- 著者
-
星野 晋
- 出版者
- 日本文化人類学会
- 雑誌
- 文化人類学 (ISSN:13490648)
- 巻号頁・発行日
- vol.77, no.3, pp.435-455, 2013-01-31 (Released:2017-04-10)
病むことに苦しむ患者を前にして、医師は対象を客観化し科学的にアプローチすることと人間として気遣うことという、二つの相矛盾する要求にさらされる。医師たちはどのようにこの二つの要求の折り合いをつけているのだろうか。医学教育において、この難問に正面から向き合うことになる最初の体験が肉眼解剖実習である。医学的には「人体の構造と機能の関連を理解する」ことを目標とする解剖実習は、実際の遺体を扱うという感情の起伏をともなう非日常的体験であり、医師になることが強く自覚される機会であるため、職業的アイデンティティが形作られるイニシエーションと位置づけられる。実習が進むにつれ、感情を排除し対象を医学的人体としてとらえる「解剖実習モード」が形成され、医学生たちは「日常生活モード」と自在に切り替える術を身につける。その過程で、解剖の対象はヒトでもモノでもない「ご遺体」としかいいようのない何かになっていく。かつては医学的人体であることを強調するドイツ語由来の「ライヘ」という表現が用いられていたが、「ご遺体」という独特の言い回しが一般化した背景には、解剖体が引き取り手のない遺体から献体によるものに変わったことも影響していると推察される。このことにより、学生は喪服を着て火葬に参列するなど、遺体をヒトとして扱うことへの要求は以前よりも増しているといえる。ところで、解剖実習モードへの切り替えの技術は、臨床における医師のまなざしや態度につながっていく。医師は「臨床モード」と「日常生活モード」を切り替えながら、二つの要求に対応するようになる。そして医療の対象はヒトでもモノでもない「患者」となる。近年医学教育や臨床過程において、これまで現場で経験知として学ばれ、実践されていたことがらは、可視化され標準化され、評価システムに組み込まれる傾向にある。教育や臨床の現場において、このことが一方で現実とのギャップを生み、他方で専門職のタスクを不必要に増大させていることが危惧される。こうした現状にあって、イニシエーションであり、古典的ともいえる体験学習スタイルを保持している肉眼解剖実習は、再評価されてしかるべきであると筆者は考える。