著者
鐘江 宏之
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学文学部研究年報 (ISSN:04331117)
巻号頁・発行日
no.51, pp.23-46, 2004
著者
木村 裕一
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.19-35, 2010

本論で試みているのは、古典修辞学体系における濫喩の奇妙な位置づけを、アリストテレス、キケロ、クインティリアンにおける隠喩の定義の検証を通じて明らかにすることである。その奇妙さとは、濫喩は一方で非常に周縁的で例外的な修辞形象として隠喩から区別される一方で、反対に修辞体系において最も中心的かつ理想的な形象としての隠喩の定義の際に、避けがたくその特質がついてまわってきてしまうということである。濫喩の特質とはすなわち、言及対象を表現するための言葉が「本来的」には欠如している場合に、代わりの言葉でそれを補完的に表現しようとすることである。そして濫喩のこのような特質は「生きた」隠喩とは反対の価値、すなわち「死んだ」隠喩としてみなされてきた。 このような「生/死」という二項対立的イメージの起源は、アリストテレスによる隠喩の定義にまで遡る。アリストテレスによれば、隠喩とは「生き生きとした」イメージを「眼前に彷彿とさせる(Vor-Augen-Führen)」ことを可能にする修辞形象であり、それによっていかなるものも、たとえそれが不在のものやそもそもそれを表現するべき言葉が欠如してしまっていたとしても、表現することができるものであると定義づけている。すなわち、アリストテレスの修辞体系において、後に濫喩の特質であるとされる「語の欠如の補完」はいまだ隠喩の特質のひとつであり、細分化されてはいない。それに対して「濫喩」を「隠喩」から区別し、細分化し始めるのは、キケロ、ならびにそれに続くクインティリアンである。両者に共通しているのは、「生き生きとした」イメージを「眼前に彷彿とさせる」ことを可能にする隠喩というアリストテレスの定義を引き継ぎ、それを体系の中心的な位置に据えながら、他の修辞形象を差異化していることである。とりわけ、表現すべき言葉の欠如を前提としなければならない「濫喩」的特質は、周縁的で例外的な修辞形象とみなされていくことになる。 つまり古典修辞学の体系の歴史とは、「生き生きとした」イメージによって対象を「眼前に彷彿とさせる」ことができる「良き」隠喩が、体系における理想的かつ中心的な位置を占められるよう、それぞれの修辞形象の定義を細分化・区別していく歴史そのものである。濫喩とは「生き生きとした」イメージの表現を理想とする修辞体系において排除されたものであり、言及対象を表現するための言葉の欠如を覆い隠すことのできない、隠喩の「失敗例」として位置づけられているものである。つまり、濫喩とは「生き生きとした」隠喩の否定的な側面であり、その意味で「死んだ」非─ 隠喩として「良き」隠喩を修辞体系の中心へと位置づけるための「例外的な」修辞形象として必要不可欠なものなのである。
著者
山口 拓夢
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.7-20, 2007

まず私は、ギリシア悲劇におけるディオニュソス的な文化とは何か、という問題から話を始める。ギリシア悲劇はディオニュソス教に根を持ち、ディオニュソス教の危険な部分を遠ざけながら、その創造性を開花させた。ディオニュソス教はシャーマニズム的な要素が強く、ギリシア悲劇には通常の人間からの逸脱という特徴が広く見られる。 宗教学的に見て、ギリシア悲劇の穢れの観念を辿ることは、悲劇の本質を知る上で重要である。罪を犯した者は穢れている、穢れを祓えば災難は去るという信仰がソフォクレスの『オイディプス王』を支えているが、オイディプス王は人類学的な意味でのスケープゴートであり、ジェームズ・フレイザーの言う王殺し・神殺しの信仰に根差している。王は神の代理として自然の豊饒さを司り、その力が衰えれば、儀礼的に殺されるとされる。オイディプス王の運命は、ディオニュソスの死と再生を肩代わりしている。このような悲劇の構造は、ヨーロッパ民俗の古層の、自然の力を宿した神や精霊の死と復活への信仰に基づいている。I begin this paper by discussinig the Dionysian culture in tragedy. This concerns deviation from ordinary human consciousness. It has its roots in shamanism. I then discuss the Greek religious concept of pollution and its relevance in King Oedipus being used as a scapegoat. The purge of the human scapegoat was a substitute for the killing of a god. To clarify this point, I explain the connection between Greek tragedy and European folklore.
著者
酒井 潔
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.7-20, 2009-03

ライプニッツのcaritas 概念は、一方で伝統的なキリスト教の立場に、他方で十七世紀の啓蒙主義の時代思潮にそれぞれ連続する面を有する。「正義とは賢者の慈愛である」(Justitia est caritassapientis)、そして「慈愛とは普遍的善意(benevolentia universalis)である」というライプニッツの定義には、キリスト教的な「善き意志」のモチーフとともに、(プラトニズム起源のものだけではない)近代の合理主義的性格が見出される。ライプニッツは彼の政治学、ないし政治哲学の中心にこのcaritas 概念をすえている。それは彼の「社会」(societas)概念とも密接にリンクしつつ、今日の社会福祉論への射程を示唆する。ライプニッツの「慈愛」、「幸福」、「福祉」(Wohlfahrt)という一連の概念のもつ広がりは、アカデミー版第四系列第一巻に収載されている、マインツ期の覚書や計画書に記載された具体的な福祉政策(貧困対策、孤児・浮浪者救済、授産施設、福利厚生など)に見ることができる。しかしcaritas 概念の内包を改めて検討するならば、caritas 概念の普遍性と必然性は、その最も根底においては、ライプニッツの「個体的実体(モナド)」の形而上学に基礎づけられている、ということが明らかになるであろう。In Leibniz' philosophy we find the very basic notion that philosophers, who recognize or are able to recognize that this world has been created by God, should try to bring about "the happiness of human beings, the benefit of society and the honor of God". This is precisely where the concept of "charity" as the "justice of the wise" is being conceived("Justitia est caritas sapientis"). Leibniz thinks that caritas can be equated neither with mere compassion nor with a particular religious virtue. For a rational human being, caritas belongs to the universal duties of practical life. Such a science - one that is called "politica" by Leibniz - is a discipline of practical philosophy. Leibniz' concept of caritas has two principal aspects: on one hand it has a traditional aspect deriving from Christian Antiquity and the Middle Ages; on the other hand it has a rational character derived from the idea that caritas must be based on reason and its proven knowledge. In this sense we can confirm that Leibniz belonged to that early idealistic period of the Enlightenment in the 17th century.
著者
島田 誠
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.4, pp.105-130, 2005

本稿の目的は、『神アウグストゥスの業績録』の性格と目的を再評価することである。この『業績録』は、ローマ帝政を樹立した初代皇帝アウグストゥス自ら書き残し、現在のトルコ共和国のアンカラの「ローマと神アウグストゥスの神殿」の壁面で発見された金石文である。この金石文は、古代ローマ史研究者の間では、よく知られた史料であるが、多くの場合、そのテキストの一部がアウグストゥス自身の発言として引用されるに過ぎない。本稿では、この『業績録』を総体として捉えて、さらにローマ市のアウグストゥス墓廟の銘文として構想され、実際にはアンカラの神殿において発見されたことの意義を再考する。まず、この『業績録』の主要な資料である『アンキューラ記念碑』の発見と公刊の経過を確認した上で、『業績録』の内容を再検討し、この文章の種別(ジャンル)と想定されていた読者、さらにローマ市から遠く離れたアンカラにおいて、この『業績録』が発見された理由について論じる。 本稿での検討の結果、次の結論が得られた。この『業績録』は、ローマにおける金石文の伝統の中では、顕彰碑文の一種であるelogium にもっとも近く、前30 年から後14 年にいたる40 年間以上にわたって、ローマ政治を支配し、事実上、新しい支配体制を築き上げたローマ史上比類なき政治家の執務報告でもあった。『業績録』の読者としてアウグストゥスが念頭に置いていたのは、ローマ市大衆(plebs urnbana)を含む、ローマ市民に限定されていたと考えられる。ところが、同じ『神アウグストゥスの業績録』が、ローマ帝国の別々の場所においてそれぞれ異なった役割を果たしていたのである。アウグストゥスの『業績録』は、ローマ市をはじめ、ローマ市民の住む都市においては、市民たちにとって稀有の功績をあげた第一市民の執務報告であり、その功績に対して元老院やローマの市民たち(民会)が献じた顕彰碑文であったが、属州の小アジア(アナトリア地方)のガラティア人都市おいては、世界を征服した支配者の神格化を示す宗教的な文書と見做すことができる。
著者
上村 幸雄
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.6, pp.247-291, 2007

これは2006 年6 月24 日に東京の学習院大学において(付記参照)、また2007 年1 月27、28 の両日に沖縄県那覇市の沖縄大学で開かれた沖縄言語研究センター(OCLS)の月例研究会での2度の講義の記録であり、呼気圧・呼気流に関連しながら以下のことが述べられている。(1)呼吸一般、(2)発話時の呼気、(3)喉頭下の気圧と、喉頭の筋肉的制御、(4)声道における母音・子音を発する際の調音運動とのかかわり、(5)結論、および今後の研究への示唆 筆者が以前に国立国語研究所で行なった実験音声学的研究(国研報告60、同100)から、Ⅹ線映画フィルムトレース図、動的人工口蓋図、その他各種の調音的、音響的な資料が引用、提示されている。また、主題に関連して、日本語、およびいくつかの言語のフォネーム、およびいわゆる超分節的なフォネームの研究方法に関する補足説明が加えられている。This is a record of the two lectures given at Gakusyūin University in Tokyo on June 24, 2006, and at Okinawa University in Naha City, Okinawa, in a regular monthly meeting of Okinawa Center for Language Studies(OCLS)on January 27 ~ 28, 2007. The topics discussed are as follows: (1)respiration in general,(2)expiration at the time of speech,(3)sub-glottal air pressure and muscular controls of the glottis,(4)articulatory movements in the vocal tract when producing the vowels and the consonants,(5)conclusions, and some suggestions for further research. Various kinds of articulatory and acoustic data provided by experimental phonetics are shown, including tracings of X-ray cinema films, dynamic palatographic data, etc. In addition, based on these discussions, supplementary remarks are made on the studies of segmental and suprasegmental phonemes of Japanese and some other languages.
著者
川島 優美子
出版者
学習院大学
雑誌
学習院史学 (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.1-17, 1991-03
著者
足立 加勇
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.343-374, 2009

Animated manga films are a form of manga consumption reflecting strong popular demand for this art form. This essay focuses on cyborg comics whose unique defining feature is the heroes' self-negation arising from their selfawareness as monsters. Here, taking representative examples, the original comic and its animated version are compared in an effort to highlight the salient differences between manga and anime genres. In the TV animation series Cyborg 009, produced in 1968 at the end of the first anime boom, the heroes were depicted as pure warriors for peace with no reference to their monster nature, which the original manga had stressed. The antiwar message in the animated series was persuasive because peace was considered a universal value. The animated feature Cyborg 009: Super Galaxy Legend, released in 1980 during the second anime boom, however, emphasized the close bonds of fellows as cyborg rather than universal values. In the manga GUNSLINGER GIRL, which coincided with the third anime boom of the 2000s, it is no longer possible for the heroines to embody universal values; they fight simply for bonds between themselves and the man they love. The original manga contained a perspective exterior to human bonding that was capable of objectifying human ties, but in the animated film version, that vantage point cedes its importance; only actors involved in these close relationships are capable of understanding the protagonists' behavior and true motives. In the animation process, we find a disappearance of universal values in response to societal changes, and a corresponding desire for strong, compelling personal bonds. Through the softening of the heroes' and heroines' monster nature, their self-negation loses its critical power, imparting to the human bonds they form an absolute character. The desire for close personal ties has contributed to the success of animated film versions by providing the motivation for psychologically more complex characters. The extreme nature of these bonds, however, has also produced a more narrow-minded, stereotypical view of human nature, bringing manga animation to a developmental impasse.
著者
青井 未帆
出版者
学習院大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2009

本研究は、私が現在取り組んでいる研究であるところの、「司法権の憲法保障機能」に関する研究の一部をなすものである。本研究が目的とした次の二点、(1)憲法判断の客観的性質の主張論証と、(2)憲法判断の、具体的な事件からの独立性の主張立証につき、予定通りのスケジュールにて、予期された結論に達しえた。成果は論点ごとに公表したが、目下、全体をモノグラフにまとめるべく準備中である。また、本研究期間中に複数の訴訟案件で相談を受け、何点か意見書を執筆する機会をもった。これによって、当研究の副題「市民感覚を反映する」へ、実務的な観点からも示唆を得た。
著者
庄司 香 キャメロン チャールズ
出版者
学習院大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2010-04-01

本研究は、1930年代以降現在にいたるアメリカ連邦最高裁判所の判事指名を軸に利益団体が行ってきた動員を研究することで、アメリカの利益団体のあり方とその歴史的変遷をとらえることを目的として実施された。新たに構築したデータベースを通じて判明した過去80年間の変化のパターンを下敷きに、近年の事例について理解を深めるために、関係者へのインタヴューを活用した質的研究に取り組んだ。
著者
小林 亮介
出版者
学習院大学
雑誌
東洋文化研究 (ISSN:13449850)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.21-52, 2011-03

After the collapse of the Qing Empire in 1912, the Republican China asserted its authority over the whole of Tibet. The Dalai Lama government, in turn, also claimed independence and planned to unify Tibetan borderlands overlapping Chinese provinces. Therefore, Eastern Tibet, located between Tibet and China, inevitably became a central issue of this border dispute. Previously, many scholars have examined this dispute from the perspective of the historical process of the binary relationship between China and Tibet and from that of the history of the Chinese frontier policy. However, they have rarely focused on the indigenous Tibetan leaders who actually ruled Eastern Tibet. My paper examines the development of tripartite relationship between Qing Empire, Dalai lama government and indigenous leaders in Eastern Tibet, by clarifying the Kingdom of Derge(sDe dge), De ge Tusi(徳格土司), was committed to the Dalai Lama government and the Qing Empire during the late nineteenth and early twentieth centuries. To do this, I based on primary materials in English, Chinese and Tibetan。 This historical process of the Derge Kingdom shows us part of the radical change of Eastern Tibet from the intermediate region between China and Tibet to the front line that both governments planed to unify.
著者
吉田 敬介
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-27, 2013

In der ersten Hälfte des 20. Jahrhunderts, und zwar zwischen den Weltkriegen, erlebte Deutschland eine „Kierkegaard-Renaissance", in der S. A. Kierkegaard von verschiedenen Denkern auf produktive Weise rezipiert wurde. Jedoch weisen G. Lukács und Th. W. Adorno darauf hin, dass der von Kierkegaard übernommene Irrationalismus bzw. Obskurantismus im damaligen Deutschland zum gedanklichen Unterbau des faschistischen Totalitarismus wurde. Wer sich mit der Kierkegaard-Rezeption beschäftigt bzw. die Aktualität der Gedanken Kierkegaards untersucht, für den ist es unvermeidlich, diese dunkle Tatsache nicht aus den Augen zu verlieren. Die Aufgabe dieses Aufsatzes liegt also darin, anknüpfend an bisherige Forschungen zur Kierkegaard-Rezeption bzw. zur geistigen Situation im Deutschland der Zwischenkriegszeit, sich mit diesem „Schatten" der Kierkegaard-Renaissance auseinanderzusetzen und den Charakter der damaligen dezisionistischirrationalistischen Kierkegaard-Aneignung zu analysieren. Erstens stelle ich die Entwicklung der Kierkegaard-Rezeption in groben Umrissen dar und weise darauf hin, wie die damalige faschistische Kierkegaard-Aneignung von den bisherigen Forschungen behandelt wurde. In der deutschsprachigen Welt wurde Kierkegaard bald nach seinem Tod 1855 als Kritiker der dänischen christlichen Kirche vorgestellt und schon am Anfang des 20. Jahrhunderts von einigen Denkern, wie R. Kassner oder G. Lukács, in bestimmten intellektuellen Kreisen eingeführt. Allerdings ist Kierkegaard bis zum Ersten Weltkrieg relativ unbekannt geblieben. Erst nach dem Ende des Ersten Weltkriegs wurde er durch die österreichische Zeitschrift Der Brenner bekannt gemacht. So verlief die Kierkegaard-Renaissance in der deutschsprachigen Welt. Während diese bis zu den dreißiger Jahren des 20. Jahrhunderts dauerte, wurde Kierkegaard zugleich von nationalsozialistischen Intellektuellen für ihre Ideologie benutzt. Diese faschistische Interpretation, die man „den Schatten" der Kierkegaard-Renaissance nennen könnte, wird von der bisherigen Kierkegaard-Forschung noch nicht genügend behandelt; es gibt lediglich einen Aufsatz, „Kierkegaard im Dritten Reich" (1985) von W. Greve, der sich damit auseinandersetzt und an dessen Ergebnissen ich hier anknüpfe. Zweitens analysiere ich die faschistische Kierkegaard-Aneignung im Dritten Reich und zeige ihre Tendenzen auf. Greve bezeichnet A. Baeumler und E. Hirsch als zwei »Gipfel« der faschistischen Kierkegaard-Interpreten. Als einer der führenden nationalsozialistischen Intellektuellen feiert Baeumler in seinem Aufsatz „Gedanken über Kierkegaard" (1934) diesen als den »einzige[n] große[n] Kritiker des bürgerlichen neunzehnten Jahrhunderts, der an Rang Nietzsche gleichkomme«. Weitere faschistische Kierkegaard-Interpretationen folgen Baeumler, was zu der extremen Äußerung führt, dass Kierkegaard eine »tiefe Formverwandtschaft mit Grundsätzen des nationalsozialistischen Denkens« habe. Einer der Wortführer der Bewegung „Deutsche Christen", der durch seine Kierkegaard-Studien berühmt gewordene Theologieprofessor Hirsch, entwickelt in seinem Aufsatz „Sören Kierkegaard" (1935) diese faschistische Interpretation noch weiter. Hirsch versucht, nicht nur den Wagnis-Charakter bzw. die Bedeutung der Entscheidung bei Kierkegaard zu betonen, sondern unterstreicht lobend dies auch noch als prototypisch für den germanischen Glauben. Greve macht darauf aufmerksam, dass es, neben diesem extrem faschistischen Kierkegaard-Verständnis wie bei Baeumler bzw. Hirsch, auch noch viele anti-faschistische Interpretationen gab. Allerdings stellt Greve fest, dass im damaligen Deutschland eine dezisionistischirrationalistische Kierkegaard-Aneignung, bei der das Wagnis bzw. die Entscheidung im Mittelpunkt gesehen wurde, entstand. Drittens behandle ich die Kierkegaard-Aneignung bei C. Schmitt und die kritischen Aussagen dazu von K. Löwith und N. Bolz, um die Eigenschaft des dezisionistisch-irrationalistischen Kierkegaard-Verständnisses zu bezeichnen. In seinem Buch Politische Theologie (1922) beruft Schmitt sich auf Kierkegaard, um seinen politischen Dezisionismus zu entwickeln. Dabei hält Schmitt nicht den Inhalt einer Entscheidung, sondern die Tatsache, dass überhaupt eine Entscheidung gefällt wird, für wichtig. Löwith greift diesen Dezisionismus als »okkasionell« an und Bolz erwähnt die Indifferenz bzw. Willkür der inhaltslosen Dezision bei Schmitt. Beachtenswert ist es, dass diese Kritik nicht nur für Schmitts Gedanken selbst, sondern auch für die dezisionistisch-irrationalistische Kierkegaard-Interpretation gilt. Wer allein den okkasionellen Dezisionismus den Kierkegaardschen Gedanken entnimmt, für den ist es gleichgültig, ob der Gegenstand der Entscheidung ein neues Regime oder ein bestimmtes Volk ist. In der Tat entstanden in Deutschland zwischen den Weltkriegen solche „okkasionellen" Kierkegaard-Interpretationen, deren katastrophale Folge die Entscheidung für die faschistische Ideologie bedeutet. In diesem Aufsatz wird herausgearbeitet, dass die faschistische dezisionistisch-irrationalistische Kierkegaard-Aneignung einen okkasionellen Charakter hat und dass dieser Charakter dem Interpret erlaubt, Kierkegaard willkürlich für bestimmte Ideologien zu benutzen. Inwiefern man diesen „okkasionellen" Dezisionismus bzw. Irrationalismus in Kierkegaards Werken selbst finden kann, darüber muss an anderer Stelle sorgfältig nachgedacht werden. Adornos Kritik an der Verabsolutierung der objektlosen Subjektivität bei Kierkegaard wäre dafür hilfreich. Jedenfalls muss man sich mit der potenziellen Gefahr des Missbrauchs der Gedanken Kierkegaards vom politischen Dezisionismus bzw. Irrationalismus auseinandersetzen, um Kierkegaards philosophiegeschichtlichen Sinn bzw. seine Aktualität zu untersuchen.
著者
可児 洋介
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.275-302, 2010

This essay not only disregards privileged signifiant which is called newtype in Mobile Suit Gundam as a tear of text, but also captures it as a field in which some different discourse were intermingling, and argues its various aspects. Concretely, this essay not only reduces that concept to the intention of the Tomino Yoshiyuki's author-subject, but also connects it to wide-ranging contemporary situation, furthermore, discloses the generation-strife of its consumers which had a estrangement between the literary-cultural generation and the visual-cultural generation. Moreover, it confirms the birth of the imagined communities which consist of peculiar to "accepter-creater" of a limited animation, and states that such events symbolized a shift between meaning and sense or between stories and databases, and suggests that they(newtypes)born then have supported supply and demand of real-robot-anime which is like Super Dimension Fortress Macross and Neon Genesis Evangelion.
著者
酒井 潔 加瀬 宜子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.137-231, 2008

In the fi rst volume of Jinbun (2002) I published the fi rst 23 letters from Gouichi Miyake to Torataro Shimomura, with a further plan to publish the remaining 33 letters in the second volume. However, after that first publication, one of the pupils closest to Shimomura, Professor Atsushi Takeda, discovered many more letters as he continued his search. Therefore, I thought it better to wait until all of these letters were discovered. The letters from Miyake to Shimomura had reached 106 when Professor Takeda died from cancer unexpectedly in 2005. This meant the loss of the sole person in charge of Shimomura's study and opus postumum. So I have decided to publish these remaining 83 letters in this number of Jinbun (Nr.7), though we cannot exclude absolutely the possibility that further letters may be found. While most of the fi rst letters published were written before or during the war, most of this second batch of 83 letters were written after the war, and the last one can be dated approximately from the end of the 1950s to before 1964. We can see from the texts of these very valuable documents how the philosophers of the so-called "Kyoto School", the pupils of Kitaro Nishida (1870-1945), tried to promote their studies and to help each other during that diffi cult, catastrophic period; especially, how Miyake and Shimomura, pupils of Nishida, made great eff orts to reconstruct Japanese philosophical society and to lead incoming scholars to the principle of academic philosophy and of "systematic thinking". As for the development of the philosophy of Miyake, one can notice that he already mentioned in that period his turn toward an empiricist standpoint after engaging with the philosophy of mathematics, the phenomenology of Husserl and Heidegger, and the history of philosophy from Greek to Kant and German idealism. This fact demonstrates Miyake's "Humanontology" (Ningensonzairon) which is presented and thematised in his second main work Human Ontology (Tokyo, 1966), makes its appearance much earlier than one had once supposed. (Kiyoshi Sakai)