらなる純化/強化(=社会的対立/宗教的秩序攪乱の回避)にむしろその根拠をおいている。またそれは確かに、「進歩」を掲げる近代的世界に向けた彼らの積極的参画の働きかけではあった。だがこれらの発話は、彼らの近代世界への参画を一義的に促進する効果を持つというより、その根底にある価値観の異質性とともに、開発への一途な信奉と(既にそれを手放した「開発された」中心に身をおく立場からは)見えるその素朴さにおいて、近代世界における彼らの周縁的位置をむしろ再-構築してしまうという、相矛盾する動きの同時遂行ともなっていたのである。
著者
楊 海英
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.73, no.3, pp.419-453, 2008-12-31

社会主義者たちは「民族の消滅」を理想に掲げ、そのために闘争してきた歴史がある。中国共産党は文化大革命中に、彼らが得意としてきた暴力で以て「民族の消滅」を実現させようとした。内モンゴル自治区では、この地域が中国領とされたがゆえに、モンゴル人を対象とした大量虐殺事件が発生した。本稿は、中国文化大革命中の1967年末期から1970年初頭にかけて、内モンゴル自治区で発生した「内モンゴル人民革命党員大量虐殺事件」をジェノサイド研究の視点からアプローチしたものである。内モンゴル人民革命党は、モンゴル族の自決と独立のために、1925年にモンゴル人民共和国とコミンテルンの支持と関与のもとで成立した政党である。その後、日本統治時代を経て、第二次世界大戦後にモンゴル人民共和国との統一を目指したが、中国共産党によって阻止された。文化大革命中に「内モンゴル人民革命党の歴史は偉大な祖国を分裂させる運動である」と毛澤東・中国共産党中央委員会から断罪され、モンゴル人のエリートたちを根こそぎ粛清する殺戮が発動されたのである。本研究は、従来から研究者たちによって指摘されている「国民国家型ジェノサイド」理論に沿って、ジェノサイドと近代の諸原理とりわけ国民国家と民族自決の問題との関連性に焦点をあてている。国民国家たる中国からの統合と、その統合に反対して別の国民国家を建設しようとしたモンゴル人たちが大量虐殺の対象にされた経緯を分析したものである。「モンゴル人ジェノサイド」に社会主義中国の対少数民族政策の強権的、暴力的な本質が内包されている。
著者
森田 敦郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.71, no.4, pp.491-517, 2007-03-31

第二次大戦後、タイでは地元の機械工や農民たちによってさまざまな農業機械が開発されてきた。本論文ではこの技術発展とその担い手となった機械工集団の形成の相互的な関係を記述するとともに、実践と社会性に関する人類学的概念の再考を試みる。タイの農業機械は輸入された機械類を環境に合わせて修理・改造する中から生み出されてきた。輸入された機械類が先進国と異なるタイの環境のもとで稼動し続けるためには、部品交換や修理、環境に合わせた改造などが必要であった。こうした需要に応えるために農村部では独学の修理工たちが誕生し、彼らの実践はその間を流通する人工物によって都市部や海外の工場と結び付けられたネットワークを形成してきた。タイの農業機械は、このネットワークで行われる修理や改造を通して発展してきた。ここでは、修理や改造を依頼した農民と機械工の間で機械の不具合をめぐる交渉が行われ、両者の知識が結び付けられることによって地域に適応した機械が生み出されてきた。さらに、この技術的実践は独学で技術を学んできた多様な人々の間に共有された次元を生み出し、社会集団としてのまとまりを作り出してきたのである。本論文では、近年の実践理論の展開とエスノメソドロジーおよびウィトゲンシュタインの後期哲学の知見に依拠しながら、このような技術的実践を通した社会性の生成のプロセスを考察していく。この考察を通して筆者は、実践に先立って存在する社会関係が実践を社会的にするのではなく、実践を構成する異種混交的な要素のつながりの中から社会性が生成することを明らかにする。技術的実践が社会性を生み出しうるという本論文の主張は、技術と社会の二分法だけでなく、従来の実践と社会性の関係をも問い直すものとなろう。
著者
與那覇 潤
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.451-472, 2006-03-31 (Released:2017-09-25)

本稿は、1879年に琉球王国を「沖縄県」として日本国家に併合した所謂「琉球処分」の政治過程とそれをめぐる同時代の様々な「語り」の検討によって、近代西洋との遭遇以降もナショナリズムの発生を抑制してきた東アジア世界の歴史的諸条件を明らかにしつつ、同時に現地住民の「民族性」を領土問題の正当化に動員するような政治体制の、東アジアにおける起源について再考することを目的とする。人類学における民族論の展開は、民族とは「差異の政治学」を通じて不断に構築されるプロセス-たとえばある社会問題が「A民族対B民族」の「民族間対立」として問題構成され続けることによって、「A民族」「B民族」が相互に排他的な実体的集団として人々に意識されるようになるという過程-であることを明らかにしている。そうであれば、国境画定作業において現地住民の集団的アイデンティティが政治的に資源化されるような議論の「場」が出現する時期を見定めることは、例えば当該地域におけるナショナリズムの発生を考察する上で肝要となる。従来、「琉球処分」において日本政府は日本住民と琉球住民との人種的・民族的同一性を併合の根拠にしたとされてきたが、一次史料から見るとそのようなイメージは必ずしも事実でなく、日本内地や中国の新聞記事からも琉球の一般住民の性格によって領土帰属を論じた議論は観察されない。さらに注目されるのは、同時代の欧米系メディア(米国人の著作や横浜居留地の英国系新聞など)には「日琉同祖論」に通ずる民族誌的知識や、生物学的純粋性・混淆性に立脚して人種間の優劣を議論する言説が見られるにも関わらず、日本・琉球・中国という東アジアのアクター諸国はそれを政治的な道具として動員していないことであり、その背景には国民形成以前の状態にあった東アジアの表象システム-「民族問題」を構成しないような論理と世界観の体系-が存在した。本稿はその歴史的実態を明らかにするとともに、そのような作業を通じて、研究領域として自己完結しがちな民族論や国民国家論をより普遍的な視野へと開くことを目指すものである。
著者
松田 素二
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.247-270, 2004-09-30

20世紀の最後の10年間、自由は、現代世界における究極的価値としての地位を独占するようになった。「個人の自由」は、個々の社会的行為を支配する最終審級となったし、政治や経済の自由化は、武力介入さえ正当化できる「正義」となった。こうした状況の出現に対して、それを自由のアナキズムと批判して、何らかの歯止めをかけようとする動きが出てくるのもうなずける。無制限な自由の膨張に対する、もっとも強力な歯止めは、共同体からの規制であった。諸個人を共同体の文脈に位置づけ直して、自由の行き過ぎを規制し、社会の秩序を回復するという志向は、自由主義に対する共同体主義として定立されてきた。この二つの志向のあいだの論争は、1980年代以降、コミュニタリアン・リバタリアン論争として知られているが、本論の目的は、こうした論争における共同体の議論の不十分点を、人類学的思考で補うことにより、個人の自由と共同体という問題構制にに、新たな視角から光をあてることにある。これまでの共同体に関わる議論には三つの不十分点があった。第一には、生活論的視点がまったく欠如していた点であり、第二には、共同体を固定的な実体として自然化するか、もしくは、それと正反対にたんなる構築物として言説世界に還元してしまう平板な認識図式にとらわれていた点である。第三には、こうした個と共同体のアポリアを解決するため考案された創発的連帯モデルの限界に無理解だった点もあげられる。そこで本論においては、共同体の内外で生成される生活組織の多層で変異する態様を明らかにする。それを通して、共同体の外延(境界)をそのままにして、生活の必要に応じてうちから融通無碍に変質していく過程を、ナイロビにおける社会秩序の生成を題材にして分析することを試みる。
著者
中谷 和人
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.215-237, 2009-09-30 (Released:2017-08-18)
被引用文献数
2

1980年代の半ば以降、「芸術」や「芸術作品」という現象やモノをいかに論じるかは、人類学にとって最も大きな課題の一つになっている。従来の議論では、しばしば美術界やその制度的・イデオロギー的なシステム(「芸術=文化システム」)への批判、あるいはそれに対抗するかたちでの文化の差異の生産や構築に焦点が当てられてきた。だがその視角は、「異議申し立て」や「交渉」を行なう自律的な主体の存在が前提とされている。一方アルフレッド・ジェルは、「芸術的状況」や「芸術作品」を美術制度との関わりによっては規定しない。ジェルにとってそれらの存在を証明するのはモノとエージェンシーを介して生じる社会関係であり、またその関係は「エージェントのバイオグラフィカルな生の計画」へと結び付けられねばならない。本論文は、現代日本において障害のある人びとの芸術活動を進める二つの施設を事例に、その対外的な取り組みと実践の状況を検討する。一方の施設は、「アール・ブリュット/アウトサイダー・アート」という美術界の言説を逆手にとって利用することで自らの目的を達成しようとする。またもう一方では、こうした美術界の一方向的なまなざしから距離をおき、自らの「アート」を自らで決定しようと試みる。本論では、各施設が展開する戦略と運動を跡づけるとともに、活動現場での相互行為や社会関係がいかに多様な創作・表現(物)を生みだしているか、またそれら「芸術(アート)」の多元的な意味が当事者の生の文脈とどのように接合しているかを解明する。
著者
石井 美保
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.287-306, 2021-09-30 (Released:2021-12-26)
参考文献数
34

本稿の目的は、京都市の小学校で起きたプール事故をめぐる出来事を、遺族とそれを取り巻く人々の実践を中心に記述することを通して、道徳/倫理をめぐる近年の人類学的議論に新たな視座を提示することである。本稿の検討と考察の主軸となるのは、第1に、了解不可能な出来事に一定の意味を与えようとする物語の作用に抗して、事故に関する事実を追求しつづけ、我が子の死をめぐる「なぜ」「どのようにして」という問いを投げかけつづける遺族の実践のもつ意味である。第2に、事故に関する事実の検証や理解をめぐってしばしば立ち現れる、主観性と客観性、あるいは一人称的視点と三人称的視点の対立を調停する、エンパシー的な理解の可能性である。本稿でみるように、事故をめぐる出来事に関わった人々に倫理的応答を要請するものは、亡くなった少女の存在である。遺族をはじめとする人々は、物語の創りだす時間の流れの中に出来事を位置づけるのではなく、あえて「止まった時間」の中に留まり、喪失の痛みとともに生きることで亡き人の呼びかけに応えつづけようとする。このような人々の生のあり方を考察することを通して本稿は、苦悩の経験に意味を与え、混沌にテロスをもたらす物語の作用に注目する道徳/倫理研究の視座を相対化し、物語論に回収されない倫理的な実践の可能性を提示する。
著者
里見 龍樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.397-415, 2020 (Released:2021-04-07)
参考文献数
33

ソロモン諸島マライタ島では、初期植民地時代(1870~1920年代)において、西洋世界から流入 した銃器により、現地で「オメア」と呼ばれる戦闘や襲撃が一時的に激化したことが知られている。本稿では、同島北東部に住むアシ(またはラウ)において、この「オメアの時代」が今日いかに記憶されているか、また、アシに特徴的な居住形態である人工島がこの歴史とどのように関わってい るかを考察する。 歴史的検討によれば、アシの人工島群は初期植民地時代に急拡大しており、このことは、一部の人工島を戦闘・防衛の拠点として意味付ける語りにもあらわれている。同時にアシの人々は、植民地政府の到来により、戦闘を媒介とする移住の運動が停止したと認識しており、現存する人工島群はそのような歴史的変化を形象化するものとみなされている。 アシの人々は、人工島の多くは、「オメアの時代」が終わってから形成された「新しい」ものにすぎないとしばしば語る。人工島群が初期植民地時代以前に遡る歴史的深度をもたないかのようなそうした語りには、植民地化・キリスト教受容以前の歴史に対してアシが感じている疎遠さがあらわれている。そのように、「オメアの時代」は今日のアシにおいて根本的に「よくわからない」歴史として認識されているが、内陸部への再移住を志向する現代の動きの中で、そのような歴史は新たな関心の対象となりつつある。
著者
高野 さやか 中空 萌
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.127-138, 2021-06-30 (Released:2021-09-23)
参考文献数
80

Legal anthropology has produced numerous studies on law and society, mainly focusing on the significance of customs and social norms other than state law. Represented by legal pluralism in the 1980s, which claimed the coexistence of multiple legal systems in a society, it has successfully relativized the power of state law. However, its uneven emphasis on customary law may have narrowed and limited its research subjects. This article attempts to revitalize the original broader question of legal anthropology on law and society by reviewing recent ethnographies targeting professional and technical legal practice. It elucidates that the study of "making of law" as professional practice mediated by physical/technical devices suggests the new critical understanding of "what law is" or the relationship between state law and customs, as well as opening interdisciplinary dialogues with the studies of "law and development" and "nudges".
著者
板垣 竜太
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.293-315, 2009-09-30 (Released:2017-08-18)

本稿は、1990年代末から2000年代にかけて日本と韓国にまたがって展開してきた歴史をめぐる対話を事例にしながら、新自由主義が一つの大きな力となって進行しているグローバル化の状況における知的な緊張関係について考察するものである。この時期の対話は、ポスト冷戦期の日本および韓国における歴史研究の同時代的な流れが相互に出会ったものとしてとらえられる。ここでは3つの流れが注目される。(1)ポストマルクス主義:日本の「戦後歴史学」の見直しと、韓国の民主化運動のなかで培われてきた歴史学のパラダイムに対する再考の流れがあった。(2)国民国家論と民族主義批判:国民国家の形成過程を批判的にとらえ直す日本の研究動向と、民族主義的な歴史認識に対する韓国での論争があった。(3)近代性批判:問題の起源を近代に遡って探求する、あるいは近代性そのものの問題を明らかにする研究視角が歴史研究で強まった。それとともに「日本」という時空間で完結し得ない「帝国史」研究の方向と、植民地主義と近代性をめぐる議論の深まりがあった。こうした知的脈絡が出会っていくなかで、いくつかの問題にも突き当たった。特に、以下の3つの徴候が考えるべき問題を投げかけている。(1)「国史」について:ナショナル・ヒストリー批判とひとことでいっても、そこには複数の力のベクトルがせめぎあっており、そこから同床異夢も生じている。(2)植民地主義と近代性:近代性批判が、逆説的にも近代性への問題の還元論となり、植民地主義批判が曖昧になっている。(3)「和解」の政治:「加害」「被害」を単純化しながら、和解のメッセージを読み取る言説が増殖している。以上のような動向は、ポスト冷戦およびグローバル化のなかでのポストコロニアルとポストモダンの緊張関係という観点から考えることができる。
著者
竹沢 尚一郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.145-165, 2018 (Released:2019-02-24)
参考文献数
54

『文化を書く』の出版から四半世紀が過ぎた。他者にどう向きあい、どう書くべきかを問うたこの書は、今も人類学者に少なからぬ影響を与えている。しかしその四半世紀前に、おなじように他者に対する書き方を問う運動が日本にもあったことはほとんど知られていない。本稿は、谷川雁と上野英信というふたりの著述家が作った「サークル村」の運動を追いながら、そこでなにが問われ、いかなる答えが準備され、いかにしてすぐれたモノグラフが生み出されたかを跡づける試みである。 第二次世界大戦が日本の敗戦で終わると、文学サークル等が各地に誕生した。なかでも異彩を放ったのが、1958年に筑豊に形成された「サークル村」であった。他のサークルが職場や地域を拠点として活動したのに対し、それは九州各地のサークルの連携をめざすことで戦後の文化運動のなかで特異な位置を占めた。 会員の多くは、炭坑夫や孫請労働者や商店員であるか、その傍らで生活する人びとであったが、彼らはそれだけで社会の底辺に位置づけられた人びとについて書くことが許容されるとは考えなかった。彼らはどう書くかの問いを突き詰め、それへの答えを用意した。人びとの語りを最大限尊重するための聞き書きの採用、概念ではなく平易な言葉で生活世界と思想を再現すること、知識人による簒奪を避けうる自立した作品の創造、差別や抑圧を生み出す社会の全体構造を明らかにすること、である。 エスノグラフィ記述の基本ともいうべきこれらの指針に沿って、会員たちは多くのモノグラフを生み出した。上野英信の炭坑とそこで働く労働者についての記述。女坑夫についての森崎和江の聞き書き。不知火海の漁民の生活世界と病いと、チッソや地域社会による抑圧を描いた石牟礼道子の『苦海浄土』。 特定の地域を対象に、そこで生きる人びとの行為や相互行為を丹念に記述し、さらに差別や排除を生みだした全体構造までを書き出したこれらのモノグラフは、戦後日本が生んだ最良のエスノグラフィのひとつといえる。これらの作品を生んだ背景を追い、その成立過程を追うことで、人類学の可能性を検証する。