著者
大出 尚子
出版者
学習院大学
雑誌
東洋文化研究 (ISSN:13449850)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.1-28, 2012-03

This research is a comparative study highlighting the differences between the Government-General Museum of Korea, a museum that served as the national museum of Korea under the"official empire," and the National Museum of Manchukuo that served as the national museum under the"unofficial empire"of Manchukuo. This study specifically focuses on the backgrounds and goals of the museum establishments, building locations, managerial organization, historical accounts of artifacts, and the exhibits of each museum. The relations between each of these areas and the colonial policies affecting each museum were then compared. The result of the analysis of academic sources and historical surveys shows that the displays at the Government-General Musgum of Korea demonstrated the theme"unity of Japan and Korea."Irl contrast, the National Museum of Manchukuo exhibitions were found to focus on goodwill and the strengthening of friendship between Japan and Manchukuo. Despite this, the activities of the National Museum of Manchukuo reflected in changes seen in the exhibitions, were represented by"Manchurian history"that rejected the reinstatement of the Qing dynasty.
著者
河野 智子
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.27-49, 1996
被引用文献数
1

本論文の目的は,若かりしアィザック・ニュートン卿が錬金術に何を見出そうとしていたかを明らかにすることである。ニュートソが真剣に錬金術に取り組んでいた事実をケイソズが指摘して以来,魔術師ニュートンと科学者ニュートンとの折り合いをつけることは,研究者たちの悩みの種だった。この問題を解決するのに主に二通りの方法が採られてきた。一つは,彼の錬金術関連の研究ならびに実験を,錬金術が化学と同様な価値を持っていた時代の,まさに合理的で科学的なものだったと考えることで,「魔術師二L一トソ」を否定する方法である。もう一つは,彼の試みが機械論に対する一種の反逆ないし修正であったと考えることで,「科学者」と「魔術師」の両方を受け入れる方法である。後者のほうがより正確であるようだ。なぜなら,その初期から,ニュートンは錬金術を化学と厳しく区別していたからである。彼にとっては,「通俗化学」は「より大きな粒子」の機械的な作用のみを扱うものだった。一方,「錬金術」は,より大きな粒子を構成する小さな粒子がふるまうような,生長に関わる作用を扱うものであった。彼が化学よりも錬金術の可能性を重視した理由は,真理は聖書や預言,すべての古代の神秘的な記述の中に隠されているとする,古代の知恵への信仰にあった。また彼は,あらゆるものが一なる普遍物質から成り立っていて,ある手段によって他の事物へと変成できることを信じていた。その結果,錬金術における金属変成の概念を容易に認められたのである。彼はその変成を可能にすべく,物質を構成段階に分解しようとした。そして「腐敗」にとりわけ注目した。というのも,この腐敗を分解の過程として見なし,同様にそれを自然における生命活動と考えたからである。このことは若きニュートンが,個々の粒子への物体の分解を,機械的な作用ではなく,生き生きとした作用として考えていたことを意味する。彼にとって万物は,発生,成長,そして死のような,活力を与えるような原理によって動かされていた。そうでなければ何ものも個々の構成粒子に分解されないし,凝集によって一塊の物体になることもできない。若きニュートンは錬金術を錬金術として捉え,「賢者の水銀」を見出そうとした。「水銀」こそが,そうした物体を活性化する力を持つものだったからだ。そうすることはその当時では自然なことだった。錬金術では宇宙を一生命体として捉えたからである。The aim of this study is to show what Sir Isaac Newton hoped to discover in alchemy in his youth。 Since Keynes pointed out the fact that Newton had been seriously devoted to alcherny, it has been a problem for researchers to compromise NewtQn as a magician with Newton as a scientist. There have been two main ways to interpret this problem. One is to reject"Newton as a magician,"thinking that his alchemical studies and experi皿ents were just rational chemical ones at the time alchemy still had its value as chemistry. The other is to accept both"a scientist"and"a magician," thinking his attempt as a kind of rebellion or revision against mechanism. It see皿s to me that the Iatter may be more correct, because Newton strictly distinguished alchemy fro皿chemistry even in his early days. For him, "vulgar chemistry"only treats mechanical actions of"grosser particles," while"alchemy"treats vegetational actiolls performed by smaller particles which constitute grosser ones. The reason which made him value the pos・ sibility of alchemy over chemistry was his belief in prisαa sapientia, which meant that the truth should be hidden in Scripture, Prophecies, and all the ancient mystic descriptions. He also believed that everything is of one catholic matter and could be transmuted to another by certain means, so that he could easily accept the concept of transmutation in metals embodied in alchemy. He wanted to disintegrate皿atters to their constitutional level to make the transmutation possible, and paid a particular attention to"putre・ faction"because he regarded this as the process bf disintegration, same as the life cycle seen in the nature. This皿eans that young Newton con. sidered the material body's disintegration into individual particles not as a mechanical action but as a vital one. TQ him, everything in this world was influenced by the active principle such as genaration, growth, and death. Otherwise nothing can be distintegrated into individual particles nor can become a mass body by cohesion. Young Newton thought alchemy as a1一 chemy, and tried to find"philosopher's mercury"because"mercury"was the very thing which has such a power to activate matters。 At that time, it was a natural thing to do because alchemy treated the universe as a living thing.
著者
井上 勲
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学文学部研究年報 (ISSN:04331117)
巻号頁・発行日
no.20, pp.149-206, 1973
著者
増田 靖彦
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.81-101, 2007

サルトルが日本に受容されるに当たっては、いくつかの困難が存在した。彼の多様な執筆活動に対応しきれない日本のアカデミズムの構造や、第二次世界大戦という世界の特殊な状況などがそれに当たる。 そうした困難を克服しつつ、サルトルの受容はまず作品の素描や翻訳から始まった。その蓄積はやがて、サルトルの作品を総体として論じる試みとなって現れる。その嚆矢となったのが、サルトルをフッサール現象学に基づいた自我の問題提起として読解する研究であり、自己と他者の関係を基礎付ける人間学として読解する研究であり、今日の人類が抱える思想的課題と格闘する文学者として読解する研究であった。これらの研究はいずれも、サルトルの思想家としての側面に焦点を当てていることが特徴的である。 しかし、サルトルの作品における形式及び内容の変化と、行動する知識人というイメージの流布とによって、そうした研究動向にも転換の時期が訪れる。日本におけるサルトルの受容はもっぱら実存主義者サルトルを前面に押し出すようになっていくのである。This paper tries to clarify how Sartre's thoughts came to be known and studied in Japan. At the time they were introduced into Japan, there were two main difficulties: the subdivided organization of special studies in Japanese academia and the grave situation of the world during World War II. The introduction of Sartre into Japan began with the sketch or translation of his works. These efforts easily made it possible to treat the works of Sartre as a whole. An assortment of studies appeared such as those which discussed his thoughts on the problematic of ego based on Husserlian phenomenology, those which concidered his thoughts as an anthropology founded on the relationship between the self and the other, and those which considered him to be a man of letters tackling every kind of task important for the modern human. Each one of these studies focused on the thinker in its own characteristic way. However, as Sartre altered the form and content of his works, and was held in high reputation as the intellectual who acts, the studies on Sartre gradually began to move in another direction. They came to project Sartre as an existentialist in the foreground of their interpretations.
著者
高埜 利彦
出版者
学習院大学
雑誌
学習院史学 (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.41-55, 2015-03
著者
高埜 利彦
出版者
学習院大学
雑誌
学習院史学 (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
no.53, pp.41-55, 2015-03
著者
武藤 那賀子
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2014

1. 問題意識と研究の目的本論は、『源氏物語』より数十年前に成立したとされる『うつほ物語』における「書かれたもの」に着目し、その機能について考察するものである。これまでの『うつほ物語』の研究は、巻々の論や人物論、琴や学問、羅列される物の論考といったものが主であった。しかし、『うつほ物語』には、これらとはまた別の、固有の特徴として挙げられる事項がある。それは、物語の最初から最後まで、紙だけではなく物に文字を書きつけるという行為が多くみられ、かつ物語の展開の中でこの行為が重要な役割を担っていることである。これまで、物に文字を書きつけるというこの物語独自の人物間のコミュニケーションについて述べた論考は少ない。本論では、物に文字を書きつけるという行為を中心に据え、『うつほ物語』において贈与される言葉と、それに付随する物について見ていき、過去に「稚拙」の一言で片づけられていた本物語において行なわれてきた「言葉」を贈る行為について考える。そして、これを発端として、この特徴的な行為を行なう藤原仲忠という人物について見ていくことで、「清原一族」が作り出した三つの〈系譜〉を考察する。2. 本論の構成と方法本論では、九つの観点から『うつほ物語』における「書かれたもの」の機能を考察しており、それぞれの観点を章としている。各章の概要については、以下の通りである。第一章では、紙以外の物に文字(和歌)を書く場面が多くあることが『うつほ物語』独自のものであることに着目し、物語内で一貫して物に文字を書き続ける藤原仲忠に焦点を合わせる。この検討から、『うつほ物語』における物に文字を書きつけるという行為が一定の論理の元に描かれている可能性があることを指摘した。第二章では、源実忠が文字を書きつけた物を取り上げ、第一章で見た仲忠と比較した。また、あて宮との意思疎通に成功した仲忠の方法を詳細に見てゆくことで、「書きつける」ことから見えるこの物語の言語認識が、文字に対する『うつほ物語』独特の認識を根底に置いた上で成り立っていることを示した。第三章では、人物たちの筆跡、すなわち〈手〉に着目した。筆跡は、書いた人物を特定するものであると共に称賛の対象となっている。特に素晴らしいとされるのが仲忠である。このことは、「蔵開・上」巻の冒頭において仲忠が俊蔭伝来の蔵を開き、清原俊蔭や俊蔭の父母といった人々の書物を手にし、その学問を習得したことと関係があることを示した。第四章では、手紙の機能について述べた。『うつほ物語』に出てくる全ての手紙についてその特徴を七つに分けた。『うつほ物語』では、人物関係の補強・拡大、もしくは信頼の獲得として手紙が機能しているといえる。またそのことから、『うつほ物語』における手紙の「安定性」が見えてくる。第五章では、仲忠が藤壺の若宮に献上した「手本四巻」について論じた。俊蔭伝来の蔵を開いた仲忠の筆跡は称賛されるものであった。仲忠の「手本」は、受け取り手から見れば至上のものである。しかし、仲忠にとっては「手本」は至上のものではない。このことから、至上のものとして「手本」を認識し、またしたがって、それに続く〈琴〉を求める藤壺と、「手本」は「手本」でしかなく、〈琴〉を教えるつもりのない仲忠の思惑がすれ違うことが明らかになるのが、若宮への手本献上の場面であると指摘した。第六章では、俊蔭伝来の蔵から書物が出て来てからの仲忠の行動を追った。仲忠は、俊蔭伝来の蔵を開いたことにより、「清原氏」としての自覚を持った。そして、母屋に八ヶ月間籠って〈学問〉を継承するとともに〈手〉も継承した。またいぬ宮を〈琴〉の継承者とした。このことから、〈琴〉のみならず、〈学問〉においても、「籠る」ことによって継承者が継承者たりえることを示した。第七章では、「蔵開・中」巻における朱雀帝の御前での〈学問〉の進講に着目した。従来、菅原道真の「献家集状」との関連のみが指摘されてきたこの進講を、本論では史実の進講とも比較し捉え直している。「清原家」の学問が、一氏族の学問でしかないものであるにも拘わらず、それを公のものにするべく、『日本紀』の進講と同じ形式を採っていたことを指摘した。さらに、『日本紀』の進講と同じ形式を採ることにより、春宮の権威付けと、清原家の学問の家としての権威付けを図っていることを示した。第八章では、〈琴〉と〈学問〉の公開の場を比較し、時刻表現・〈香〉・空間の三点において、この二つの場の構造が相似関係にあることを指摘した。また、秘曲を披露する前に必ず学問披露の場があることから、〈琴〉の公開の場と〈学問〉の公開の場が一対のものであるといえることを示した。第九章では、清原家の系譜――〈琴〉・〈学問〉・〈手〉――の全てを担っている仲忠に着目し、これらの継承されるものが、どのようにして次世代に伝わっていくのかについて考察した。〈琴〉はいぬ宮が継承者となっているが、〈学問〉を伝える先は決まっておらず、また、手本は春宮と藤壺の若宮という、清原家とは無関係の人々へと伝わっていく。また、「楼の上・下」巻での秘琴披露において、俊蔭の娘の体調が思わしくないことも踏まえ、「清原家」の継承されてきたものが、消えていくことを示した。過去の論考において、〈琴〉の系譜について述べたものは多く、また、「蔵開・上」巻において、仲忠が清原家の「学問」を継承したことを述べたものも多い。しかし、仲忠が継承した〈学問〉を「系譜」として捉え、また、「学問」から仲忠が独自に作成した手本もまた、「清原家」を負うものとして位置付けられていると述べるものは見られない。本論が、『うつほ物語』の「清原氏」を「書かれたもの」から捉えるという、新たな知見を示すものとなれば幸いである。
著者
中野 春夫
出版者
学習院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2014-04-01

本研究は16世紀イングランド文学における浮浪者(vagabond)表象の分析である。本研究がこの社会集団に注目する理由は、16世紀の浮浪者が社会変化によって生みだされた近代最初の公的な貧困者たちであり、同時代のイングランド文学がこの集団に対して差別的イメージの原点となる負のステレオタイプを貼りつけたことにある。本研究は引籠りや離職者から、特定の外国人(ジプシーやアイルランド人など)、特定の職業(鋳掛屋や行商人など)まで一括して浮浪者と呼ばれた社会集団の表象において、16世紀イングランド文学が議会制定法、歴史書、パンフレットとの相互影響関係の中で特異なイメージを発達させた過程を歴史的に解明した。
著者
芹澤 円
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学ドイツ文学会研究論集 (ISSN:18817351)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-30, 2011-03

Gegenwärtig gibt es viele verschiedene Informationsmedien. Wir können gleich ein Ereignis, welches in einem fernen Land passiert ist, erfahren und können sogar, z.B. durch eine Rundfunkübertragung, ein lebendiges Gefühl davon bekommen. Die besondere Form des Massenmediums, einer Menschenmenge Informationen mitzuteilen, geht schon bis auf die Reformationszeit zurück. In der vorliegenden Arbeit untersuche ich das damals neue Papiermedium und analysiere Flugblätter in Hinsicht auf visuelle Informationen und in Hinsicht auf ihre Sprachformen als effektvolle Mittel der Überredung. Ohne die Erfindung der Drucktechnik wäre wohl überhaupt keine Reformation passiert. Nach der Erfindung des Typendruckes durch Johannes Gutenberg um 1440 nahm die Produktion von Druckerzeugnissen sprunghaft zu, und auch die zunehmende Papierproduktion war davon beeinflusst. Wegen dieser beiden Hauptursachen konnte das einfache Volk damals Druckerzeugnisse einfacher und billiger erhalten. Das beachteten die Reformatoren, denn sie versuchten bald mittels Flugblätter zu reformieren. Sie verbreiteten ihre Ideen nicht nur durch den Text, sondern auch durch Holzschnitte oder Kupferdrucke – und zwar vor allem als Flugblätter, die sowohl Bild- wie Textelemente umfassen. In dieser Arbeit analysiere ich auch den damaligen Prozentsatz der des Lesens und Schreibens Kundigen. Da dieser recht gering war, muss in Hinsicht auf die damalige Kultur von einer ,Stimmenkultur' gesprochen werden, die ich in Verbindung mit den Flugblätter setze. Damals gab es nur wenige Schriftkundige: zum Beispiel betrug der Prozentsatz der Schriftkundigen sogar in einer Stadt nur ca. 10 bis 30 Prozent. Kurzum: Für den weitaus größten Teil des Volkes wurde das Leben von der Stimmenkultur bestimmt. Ich vermute, dass dieser historische Hintergrund bei der Struktur der Flugblätter eine wichtige Rolle spielt, denn in vielen Flugblättern gibt es Hinweise auf das ,Vorlesen'. Zum Beispiel haben die Reformatoren auf den Flugblättern häufig Holzschnitte gedruckt, um damit den Analphabeten die Möglichkeit zu geben, den Inhalt der Flugblätter zu verstehen. Außerdem haben sie oft die Texte in Reime gebracht, weil das sehr nützlich beim Vorlesen war und sich die Zuhörer die Reime leicht merken konnten. Ich habe weiter zu analysieren versucht, welche rhetorischen Mittel sowohl in den Zeichnungen bzw. Bildern und den Texten der Flugblätter benutzt werden. Zuerst bemerkte ich, dass die meisten Zeichnungen fast alle das darstellen, was im Textinhalt auch erwähnt wird. Das ist verständlich, denn die Zeichnung ist für Analphabeten die beste Information. Und wenn man sich die Texte ansieht, dann fällt die Verwendung des Reims ins Auge. In vielen Flugblatttexten werden Reime verwendet, die eine Funktion beim Vorlesen haben und damit Teil der ,Stimmenkultur' sind. Weiter ist auffällig, dass in den Texten, viel mehr als ich erwartet hatte, rhetorische Mittel zu finden sind: Zum Beispiel gibt es Parallelismen, Antithesen, Hyperbeln usw. Häufig wird auch der Name von Christus erwähnt oder treten Bibel-Zitate auf. Damit wollte man sich wohl auf die göttliche Autorität berufen. Aber es gibt nicht nur ernste Flugschriften, sondern andere, die satirische Zeichnungen und spöttische Texte enthalten, die also zur Freude und Belustigung der Zuhörer und Leser dienten. Als Teil der oben erwähnten ,Stimmenkultur' waren Flugschriften der Reformationszeit sehr populär. Diese Popularität machen die Flugblätter meiner Meinung nach zu einem tatsächlichen Massenmedium. Die Methode der Informationsübermittlung war aber, im Unterschied zu heute, dass sich die Menschen einander die Flugblätter vorlasen. Wenn die Reformatoren im Volk ihre Meinungen zu verbreiten versuchten, war es am wichtigsten, Texte und Bilder der Flugblätter auf rhetorisch wirksame Weise besonders effektvoll zu gestalten.
著者
安江 明夫
出版者
学習院大学
雑誌
研究年報 (ISSN:04331117)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.105-140, 2010