著者
張 詩雋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.4, pp.640-658, 2021

<p>肖像とは、何かにあやかり造られる像のことであり、人間の感情や願望に常に深く関連している。本稿の考察対象であるチベット・タンカは、チベット仏教やボン教の神仏を表現するのみならず、制作者や崇拝者の感情や願望を喚起させる神仏の肖像でもある。本稿では、タンカの制作・崇拝に関する事例の人類学的記述を通して、人間と肖像、主体と客体の関係がいかに撹乱されるかを考察する。タンカ制作には以下の3つの特徴がある。①数値化される規則がタンカの宗教性を決めること。②数値化されない規則――本稿ではそれを「不可量の部分」と呼ぶ――はタンカの審美性に大きく関与すること。③身体物質を使用することが、タンカの宗教性と審美性の両方に関係すること。タンカに関する先行研究では、①は重要視されてきたが、②と③への考察は十分になされていない。本稿では②タンカ制作における不可量部分、および③絵師の身体物質の使用に注目する。そしてタンカの魅力、あるいはタンカのエージェンシーの発生は、単に宗教的意味や視覚的美しさだけでなく、制作者がタンカと一体化する願望を実現させようとする点にあるとみなして、タンカの身体美学性を主張する。さらに本稿の後半では、タンカの依頼・使用の事例を紹介し、人間とタンカ間の「変身」が相互的であることを示す。人が像を造ることは、像に促され、制作者になることであり、制作者と肖像――人とモノ――は対面に置かれる鏡面のように、延々と反射し合う関係にある。</p>
著者
片岡 樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.4, pp.623-639, 2021

<p>本稿は、愛媛県菊間町(今治市)の牛鬼の事例から、神と妖怪との区分を再検討することを試みる。菊間の牛鬼は、地域の祭礼に氏子が出す練り物であり、伝説によればそれは妖怪に起源をもつものとされている。牛鬼は祭祀対象ではなく、あくまで神輿行列を先導する露払い役として位置づけられているが、実際の祭礼の場では、神輿を先導する場面が非常に限られているため、牛鬼の意義は単なる露払い機能だけでは説明が困難である。祭礼の場における牛鬼の取り扱いを見ることで明らかになるのは、牛鬼が公式には祭祀対象とはされていないにもかかわらず、実際には神に類似した属性が期待され、神輿と同様の行動をとる局面がしばしば認められることである。また、祭礼に牛鬼を出す理由としては、神輿の露払い機能以上に、牛鬼を出さないことによってもたらされうる災厄へのおそれが重視されている。つまり牛鬼はマイナスをゼロにすることが期待されているのであり、その意味では神に似た属性を事実上もっているといえる。これまでの妖怪論においては、祀られるプラス価の提供者を神、祀られざるマイナス価の提供者を妖怪とする区分が提唱されてきたが、ここからは、事実上プラス価を提供していながら、公には祀られていない存在が脱落することになる。牛鬼の事例が明らかにするのは、こうした「神様未満」ともいうべき、神と妖怪の中間形態への分析語彙を豊かにしていくことの重要性である。</p>
著者
菅原 和孝 藤田 隆則 細馬 宏通
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.182-205, 2005-09-30

民俗芸能の伝承を身体資源の配分過程として捉え、静岡県水窪町の西浦田楽における世襲制の変容を解明する。また、次世代への継承を実現する場としての練習に注目し、そのやりとりの特質を分析する。西浦田楽の核となるのは毎年旧暦1月18日に挙行される「観音様のお祭り」である。ここで奉納される舞は地能33演目、はね能11演目(うるう年は12演目)である。地能は能衆と呼ばれる24戸の家に固定した役として割りあてられ、父から長男へ世襲によって継承されてきた。200年以上の歴史をもつこの制度は、昭和40年代初頭から農村の過疎化により崩壊の危機に直面した。14戸に減少した能衆組織内で役の大幅な再配分が行われたが、とくに本来は役を持たなかったにもかかわらず技能に秀でた成員に、多くの役が負わされた。演者の固定しないはね能において身体技法の功拙が競われてきたことが、こうした再配分を可能にした。近年、はね能に関与している家のすべては、父と長男の二世代が田楽に参加しており、継承が急速に進行している。練習場面では、太鼓および練習場の物理的構造という資源を最大限活用する教示と習得の工夫が発達している。初心者(「若い衆」)の所作・身振り・動作を継年的に観察すると、困惑や依存から納得への明瞭な推移がみられる反面、年長者によって開示される知識が断片的で不透明であることからくる混乱も顕著であった。祭り前の集中的な練習によってある地能の舞いかたが若い衆に促成で植えつけられたことは、継承を急激に進めようとする年長者たちの決意を示すものであった。これらの分析結果に基づき、正統的周辺参加理論、および民俗芸能において「身体技法的側面」が突出するプロセスに関する福島真人の理論の適用可能性を検討するとともに、練習場面にみられる「楽しさ」を分析する展望を探る。
著者
太田 好信
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.245-264, 2013-09-30 (Released:2017-04-03)

本論の目的は、アイデンティティ論を歴史化することである。より具体的には、冷戦構造時代の入口と出口という二つの時間においてアイデンティティ論がリベラリズムとの親和性を背景に形成されたことを指摘する。ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』とタウシグの『ミメーシスと他者性』の読解を通して、本論の方法論となっている歴史化という手法を提示する。歴史化とは、理論が可能になる状況を含めて理論を検討することである。冷戦構造の出口にあたる時代、文化とアイデンティティは圧縮され同義語となり、それらが政治の構成要素となったといわれている。文化人類学において『文化を書く』は、文化とアイデンティティとの両方を流動性の考え方のもとに再構想した書物の一冊である。流動性は、多文化主義などに関する議論が高揚する中、リベラリズムと親和性をもっていた。文化、アイデンティティ、政治の交差点に形成されるこの問題系は、文化人類学にとっても疎遠なテーマではなかった。『菊と刀』は、日本という国を日本人の国にしているものが日本文化であることを前提にし、その内実を階層制と呼んだ。冷戦構造の出口にあたる時代、このような前提が批判されたことになる。しかし、アイデンティティの流動性はその固定化を前提にしたベネディクトへの批判としては有効である一方、両者ともリベラリズムと親和性を有している点では共通であり、状況との癒着を通して普遍性を確保している。この癒着が理論の持つ確信であり、それを打破するためには、誰にとってアイデンティティは流動的なのか、という問いを立てる必要がある。一例として、グアテマラ共和国のマヤ(系先住民)運動指導者を前にして、北米文化人類学者が抱くジレンマについて考察し、このジレンマは、アイデンティティが理論化される場所を歴史化できていないことに起因すると指摘する。
著者
出口 顯
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.221-241, 2015

本稿ではヌアーとディンカの宗教研究におけるエヴァンズ=プリチャード(E-P)とリーンハートの思想の意義を、近年のアニミズム的存在論にも言及しながら検討する。まずシベリアのチュクチの供犠において生け贅の代用について論じるウィレスレヴの議論とE-Pによるヌアーの供犠における代用の解釈を比較する。代用を可能にする類似性が物質と物質のあいだにみられ、観念は物質の一形態であると説くウィレスレヴに対して、代用において類似しているのは観念と観念であると説くE-Pは、観念と物質の非連続性を強調する。ついで、人間から遠くかけ離れていながらも人間の生活に直接介入し体験される神の存在を理解するために、インゴルドによるメッシュワークという考え方を応用する。人間は神が張り巡らし神の一部でもあるメッシュワーク上にあり、人がメッシュワークに絡み取られる経験の相に応じて、現れる神の姿は異なる。そしてこの神と人々の経験の結びつきをさらに論じたのがリーンハートである。「力」(神性や神霊)がディンカの経験のイメージであるとリーンハートが言うとき、イメージとは視覚的印象ではなく、連続した生の経験を一定の配置のもとで人々に把握させ、経験への対処を定めさせるものである。「カ」が過去の出来事の保管庫であるなら記憶は「力」という外部から人間に到来するものであり、人の心は「力」の介入を俟ってはじめて成立する。リーンハートのこの思想は「機械の中の幽霊ドグマ」で有名な哲学者ライルの影響を受けているが、彼らと照らし合わせるとき、ヴィヴェイロス・デ・カストロやデッコラのアニミズム論は、彼らが批判しているはずの心身二元論という「機械の中の幽霊ドグマ」を乗り越えていないことがわかる。E-Pも心身二元論とは異なる立場にいたが、Nuer Religionは神観念をめぐるシニフィアンとシニフィエの安直な連結を解体する試みとして読まれるべきである。
著者
渡部 瑞希
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.79, no.4, pp.397-416, 2015-03-31 (Released:2017-04-03)
被引用文献数
2

カトマンズの観光市場、タメルの宝飾店で、ツーリスト相手に商売をするインド系ムスリムの小売商人は、できるだけ高値でツーリストに売るために、彼らと「フレンド」になるという戦略をとっている。しかし、こうした戦略の過程において、小売商人は、ツーリストとのさまざまな社会的折衝を重ねた上に、その場限りとはいえない継続した関係を築くこともあり、その結果、そうしたツーリストから儲けることができなくなることもある。本稿の目的は、友好的態度や親密さが「フレンドシップ」という形で経済利益のために利用される中で、それが経済利益を得るための手段からズレていくことがいかに起こりうるのかを明らかにすることである。これを明らかにするために、本稿では、小売商人がツーリストと「フレンド」になろうとする試みを「賭け」の実践として論じる。「賭け」とは 1)不確実性を免れないながらも確実性を目指す行為実践であり、2)「賭け」から降りない限り勝敗が判然としないものである。「フレンド」になろうとする「賭け」の実践とは、具体的に、1)売るために、当のツーリストの属性(character)(社会的背景や経済力、好みなど)を会話の中から引き出しながら、親密さを表すことである(確実性を目指す行為実践)。このようにして「フレンドシップ」は利用されるが、2)小売商人は、当のツーリストに対するその都度の取引において、売れるか否か(「フレンド」か否か)の「賭け」を繰り返すことになる(勝敗の結果の先送り)。その「賭け」の繰り返しの過程において、ツーリストの抱える個別的な問題を共有することが起こりうる。本稿の意義は、そうした「賭け」の実践を通じて、取引相手に対する親密さへの志向が、取引相手からできるだけ多くの利益をとろうとする戦略の中から誘発される可能性を示唆することである。
著者
森下 翔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.449-469, 2014

本論の目的は科学実践における存在者の「実在性(reality)」について、人類学的な考察を試みることである。科学が歴史主義的・実践論的に理解されるようになって以来、私たちの持つ科学のイメージは大きく変化してきた。本論は科学実践における実在性をめぐる議論について、近年の実践論的科学論が科学実践における実在性の概念を局所化・歴史化したことを評価しつつ、そのプロセスを「表現と物質性の接続」というスキームへと還元してきたことを批判する。本論では地球物理学の一分野である測地学における「観測」と「モデリング」の実践について記述することを通じて、「観測網」や「図」などの具体的な構成要素と密接に結びついた-「表現」や「物質性」に還元される手前に存在する-存在者のさまざまな実在化の様態を示す。考察では「実在化のモード」という概念の導入を通じてこれらの様態の関係を考察し、実践における存在者の実在形態の多様性を分析する方途を模索する。
著者
川田 牧人
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.81-100, 2010

グローバリゼーションが進行する現代世界において重要視される課題の一つとして、「複数なるものの共存」があげられる。本稿は、フィリピン・セブ市のグアダルーペの聖母を信奉する複数の宗教コミュニティの共存関係についての考察を通して、文化人類学がこれまでいかにこの課題に対して取り組んできたか、そしてその取り組みを今後いかに継承・修正して発展させていくべきかについて検討を加えることを目的とする。文化人類学はこれまで、文化相対主義の立場を掲げてこの問題に取り組んできた。しかし多文化主義の隆盛などにより、現在、文化相対主義はその刷新を迫られている。本稿ではむしろ「深い」多元主義と接触させる可能性を検討することを通して、「当事者の文化相対主義」という観点を追究したい。セブ市のグアダルーペの聖母をめぐる宗教コミュニティは、正統性が争われる危険性もある宗教的起源伝承を集団ごとに持ち、それは自己アイデンティティの源泉ともなっているので譲歩されるものではないが、同時に対立が先鋭化されることもなく、ゆるやかな共存関係が築かれている。このような様態から、当事者による「実践」として文化相対主義を捉えなおし、グローバリゼーションによって生成されるポスト世俗化社会における生活指向を明確にする。これは、グローバリゼーションの現象そのものを対症療法的に捉えることではなく、文化人類学の方法がこれまで培ってきた方法的視座でもってグローバリゼーションを逆照射するビジョンを展開させることにもつながるはずである。
著者
工藤 正子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.1, pp.116-135, 2009-06-30 (Released:2017-08-18)

本稿の主な目的は、1980年代後期にその来日が急増したパキスタン人男性と日本人女性の国際結婚を事例として、在日ムスリムとしての差異の生成とそれにともなう主流社会との関係のあり方を明らかにし、それが日本社会の多文化共生の課題に示唆するところを考察することである。最初に、これらの夫婦が日本でおかれた社会・経済的布置について、結婚数の増加と自営業への移行という2点から示す。つぎに、関東郊外のモスクに焦点をあて、そうした場に集うことが夫と妻にいかなる意味をもってきたかを検討する。つづいて、子の就学で居住地域の非ムスリムとの関係が形成されるにともない、そこでムスリムとしての差異がいかに包摂/排除されているのかを検討する。最後に、こうした主流社会との関係を、夫と妻それぞれの立場から個別に考察し、さらにこれらの家族形成の過程が日本の地域社会からトランスナショナルな空間につながっていることを指摘する。まとめと考察では、本稿が日本の多文化共生の議論に示唆するところとして次の3点を提起する。第一に、これまでの議論がしばしば「日本人」と「外国人」という単純な差異を想定しがちであったのに対して、そうした二項対立的な図式には回収されない、複雑な多文化化のプロセスと多面的な差異のあり方を明らかにすることがもとめられている。第二に、非ムスリムの主流社会の人々と同じ地域空間を共有しているにもかかわらず、在日ムスリムの微細な日常は見えにくい。その不可視性の背景にある諸要因を検討するとともに、見えにくいマイノリティの声を多文化共生の構築プロセスに反映させていく必要がある。第三に、多文化共生が一時滞在あるいは定着しつつある外国人を主な対象として議論されがちであるのに対して、そのいずれでもない、トランスナショナルな空間を循環移動する人々をも議論の視野に収めていく必要がある。
著者
久保 明教
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.71, no.4, pp.518-539, 2007-03-31
被引用文献数
1

1999年に販売が開始されたエンターテインメント・ロボット「アイボ」は、生活空間において人々の間近で動作する初めてのロボットとして多くの注目を浴びた。本稿では、アイボの開発と受容の過程を横断的に検討し、テクノロジーにおける科学的側面と文化的側面がいかなる関係を取り結ぶかについて考察する。科学およびテクノロジーを社会的ないし文化的事象として捉える研究は近年盛んになされてきたが、その多次元的な性質ゆえにテクノロジーを包括的に考察することには困難が伴う。本稿では、アイボという技術的人工物が科学的知識、工学的製作、日常的実践等の接点となっていることに注目し、異なる領域に属する諸要素が接続される様々な局面を分析することで、境界横断的なテクノロジーの動態を捉えることを試みる。そこで明らかになるのは、開発と受容の過程において、科学的要素と文化的要素が組み合わされる中でアイボの有様が方向づけられていったことである。開発過程においては、人工知能研究およびロボット工学上の成果である設計手法を基盤にしながらも、ロボットをめぐる人々の想像力に基づいた語りを工学的装置へと翻訳することによってアイボがデザインされていった。一方、受容過程においては、アイボ・オーナーの生活する空間に特有の日常的な事物の有様とアイボの機能システムの作動が結びつくなかで、アイボの動作が様々な形で解釈されるようになり、開発者の想定を超える意味をアイボは獲得していった。筆者は、開発者による工学的デザインとアイボ・オーナーによる解釈が科学的要素と文化的要素を組み合わせることで妥当性を生み出す営為であったと分析した上で、実在と意味を媒介するテクノロジーの働きにおいて科学と文化の相互作用が捉えられることを示した。
著者
小田 亮
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.272-292, 2009-09-30
被引用文献数
1

本論文で提示する「二重社会」という視点は、レヴィ=ストロースの「真正性の基準」の議論の帰結、つまり「近代以降、ひとは、真正な社会と非真正な社会という、異なるあり方をした二つの社会を二重に生きている」というものである。本論文では、この「二重社会」という視点が、ネオリベラリズムやグローバリズムに対応する日常的な実践と、そうした実践を可能とする社会的連帯の基盤となる煩わしさと反復による社会関係の評価を可能とすることを示す。すべてを交換可能なものとして一般化するグローバリズムやネオリベラリズムに対抗するために、比較可能で置換可能な差異としての特殊性に依拠することとそれへの批判は「一般性-特殊性」の軸にそってなされる。また、それを批判するネグリ/ハートの議論も同じ対立軸上でなされている。ここで見落とされてきたのは、ドゥルーズが一般性と対比させる「単独性」と「反復」であり、それは「一般性-特殊性」の軸とは異なる「普遍性-単独性」の軸に位置する。これらの軸はレヴィ=ストロースの真正性の水準の議論における「非真正な社会」と「真正な社会」にそれぞれ対応する。「真正な社会」と「非真正な社会」とでは、同じ貨幣や行政機構などの媒体が、質的に異なったものとなる。それらの一般化された媒体は、真正な社会において、一般性を剥奪される。この一般化された媒体を変換する実践は、人類学では、J・パリーとM・ブロックらによる「貨幣を飼い慣らす」実践として議論されてきたが、それらも、「一般性-特殊性」の軸にそった議論にとどまっている。「二重社会」の視点から見直すことで、こうした実践が「普遍性-単独性」の軸にそって非真正な社会との境界を維持するものであるという点が明らかとなる。このように「二重社会」という視点は、ネオリベラリズムやグローバリズムに対応する多様な実践の意味解釈を可能とする。
著者
内堀 基光
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.373-389, 2009-12-31

私にとっての民族学/人類学は、極ミクロと極マクロという2つの認識地平からなる学問領域である。この2つの地平を無理に接合させる必要もなく、またその間を安易に埋める必要もない。むしろその断絶と乖離を嘉し、それとして見つめることのなかに、人間の存在と活動に関して、他の隣接学問領域のそれとは異なるこの学問独自の接近法があると考えている。これを前提にして、文化人類学会賞受賞の機会を利とし、より広い人類学の領域のなかで「資源」という研究対象がどのような位置を占めるのか、それを、死、「もの」、民族、進化という4主題にからめて語ることにする。資源はこれらの主題に挟まれて析出してくる対象とみなすことができる。進化という極マクロの時間尺度から、民族と死というそれぞれが類と個(ミクロ)を結ぶ回路に関わる、たがいに密接に結びついた2主題を経て、4主題のなかではより直接的に資源に関わる「もの」に至る。「もの」の研究に人間中心主義からの脱却を展望し、進化、民族、そして死からなる主題の正三角形のなかに、消滅というかたちで頂点を極めるようにみえる形態生成の過程を追究するのが、民族学/人類学研究における私の願望である。
著者
福井 栄二郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.47-76, 2005-06-30 (Released:2017-09-25)
被引用文献数
1

本稿は、筆者が調査を行ってきたヴァヌアツ共和国・アネイチュム島の事例をもとに、彼らの伝統文化の真正性が変動する、その様態を明らかにするものである。アネイチュム語で「ネテグ(netec)」とは土地保有集団、親族集団を指し、一般的には父系の理念で成員権が決定される。またネテグは個人名の保有集団としても機能している。つまりあるネテグにはつけてもよい個人名が決められていて、それらを他のネテグの成員に命名してはいけないとされる。しかし実際には、非男系成員の編入も、個人名の他ネテグへの拡散も、相当数存在している。たしかに理念には抵触するのであるが、これまでそうした事象は、事実上「黙認」されていた。ただ近年になってこのような「黙認」の事象が引き金となり、土地問題が生じてきている。そこで彼らはこれまで「黙認」だった事象を「間違った」ことと捉え直すようになり、今後は禁止しようとしている。つまりある事象に対して「黙認」から「禁止」へと真正性が変動したのだと考えられる。このように、ある伝統的事象が「正しい」とか「間違っている」と考える際、彼らが参照にしているのが、西洋人がやってくる以前の「かつての姿」である。そこで本稿では、島民たちの考える「かつての姿」を歴史資料を用いて多面的に考察するが、彼らの認識は必ずしも「事実」ではないのかもしれない。ただ重要なことは、それが「事実」かどうかなのではなく、伝統文化をはかるときのメルクマールとして実際に機能しているという点である。つまり彼らの「歴史」はひとつのリアリティを有しているし、換言すれば、伝統文化とは彼ら自身の歴史認識を抜きに理解することができないのだと結論づける。
著者
砂井 紫里
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.4, pp.593-612, 2019 (Released:2019-05-12)
参考文献数
36
被引用文献数
1

本稿の目的は、台湾を対象に、ムスリムが少数派を構成する社会においてムスリムと非ムスリムを取り込み展開するハラール認証制度と、制度を活用する事業者と消費者の動向を考察することである。他の非イスラーム地域と同様に、台湾でもハラール認証制度は、非ムスリムのハラール産業への参入を促進しており、その点で制度はムスリムと非ムスリムを架橋する。他方で台湾の中国回教協会のレストラン認証では、事業主がムスリムか非ムスリムかに応じてそれぞれムスリム・レストラン/ムスリム・フレンドリー・レストランと認証カテゴリーを分けている。このカテゴリーの分化は、ムスリムと非ムスリムの違いを可視化している。本稿ではまず、ハラール認証制度が自己と他者を連接し差異化するという両面性を有していることを指摘し、新たに創造された商品・料理やサービスがムスリムと非ムスリムを架橋しつつ弁別していることを明らかにする。従来、中国語圏のムスリムである回民は、ハラールを含意する語として清真(qingzhen)を用いてきた。人びとの生活の中の清真は、ムスリムにとって非ムスリムと自己とを弁別するアイデンティティの根幹となってきた。だが、近年のハラール産業に関わる場面では、清真はもっぱら「イスラーム法における合法」を意味するアラビア語のハラールの訳語として限定的に用いられるなど、清真とハラールの意味は、重なりながらもずれがある。他方で台湾の現代ハラール産業では、広く人と人との取引や相互行為において重視されてきた「誠信(誠実と信頼)」の精神や、食の選択肢の一つとしての「素食(ベジタリアン食)」、そうした食の対応にみられる「弾性(弾力性)」といった地域独自の価値観や食文化との接合もみられる。本稿では、台湾のハラール認証が、自己と他者を弁別しながらも、台湾独自の価値観を包摂しつつ、非ムスリム事業者、ムスリム団体、政府関係機関を巻き込み展開する動向を明らかにする。
著者
村津 蘭
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.635-653, 2022-03-31 (Released:2022-07-20)
参考文献数
54

本論は、ベナン共和国南部のペンテコステ・カリスマ系教会のデリヴァランス・ミサにおける憑依を対象に、妖術師、在来信仰の神々が「悪魔」として現れ、現実に参与する様態を情動と想像力、記憶に着目して明らかにする。近年興隆するサハラ以南アフリカのペンテコステ・カリスマ系教会では、妖術師を始めとする在来の諸霊を悪魔とみなし、悪魔との闘いを強調する傾向が強く見られる。先行研究はその現象を政治・経済の急激な変動や、それに伴う苦悩を説明するイディオムとして理解し、身近な出来事と社会背景を接合する想像力として描く傾向があった。しかし、想像の様態を現実理解のための言説として扱うことは、現実自体が想像と様々な人間・非人間の絡まり合いの中で構成されているというダイナミクスを捨象する危険性を孕む。これらの点を踏まえ、本論は現実を形作る知覚に作用する想像力の特徴に焦点をあて、それが働く条件と過程における調整のあり方を、情動と環境の応答の中から明らかにする。それにより、悪魔・妖術との闘いという実践は、妖術師という想像を使って社会・政治の問題を説明するという単純なものではなく、想像、記憶、そして情動が応答的に動く中で妖術師や霊的存在をモノとして立ち上げるという過程であり、またその立ち現れた悪魔・妖術師が新たな現実を切り開く主体として参入することを許していく過程だと論じる。
著者
比嘉 理麻
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.044-063, 2022-06-30 (Released:2022-12-08)
参考文献数
39

本論は、沖縄県名護市辺野古の基地建設の進行に伴って、熾烈化する抗議行動の最前線で、心身に傷を負い、抗議に行けなくなった人びとが、新たに勝負できる領域を模索するなかで見出した、〈生き方としての基地反対運動〉とでも呼びうる動きを積極的に掬いあげる。現在生まれつつあるのは、狭義の政治運動におさまるものではなく、むしろ、政治の限界(代表政治と直接政治の双方の限界)を踏み越えて、〈生き方〉そのものとして展開される基地反対運動である。日本政府の暴力により、従来の運動の限界に立たされた人びとは、これまでの闘い方とは異なる形で、自らの生き方を通して変革の方途を切り出していく。それは、生活を丸ごと抱き込んだ運動の全面化であり、自らの生き方の社会運動化、とでも呼びうるものである。本論では、従来の「政治運動」で傷ついた人びとが、口にするようになった「これは、政治じゃない」という言葉に耳を傾け、基地反対運動を「非政治化」し、より広い領域を巻き込みながら、自らの〈生き方〉として展開する新たな基地反対運動を理解することを目指す。さらに本論では、ここでの生き方を、人間のみに限定せず、他の動物たちの生き方をも含み込むものとして、より広く捉える。そこから、基地建設によるかつてない規模の破壊によって、改めて交差する人間と動物たちの生を捉える視座を築いていく。