著者
大村 敬一 Keiichi Omura
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.25-120, 2002-08-20

本論文の目的は,イヌイトの「伝統的な生態学的知識」に関してこれまでに行なわれてきた極北人類学の諸研究について検討し,伝統的な生態学的知識を記述,分析する際の問題点を浮き彫りにしたうえで,実践の理論をはじめ,「人類学の危機」を克服するために提示されているさまざまな理論を参考にしながら,従来の諸研究が陥ってしまった本質主義の陥穽から離脱するための方法論を考察することである。本論文では,まず,19世紀後半から今日にいたる極北人類学の諸研究の中で,イヌイトの知識と世界観がどのように描かれてきたのかを振り返り,その成果と問題点について検討する。特に本論文では,1970年代後半以来,今日にいたるまで展開されてきた伝統的な生態学的知識の諸研究に焦点をあて,それらの諸研究に次のような成果と問題点があることを明らかにする。従来の伝統的な生態学的知識の諸研究は,1970年代以前の民族科学研究の自文化中心主義的で普遍主義的な視点を修正し,イヌイトの視点からイヌイトの知識と世界観を把握する相対主義的な視点を提示するという成果をあげた。しかし一方で,これらの諸研究は,イヌイト個人が伝統的な生態学的知識を日常的な実践を通して絶え間なく再生産し,変化させつつあること忘却していたために,本質主義の陥穽に陥ってしまったのである。次に,このような伝統的な生態学的知識の諸研究の問題点を解決し,本質主義の陥穽から離脱するためには,どのような記述と分析の方法をとればよいのかを検討する。そして,実践の理論や戦術的リアリズムなど,本質主義を克服するために提示されている研究戦略を参考に,伝統的な生態学的知識を研究するための新たな分析モデルを模索する。特に本論文では実践の理論の立場に立つ人類学者の一人,ジーン・レイヴ(1995)が提案した分析モデルに注目し,その分析モデルに基づいて,人間と社会・文化の間に交わされるダイナミックな相互作用を統合的に把握する視点から伝統的な生態学的知識を再定義する。そして,この再定義に基づいて,伝統的な生態学的知識を記述して分析するための新たな分析モデルを提案し,さまざまな社会・文化的過程が縦横に交わる交差点として民族誌を再生させる試みを提示する。
著者
野林 厚志 野林 厚志
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.44, no.2, pp.407-437, 2019

本稿の目的は,台湾において甘味を嗜好する食文化が形成された過程をその基盤をになった砂糖の歴史生態を視点に組み込みながら明らかにすることである。台湾社会における甘味をもった飲食物の定着,経済構造の変化や健康意識の変化の過程を,主として歴史文献や民族誌的記述,砂糖生産に関する諸資料をもとに推論してみたい。特に,植民地統治期(1895 ~ 1945 年)における甘味をもった食文化の定着とそれを支えた砂糖生産の確立する過程を示す。現在,台湾における糖質の過剰摂取の一つの要因とされている泡沫紅茶や加糖果汁に台湾の人たちが親しんでいったのは,種類は違えど,砂糖を用いた甘味飲食物が台湾社会全体に定着していく歴史生態学的な背景があったことが理解できる。This paper presents a description of how Taiwanese people have come toprefer sweet foods and beverages from the perspective of historical ecologyof sugar, which has an important role in preference. The process of consolidatingsweet foods and beverages in Taiwan society and the changes of economicstructure and health consciousness are discussed using historical sugarproduction records and ethnographic descriptions of foods recorded duringJapanese colonial periods (1895–1945). Taiwan has a historical ecology bywhich people tasted sweet foods and beverages, producing the background ofthe present day: Taiwanese people continue to prefer sweet drinks such asbubble tea.
著者
大森 康宏 Yasuhiro Omori
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.421-457, 1984-08-31

The recording of image sequences on film, in other words makingmovies, is one of the principal activities in visual media. The moviewas developed for scientific purposes by Edward Maybridge. Hiscontinuous still photographs of the natural movements of animals andhumans not only provided the basis for further research, but alsorepresented the first instance of the ethnographic film. Subsequentproductions may be classified broadly as either fiction or documentaryfilms.With the development of portable devices for visual recording,the ethnographic film has come to be regarded as an integral part ofanthropological and ethnographic research. Ethnographic filmmakinghas yet to emerge as a definite genre within the field of anthropology.This paper examines certain features unique to ethnographic filmproduction, with particular emphasis on the process of shooting froman anthropological perspective. The ethnographic approach tofilming in field situations is also addressed.Theory and practice is a prerequisite to ethnographic film production,and the cameraman should therefore be a qualified ethnographerwith enough technical knowledge and experience to operate theequipment. Further, an understanding of the history of film ethnographynot only establishes the context within which production takesplace, but also often gives rise to new approaches to research design.In addition, before entering the field, the visual anthropologist isobliged to study general features of production, including patterns offilming, reportage, footage film, direct film, and cinema verite .In conclusion, emphasis has been attached to problems confront-ing the filmmaker under actual field conditions. This encompassesthe composition of the film staff as well as the responsibilities implicitin shooting under diverse social and environmental conditions. Noteven the production of a technically fine work can justify ignoringrelationships between the people filmed and the research team.
著者
藤井 真湖 Mako Fujii
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.27, no.3, pp.483-607, 2003-03-24

『ジャンガル』は,『元朝秘史』や『ゲセル』と並ぶモンゴル三大文芸作品のひとつに数えられているモンゴル英雄叙事詩であり,主として口頭で受け継がれてきた。その伝承地域は,新疆(中国),カルムイク(ロシア),モンゴル国である。ジャンガルは,この物語の舞台となるアル= ボムビーン= オロンの盟主であり,彼には“12勇者”の側近がいると語られている。“12勇者”の「12」という数詞は一般に「12人」という人数を表す数詞とみなされているが,実際には12人に満たないことが多く,それ以外にも疑わしい点が多々観察される。本論では,信頼できる資料をもとに“12勇者”の表現をすべて検討し,この“12勇者”が指示する勇者を特定することを目的とする。考察の結果,「12」は数詞ではなく,固有名詞として用いられている場合が認められる。そして,固有名詞として用いられる場合,次のような3つの意味を表しているものと考えられる。1)12人で構成されていてもよいが,基本的に人数とは関係のない「12」と呼ばれる集団2)「アルタン・チェージという勇者を念頭に置いた集団」とそうでない集団のいずれかの集団3)アルタン・チェージという個人の勇者 以上の考察をふまえてカルムイクジャンガルの学術的に最も信頼できるテキストを眺めると,ここにおいては“12勇者”ではなく,むしろ“6千12勇者”という表現が主流であることが観察される。そして,この事実から再び新疆ジャンガルの“12勇者”表現の現われている箇所を振り返ると,“6千12勇者”に対応する“8千12勇者”という表現が存在していたことが確認される。ただし,新疆ジャンガルのテキストの場合,カルムイクジャンガルの場合とは異なり,“8千勇者”という表現は“12勇者”と対に現われるよりも,単独で現われる頻度が高い。このことは新疆ジャンガルのテキストで“12勇者”が「12人の勇者」として意識されることと相関関係があるものと考えられる。カルムイクジャンガルにおいては2)と3)の用法は確認されないが,新疆ジャンガルの考察を応用すると,“6千12勇者”の「12」にアルタン・チェージの暗示をみることになる。 以上により,“12勇者”の「12」は,一般に理解されているような12人という人数ではない可能性が高い。アルタン・チェージが「12」で表される理由には,「12」と隣接する「11」か「13」との数字との関連が見込まれる。この場合,「11」は,「12」の変形として以外にテキストに現われないので,対象外となる。それゆえ,対象とされる数字は「12」に隣接するもうひとつの数字「13」となる。そこで,新疆ジャンガルにおける「13」が用いられる表現をすべて検討することになる。考察を通して,「13」がある特定の勇者を指示している可能性が高いことが明かにされる。アルタン・チェージが「12」で表された背景には,通常アルタン・チェージよりも地位が低いと考えられている「13」で表される勇者と対比させるためであったと推論される。この場合,アルタン・チェージは勇者の序列を示すと考えられる座席において右側の第1席に位置する最高位の勇者であるが,アルタン・チェージと対比させられる「13」で標識づけられる勇者は左側の第1席,あるいは右側の第2席に座していることが確認される。 モンゴル文化において右側の席は左側の席よりも上位とみなされることを考慮に入れると,「13」で標識づけられる勇者は表向き(明示的に)アルタン・チェージより地位が低いにも関わらず,アルタン・チェージが「12」で標識づけられることにより,明示的に与えられている席次の序列が逆転し,アルタン・チェージは「13」で表される勇者よりも下位に位置づけられるということになる。したがって,「12」や「13」という隠喩が用いられたのは,物語の表層や現実の生活世界における秩序に照らし合わされたときに浮上する反秩序性を隠蔽するためであったと結論しうる。
著者
モングーシュ マリーナ V. Marina V. Mongush
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.38, no.1, pp.35-62, 2013-12-25

This article is a preliminary report on the international expedition to theTuvans in China, Russia, and Mongolia that was conducted in the summer of2012 as a Cultural Resource Project of the National Museum of Ethnology(Minpaku). The author investigates features of the way of life and cultureof the Tuvans living in these countries and clarifies the similarities anddifferences arising from their different social circumstances. The majorityof Tuvans live in Russia, where they have a recognized position and territory—the Tuva Republic. In the territories of China and Mongolia, Tuvansare national minorities and do not have national-territorial status. HoweverTuvans of all three countries still keep their native language, ethnic consciousnessand traditional culture. This article focuses on elements rangingfrom “historical baggage” to the language and cultural situation of this community,to relations with the host societies, and to the interaction betweenthese factors.
著者
清水 昭俊 Akitoshi Shimizu
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.23, no.3, pp.543-634, 1999-03-15

マリノフスキーは,「参与観察」の調査法を導入した,人類学史上もっとも著名な人物である。その反面,彼は理論的影響で無力であり,ラドクリフ=ブラウンに及びえなかった。イギリス社会人類学の二人の建設者を相補的な姿で描くこの歴史叙述は,広く受け入れられている。しかし,それは決して公平で正当な認識ではない。マリノフスキーがイギリス時代最後の10年間に行ったもっとも重要な研究プロジェクトを無視しているからだ。この論文で私は,アフリカ植民地における文化接触に関する彼の実用的人類学のプロジェクトを考察し,忘却の中から未知のマリノフスキーをよみがえらせてみたい。マリノフスキーは大規模なアフリカ・プロジェクトを主宰し,人類学を古物趣味から厳格な経験科学に変革しようとした。植民地の文化状況に関して統治政府に有用な現実的知識を提供する能力のある人類学への変革である。このプロジェクトは,帝国主義,植民地主義との共犯関係にある人類学のもっとも悪しき実例として,悪名高いものであるが,現実には,彼の同時代人でマリノフスキーほど厳しく植民地統治を批判した人類学者はいなかった。彼の弟子との論争を分析することによって,私は,アフリカ植民地の文化接触について人類学者が観察すべき事象とその方法に関する,マリノフスキーの思考を再構成する。1980年代に行われたポストモダン人類学批判を,おおくの点で彼がすでに提示し,かつ乗りこえていたことを示すつもりである。ラドクリフ=ブラウンの構造機能主義は,この新しい観点から見れぽ,旧弊な古物趣味への回帰だったが,構造機能主義者は人類学史を一貫した発展の歴史と描くために,マリノフスキーのプロジェクトの記憶を消去した。戦間期および戦後期初めの時期におけるマリノフスキーの影響の盛衰を跡づけよう。
著者
丹羽 典生 丹羽 典生
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.43, no.2, pp.189-268, 2018

本稿は,日本の四年制大学における応援団を事例として,応援組織の変化と現状を分析するものである。依拠するデータは,各大学応援団が刊行する印刷物や大学の学友会関連の情報,応援団関係者が運営するホームページやソーシャル・ネットワーキング・サービスなどに散在する各種の情報を中心に筆者が集約・整理した。それらの分析を通じて,以下3 点のことを示した。ひとつめが応援団の起源と拡大について。国公立大学応援団のほとんどが戦後の大学改革と時期を同じくして第二次世界大戦後に起源をもつのに対して,私立大学の古くからある応援団はそうした断絶の影響をあまり受けていないこと。また,ベビーブーム世代の進学期に大学の量的増大に合わせて多くの大学で作られるようになったこと。ふたつめは,応援団の質的変化で,応援団の典型的な型とされることもある三部構成(リーダー部,チアリーダー部,吹奏楽部)は,もとの多機能的な応援団が機能分化とジェンダー構成の変化を経た結果,比較的近年生み出されたものであること。そしてみっつめに,応援団の多くは体育会所属であるが,一定数が独立団体的な位置づけにあることである。