著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.36, pp.p175-194, 1991-11

弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
著者
鈴木 靖民
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.315-327, 2009-03-31

7世紀,推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に複合して成り立っていた。遣隋使は,王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って仏教を興し,礼儀の国,大国として存立することを目標に置いて遣わされた。さらに,倭国は隋を頂点とする国際秩序,国際環境のなかで,仏教思想に基づく社会秩序はもちろんのこと,中国古来の儒教思想に淵源を有する礼制,礼秩序の整備もまた急務で,不可欠とされることを認識した。仏教と礼秩序の受容は倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者をはじめ,学問僧,学生を多数派遣し,隋の学芸,思想,制度などを摂取,学修すると同時に,書籍や文物を獲得し将来することに務めた。冠位十二階,憲法十七条の制定をはじめとして実施した政治,政策,制度,それと不可分に行われた外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
著者
白川 琢磨
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.132, pp.209-242, 2006-03

福岡県豊前市を中心とする旧上毛郡一帯に展開する豊前神楽の特徴の一つは,勇壮な駈仙(ミサキ)舞であり,毛頭鬼面で鬼杖を手にした駈仙と幣役との迫力ある「争闘」が見所となっており,また幼児を駈仙に抱かせる事で無病息災を祈る民間信仰も付随している。ところが,現地の神楽講には,この争闘を天孫降臨に際して猿田彦が天鈿女を「道案内」している場面だという伝承が存在し,観衆の実感との乖離を生み,実感との余りの落差から笑いまでもたらしている。これまで,豊前神楽は民俗芸能の枠組で里神楽と位置づけられ,岩戸の演目が最後に行われることから出雲系とされ,湯立は伊勢系,駈仙の装束や振舞には豊前六峰の修験道の影響も一部見られるという解釈が一般的であったが,本論ではこの神楽を宗教儀礼として捉え直し,その観点から上述の乖離を儀礼行為と説明伝承とのズレとして解釈することを主題としている。まず,儀礼主体として社家に注目し,彼らが近世期に吉田神道の裁許を得る以前には押し並べて両部習合神道の神人であり,豊前六峰の一つである松尾山という寺社勢力の山外の周縁部末端に位置づけられていたと類推した。湯立・火渡など現行の演目やその祭文には,神楽が本来,そうした寺社勢力の末端として行なった「加持祈祷」であったことを示す証拠がかなり残されている。さらに,駈仙と幣役との争闘に関しては,現在残されている近世期の祭文を,中国地方の中世末期の「荒平」の祭文と比較することを通じて,例えば「神迎」の演目などに典型的に表象されているように,現在伝えられる記紀神話の天孫降臨(道案内)ではなく,中世神話の天地開闢譚(天照もしくは伊弉諾と第六天魔王との争闘)に基くかもしれないことを指摘した。つまり,儀礼行為はほぼ原型を伝えるのに説明言説が変更されてしまったことが乖離を派生したと捉えたのである。この変更は近世期の神楽改変の一環であり,その背景には思潮動向としての反密教的な廃仏運動があり,やがて明治初期の神仏分離,神楽については神職演舞禁止令で頂点を極め,神楽は皮肉な事ではあるが史上初めて民間に伝えられるのである。Nowadays you can see some characteristic Kagura (sacred dance) performances called "Buzen Kagura" in the Buzen district in northern Kyushu. I had the opportunity to see a typical dance, Misaki, that means Pilot Deity, but actually an ogre, a couple of years ago. I was strongly impressed, especially by the fierce battle between the priest and the ogre, with the other audience. However, the leader of the Kagura group explained to us that the battle was Leading the Way soon later. The hall was filled with quiet laughter. Laughter is generally caused by some kind of contradiction. In this case it was pointed out that there was a gap between a ritual performance and its oral tradition. Why did it occur? First, we focus on the subjects that were performing and maintaining the Kagura dance exclusively. They were not Shinto priests whom we can see nowadays, but esoteric Buddhist-Shinto priests at least in the early Edo period. Even today we can recognize some fragments of Tantric spells in the Kagura scripts left there. Therefore, Buzen Kagura should be seen as originally a magico-religious ritual which was believed to accomplish some objectives, rather than as folk art. Then, we can understand why frequent alterations of Kagura occurred through the Edo period. They were based on the reactionary anti-Buddhist movements that were composed of Revival Shinto thinkers and priests who all shared the perspective of longing for antiquity. They altered most of the Kagura scripts without a troubled conscience to fit with The Record of Ancient Matters and Chronicles of Japan. However, their alteration of Kagura has not been completed yet. Rather, they left it uncompleted and could not but hand them down to people because of the ban on dancing by Shinto priests in the early Meiji period. And this is the reason why there is a discrepancy between what was performed and what was explained about Buzen Kagura.
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.47-91, 1993-03-25

東日本の弥生時代前半期には、人の遺体をなんらかの方法で骨化したあと、その一部を壺に納めて埋める再葬制が普遍的に存在した。再葬関係と考えられている諸遺跡の様相は、変化に富んでいる。それは、再葬の諸過程が別々の場所に遺跡となってのこされているからである。再葬は、土葬―発掘―選骨―壺棺に納骨し墓地に埋める―のこった骨を焼く、または、土葬を省略してただちに遺骸の解体―選骨……の過程をたどることもあったようである。遺体はまず骨と肉に分離し、ついで骨を割ったり焼いたりして細かく破砕している。骨を本来の形をとどめないまでに徹底的に破壊することは、彷徨する死霊や悪霊がとりついて復活することを防ごうとする意図の表れであろう。すなわち、この時期には死霊などを異常に恐れる風潮が存在したのである。この時期にはまた、人の歯や指骨を素材にした装身具が流行した。これは、死者を解体・選骨する時に、それらを抜き取って穿孔したものであるが、一部の人に限られるようである。亡くなった人が生前に占めていた身分や位置などを継承したことを示すシンボルとして、遺族の一部が身につけるのであろう。再葬墓地の分析によれば、十基前後を一単位とする小群がいくつも集まって一つの墓地を形成している。そのあり方は縄文時代の墓地と共通する。したがって、小群の単位は、代々の世帯であると推定する。再葬墓は、縄文時代晩期の信越地方の火葬を伴う再葬を先駆として、弥生時代前半期に発達したのち、弥生中期中ごろに終り、あとは方形墳丘墓にとってかわられる。しかし、再葬例は関東地方では六世紀の古墳でも知られているので、弥生時代後半期には人骨を遺存した墓が稀であるために、その確認が遅れているだけである可能性も考えられる。
著者
薦田 治子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.166, pp.153-187, 2011-03-31

本論文は平成21年度に国立歴史民俗博物館で行われた紀州徳川家伝来楽器コレクションの琵琶の調査の報告と,その結果に関する論考である。今回の調査の対象としたのは,同コレクション内の23面の琵琶のうち,中国琵琶を除く日本の琵琶22面である。調査の第1の目的は,これらの琵琶の楽器としての特徴を考える上での基礎的なデータを観察と計測によって,提供することである。第2の目的は,琵琶のX線撮影や,小型カメラによる槽内調査により,琵琶の構造や製作技術について明らかにすることである。第3の目的は,やはり小型カメラを用いて,槽内に記された墨書を観察することである。琵琶槽内にはしばしば楽器の製作や修理に関する情報が墨書されており,それらは入替や作成が可能な付属文書の情報よりは信憑性が高い。こうした目的のもとに調査を行った結果以下のようなことが明らかになった。まず,測定結果から,琵琶を大きさによって大中小の三つのグループに分けることが適当と考えられた。80cm以上90cm未満の中型の琵琶の数が8面に上り,この大きさの琵琶も大型のもの同様よく用いられていた可能性が指摘できた。また,従来,中型の琵琶や80cm未満の小型の琵琶について論じられることは少なかったが,小型の琵琶は数も少なく,用いられ方も特殊で,今後は中型とは別に考えるべきであろう。次に琵琶の構造については,解体している雲鶴(H‒46‒103)によって基本的な構造を観察することができ,小型カメラによる槽内観察やX線撮影によって,特殊な構造を持つ琵琶を見出すことができた。さらに,5柱の接着痕から平家琵琶として使われたことがあきらかな3面の琵琶は,文書類や撥の形から判断して,雅楽琵琶として利用するためにこのコレクションに加えられたと考えられるが,平家琵琶は基本的には雅楽の中型琵琶と違いはなく,その相違は,撥面の月装飾,柱,乗弦といった付属的な部分にあり,十分転用が可能であることが判明した。そのほか,細部の製作上の工夫や修理の仕方など,多くのことが観察から明らかになった。また平家琵琶のものとされていた撥が,薩摩盲僧琵琶の撥であることが判明し,薩摩琵琶の楽器史の一面があきらかになった。本調査の計測結果は様々な活用方法があると思う。また,槽内観察やX線撮影の有効性が確認されたことにより,今後の琵琶の楽器調査の方向も示せたと思う。
著者
原田 信男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.41-54, 1995-01-20

律令国家体制の下で出された肉食禁断令は平安時代まで繰り返し発令され,狩猟・漁撈にマイナスのイメージを与える「殺生観」が形成されるようになる。鎌倉時代に入ると,肉食に対する禁忌も定着してくる。しかし,現実には狩猟・漁撈は広範囲に行われており,肉食も一般的に行われていた。そこで,狩猟・漁撈者や肉食に対する精神的な救済が問題となってくる。仏教や神道の世界でも,民衆に基盤を求めようとすれば,殺生や肉食を許容しなければならなくなった。ところが,室町時代になると,狩猟・漁撈活動が衰退し肉食が衰退していくという現象が見られる。室町時代には,殺生や肉食に対する禁忌意識が,次第に社会に浸透していったように思われる。一方,農耕のための動物供犠は中世・近世・近代まで続けられていた。肉食のための殺生は禁じられるが,農耕のための殺生は大義名分があるということになる。日本の社会には,狩猟・漁撈には厳しく,農耕には寛容な殺生観が無意識のうちに根付いていたのである。
著者
伊庭 功
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.351-362, 1999-03-31

滋賀県大津市域の琵琶湖底に所在する粟津湖底遺跡は,縄文時代早期初頭から中期前葉を中心とする時期に営まれ,琵琶湖においては数少ない大規模な貝塚を伴う遺跡である。1990~1991年に航路浚渫工事に伴って実施された湖底の発掘調査では,中期前葉の第3貝塚が新たに発見された。ここには貝殻や魚類・哺乳類の骨片とともに,イチイガシ・トチノキ・ヒシの殻が良好な状態で保存されていて,当時の動物質食料・植物質食料の両方を同時に明らかにした。これらをもとに,種類ごとの出土量を栄養価に換算して食料として比較を試みたところ,堅果類,特にトチノキが大きな比率を占めていることがわかり,従来から行われてきた推定を具体的に証明することができた。また,同じ調査区で早期初頭の地層からクリの殻の集積層も検出され,中期前葉とは異なる種類の堅果類が利用されていたことがわかった。この相違は早期初頭と中期前葉の気候および植生の相違によるものと推定される。また,第3貝塚から,日本列島において約50万年前に絶滅したと考えられてきたコイ科魚類の咽頭歯が発見され,この魚類が絶滅したのが約4,500年前以降であったことを示し,その絶滅には人の活動が大きく関わっていたことが推測された。このように,粟津湖底遺跡の調査は人の生業について具体的な事実を明らかにしたばかりでなく,それと環境変化との関わりをうかがわせる資料も提供した。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.291-302, 2011-11

本稿は耳をめぐるさまざまな民俗を取り上げて、身体的な感覚がどのように表出しているかについて考察を加えるものである。ここではまず、耳塞ぎの呪法を取り上げた。これは同年齢の死者が出た際にそれを聞かないように一定の作法を耳に施す呪術である。従来は同齢感覚を示すものと捉えられてきたが、改めて考えると日常とは異なる状態を耳に食物をあてることで表現する民俗であり、そこには呪術の受け皿としての耳の性格を見いだすことができる。次いで、耳に関する説話として「聴耳」、「鮭の大助」を検討した。「聴耳」は人間以外の動植物の声を意味あるものとして聞くことが可能であるという認識の上に成り立っている説話で中世以降、陰陽道とも結びついて民俗的に展開している。「鮭の大助」は特定の日に川を遡上してくる鮭の発する声を聞かないようにする習俗の説明譚である。これは鮭の声を意識してはいるものの聞かないことに重点がある。こうした説話の分析からは、耳が自然界の音と対峙するシンボルであることが浮かび上がってくる。さらに、耳に関する年中行事や俗信についても分析を加えた。耳鐘や盆行事における「地獄の釜の蓋」の伝承、カンカン地蔵、大黒の耳あけ、耳なしの琵琶法師、耳塚などの伝承を検討した。ここからは特定の条件のもとで、耳や音が神霊や怪異の世界とのつながりを持つことが、明らかとなった。耳は聴覚器官であることはいうまでもないが、民俗事象に表れる耳のイメージは聴覚だけではなく、耳のかたちとその変形を通して表出している。今後は聴覚のシンボルとしての耳だけではなく、視覚に関しても留意し、総合的に身体感覚をとらえていくことを目指したい。This paper looks at various examples of folklore related to ears, and goes on to consider the ways in which bodily senses are expressed in folklore.I first consider the earplug charm, which is a magic practice by which people would insert something in their ears when a person of the same age died, so as "not to hear of it." This custom was previously interpreted as representing a sense of identity with people of the same age, but when you think about it, this is a folkloric custom whereby people put items of food in their ears to signify out of the ordinary circumstances. This practice suggests that ears were regarded as a receptacle for spells.I next look at two tales related to ears," Kikimimi" (聴耳) and" Osuke the Salmon" (鮭の大助) ." Kikimimi" is based on the belief that the voices of creatures other than people can be heard as intelligible sounds. It appears in Japanese folklore from the Middle Ages onwards, and is also linked with yin and yang beliefs. Osuke the Salmon is a tale for explaining the custom of avoiding hearing the voice of salmon climbing the river on specific dates. The emphasis in this tale is on knowing about the voice of the salmon but not listening to it. Analysis of these tales leads to the conclusion that the ear was seen as a symbol of the interface between man and the sounds of nature.I also analyze regular annual events and beliefs regarding ears, including folktales about ear bells, the lids of the pots in Hell in relation to the summer Bon festival, Kan Kan roadside deities, the ear piercing of Daikoku the God of Wealth, the earless Biwa priest, and ear mounds. Analysis shows that under certain conditions, ears or sounds are thought to be able to serve as links to spirits or the supernatural world.It goes without saying that ears are organs for hearing, but the image of ears that emerges from Japanese folklore is concerned not only with hearing, but also with the shape and changes in shape of ears. Looking ahead, I want to consider ears not only as symbols of hearing, but also pay attention to visual aspects, and attempt an integrated approach to bodily senses.
著者
福井 敏隆
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.75-90, 2004-02

本稿は幕末期に弘前藩において種痘がどのように受容されたかということと、幕末期に行われた医学制度の改革である医学館の創立を、蘭学の受容や種痘の実施と絡めて考察したものである。弘前藩領における本格的な蘭学の受容は文化年間以降に始まるものと思われるが、その際重要な人物は、芝蘭堂に学んだ福野田村(現北津軽郡板柳町福野田)の在村医高屋東助である。彼は寛政四年(一七九二)五月五日に入門が許されており、今のところどのような経緯で入門ができたのか全く不明な人物である。東助はのち郷里に帰って地域医療に従事し、ここに在村医による蘭学の導入がみられた。芝蘭堂にはその後文化十年(一八一一)に藩医の三上隆圭が学んでおり、藩医でも蘭学を志す者が出てくる。このように蘭学を志す者が多くなっていったが、その成果の一例として種痘の受容に焦点をあてて考察してみた。弘前藩領においては嘉永五年(一八五二)四月に秋田の医者板垣利齋が木造(現西津軽郡木造町)あたりで三十人程に種痘を実施したのが種痘実施の最初の様である。この利齋の動きに刺激されたためか、弘前藩医の中でも種痘を実施しようという動きがでてくる。その中心が藩医唐牛昌運とその弟昌考である。しかし、残念ながら弘前藩においては積極的な種痘の導入は図られなかった。唐牛兄弟の種痘はうまくいかなかったが、ある程度種痘を成功させ、普及していったのは幕末期に弘前藩の蘭方医として活躍した佐々木元俊である。元俊は自身が多くの人々に種痘を実施した他、当時創設されていた医学館に種痘館を併設させ、そこで弘前領内の医師に種痘技術を伝授する方法をとった。この元俊の活動を理解しバックアップしてくれたのが、医学館を創設し、医学制度の改革を積極的に実施した医学館頭取北岡太淳であった。
著者
荒川 章二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.213-242, 2019-03-29

1968~69年における日本大学学生運動は,全国学生総数が約100万人と言われたこの時代に,学内学生3万人の参加という空前絶後の対理事会大衆団交を実現し,東京大学全共闘運動とともに当該時期の全共闘型学生運動の双璧に位置付けられている。本稿は,日大全共闘運動の組織論・運動論の特質を考察した拙稿「「1968年」大学闘争が問うたもの―日大闘争の事例に即して」の続編であり,日大闘争の展開過程を基本的な事実,諸資料から確定するという課題を継続している。前稿は,日大全共闘が,大衆団交という場において勝利できる展望を有していた時期までを対象とした。本稿では1968年9月30日「9.30 団交」への過程を再検討したうえで,日大闘争の戦術を象徴する各学部・各校舎のバリケードが一斉に解除・強制撤去される69年2月~3月までの基本的な経緯を示しながら,日大全共闘の組織と運動の時期的変化を検討する。具体的には,第1節で9月初めのバリケード撤去の強制執行をめぐる攻防を契機として,全共闘への求心力が高まり,6月以来要望し続けてきた大衆団交実施の意義がさらに掘り下げられていく過程,第2節は,大衆団交と政府の政治的介入を経て,各組織レベルでいかなる総括が行われ,他方で運動面ではどのような模索が行われたのか,さらに教員層や親たちの動き,警察権や司法権関与の変化,卒業・疎開授業強行問題,東大闘争との連携など10月~12月期の動向を多面的に追求し,第3節で,年明け以降3月までのバリケード闘争の終焉までの過程とその後の闘争継続の要因を指摘する。日大闘争の全過程を対象とした唯一の研究として,日本大学新聞研究会『日大紛争の真相―民主化闘争への歩み―』などに依拠した小熊英二『1968【上】』第9章「日大闘争」がある。本稿は,新たに利用が可能となった当事者の一次資料を中心に分析した。
著者
佐藤 宏之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.75-86, 2014-01-31

元和四年(一六一八)四月九日、幕府は大名改易後の居城の収公にさいし、城付武具はそのまま城に残し置くこととの方針を定めた。さらに、軍事目的のために備蓄した城米も引き継ぎの一環として、備蓄の有無と備蓄方針の確認を求めた。本稿は、国立歴史民俗博物館所蔵の石見亀井家文書のなかにある、元和三年の津和野城受け取りに関する史料を素材に、城受け取りのさいに引き継ぎの対象となる財(モノ)に着目する。城受け取りのさいには、城内諸道具の目録が作成され、それに基づいて引き継ぎが行われる。その目録化の過程において、武家の財は公有の財と私財とに峻別される。公有の財とは城付の武具・道具や城米であり、大名自身の私有物ではなく、幕府から与えられたモノといえる。すなわち、その帰属権が最終的に将軍に収斂していくものである。一方、私財とは大名や家臣の武具・家財や雑道具などであり、その処分は個々人の裁量に任せられたモノといえる。こうした動向の契機となったのが、天正一八年四月二九日に真田昌幸宛てに出した豊臣秀吉の朱印状ではないかという仮説を提示する。秀吉は、降伏した城々は兵粮・鉄砲・玉薬・武具を備えたままで受け取るという戦闘力を具備した城郭の接収確保を指示し、接収直後に破城とするのではなく、無抵抗で明け渡す城の力(兵粮・鉄砲・玉薬・武具)を温存した。秀吉は、その後の奥羽仕置を貫徹するなかで、諸国の城々は秀吉の城という実態と観念を形成していったのである。こうした城付の武具や城米を目録化することによって把握することは、城の力を把握することでもあった。したがって、近世の城の構成要素は、城付の武具と城米であったということができよう。このような城付の武具と城米を把握・管理した江戸幕府は、国家権力を各大名に分有させ、それを背景とした統治業務の分業化を行いつつも、幕府の国家的支配の体系のなかに編成していったと考えられる。
著者
濱上 知樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.220, pp.47-75, 2020-03

本研究では,デジタルアーカイブ画像のメタデータを生成し類似画像検索などに役立てることを目的にしている。一般物体認識でよく用いられている画像のヒストグラム表現手法,Bag-of-Features[4]ではSIFT [2] [3]に代表される画素の濃淡分布をもとに算出された特徴点および局所特徴量が用いられるが,その一方で一般物体認識の分野でDeep Learningを用いた技術[6]が注目を集めている。Deep Learning手法では,画像全体を入力し,画像中に存在する主となる物体を認識させることが一般的となっており,画像中の様々な局所的な情報が欠落してしまっていた。そこで本研究では画像をセグメントに分割し,各セグメントからDeep Learningを用いた特徴抽出を行い,クラスタリングによって分類された各セグメントのクラスタ情報を局所特徴としたBag-of-Featuresを行い,ヒストグラム表現とすることで画像に存在する意味情報を反映したメタデータ生成を提案する。また,ヒストグラム間の比較にはクラスタ間の類似関係を反映した距離計算を行うことでクラスタ数が細かすぎる際に,似ている画像が類似画像として判定できない問題を解決した。実験では,デジタルアーカイブとして小袖屛風画像[9]を用いてヒストグラム間の比較を行うことでDeep Learning[7]を用いてBag-of-Featuresの応用を行うことの有効性,さらにクラスタ間の距離関係を反映した距離計算を行うことの有効性を示した。
著者
森 公章
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.119-179, 2001-03-30

本稿は「額田寺伽藍並条里図」に描かれている額田寺と関係すると思われる額田部氏について、畿内の中小豪族の歴史とその存在形態を明らかにするという視点から考察を試みたものである。額田部氏はこの図に描かれている額田部丘陵を五世紀以来の本拠とし、六世紀頃に飼馬を以てヤマト王権に仕え、また額田部皇女の宮の運営・資養を担当する額田部の管理者として登場する。額田部皇女が推古天皇として即位するとともに、額田部氏も惰使の郊労など中央の職務分担に与り、飼馬の技術を生かした役割を果たしたりするが、基本的にはヤマト王権を構成する中小豪族として定着している。律令制下においても、中央の中下級官人や王臣家に仕えるなど、中央での地位は変化していない。と同時に、額田部氏は本拠地にも勢力を残し、大和国平群郡の譜第郡領氏族としての活動も有する。即ち、中央下級官人と在地での郡領の地位維持という二面性を保持していたと理解されるのである。この在地豪族としての額田部氏の経済基盤となったのが、額田寺の存在とその寺領であった。畿外の郡領氏族とは異なって、在地豪族としての力が弱い畿内の郡司氏族にとっては、寺院は精神面だけではなく、経営の一大拠点となり、この地域における額田部氏の勢力の存続を支えたものと思われる。以上のような額田部氏のあり方の一般化を求めて、畿内の郡司氏族全般についても検討し、畿内郡司氏族は畿内の中小豪族として名代の管理者や職業部民の管理者などとしてヤマト王権の実務を支え、律令制下においても中下級官人として国家の日常業務を担う存在であり、同時に郡司として在地での勢威も保持しており、中下級官人と在地豪族の二面性を備えた存在であったことを確認した。この二つの側面は畿内の郡司氏族にとってともに重視すべき要素であり、両立を以てこそ畿内中小豪族たる彼らの存立基盤を確保することができたのである。
著者
小島 美子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.371-384, 1993-02-26

日本音楽の起源を論じる場合に,他分野では深い関係が指摘されているツングース系諸民族についてその音楽を検討してみなければならない。しかしこれまではモンゴルの音楽についての情報は比較的多かったが,ツングース系諸民族の音楽については,情報がきわめて乏しかった。そのため私は満族文化研究会の共同研究「満族文化の基礎的資料に関する緊急調査研究―とくに民俗学と歴史学の領域において―」(トヨタ財団の研究助成による)に加わり,1990年2月に満族の音楽について調査を行った。本稿はその調査の成果に基づく研究報告である。この調査では調査地が北京に限定されていたため,満族とエヴェンキ族の音楽について多少の情報を集めることができたに過ぎず,とりあえずこの2つの民族の音楽に,参考資料として一部モンゴルの音楽の情報を加えて報告する。まず満族の音楽については,主としてビデオ資料によってシャマンの音楽を調査した。ツングースの文化にとってはシャマニズムは,きわめて重要な位置を占める。シャマンが用いる1枚皮の太鼓,ベルトなどにつけている多くの鈴などは,他のツングース系諸民族のシャマンと共通しており,また日本の少数民族であるアイヌ・ギリヤーク・オロッコのシャマンとも共通である。そしてこれは日本古代の有力なシャマンや朝鮮韓国の現在につながるシャマンとは明らかに別系である。また満族シャマンの歌は,テトラコード支配の強い民謡音階によっており,日本と共通するところが多い。エヴェンキ族の民謡について,現段階ではもっとも信頼のおける民謡集で調べたところ,エヴェンキ民謡は,モンゴル民謡と同じく拍節的タイプと無拍のタイプに分かれるが,後者は15%程度で意外に少ない。前者も2拍子系の曲と3拍子系の曲,変拍子や途中で拍子の変わるものが,それぞれ大体25%程度を占めており,韓国朝鮮の民謡のリズムに近い。また音階は民謡音階と律音階と呂音階にほぼ3等分されるが,テトラコードの支配はそれほど強くなく,むしろモンゴル民謡の方が日本民謡に近い。またメロディの装飾的な動きは,エヴェンキ族の民謡の方が日本民謡に近い。
著者
樋浦 郷子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.219, pp.1-20, 2020-03-27

本稿は植民地期台湾の一地域にとって「御真影」がいかなる役割を担ったのかということを,学校沿革誌,郡誌,当該時期の戸口統計等の資料を手がかりに検討したものである。第一に,台湾における御真影は,朝鮮への下付と異なり,戦闘状況下の日本軍の展開に合わせて開始された。1920年代以降学校への下付は中等教育機関から広まりだしたものの,公学校(台湾人初等教育機関)へはほとんど下付されなかった。第二に,新化尋常小学校は,「御真影奉護」の人員確保を考えれば,教員数の減少は避けねばならかったが,1930年代には新化街の日本人人口が減少していた。学級編成および教員の数を確保できたのは,台湾人児童の尋常小学校在籍数に支えられたことが推定される。第三に,新化尋常小学校への御真影下付が同校だけにとどまらず,新化公学校と農業補習学校児童生徒に対する一定の役割も担った。その人数を見れば天皇・皇后写真による「教育」の対象は台湾人児童が圧倒的多数である。御真影を下付されていない学校の児童生徒に対して,「紀元節」「四方拝」(一月一日)などの学校儀式のあと尋常小学校まで移動して拝礼を実施する,奉護燈設置の寄付金を拠出させるなどの要求がなされた。一方では学校として御真影下付校に選ばれないという構造的な劣位への配置と同時に,他方で天皇崇敬教育のために御真影およびその奉護設備を利用した「教育」には巻き込まれたことを具体的な事象をもって示した。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.7-34[含 英語文要旨], 2008-12

本論文ではまず国立歴史民俗博物館『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』(全四冊、二〇〇三・二〇〇四年)のデータから、戦没兵士に対して、生還した帰還兵士の場合と、戦没兵士の遺族の場合との両者において、それぞれどのように彼らの死が受け止められているのか、その対応についての分析を行った。両者共に「体験した人にしかわからない」という語りの閉鎖性が特徴的であった。そこで、戦争と死の記憶と語りの特徴をより広い視点から捉えなおす試みとして、日本における戦没兵士や広島の原爆被災者に関する語りを含めて、さらにフランスの、ナチスによる住民虐殺が行われた二つの町の追悼儀礼の事例調査を行い、日本とフランスとの差異についての考察を試みた。論点は以下の三点にまとめられる。第一に、戦争体験の記憶には大別して、「死者の記憶」と「事件の記憶」の二つのタイプがある。死者の記憶の場合には、戦闘員個々人に対して追悼、慰霊の儀礼が行われる。それに対して事件の記憶の場合には、一つは非戦闘員の大量死である悲惨な虐殺、もう一つは戦闘員の激戦と勝利または敗北、があるが、前者の悲惨な虐殺の場合、たとえばそれはフランスのグエヌゥの虐殺やオラドゥール・スール・グラヌの虐殺から日本のヒロシマ、ナガサキの原爆まで多様な事実があるが、その悲惨は戦争という「愚行」へと読み替えられる。そして、死者の記憶はいわば「個人化される」記憶であり、事件の記憶は「社会化される」記憶であるといえる。個人化される死者の記憶と表象は「死者」への追悼、慰霊の諸儀礼としてあらわれ、社会化される「事件」の記憶は、戦争と殺戮という「愚行」への反省と懺悔の意識化へ、また一方では戦勝の記念と顕彰の行事としてあらわれる。その個人化される記憶の場合には時間の経過とともに体験世代や関係者世代がいなくなれば、記憶の風化と喪失へと向かい、一方、社会化される事件の記憶の場合には世代交代を経ても記憶はさまざまな作用力が介在しながらも維持継承される。第二に、フランスのグエヌゥやオラドゥール・スール・グラヌの虐殺の場合には、死者への追悼とともに彼らのことを決して忘れないという「事実の記憶」を重視する儀礼的再現と追体験とが中心となっているのに対して、日本の場合は、「安らかに眠ってください」という集団的な「死者の記憶」が重視され、その冥福が祈られている。そこには、日本とフランスの自我観・霊魂観の相違が反映していると考えられる。第三に、フランスにおいても日本においても「戦争と死」の記憶の場として民俗的な伝統行事が有効に機能していることが指摘できる。フランス、グエヌゥでは、五月に行われるトロメニにおいてペングェレックという新しいスタシオンを組みこんでおり、広島と長崎の場合、八月の盆の月に原爆記念日が、そして一五日には終戦記念日が重なって、死者をまつる日となっている。This paper discusses a study of how the deaths of soldiers killed at war impacted on soldiers who survived the war and the families of those killed, which includes both soldiers killed in action and those who died from illnesses during the war. The study is based on data obtained from "Personal Experiences of War, 1931-1945: A Survey of Japanese Written and Oral Records" I-IV 2004 & 2005, published by the National Museum of Japanese History. A feature common to both returned soldiers and the families of the deceased was the exclusive nature of their narratives as represented by the comment "Only those who have experienced such death can understand." In an attempt to identify the characteristics of memories and narratives of war and death from a wider perspective, the study sought to illuminate the differences between their personal and social impacts. To this end, Japanese narratives included narratives about soldiers killed in action and victims of the atomic bomb dropped on Hiroshima, and a study was undertaken of memorial services held in two French villages, Gouesnou and Oradour-sur-Glane, where civilians were murdered by Nazi soldiers.Three themes emerged from the study. First, there are two general types of memories of war experiences, which are classified as "memories of the dead" and "memories of incidents." Memories of the dead take the form of mourning, and holding commemorative and memorial services for individual soldiers. In contrast, memories of incidents involve two aspects. One is the tragic mass slaughter of non-combatants and the second the bitter fighting and victory or defeat of combatants. Although with respect to the former aspect the circumstances surrounding the tragic killings vary from the slaughter of civilians in Gouesnou and Oradour-sur-Glane to the atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki, these tragedies reveal the "inanity" of war. Memories of the dead are memories that have a "personal" impact, while memories of incidents are memories that have an impact on "society." Memories of the dead with a personal impact are symbolized by the mourning of the "dead" and various memorial rites and services, while memories of "incidents" with a social impact take the form of reflection on the "inanity" of war and bloodshed and a feeling of confession, as well as events that commemorate and celebrate victory. Memories with a personal impact fade and are lost with the passage of time as the generations of those with personal experience and the generations of involved parties die out. Meanwhile, memories of incidents that have an impact on society are retained and continued despite the mediation of a variety of acting forces, even though there is generational change.Secondly, the two French cases comprise mainly of remembering the dead and a ceremonical reenactment and reliving that emphasizes "reaffirming the fact" so that the dead will never be forgotten.Thirdly, traditional popular rituals and events function effectively as the place of memories of "war and death" in both Japan and France. In addition to a commemoration ceremony held in Gouesnou, France on August 7, a new station called Penguérec has also been incorporated into the troménie held in May. In Japan, the dates of the anniversaries of the bombing of Hiroshima and Nagasaki and August 15 marking the end of the Pacific War all fall during the "o-bon" season, and so are days when the dead are honored. Rather than creating a momentum directed at "reaffirming the fact" of the inanity of war and the carnage caused by the atomic bombs, there is a strong momentum directed at collective commemoration that "remembers the dead" and asks for their peaceful repose. The hypothesis here is that the difference between the two is related to how each one views the self and the spirit.
著者
中牧 弘允
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.349-379, 1993-03-25

日本の会社は社葬や物故社員の追悼儀礼をおこなうだけでなく、会社自体の墓をもっているところがある。このような墓は会社墓とか企業墓とよばれ、高野山と比叡山におおくみられる。本稿は高野山の会社墓一〇三、比叡山の会社墓二三をとりあげ、その基礎的なデータを提出するとともに、今後の課題を提示することを主な目的としている。会社墓には創業者の墓や物故従業員の供養塔がたてられている。本稿では、とくに物故従業員の供養塔に焦点をあて、その歴史をあとづけるとともに、名称や形態の分析をこころみている。さらに、関西に集中する会社や組合の地域的ひろがりや、その業種にも言及している。会社供養塔には建立誌が付随することがおおい。そうした建立誌を対象に、その趣旨を七項目に分類し、分析をおこなっている。その項目とは、①建立の契機、②会社発展(先人)に対する感謝、③先人の霊供養、④会社発展に対する祈願、⑤安全祈願、⑥顧客への感謝、⑦高野山や比叡山の賛美である。会社供養塔にかかわる物故者追悼儀礼については、コクヨと千代田生命の事例をとりあげ、若干の比較をこころみている。
著者
松崎 憲三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.141-168, 1988-03-30

Traditionally, folklorists have had a marked tendency to choose depopulated areas as their favorite field, because it was these remote places that seemed most likely to maintain folkways permitting them an efficient investigation. They never tried, however, to study seriously the problem of depopulation itself. In natural consequence, it has been rare for them to try methodological examinations, such as those aimed at discovering how to interpret depopulation and change in folkways.In accordance with these reflections, we tried to analyze the colony of Amagase in Nishihara Section, Kami-Kitayama Village, Yoshino District, Nara Prefecture. Three viewpoints, that are 1) the ecological viewpoint 2) the social viewpoint and 3) the religious view and consciousness structure, were defined as analysis indicators to be used in comprehension of the transformation of folkways.Nishihara is composed of five colonies of Amagase, Hiura, Izumi, Hosohara, Obara. The first two colonies are called ‟Amagase-gumi” (Amagase group), and the last three are called ‟Mikumi” (three groups). The Amagase and Mikumi groups were separated from each other by four kilometers, but the abolition, during the Meiji era, of the highway passing through the Amagase area left it abandoned far behind the main highway and urged some of inhabitants to move into the Mikumi area. The reparation works of the National 169 around 1970 made for a decisive urge to leave the Amagase area completely abandoned. Facilities for shopping and traffic communication as well as the human inclination for togetherness must have concentrated inhabitants' dwellings along the roads of Mikumi.However, even after they dispersed among the inhabitants of Mikumi, members of the Amagase group maintain their original unity performing their group duties in festivals or mutualaid association events and showing a greater attachment to the Kumi (group) than to the Daiji (section).In any case, it may be said that the Amagase group, in a way, overcame the danger of depopulation by moving to the Mikumi area and reorganizing their colonies. What made it possible was the their ownership of common forests and worship of a god as symbol of their unity. However, both the Amagase and Mikumi group show great attachment to the Kumi, and it is not so that the life of Nishihara area as a whole is reorganized. Depoputation of the Nishihara area as a whole is, as slow as it is, in progress. The area on the whole will face the need of some action in near future.
著者
松田 睦彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.171-185, 2018-03-30

小稿は,これまでおもに考古学的見地から進められてきた中世から近世にかけての花崗岩採掘技術や労働体制等の解明に,民俗学的手法によって寄与することを目指すものである。花崗岩採掘にかかわる知識や技術は,現在の職人にも保有されている。しかしながら,従来の研究は,それが十分に参照されないまま遺構や遺物の解釈が進められてきた傾向にある。そこで小稿では,現役の石材採掘職人から聞き取った花崗岩採掘の基本的な技術を提示するとともに,この石材採掘職人をともなって行なった小豆島の大坂城石垣石切丁場跡の調査で得られた職人の所感を紹介した。花崗岩採掘の基本的な技術については,①花崗岩の異方性,②キズの見きわめと対処,③石を割る位置,④矢の大きさと打ち込む間隔,⑤矢穴の形状,⑥矢穴の列と方向,の六点に整理して提示した。また,大坂城石垣石切丁場跡に対しては,割りたい石の大小等に関係なく,大きな矢穴が狭い間隔で掘られている点,矢穴底の短辺が長いことに合理性が見いだせない点,完成度の高い矢穴と低い矢穴が見られることから,熟練の職人と非熟練の労働者が混在していた点等が指摘された。現役の職人から得られたこれらの情報は,花崗岩採掘にともなう遺構や遺物の分析・解釈に資するものである。さらに,こうした試み自体が,民俗学と考古学との新たな協業関係を構築するものである。