著者
日比野 光敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.271-295, 2011-01-31

ドジョウは人間にとってたいへん身近な存在である。ドジョウというと子どもたちは,丸い頭と口のまわりのヒゲ,そして丸い尻尾を描くことであろう。大人にとっても,ドジョウすくいなどで親しみ深く扱われてきた。ドジョウ鍋やドジョウ汁,あるいは蒲焼きなどとしてドジョウを食べることも,全国各地で見られた。また,めずらしいと思われるかもしれないが,ドジョウをすしにすることもあった。そのいくつかは,まだ健在である。ところが,その多くは,じゅうぶんな記録もされぬままに,消えてなくなろうとしている。本稿はドジョウずしを取り上げ,これらの正確なレシピを書きとどめることを第一目標とする。筆者はこれまでに,ドジョウ(マドジョウ)のすしを長野県佐久市,愛知県豊山町,滋賀県栗東市,大阪府豊中市,兵庫県篠山市で調査した。また,シマドジョウやホトケドジョウのすしを栃木県宇都宮市で,アジメドジョウのすしを福井県大野市,岐阜県下呂市で調査した。その結果言えることは,ひと口に「ドジョウのすし」といっても,その作り方は一様ではない。それはすしの種類からみても,実に多くの形態に及んでいることがわかった。その上で,ドジョウずしが消えてゆく理由,さらにはドジョウが語るものを考えてみる。ドジョウはほかの淡水魚に比べ,特殊な存在である。体型は,われわれが食べ慣れているフナやモロコとは違って細長い。多くの大人たちが「魚は食べるもの」という情報は知っていても,その姿かたちはフナやモロコのように「魚の形」をしているものであって,ドジョウのように細長いものではない。それゆえ,食べることには,よくも悪くも,抵抗感がある。加えて,子どもたちはドジョウを可愛らしく描く。保育園や学校では,日記をつけて観察させることもある。そんな「可愛い動物」を,なぜ食べなければならないか。ドジョウを食べることは,罪悪感まで生み出してしまう。かつては,自然に存在するものすべてが,われわれの「餌」であった。ドジョウだって同じである。ゆえに,自然に対して感謝したり恐れおののいたりする崇拝まで生まれた。だが,現在はどうか。自然に対する畏敬の念が,子どものみならず大人でさえも,なくなってしまった。結果,ドジョウは「可愛いもの」,もしくは逆に「普通の魚とは違う,異様な魚」となり,少なくとも「食べる存在」ではなくなってしまったのではあるまいか。ドジョウずしが消えてしまった原因は,あくまでも人間が作り出したものである。ドジョウは,静かにこのことを物語っているのではないだろうか。
著者
坂井 久能
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.315-374, 2008-12

旧軍が軍用地または艦艇内に設けた神社を、営内神社・校内神社・艦内神社などと称した(以下、営内神社等と総称する)。営内神社等は、今まで殆ど顧みられず、研究もされてこなかった。それは何故なのか、という記録と記憶の問題ととともに、収集したデータから営内神社等とは何なのかという基本的・概略的な大枠を捉えようとしたものである。営内神社等は、法令上は神祠として扱われ、広義には軍施設内に設けられた神祠と定義することができる。稲荷神などを祀る事例が初期に散見することから、邸内神祠・屋敷神の性格を持つもので、艦内神社の船霊がそれに相当するであろう。しかし、やがてこの稲荷祠を天照大神などを祀る神祠に変えた事例が示すように、いわゆる国家神道下に天照大神や靖國神社祭神、軍神や殉職者などを祀る神祠に大きく変貌を見せるようになり、このような神祠が昭和に入ると盛んに創建された。後者を狭義の営内神社等とみることができる。その性格は多様である。戦死病歿者を祀った場合は、靖国神社・護國神社と共通する招魂社的性格をもちながらも、特に顕彰において役割の違いがあったと思われる。殉職者を祀った場合は、靖國神社と異なる招魂社的性格をもったものといえよう。神祇を祀り武運長久等を祈る守護神的な性格、敬神崇祖の精神を涵養し、神明に誓い人格を陶冶するいう精神教育の機能なども見られた。招魂社的な神祠も、慰霊・顕彰とともに、尽忠報国を誓う精神教育の役割を備えていた。また、営内神社等は近代の創建神社の範疇に入るべき性格や、海外の駐屯地に営内神社を遷座・創祀したことからは、海外神社に含めるべき性格ももっている。このように多様な性格を持つ営内神社は、軍が管理した神社として、近代の戦争と宗教を理解する上で極めて重要な神社であるといえる。今や数少なくなった軍の経験者の記憶の中から、また僅かに残された資料から、営内神社等とは何なのかを探る。Shrines built on military land and naval vessels by the former Japanese military went by several names in Japanese, including "einai jinja", "konai jinja" and "teinai jinja". Deities and those who died or were wounded in war were worshipped in these shrines, which, according to law, should have been called "jingi". This paper explores why the military built these shrines, how they functioned and how they met their end. It also attempts to uncover the significance of the construction of shrines dedicated to the war dead in the context of "shokonsha", "gokoku shrine", "Yasukuni Shrine" and "cenotaphs (chukon-hi)" which were shrines dedicated to the souls of those who lost their lives for their country, and various other memorials. Virtually no records survive of these military shrines, nor is there much history of research on this subject. Today, most have faded into oblivion leaving no trace, with but a few skeletons remaining. As a result, these military shrines and the war and military life seen through them remain solely in the memories of the dwindling number of those who were in the military. It is through these few records and oral histories that this paper explores the significance of the existence of these shrines.
著者
山本 光正
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.36, pp.p239-254, 1991-11

近世における関所の研究は,当然のことながら,幕府諸政策との関連で把えられている。大名統制や入鉄砲に出女に代表されるように,研究の大きな課題の一つは関所設置の目的や意義にある。こうした関所研究の傾向からみると,一般庶民男子の通行はその研究の中で占める位置は極めて小さなものである。一方庶民の旅という観点からみると,庶民男子の通行には,幕府の定めた通過方法とはかなり異なる点がみられる。庶民男子が旅をする場合,往来手形を持参し,手形の改めを受けるだけで関所を通行することができた。もしも手形を持参しない場合でも,取り調べの結果不審な点がなければ通行を許されていたことになっている。ところが旅日記をみると,しばしば関所――主に箱根関所――に手形を「提出」している記事がみられる。提出しているのは往来手形とは別のもののようである。このことを裏付けるように,やはり旅日記には旅の途中で手形を作成・発行してもらっている記述がよくみられる。特に多いのが江戸の旅宿である。東国の人々の多くは伊勢参宮の際江戸に入り,1~2泊して伊勢に向かうが,その際旅宿で手形の発行をしてもらっている。右のような関所手形についての幕府,関所側の記録は極めて少ないようである。このような関所手形について,かろうじて『箱根御関所日記書抜』に途中手形という名称で記されている。その内容も旅の途中での手形発行を禁じたものである。このような手形が自然発生的に成立したとはとても考えられない。恐らく何らかの理由により一時的にとった処置が,途中手形に姿を変え尾を引きずり,これを旅籠屋が利用したのであろう。いずれにせよ庶民男子が関所を通過する時,旅の途中で発行してもらった手形を関所に提出したことは事実として認めざるを得ない。The study of the barrier stations in the Early Modern Period has been, as a matter of course, understood in its relationship to the policies of the Tokugawa Shogunate, as typically seen in the control of the Daimyo (feudal lords), the bringing in of weapons, and women coming out (from Edo, where wives of Daimyo were kept hostage), one of the important subjects of studies lies in the significance of the establishment of barrier stations.Considering this leaning in the study of the barrier stations, passage by men of the common class receives little attention.On the other hand, from the viewpoint of the common people, the passage of barrier stations by men of the common class was considerally different from the manner stipulated by the Shogunate. When a man of common class went on a trip, he carried a traffic bill called "Orai-Tegata", and could pass barriers only on being checked for the bill. Even if he did not possess a bill, if he was not doubted in an interrogation, he would have been permitted to pass the barrier station.When reading travel diaries, however, I often find passages referring to the "filing" of a bill to a barrier station―mostly to that at Hakone. It seems to have been something different from the ordinary traffic bill. In support of these passages, other passages in travel diaries include descriptions of the preparation and issuance of bills during the course of a journey. This was most frequent in travellers' lodges in Edo.People in eastern Japan, on their way to the Ise Shrine, entered Edo and stayed there one or two days before continuing their journey again. At that time, they had the bill issued at their lodge.It seems these bills for passing the station were rarely described in the records of the Shogunate or barrier station. They are mentioned only as "Tochu-Tegata" (part-way bill) in a document called "Extract of Hakone Station Daily Report". The content of this document was a prohibition of the issuance of this type of bill in the course of a journey.It is unbelievable that such a bill came into being spontaneously. It is probable that a temporary measure, which had been taken for some reason, survived in the form of Tochu Tegata.In any case, it was an obvious fact that men of the common class filed a bill which was issued in the course of their trip, in order to pass a barrier station.
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.73-86, 1995-01-20

縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。まず第1に,縄文時代の家畜はイヌだけであり,そのイヌは狩猟用であった。弥生時代では,イヌの他にブタとニワトリを飼育していた。イヌは,狩猟用だけではなく,食用にされた。そのため,縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されなかった。第2に,動物儀礼に関しては,縄文時代では動物を儀礼的に取り扱った例が少ないことである。それに対して弥生時代は,農耕儀礼の一部にブタを用いており,ブタを食べるだけではなく,犠牲獣として利用したことである。ブタは,すべて儀礼的に取り扱われたわけではないが,下顎骨の枝部に穴を開けられたものが多く出土しており,その穴に木の棒が通された状態で出土した例もある。縄文時代のイノシシでは,下顎骨に穴を開けられたものは全くなく,この骨の取り扱い方法は弥生時代に新たに始まったものである。第3に,縄文時代では,イノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶はない。シカとイノシシは,縄文時代の主要な狩猟獣であり,ほぼ同程度に捕獲されている。それにも関わらず,土偶の出土状況には大きな差異が見られる。弥生時代になると,土偶そのものもなくなるためかもしれないが,イノシシ土偶はなくなる。土器や銅鐸に描かれる図では,シカが多くなりイノシシは少ない。このように,造形品や図柄に関しても,縄文時代と弥生時代はかなり異なっている。以上,3つの点で縄文時代と弥生時代の動物に対する扱い方の違いを見てきた。これらの違いを見ると,縄文時代と弥生時代は動物観だけではなく,考え方全体の価値観が違うのではないかと推測される。これは,狩猟・漁撈・採集から農耕へという変化だけではなく,社会全体の大きな変化を示していると言える。弥生時代は,縄文時代とは全く異なった価値観をもった農耕民が,朝鮮半島から多量に渡来した結果成立した社会であったと言える。
著者
富田 正弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.192, pp.129-170, 2014-12

早川庄八『宣旨試論』の概要を章毎に紹介しながら少し立ち入って検討を加え,その結果に基づいて,主として早川が論じている宣旨の体系論と奉書論に対して,いくつかの感想めいた批判をおこなってみた。早川の宣旨論は,9・10世紀における諸々の宣旨を掘り起こし,その全体を誰から誰に伝えられたかという機能に即して整理をおこない,その体系化を図ろうとしたものである。上宣については,「下外記宣旨」・「下弁官宣旨」・「下諸司宣旨」に及び,上宣でないものについては,「検非違使の奉ずる宣旨」,「一司内宣旨」,「蔵人方宣旨」まで視野に入れて,漏れなく説明し尽くしている。ここに漏れているものは,11世紀以降にあらわれる地方官司における国司庁宣や大府宣,官司以外の家組織ともいうべき機関における院宣・令旨・教旨・長者宣などであり,9・10世紀を守備範囲とする『宣旨試論』にこれらを欠く非を咎めだてをすることはできない。強いて早川の宣旨体系論の綻びの糸を探し出そうとするならば,唯一天皇の勅宣を職事が奉じて書く口宣と呼ばれる宣旨について論及していない点である。それほどに,早川の宣旨論は完璧に近い。つぎに早川は,宣旨とその施行文書との関係を論じ,奈良時代に遡って宣旨を受けて奉宣・承宣する施行文書に奉書・御教書の機能を発見する。そのうえで,従来の古文書学が,宣旨や奉書・御教書を公家様文書として平安時代に誕生したと説く点を厳しく批判する。早川が説くように宣旨の起源も,奉書・御教書の機能をもつ文書の起源も,8世紀に遡るという指摘は傾聴に値する。しかし,宣旨を施行する公式様文書が全て奉書・御教書の機能をもつという点には疑問がある。上宣を受けて出される官宣旨は奉書としての機能をもつとしても,上宣を受けて出される官符は差出所である太政官に上卿自身が含まれているわけであるから,奉書的な機能はないというべきである。また,従来の古文書学で奉書・御教書が平安時代に多く用いられる意義を強調するのは,奉書的機能に関わって論じられているのではなく,奉書・御教書が書札様文書・私文書であることに意義を見出して論じられているのである。したがって,早川の批判にも拘わらず,従来の古文書学における公家様文書という分類はなお有効性をもっている。もちろん,これによっても,早川の宣旨論は,古代古文書学におけてその重要性がいささかも色褪せるものではない。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.245-275, 2015-03

本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。This article reviews and briefly examines the history of research on the three books of Baekje: Kudara Honki (Original Records of Baekje) , Kudara Ki (Records of Baekje) , and Kudara Shinsen (the New Selection of Baekje) . Taking various arguments into consideration, this article indicates that the three books consisted of old and new elements because they were born out of a dilemma; they were based on the original books written from the self-centered viewpoint of Baekje but edited by Baekje exiles as historical materials for the compilation of Nihon Shoki ( the Chronicles of Japan) in a favorable manner for Japan in the beginning of the eighth century. The editors of Nihon Shoki altered the times of events by modifying the Chinese zodiac calendar when using Kudara Ki to write a legend of the origin of Japan; however, as typically represented by inconsistency of the name of Japan, such as called "Kikoku" in Kudara Ki, " (Oh-) yamato" in Kudara Shinsen, and "Nihon" in Kudara Honki, it is considered that in principle, the quotations in the notes of Nihon Shoki from the three books were hardly embellished. All of the three books were history books dated with imperial era names and the Chinese zodiac calendar system and were aimed to delineate the background of the family and profession of each Baekje clan surviving after the fall of their dynasty. In Kudara Ki, the ideal of King Song Myong period, in the sixth century, described by Kudara Honki was mirrored in the King Chogo period, and historical legitimacy was explained to Japan from the viewpoint of Baekje with an eye on its northern enemy, Goguryeo. At first, Kudara Honki was written to describe the history of the dynastic ancestors of the Kudara-no-Konikishi clan exiled from Baekje. Then, Kudara Ki was created for the purpose of providing historical legitimacy to the domination of Mimana, as well as depicting exchanges between Baekje and Wakoku (Japan) . Last, Kudara Shinsen was compiled to summarize the common perspective of numerous Baekje clans who claimed the collateral descent of the Baekje Dynasty by detailing the eras from ⑦ King Biyu to ⑪ King Muryeong, whose lineage had not been clear. Though the three books were edited one by one, they were systematically compiled for the same purpose. Inconsistencies in expression among the three books were corrected from the viewpoint of compatibility with Nihon Shoki by using terms to describe the diplomatic relationships at the times of events more clearly. In particular, the word "Kikoku" was used to describe the relationship between Baekje and Wakoku not as a tributary or completely equal relationship but as the "third slantedrelationship."Our former article indicated that a variety of groups fighting against Baekje were collectively called as the "Japanese Mimana Government" and argued that Nihon Shoki had incorporated the perspective of Baekje that was inconsistent with that of the editors of the chronicle. This is considered because the perspective regarding the Japanese Mimana Government was affected by the insistence derived from the original materials of Kudara Honki, which was compiled from the self-centered viewpoint of Baekje.
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.137-166, 2011-11

死者儀礼においては,人の存在様態の変化により,その身体の状況と取扱い方に大きな変化がおきてくる。身体を超えて死者が表象される一方,身体性を帯びた物質が儀礼などの場でたびたび登場するなど,身体と人格の関係を考える上でも死はさまざまな課題を抱えている。葬儀では身体性を帯びた遺骨だけでなく,遺影もまた重要な表象として,現在ではなくてはならないものとなっている。なかでもいわゆる無宗教葬においては,遺影のみの儀礼も多く,そこでは最も重要な死者表象となって亡き人を偲び,死者を礼拝するための存在となっている。ところで遺影として使用された写真は,生前のある時点の一断面でありながら,一方で死者の存在そのものを想起させるものである。しかしこうしたまなざしは,写真が人々の間で使用されるようになった当初からあったのであろうか。本稿では追悼のための葬儀記録として作られた葬儀写真集の肖像写真の取り扱われ方の変化を通して,遺影に対するまなざしの変化を検討した。そこでは写真集が作られ始めた明治期から,巻頭に故人の肖像が用いられるが,撮影時に関するキャプションが入れられている。しかし明治末期から大正期にになると次第に撮影時に関する情報がキャプションに入らなくなり,さらに黒枠等を利用して葬儀写真との連続性が見られなくなっていく。つまり当初,撮影時のキャプションを入れることで,生から死への過程を表現するものとして,肖像は位置付けられていた。これはプロセスを意識する葬列絵巻とも相通じるものであった。しかし後になると,撮影時に関する情報を入れないことで時間性を取り除いたかたちで使用され,肖像は死者を総体的に表象するものとして位置付けられるようになったのである。こうして写真が生の一断面でありながら死者として見なす視線が次第に醸成されていったことがわかる。In death rites, the circumstances of the body and the way it is handled change dramatically according to changes in mode of human existence. Death poses all sorts of questions with respect to the relationship between body and personality, with the deceased, for example, being represented in non-bodily form, but materials connected with the body making repeated appearances in rites and other situations.Along with the bones of the deceased, which are connected to his or her corporeality, the portrait of the deceased is a very important representation and an indispensable component of death rites in the present day. Funeral rites focused solely on the portrait of the deceased are common in so-called non-religious funerals. In such funerals the portrait becomes the most important representation of the deceased, serving as a means whereby the deceased is remembered and last respects paid. While the photograph used for the portrait of the deceased depicts just one moment in the person's former life, it brings to mind the entire existence of the deceased. However, it is questionable whether such photos of deceased persons performed this role when they were first used as portraits. In this paper, I look at changes in the way portraits of the deceased are viewed by examining changes in the way portrait photos have been used in funeral albums created as records of the funeral for remembrance purposes.Portrait photographs of the deceased have been used on the opening page of funeral albums since they started to be made during the Meiji period, but in the earliest albums, the portrait photos are accompanied by captions related to the time when the photograph was taken. However from the end of the Meiji period and on into the Taisho period, such captions provided increasingly sparse information about when the photo was taken, until photos eventually came to be merely framed in a black border or some other kind of embellishment, losing all continuity with the photos of the funeral. In other words, at the start portrait photos accompanied by captions about when the photo was taken were used to express passage from life to death. They thus showed similarities with funeral procession picture scrolls, which also depicted such passage. However, by removing information on when the photo was taken, portrait photos came to represent the deceased as a whole, stripped of any temporal element. As a result, people came to perceive funeral portrait photos as the deceased themselves rather than just a depiction of a single moment in former life.
著者
真野 純子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.161, pp.89-150, 2011-03-15

滋賀県野洲市三上のずいき祭りは宮座として知られるが、本稿では、公文と座を訴訟文書や伝承記録などから検証するとともに、現在の芝原式の儀礼のなかに何がこめられているのかをあきらかにした。ずいき祭りでは、長之家・東・西の三組から頭人が上座・下座の二人ずつでて(一九五一年からは長之家は一人)、ずいき神輿・花びら餅の神饌を準備し、東と西の頭人は芝原式での相撲役を身内からだして奉仕する。それら頭人を選出するのは、各組に一人ずついる公文の役目である。公文は家筋で固定し、各組(座)でおこなう頭渡しだけでなく、芝原式にたちあい、実質上、それらを差配している。芝原式の儀礼には、公文から総公文への頭人差定状の提出、花びら籠(犂耕での牛の口輪)という直截な勧農姿勢、猿田彦をとおして授けられる神の息吹といった中世の世界観がこめられていたことがわかった。また、公文・政所という用語の使われ方が時代とともに変化していくことを指摘したうえで、中近世移行期での公文・政所を特定した。彼らが訴訟や年貢の収納事務にたずさわり、文書を保管する職務についていたこと、在地の地主層で下人を抱える殿衆であったことなどをあきらかにした。長之家は庁屋を、東と西は神前の芝原に座る方角をさしているものの、公文の考察から、相撲神事の編成が荘園の収納機構と深くかかわっており、長之家は御上神社社領、東は三上庄、西は三上庄内の散所を原点に出発していると考えられる。神事再興の一五六一年(永禄四)以来、頭人には下人、入りびとをも含むため、開放的な宮座として知られるが、それは屋敷を基準に頭人を選定していく公事のやり方であり、神事には相当な負担が強いられた。三上庄の実質的管理責任者である公文が頭人を差定して、その頭人に神饌やら相撲奉仕の役をあてがい、神饌を地主神に供えることで在所の豊饒と安泰を願うという祭りであったことを実証した。
著者
渋谷 綾子 石川 隆二 高島 晶彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
挑戦的研究(萌芽)
巻号頁・発行日
2018-06-29

本研究では,1. 古文書の分類と製紙材料の構成物としてのデンプンなどの種類・量・密度等の対象比較による紙の質的比較解析,2. DNAによる和紙の製造手法・地域・時期の分析,3. これらの分析手法を統合した「古文書科学」という研究分野としての可能性探索,という3つを軸とする。2018年度は,資料調査と混入物の分析,現生サンプルのDNA分析による紙材料の識別実験,混入物の標準的データの抽出を試みる。混入物の分析は,(1)資料調査と紙の繊維の分析,(2)混入物の分析,(3)多角的研究,(4)文書研究の4つを柱として設定する。料紙の成分特定については,分担者(石川)とともに現生の紙や原料サンプルのDNA分析を実施し,繊維や糊などの構成物の由来材料を特定する。今年度において,分析・検討を行ったのは主に次の項目である。すなわち,東京大学史料編纂所所蔵「中院一品記」の顕微鏡撮影画像の再解析(渋谷),国立歴史民俗博物館所蔵「廣橋家旧蔵記録文書典籍類」の顕微鏡撮影画像の再解析(渋谷),「松尾大社所蔵資料」および米沢市上杉博物館所蔵「上杉家文書」の顕微鏡撮影と構成物の解析(高島・渋谷),現生の紙原料サンプル(カジノキ)のDNA分析(石川・渋谷)。また,AWRANA2018(フランス,2018年5月)や日本文化財科学会第35回大会(2018年7月),第33回日本植生史学会大会(2018年11月),Workshop on Integrated Microscopy Approaches in Archaeobotany 2019(イギリス,2019年2月)では研究手法の紹介と結果の見込みについて報告し,書籍『Integrated Studies of Cultural and Research Resources』では2018年度前半までに得られた研究成果について報告した。
著者
鈴木 靖民
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.315-327, 2009-03

7世紀,推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に複合して成り立っていた。遣隋使は,王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って仏教を興し,礼儀の国,大国として存立することを目標に置いて遣わされた。さらに,倭国は隋を頂点とする国際秩序,国際環境のなかで,仏教思想に基づく社会秩序はもちろんのこと,中国古来の儒教思想に淵源を有する礼制,礼秩序の整備もまた急務で,不可欠とされることを認識した。仏教と礼秩序の受容は倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者をはじめ,学問僧,学生を多数派遣し,隋の学芸,思想,制度などを摂取,学修すると同時に,書籍や文物を獲得し将来することに務めた。冠位十二階,憲法十七条の制定をはじめとして実施した政治,政策,制度,それと不可分に行われた外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.43, pp.p195-227, 1992-03

本稿は、今回の研究計画の定点調査地の一つである静岡県沼津市大平において継続的な調査を行なってきた結果の報告である。個別地域の個性は、自らの地域の歴史認識によって大きく支えられ、あるいは形成されるものと予想しつつ、調査を行なった。人々の自分たちの社会に対する認識が歴史を作り出すと言ってもよいであろう。史実としての歴史だけでなく、意識される歴史、あるいは時には作り出される架空の歴史的世界も含めて、民俗的歴史世界を文字資料と現実の民俗事象の双方から追いかけることを意図した。幸いにして大平には前者の問題を究明するに適う年代記という興味深い人々の作り出した歴史書がある。大平を対象村落としたのも、この年代記が存在したからである。調査はこれを基点にして、その内容と現実の豊富な民俗との関わりを考察することに主眼を置いた。なお、大平の民俗については、本調査とほぼ同じ時期に並行して別の調査が実施され、民俗誌の形式での調査報告書が刊行されている(静岡県史民俗調査報告書『大平の民俗』)。本稿では、それとの重複をできるだけ避けて、大平の民俗的な特質を把握すべく内容を絞ったので、大平の具体的な民俗については網羅的には記述していない。大平の民俗的特質は以下のように理解することが可能であろう。大平の開発過程とその後の狩野川との戦いの連続が、大平の現在まで伝承されてきた民俗を作り出したと言えよう。道祖神祭祀自体は駿東から伊豆に大きく展開しているものであり、大平もその分布地域内の一村落に過ぎない。また道切り行事も全国的に行なわれているもので珍しいものではないし、大平のように札を笹竹に挟んで立てることもごく一般的な姿である。しかし、その道祖神祭祀や道切り行事を夏に重点を置いて行なっているのは必ずしも一般例とは言えない。大平が開発形成過程で背負った条件がこのような特色ある領域をめぐる民俗を作り出し、維持させてきたものと理解できる。そして、その歴史の重みが現在なお近隣の諸村落では見ることのないほどの熱心さでこの二つの民俗を保持しているのであろう。This paper reports the results of investigations continuously carried out at Ohira in Numazu City, Shizuoka Prefecture, which is one of the fixed investigation points of this research project.The investigation was conducted with the presumption that the individuality of an area should have been strongly influenced or formed by its people's historical consciousness of the area; in other words, people's consciousness of their society should have created their history. The author aimed to approach the world of folk history, including not only history as historical facts, but also history as it exists in people's consciousness, or sometimes the fictional world of created history, from the viewpoints of both written documents and actual folklore. Fortunately, there exists at Ohira an interesting historical document compiled by its people, which is a chronicle appropriate for clarifying the above problem. It was because this chronicle exists that Ohira was designated for investigation. Based on the chronicle, the investigation focused on an examination of the relationship between its content and the many actual folk customs. Almost at the same time, another investigation was carried on in parallel on the folk customs of Ohira, the results of which were compiled and published as an monographical investigation report (Shizuoka Prefectural History, Folk customs Investigation Report entitled "Folk customs of Ohira"). In this paper efforts have been made to avoid duplicating the above report, and the content has been limited to focus on an understanding of the characteristics of the village; so the present report does not describe the folk customs of Ohira in comprehensive detail.The folk characteristics of Ohira may be understood as follows; Its process of development and subsequent continued struggle against the Kano River created the folk customs which have been handed down to the present. The worship of Dôsojin (the quardian deity at the village borders) itself has developed widely from Eastern Suruga to Izu, and Ohira is just one village within this area of distribution. The Michikiri (boundary-marking) ceremony, which has spread nationwide, is not rare, either. The custom of erecting a charm clipped between a split bamboo stalk, as seen at Ohira, is also a normal style. Nevertheless, it is not usual for these religious services toward Dosojin and Michikiri ceremonies to be held mainly in the summer season, as in the case in Ohira. It can be considered that the circumstances under which Ohira has developed and formed have created and maintained the characteristic boundary-marking folk customs described above. The weight of history may still preserve these two customs with a zeal that cannot now be seen in neighboring villages.
著者
谷川 章雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.325-351, 2011-11-30

江戸の墓誌は、一七世紀代の火葬墓である在銘蔵骨器を中心にした様相から、遅くとも一八世紀前葉以降の土葬墓にともなう墓誌を主体とする様相に変化した。これは、一七世紀後葉と一八世紀前葉という江戸の墓制の変遷上の画期と対応していた。こうした墓誌の変遷には、仏教から儒教へという宗教的、思想的な背景の変化を見ることができる。将軍墓の墓誌は、少なくとも延宝八年(一六八〇)に没した四代家綱に遡る可能性がある。将軍家墓所では、将軍、正室と一部の男子の墓誌が発掘されており、基本的には石室の蓋石に墓誌銘を刻んだものが用いられていた。将軍家墓誌は、一八世紀前葉から中葉にかけて定式化したと考えられる。大名家の墓誌は、長岡藩主牧野家墓所では一八世紀中葉に出現し、その他の事例も一八世紀前葉以降のようである。石室蓋石の墓誌の変遷は、一八世紀後葉になると細長くなる可能性があり、一九世紀に入ると、墓誌銘の内容が詳しいものが増加する。林氏墓地などの儒者の墓誌は詳細なものが多く、誌石の上に蓋石を被せた形態のものが多く用いられていた。林氏墓地では、墓誌の形態、銘文の内容や表現は一八世紀後葉に定式化し、一九世紀に入る頃に変化するようであった。林氏墓地の墓誌は、享保一七年(一七三二)没の林宗家三世鳳岡(信篤)のものが最も古いが、儒者の墓誌はさらに遡ると思われる。旗本などの幕臣や藩士などの土葬墓にともなう墓誌は、一八世紀後葉以降一九世紀に入ると増加するが、これは墓誌が身分・階層間を下降して普及していったことを示すと考えられる。一方、幕臣や藩士などの墓にある没年月日と姓名などを記した簡素な墓誌は、被葬者個人に関わる「人格」を示すものとして受容されたものであろう。このような江戸の墓誌の普及の背景には、個人意識の高まりがあったように思われる。ただし、江戸の墓誌に表徴された個人意識は、武家や儒者など身分・階層を限定して共有されるものであった。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.45-104, 2005-03-25

近世博多の祭礼祇園山笠を例に、祭礼費用の増加過程と、その結果として生じた祭礼費用徴収法の変更および祭礼費用負担者層の拡大の諸相について明らかにした。分析対象は行町と片土居町という二つの町である。祇園山笠には二つの当番、山笠当番と能当番があった。本稿ではおもに、より重要でより多額の費用を要する山笠当番について論じた。この当番は数年に一度または十数年に一度だけ各町に巡って来たので、各町はこの間に多額の当番費用を準備することができた。そのためこの祭礼は徐々に豪華になっていった。しかし江戸後期になると当番費用が高騰し、豊かでない町では当番費用の徴収法に工夫を凝らすことになった。分析した二町の例から、当番費用負担者層と当番運営者層が町内の表店に居住する全世帯に拡大していく過程が観察された。とりわけ幕末の片土居町ではこの拡大が極限にまで達していた。つまりこの町では居付地主・地借・店借の別なく町内の表店全世帯に同額の当番費用が割り振られており、当番運営においても原則的には表店の全世帯主が平等に参加していたようである。また、その内容は異なるものの、両町とも町中抱の家屋敷を利用することで当番費用の一部を捻出していた。特異な祭礼運営仕法によって祭礼費用が高くなりすぎた結果、祭礼費用にかんして徴収法の変更と負担者層の拡大がなされ、それに伴い祭礼運営者層も拡大した、という一例を示した。
著者
鈴木 卓治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.206, pp.39-59, 2017-03-31

国立歴史民俗博物館が開催する企画展示「万年筆の生活誌―筆記の近代―」(2016年3月8日(火)~5月8日(日))のために,館蔵資料43点を含む58点の蒔絵万年筆資料のマルチアングル画像を撮影し,展開図を作成した。本稿では,資料への負荷を抑えつつ図録掲載等の要求に耐える品質を有する展開図画像を得るための,万年筆資料のマルチアングル画像撮影ならびに展開図作成の技術開発について述べる。スリットカメラの原理に基づき,万年筆を一定角度で回転してマルチアングル画像を撮影するための専用の治具を制作した。マルチアングル画像からの展開図画像の作成について,万年筆の回転角と得られる展開図画像の誤差との関係について検討し,5度刻みのマルチアングル画像から,μm単位の誤差の展開図画像を作成できることを示した。展開図画像の作成にあたって,万年筆の太さは均一でないので画像の幅が必ずしも回転角に比例せず,単純に一定の幅で切り出した画像を合成したのでは重複や欠損を生じる。そこで簡単な画像処理によって万年筆の太さを求め,幅が回転角に一致する補正画像を生成したところ,重複や欠損のない画像を得ることができた。また,クリップのようにまわりから著しく飛び出している部分があると,画像から正確に半径を求められない部位が生じ画像が乱れる問題について,クリップの位置をマスク画像で与えることによって解決を図った。本稿で述べる展開図作成の技術は,類似の資料のデジタル化の促進に寄与することができよう。
著者
鈴木 信
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.401-440, 2009-03-31

続縄文文化の遺構・遺物には,「変異性が強く・現地性が弱く・転移は容易・伝達する際に欠落しにくい」という表出的属性,「変異性が弱く・現地性が強く・転移は容易でなく・伝達する際に欠落しやすい」という内在的属性,それらの中間的属性が備わる。また,属性における不変性・現地性の強弱は「遺構の内在的属性≧遺物の内在的属性>遺構の表出的属性>遺物の表出的属性」である。そして,内在的属性の転移は親密な接触によって伝わり,表出的属性の転移は疎遠な接触においても成立する。そのため,内在的属性の転移は型式変化の「大変」といえ,表出的属性の転移は型式変化の「小変」といえる。遺構・遺物の型式変化とは時空系における属性転移であり,空間分布の差異として第一~五の類型で現れる。そして,属性はコト・モノ・ヒトの授受に付帯して転移し,転移先において文化同化・文化異化・文化交代を起こす。物質交換は文化接触の一種であり,異質接触(渡海交易)においては「もの」を動かすために「かかわり」があり,社会的関係を緊密にすることで物理的距離を克服する(「ソト」関係の「ウチ」化)。同質接触(域内交易)においては「かかわり」の結果として「もの」が動き,基底には社会的距離が恒常的に縮んだ関係(「ウチ」の関係)において行われた。渡海交易と域内交易と生業の関係は弥生後期に東北地方に起こった利器の鉄器化が誘因となり,その後,鉄器の流通量が増加することで,域内交易は交換財の調節機能の強化が求められ,生業は交易原資のための毛皮猟とそれを支える生業の二重構造を生み出す。渡海交易Ⅱa段階に渡海交易・域内交易・生業が直結して文化異化がおこる。渡海交易Ⅱb~Ⅳ段階には鉄器・鋼の需要が恒常的となり文化異化が継続する。Ⅳ段階には文化異化が収束し,交易仲介の役割を失った東北在住の北海道系続縄文人が故地に帰ることで新たに東北地方から北海道への属性転移が生じる(擦文文化の成立)。
著者
小林 謙一 坂本 稔
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.196, pp.23-52, 2015-12-25

本稿は,縄紋後期の生業活動において,海洋資源がどの程度利用されていたのかを見積るため,炭素の安定同位体比(δ¹³C値)と炭素14年代をもとに,時期別・地域別の検討をおこなったものである。旧稿[小林2014]において,陸稲や水田稲作が出現する弥生移行期である縄紋晩期~弥生前期の土器付着物を検討した方法を継承して分析した。そのことによって,旧稿での縄紋晩期と弥生前期との違いの比較検討という目的にも資することができると考える。土器内面の焦げや外面の吹きこぼれなど,煮炊きに用いられた痕跡と考えられる土器付着物については,δ¹³C値が-24‰より大きなものに炭素14年代が古くなる試料が多く,海洋リザーバー効果の影響とみなされてきた。一方,-20‰より大きな土器付着物については,雑穀類を含むC₄植物の煮炊きの可能性が指摘されてきた。しかし,これらの結果について,考古学的な評価が十分になされてきたとはいえない。国立歴史民俗博物館年代研究グループが集成した,AMSによる縄紋時代後期(一部に中期末葉を含む)の炭素14年代の測定値を得ている256試料(汚染試料及び型式に問題ある試料を除く)を検討した。その結果,土器付着物のδ¹³C値が-24~-20‰の試料には炭素14年代で100 ¹⁴C yr以上古い試料が多く見られることが確認され,海産物に由来する焦げである可能性が,旧稿での縄紋晩期~弥生前期の土器付着物の場合と同様に指摘できた。北海道の縄紋時代後期には海産物に由来する土器付着物が多く,その調理が多く行われていた可能性が高いことがわかった。東日本では縄紋時代後期には一定の割合で海産物の影響が認められるが,西日本では近畿・中四国地方の一部の遺跡を除いてほとんど認められない。これらは川を遡上するサケ・マスの調理の結果である可能性がある。また,C₄植物の痕跡は各地域を通じて認められなかった。以上の分析の成果として,土器付着物のδ¹³C値は,縄紋時代後期の生業形態の一端を明らかにし得る指標となることが確認できた。