著者
内藤 康彰
出版者
学習院大学
雑誌
若手研究(スタートアップ)
巻号頁・発行日
2007

本研究では出芽酵母細胞の液胞とミトコンドリア代謝活性の相関についての新たな知見を得た。ある培養条件下で出芽酵母生細胞の液胞中にダンシングボディと呼ばれるブラウン運動する顆粒が出現、消失する事が分かった。ダンシングボディとミトコンドリア代謝活性の相関を調べるために、ダンシングボディ出現・消失時におけるミトコンドリアの時空間分解ラマン測定を行った。その結果、ダンシングボディとミトコンドリア代謝活性に強い相関がある事が明らかとなった。
著者
保坂 裕興 高埜 利彦 安藤 正人 入澤 寿美 森本 祥子 小風 秀雅 針谷 武志 水谷 長志 君塚 仁彦 水嶋 英治
出版者
学習院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2010

本研究による組織構成及び各種機能を含んだ規程等の提案を受け、2011 年 4 月、学習院アーカイブズが学校アーカイブズとして開設された。それにあたり世界16 言語と web リンクをもつ関係用語集を作成するとともに、公開研究会を開催してその役割・機能を論じ、さらに教職員を対象とする講習会を実施して記録/アーカイブズ管理の理解向上をはかり、その運営に理解を求めた。また、主たる所蔵資料である戦前期宮内省学習院公文書の基本構造を明らかにし、その鍵となる史料をアーキビスト教育の授業教材として用いた。以上を科研報告書にまとめ刊行した。
著者
臼居 太美恵
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.65-87, 1994-09

In Tanizaki's early works, it tends to discuss mainly those shocking characteristics-masochism, diabolism-. Because in mally cases, those shocking characteristics are liable to be remarked. They are too remarkable to conceal other important things. In"Himitsu", that is"leatari"."featari', of"Himitsu"is efFective because it is cQncealed. In this paper, this paradox is the keypoint to decipher"Himitsu,,.
著者
上野 絵里子 Eriko Ueno
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2015-10-01

本論文の目的は、戦争期の経済変動の法則性を分析し、軍備とそれ以外の経済活動とのトレードオフを論じた「大砲対バター Guns vs Butter 」について、一国の産業構造全体から検討を加えるものである。本論文の構成は2部からなる。イントロダクションにあたる第1章及び第2章では、戦争期の経済変動パターンないしは法則性について景気循環の分析手法を元に分析を行った。第2部にあたる第3章及び第4章では、第1章及び第2章での観察結果を踏まえながら、産業連関表を用いて一国の経済変動とその因果関係について産業構造面から分析を行った。本論文の背景にある問題は2つある。「大砲対バター」とは戦争や軍事支出が持つ機会費用や民間経済とのトレードオフを例えて論じたものである。「大砲対バター」の議論は大きく2つに分けることができる。1つ目は、国際レベルの分析であり、戦争や国防支出が各国家のパワーシフトに与える影響を分析したものである。2つ目は、国内レベルの分析であり、国防が国内社会、経済、政治に与える影響を分析したものである。国際レベルで戦争が国家経済にもたらす影響を分析した研究の多くは、戦争によって生産要素の人的・物的資本が破壊される国と、人的・物的資本が破壊されずに戦争を行える国とが同時に分析されてきた。このため、これらの戦争の経済効果についての結論は非常に曖昧なものとなってしまう傾向がある。一方、国内レベルでは、国防がどのような効果を持つのか議論した代表的なものに「軍産複合体」の議論がある。これらの議論は、国防支出の使い道についての分析が中心であり、戦争経済学の議論を除けば、戦争期の経済変動パターンがどうなっているのかは、あまり注目をされていない。そこには、戦争をすれば多大な国防支出を出費するはずであるという暗黙の認識が多くの場合横たわる。また、国内レベルでの戦争の経済効果を分析したものは、第二次世界大戦やベトナム戦争といった個別の事例のみの分析や、戦争とその後に訪れる戦後不況とを同時に分析する傾向がある。このため、戦争期の経済変動パターンにある種の法則性を見出すことはできなかった。これまでアメリカは、戦争を繰り返すたびに自分たちが不況から脱し、戦後に不況が訪れることを経験してきた。戦死者数でアメリカの戦争をみると、第二次世界大戦は全人口の0.31%であり、また、長期戦であったベトナム戦争ですら全人口比の0.03%であった。第二次世界大戦期の日本やベトナム戦争期のベトナムの戦死者数などと比較すれば、どこが戦場になるかによって戦争の衝撃が国ごとに異なることをこのデータは示唆している。このように、戦争によって生産要素である土地、資本や労働力が破壊を受ける国と受けない国にもたらす戦争の経済効果は、それぞれ別々に再考されても良いのではないかという疑問が背景にある。また 国内レベルで「大砲とバター」の関係を考える場合、特に政治学の世界では、常に「政府か、国民か」というように問題を二極化する傾向がある。このため、その分析対象は政府や政府を中心とした特定産業ばかりに焦点が当てられてきた。しかし、一国の経済活動は、「風が吹けば桶屋がもうかる」ではないが、一つの産業に需要が生じると、次々と連鎖反応をおこし、全く関係のない産業へもその効果は波及していくものである。この他産業への波及効果を無視して、軍事支出を決定する政策決定過程や軍事支出が初めに生じた産業やその周辺の限定された特定産業にのみ注目をすることは、本当に一国の経済活動を分析する上で正しい議論なのであろうか。本論文では上記の2つの問題に関して、具体的に次のような手順で分析を行った。先ず、第1章では、景気循環の分析手法にならい、長期時系列データを用いて戦争期と戦間期の経済変動の違いを、支出面、所得面及び生産面から比較し、各データの変動幅、変動のタイミング、変動の持続期間についてグラフを用いて分析を行った。失業率などのように「率」に変換されていない経済変数については、インフレ的影響を除去するため、前年比変化率を用いた。また、湾岸戦争は戦争期間が他の戦争に比べて短いため、92年のデータに加え四半期及び月別データを用いて分析を行った。これによって、長期時系列データの中での戦争期には共通の経済変動が存在することが観察された。主要な分析結果は1)戦争期には経済は拡大し、不況期は戦争終盤から始まる、2)戦争期の好況を支えるものは、軍事支出ではなく、個人消費および民間投資である、3)冷戦中の戦争と冷戦後の戦争には経済変動のパターンに違いが見られる。4)冷戦中の戦争は戦争に先立つこと2、3年前から経済は上昇を開始する。一方、冷戦後の戦争は、戦争開始を起点として経済の上昇が始まるなどである。これを受けて、続く第2章では、長期時系列データから戦争期のみをスライスし、経済成長に対する各変数の寄与度を用いて戦争期の変動規模、変動傾向の分析を行い、戦争期の経済的特徴をより詳細に分析した。主要な分析結果は1)多くの指標で、戦争のタイプは異なるにもかかわらず、経済変動は同じような変動パターンを示す。2)変動のタイミングは戦争のタイプによって異なる、3)政府支出は朝鮮戦争以外、全部の戦争で同じ変動パターンを示すなどである。続く第3章及び第4章では、これまで第1章や第2章で見られた経済変動の傾向について、アメリカの産業連関表を用いて産業構造の観点から分析を行うこととした。先ず、第3章では、アメリカの産業構造を簡単に概観し、分析の基礎となる産業分類や産業連関表の作成手順などについて述べた。アメリカの産業構造は1947年以来、ペティ―クラークの法則のとおり、第1次、第2次産業のシェアが減り、第3次産業のシェアが徐々に伸びてきた。しかし、これらの産業を民間産業として1つのくくりで見ると、1947年以来、そのシェアは86%を一貫して維持している。即ち、アメリカの経済構造は8割以上が民間の経済活動によるものであり、70年という時が流れてもこの規模に変化は生じていなかった。一方、時代とともにアメリカの第3次産業が伸びてきた背景には、第1次産業及び第2次産業の存在があるものと考える。なぜなら、経済活動は、原材料(第1次産業)があって初めて製品を製造することができ、製造品(第2次産業)があって初めて高付加価値のサービスを提供する第3次産業が存在できるからである。そこで、産業連関分析を行うにあたっては、製造業を中心に分析できるよう産業連関表を作成した。また、本論文の分析目的に合わせ、アメリカの「国防資本産業」について定義した。極力恣意性を排除するため、アメリカ合衆国センサス局が毎月作成している通称M3データ(製造業出荷、在庫及び受注データ)で使用されている財の分類に従い、本論文ではM3データの「国防資本財」を扱う産業を「国防資本産業」として定義し、産業×産業の33部門の産業連関表(以下33部門表と略す)を作成した。第4章では、この33部門表を用いて、国防資本産業の投入構造などを見た上で、最終需要が各産業へもたらす生産波及効果を分析した。まず、影響力係数及び感応度係数を用いた分析では産業間の相対的な関係を見た。次に、最終需要項目に基づく生産誘発額の分析では、国防支出をはじめとする最終需要によってどの産業がもっとも影響を受けるかを見た。続く、最終需要項目別生産誘発係数では、最終需要項目の生産誘発力を見た。また、最終需要項目別生産誘発依存度では、各産業がどの最終需要に依存しているのか、国防資本産業を中心に見た。最後に、今回作成した33部門表を用いて、アフガン・イラク戦争期の需要項目の変化が各産業に与える影響を試算した。以上の主要な分析結果は1)国防資本産業の他産業への影響力や他産業との関係は非常に小さい、しかし、国防資本産業に需要が生じると、全部の産業に需要が生じる、2)軍事支出は国防資本産業に全額生じているものではなく、軍事用消費支出、軍事用設備投資、軍事用建設投資及び軍事用知的財産投資などの支出項目によって需要構造は異なる。3)最終需要項目の中で産業への影響力が強い項目は民間投資及び政府支出である。中でも、設備投資および建設投資は産業への生産誘発力が高い。4)個人消費の生産誘発力はそれほど強いわけではない。しかし、個人消費支出にその生産誘発を依存している産業は多いなどであった。こうした結果は、第1章および第2章で漠然と見られた傾向を産業の生産活動の側面からも裏付ける結果となった。本論文での研究はアメリカを事例に行った。しかし、多くの国についても同様の分析が可能であり、その国際比較もまた可能である。長期時系列データや産業連関表を用いることにより、物事を全体の中で捉えることが可能になる。一部分だけを観察していては見過ごしてしまう事象も巨視的に観察すれば見える場合があるのである。
著者
山口 和夫 Kazuo Yamaguti
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2019-06-20

一 本稿の主題本稿は、近世日本の政治史を、天皇・朝廷の存在と機能に視点をあて、通時変化にも留意して叙述するものである。日本史上、天皇は古代・中世・近世・幕末維新期・近代を経て、今なお存続する存在である。天皇に関する研究が盛んな他の時代に比べ、戦国期の没落以降、豊臣政権を経、江戸幕府が成立し、強大な将軍権力のあった近世期についての研究蓄積は多くない。天皇がなぜ長期的に存続したかを解明するためには、どのようにして近世期に存在したのかを問う必要がある。近世京都の天皇は、終身在位する明治天皇以降の近代と異なり、生前譲位を基本とした。譲位後の上皇・法皇は、京都の仙洞御所に居し朝廷内で院政をおこなった。日本の近世社会を構成する基本単位は、家であった。天皇には天皇の家があり、天皇家、公家衆諸家、世襲親王家、諸門跡、地下官人諸家などは、朝廷という重層的な集団を構成した。洛中洛外の社家も、御所の奉仕者、非蔵人や後宮の女官を供出した。それぞれの家は、家に伝わる官職や技芸、家職を世襲した。天皇家では、皇位と祭祀祈祷・学芸などを世襲・相伝した。諸家の集合体である朝廷は、社会と諸関係を結び、国家的祭祀や官位叙任による序列編成などの政治的宗教的機能を担った。近世の天皇を研究するためには、天皇の基盤であった朝廷を問い、武家の権力や社会との関係を問う視点が求められる。このような考えから、題目を『近世日本政治史と朝廷』とした。二 本稿の論点と構成本稿の主要論点、課題は次の三つである。第一には、近世初頭から後期までを通観する通時変化の視点。朝廷の近世化が問題となる。戦国期に政治的・経済的に衰退した朝廷という集団がどのようにして近世を迎えたのか。武家の政権権力編成の客体としてのみでなく、朝廷側の動向や、公武、朝幕両者の相互関係、朝廷内部の構造変化を問う視点から集団の近世化を追究する。その際、豊臣政権期から江戸時代までを通観するよう努めた。論点の第二は、院の問題である。経済的衰退で途絶した生前譲位の復活に伴い、近世には院と院御所(仙洞御所)、院の組織が存在した。院、上皇は、幕末維新期に存在しなかったため、当時を体験した下橋敬長の懐旧談『幕末の宮廷』(平凡社東洋文庫、1979年)に含まれず、幕末維新史研究で言及されてこなかったが、近世天皇家と朝廷の柱となる構成要素である。 これは、朝廷組織の問題につながる。豊臣政権、江戸幕府の後援で生前譲位を回復した天皇家・朝廷は、17世紀の相続事情の結果、天皇御所と3人の院御所とが併存・群立する時代をもった。天皇親政と譲位、院政、政務移譲による親政の循環構造と組織編制、内部課題を解明する必要がある。武家政権との共生による再建にともない、朝廷の経済規模、構成員はとも近世に増加した。近世朝廷の成長、内部組織の整備、組織編制について、江戸幕府との関係を交え、朝廷の自律性を問うものとする。「叡慮」、天皇の意志とその統御を重視する議論に対して、申請者は朝廷内部の構造、および将軍権力・幕府との関係の相互を検証しなければならないと考える。 論点の第三は、近世朝廷、朝幕藩体制解体契機の問題である。江戸幕府の経済的支援と政治的関与で強固に保持された体制が、いかに変化したのか。近世朝幕藩体制の解体契機は、一般には外圧、ウェスタンインパクト、対外的危機から説かれる。藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)・『近世後期政治史と対外関係』(東京大学出版会、2005年)は、その一つの到達点で、対ロシア関係、北方危機を踏まえ、幕末に至る朝幕関係変化を寛政期まで遡及させ論じている。さらに高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』(東京大学出版会、1989年)・『近世の朝廷と宗教』(吉川弘文館、2014年)は、近世朝幕関係に延宝期、宝暦期の二つの画期を設定し、ゆるやかな変容を描くとともに、多様な家職間争論における家職組織の広域展開と朝廷機能変化とを重視し、朝儀・神事における排仏排穢措置から、近代に先立つ神仏習合の喪失を明らかにし、プレ神仏分離と位置づけている。 高埜・藤田両氏の議論には、近世化の徹底であり、近代の予兆ではないとする宮地正人「明治維新の論じ方」(『駒澤大学史学論集』30、2000年)の強い批判もある。本書では、三者の仕事に学び、家職論や習合の喪失について、高埜学説の個別実証(学習院大学文学部史学科卒業論文「職人受領の近世的展開」、1985年12月20日脱稿・提出、のち改稿して日本歴史学会編集『日本歴史』に投稿、同誌505号、1990年6月掲載)から開始した申請者の現段階での展望を、朝廷内部での矛盾進行、社会との関係変化の相互関係を究明する視点を加味して示したい。ここで本稿の構成について記す。 *第一部「公儀権力成立と朝廷の近世化」には、15世紀の内乱以降、室町幕府とともに経済的に衰退し、生前譲位・諸朝儀の用度や要員にも事欠いた朝廷が、いかにして近世を迎えたのかを扱った論稿と、豊臣政権、江戸幕府―両者を公儀権力あるいは統一権力というーの施策を扱った論稿を収めた。公儀権力の成立過程を朝廷との関係から説くもので、知行宛行・諸法度発令による役儀設定を媒介に、身分把握され、統一的知行体系に包接され、全体秩序構築に集団ぐるみ動員されて寄与するとともに、朝廷自体も近世化を遂げた過程が対象となる。研究史上、高埜利彦氏の業績で残されていた朝廷の近世的秩序化を主題とした一章「統一政権成立と朝廷の近世化」と、二章「近世武家官位の展開と特質」とでは、豊臣政権期と江戸幕府期とを通観し、両者の政策の共通点と転換を明らかにするよう留意した。三章「将軍権力と大名の元服・改名・官位叙任」・四章「徳川秀忠・家光発給の官途状・一字書出について」では、幕藩初期の大名に対する武家官位を通じた権力編成を扱い、五章「寛永期のキリシタン禁制と朝廷・幕府」では京都におけるキリシタン禁制を朝幕関係の文脈から論じた。 *第二部「近世朝廷の成長と変容」には、公儀権力に動員されて自らも近世化を遂げ、豊臣政権・江戸幕府の支援で生前譲位・院御所を回復した以降の朝廷の、経済・構成員拡張と組織整備、院政に関する論稿を収めた。近世の院の政務と組織機構も、従来の研究蓄積に乏しく、開拓に努めたところである。一章「生前譲位と近世院参衆形成」では、後陽成院・後水尾院御所の番衆、院参衆と取次を解明した。二章「天皇・院と公家集団」では、17世紀の天皇家の相続事情と御所群立、天皇親政と院政の循環構造、禁裏や院の番衆編成と機構整備、職制昇進階梯形成、18世紀に固定化する堂上諸家の階層分解、内部矛盾を包括的に説いた。三章「霊元院政について」では、霊元院の17世紀後期、18世紀初期の二度の院政と朝幕関係を扱い、四章「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」では17・18世紀の天皇・院や摂家の幕府観から朝廷・幕府体制について検証し、学界・社会で定説のないまま流用されてきた下御霊神社所蔵、京都国立博物館寄託、国指定重要文化財「霊元天皇(法皇)願文」の成立年代・記載内容解釈を関連史料から確定させ、近世の朝廷・幕府の両者が一体不可分の構造にあることを論証した。 *第三部「家職の体制と近世朝廷解体の契機」には、18世紀から19世紀にかけての朝廷内部や朝幕関係の変容を対象に、強固な朝廷・幕府体制の解体契機を問う論稿を収めた。家職へ着目した先行研究は存在したが、近世初頭から幕末まで通観し、事例拡充に努めた。一章「近世の家職」では、公家衆が世襲・相伝した家職に着目し、近世化の過程から幕末維新期までを展望した。二章「石清水八幡宮放生会の宣命使」では、17世紀終盤幕府の認可と財政出動により再興された朝廷儀式の一役者が、18世紀に五摂家諸大夫層により巡任・占有される様相を述べた。三章「職人受領の近世的展開」では、18世紀の朝廷が、職人受領の官位叙任制度秩序化のため江戸幕府の後援を得た施策と、その余波で権利を失いかけた真言宗三門跡の回復・広域展開活動を扱った。四章「神仏習合と近世天皇の祭祀」では、近世の天皇が世襲・相伝し自ら実修した神道・仏教の祭祀祈祷すなわち近世天皇の家職の一端と、朝廷の祭祀、寺社の祭祀の三者の様相を述べ、明治維新による変容にも言及した。五章「朝廷と公家社会」では、朝廷の近世化、成長・機構整備と階層分解の矛盾・桎梏、公家社会外への利権獲得動向、近世京都公家町の土地制度について要約し、概括的に述べた。 *三 各部の小括と全体の結論第一部「公儀権力成立と朝廷の近世化」では、戦国期の動乱で衰退した朝廷が、統一政権成立に関わり、近世的秩序化を遂げる過程を、第一章を中心に論じた。近世の公儀権力は、慶長20年(1615)、大御所家康・将軍秀忠・関白二条昭実連署の「禁中并公家中諸法度」を制定・公布し、天皇をも法規範で束縛した。けれども、法度制定の意図は、天皇の習得・体現すべき「諸芸能」「学問」を規定して、定員のある公家当官への豊臣期の武家参入問題を解消し、公家の官職枠を保全して公家・武家の役・身分の別を定め、朝廷集団の朝議運営と朝儀執行体制を整備し、近世の体制に適合的に機能させることにあった。近世の武家権力、江戸幕府による朝廷抑圧・封じ込め策という理解は適切でなく、朝廷再建策の一環として評価すべきものである。 *第二部「近世朝廷の成長と変容」では、近世化を遂げた以降の、近世前期の御所群立と朝廷構成員増加による諸相を論じた。天皇・院は、朝廷=公家身分集団の長であったが、強大な将軍権力を認識し、自身の裁量権限の範囲を自己規制していた。近世の体制下、天皇家は京都での最恵層にあり、幕府からの助成には一定の自足感も抱いた。霊元院(法皇)最晩年の享保17年(1732)の自筆祈願文には、「大樹」(将軍吉宗)への期待が明記されており、「朝廷復古」を標榜した獲得目的は、江戸幕府と共存してその人事権と財政出動に依存しつつ、助成を引き出し、応仁の乱後に廃絶した諸朝儀の再興を果たすことにあった。霊元と近衛基煕との幕府に対する路線の相克という見解(久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年)も、院政第二期の公武合体路線や願文の内容、さらに後継者一条兼香と桜町天皇の行動を含めて検証すると、肯定できない学説である。霊元院と一条兼輝・兼香の共通項として重視すべきは、垂加神道への接近と朝廷神事再興への傾斜であり、近世の歴代天皇・院が、江戸幕府に反感を持続して、全面対決や権力闘争の主体となったとは考えられない、というのが四章の結論である。幕末維新期への展望に言及すると、先行研究(藤田覚『近世政治史と天皇』吉川弘文館、1999年)が重視する光格天皇の行動も、江戸幕府に期待・要求し、幕府の許容範囲内に留まるものであった。武家伝奏人事の事例では、朝廷からの候補者を江戸に示す内慮伺いに応え幕府が決定する方式が、文久2(1862)年まで続けられ、同年末に初めて朝廷で決定し、幕府に事後伝達するように転換した(平井誠二「武家伝奏の補任について」『日本歴史』422、1983年)。文久3年3月7日に将軍家茂が参内し、初めて政務委任の勅命への謝辞を述べた。幕府による大政委任の制度化はこの時に始まった。管見の限りでは、これ以前に幕府が大政委任論を公表したことはない。 幕末の国際関係と国内の政局で、朝廷から幕府への信頼は低下したが、孝明天皇の幕府への期待と佐幕主義は不変だった。慶応3(1867)年12月の「王政復古」は、「神武創業之始」への回帰を宣言し、幕府とともに近世朝廷の摂関・武家伝奏らの職制と、公家社会の五摂家・門流諸家間の隷属関係などの秩序を、あまねく否定・解体するものであった。本稿では、朝幕関係の転換を早い時期に検出しようとする動向(藤田覚『近世天皇論』清文堂、2011年)に対し、近世の朝廷・幕府の不可分の関係と体制の強固さを主張する。 *第三部「家職の体制と近世朝廷解体への契機」では、かかる強固な体制を揺るがせ、変質させる要素について論じた18世紀後半以降の、諸公家・諸門跡らの家職組織経営や金融活動の近世後期社会への広がりを、朝廷の近世化の徹底とみるか(宮地正人「明治維新の論じ方」『駒沢大学史学論集』30、2000年)、幕末維新期に向けた朝廷権威の浮上と評価するか(高埜利彦『近世日本の国家権力と宗教』東京大学出版会、1989年))は、研究者間で見解が分かれている。だが、朝廷内部の閉塞状況下、公家・門跡が公家社会外での活動に乗り出し、利権を確保していったことは確実である(第三部第三章)。公家たちの近世社会における存在感が増すと、朝廷の頂点にある天皇への意識・関心も高揚したと考えることができる。公家社会内外での天皇観の転換については、第三部第四章で述べた。論点の第一は、朝儀再興・朝廷神事拡充と神仏隔離・排仏排穢措置の拡大である。元文3(1738)年、江戸幕府・将軍吉宗の後援下で大嘗祭が再興され、5年に新嘗祭が再興された。天明の大火と寛政度内裏再建を機に、寛政3(1791)年11月20日、内裏に神嘉殿代東西舎など仮屋を建て、数百年中絶していた新嘗祭行幸が光格天皇により再興された。前年には、建武3年(1336)廃絶後は、石灰壇代の流用で凌がれていた清涼殿石灰壇が復元され、天皇の「毎朝の御拝」の場も整備された(石野浩司『石灰壇 「毎朝御拝」の史的研究』皇学館大学出版部、2011年)。これ以前、延享元(1744)年には、甲子改元時の上七社・宇佐・香椎宮奉幣使発遣が、幕府の許容と経費負担を得て再興された(高埜、前掲書)。内裏には、黒戸と呼ばれる持仏堂があり、歴代天皇の位牌や念持仏が祀られていたが、文政元年(1818)、仁孝天皇の大嘗祭の前後、黒戸の器物は大聖寺へと搬出・預託された。朝廷神事のたびごとに、内裏や公家町、洛中で、また奉幣使発遣の沿道でも、仏事・仏具や寺の鐘・僧侶らの仏教的要素は隔離・遠慮させられた。近世の大嘗祭・新嘗祭再興と恒常化、場としての神嘉殿再興など、天皇親祭神事の充実と朝廷神事の拡充とは、天皇の宗教性に関わる重要な論点といえる。論点の第二は、廃仏論・即位灌頂否定論の台頭である。中世に成立した即位灌頂という仏教、密教の即位儀礼は、天皇と大日如来が一体化する秘儀として代々承継された。近世には摂家間で新天皇に対する印明(手に結ぶ秘印と唱える真言)伝授の権利をめぐる争論を繰り返しながら、関白・摂政の職分ではなく摂家二条家という家の家職として確立・定着した。享保20(1735)年の最後の争論で、関白近衛家久は「朝廷の重事」に臨む「執柄の臣」(摂関)の任とであると主張したが(「近衛文書」九)、「即位灌頂のこと重事に候」と認識した中御門上皇は、近世の実績を勘案して、左大臣二条吉忠に桜町天皇への伝授を命じた。上皇は、家久には女房奉書を自ら認めて慰撫し、印明伝授は二条家固有の家職として確立し、幕末まで存続した。けれども弘化4(1847)年、孝明天皇の即位灌頂時、参議野宮定祥や議奏東坊城聡長は、日記に即位灌頂を全面的に否定する廃仏観を記している。つづく慶応4年(1868)明治天皇のとき、即位灌頂は廃止された。天皇観の転換に関する論点の第三は、天皇の神格化の問題である。即位灌頂の意義低下と対照的に、江戸幕府の財政援助により近世に再興され、持続された大嘗祭の理解・意義付けが変化した。元文3(1738)年、再興時の関白一条兼香は、大嘗祭は天皇が神に供え物をする儀式である、という近世以前からの理解を踏襲したが(「兼香公記」元文2年12月15日条)、本居宣長以降の復古神道神学では、天皇が神格化する、という理解に転換を遂げた(宮地正人「天皇制イデオロギーにおける大嘗祭の機能」『歴史評論』492、1991年)。後期水戸学を代表する会沢正志斎の文政6(1825)年の著作「新論」は、幕末に広く受容されたが、大嘗祭を「神州」の「国体」を維持する礼制の中枢に位置づけている。 天皇観変化の要因として、天保11年(1840)の光格上皇没後、近世朝廷に院が不在で、仙洞御所に主がなく、朝廷内権力の分散もなく、天皇家の少子化による皇位継承への不安を増しつつ、天皇一人への求心性を高める状況が続いたことも想定し得る。本居国学、後期水戸学などの動向を解くためには、平田国学神道論の深化を含む思想史の問題を組み込む必要があるが、本稿ではなし得ていない。朝廷内外で価値観、天皇観の転換が進んだ一方で、朝廷・公家社会では、幕府に後援された関白・摂家が、絶大な権限、特権を維持し続けた。天皇の諮問に預かる勅問衆は、江戸前期には摂家の大臣に限定され、やがて摂家の当主であれば、大納言や中納言にまで構成を拡大した(田靡久美子「近世勅問衆と朝廷政務機構について」『古文書研究』56、2002年)。官位評議での諸公家の官位昇進人事も、天皇・院と摂家との間で調整・決定され続けた。朝廷の意思決定から疎外された非職の公家たちは、安政5(1858)年の条約調印勅許問題をめぐる群参、幕末の朝議参画機構の改編などを要求したが、摂関職と摂家・門流諸家間の隷属関係とは、慶応3(1867)年暮の王政復古で幕府とともに廃止されるまで、厳然と存続した。 *最後に総括的なまとめを記す。近世朝廷の展開を端的に表すと、豊臣政権・江戸幕府の後援による再建と成長、近世的組織機構編成の進展と集団内部の変容、内部矛盾・閉塞状況という過程を辿った。第一部「公儀権力成立と朝廷の近世化」で近世の権力の成立に寄与し、編成を受容して存続した天皇・公家身分集団の実態を、第二部「近世朝廷の成長と変容」ではそれ以後の近世中期(17世紀後半期)から19世紀までの時期を対象に、朝廷という集団の成長(構成員・知行の拡大)、構成員が増えた集団内での組織・機構整備と官職定員・利権配分をめぐる構造的な内部矛盾、内部規範の整備と家格階層秩序の桎梏・固定化を論じた。第三部「家職の体制と近世朝廷解体への契機」では、公家社会外への利権追求の動向、天皇の宗教性や天皇観の転換、近世京都の公家町の空間等について論じた。天皇家自身が作成・相伝した内部規範(「官位定条々」・「禁中例規御心得覚書」)に明らかなように、近世朝廷は、将軍権力と幕府財政とに依存し、財政面では江戸幕府に組み込まれた構造にあり(佐藤雄介『近世の朝廷財政と江戸幕府』東京大学出版会、2016年)、自立・単立し得なかった。幕末・維新期との接続と思想史の問題については展望を示すに留まったが、公家家職組織経営の広域展開、天皇や神道・仏教に関する公家社会内外の価値観の転換、摂家の特権的な地位に代表される江戸時代的な朝廷内部の強固な職制に対抗する公家衆の行動に、近世的朝廷体制解体の契機を見いだした。さらに今後の検証を期したい。本稿(書籍)は、申請者の学術雑誌寄稿・学術図書既発表論稿12篇に新稿2篇(第一部五章・第三部二章)と序章・終章を加えて整序・編成したものである。寄稿初出時の条件から、注記や史料引用方法などに違いがあるが、おおむねそのままの体裁で収めた。各稿とも誤字脱字を訂正した箇所がある。なお、学界の研究状況進捗や申請者の論稿へ寄せられた批判に対する回答など、論旨に関わる加筆は、各章の末尾に補注として配置し明記した。各稿の初出・成稿一覧は巻末に掲げたので、参照いただきたい。
著者
田崎 晴明
出版者
学習院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2022-04-01

トポロジカル物質や強相関量子多体系の基礎理論に数理物理学的な方法と視点からアプローチし、長期的には、数学と物理学の新たな交流とそれに伴う発展の基盤作りに資することを目指す。具体的には、量子スピン系、相互作用する多粒子系などの量子多体系におけるトポロジカル相、特に対称性に守られたトポロジカル相(SPT 相)の理解を深めるため、厳密な指数定理の拡張と開発、非自明なトポロジカル相が出現する条件の探索、Lieb-Schultz-Mattis 型の定理の拡張などに取り組む。平坦バンド系などを手がかりに超伝導状態、超固体、トポロジカルな量子相を実現する可解模型を考案することも射程に入れる。

1 0 0 0 IR 詫磨派研究

著者
藤元 裕二
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2010

Gakushuin University
著者
山本 啓介
出版者
学習院大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2008

本年度は、前年度までの和歌会作法書類の資料調査を整理し、現存和歌会作法書目録の作成を進めた。同目録は現在のところ当初目標と設定した調査をほぼ終了しているが、なお未調査の資料も少なくないため、これらの継続的調査を完了した段階で発表する予定である。上記の調査にあわせて、室町中・後期を中心に和歌会に関する古記録を収集調査し、内容をデータとしてまとめている。また、現存和歌懐紙・短冊の調査もあわせて行い、和歌会作法書との対応関連についても考察を行っている。以上の成果として、和歌会作法書の生成、及び伝授の諸相の研究の進展が挙げられる。室町後期飛鳥井流の書に『和歌条々』という書があり、当主自筆原本が多く伝来している。これらの内容整理、分析、及び伝授の様相を考察し、「飛鳥井家の和歌会作法伝授-『和歌条々』を中心に-」(「和歌文学研究」2010年6月)に発表した。さらに、伝授の考察という点で、共通点の少なくない飛鳥井流蹴鞠書『蹴鞠条々』についても併せて調査を進め、これらの様相を照合することから飛鳥井家の和歌伝授の様相をさらに考究した。その成果は中世文学会秋季大会(2010年10月於県立広島大学)において「中世における和歌と蹴鞠-『蹴鞠条々』と『和歌条々』の伝授を中心に-」として口頭発表を行った。また同発表の成果をまとめた同題の論文を「中世文学」五六号(2011年6月)に掲載する予定である。これらの一連の研究は、室町後期における和歌の作品の背景の様相解明に加え、地方武家相など含めた様々な層における文学・文化享受の有り様を知る上でも、当時における芸道伝授の一面を知る上でも重要なものであると位置づけうる。
著者
勝又 隆
出版者
学習院大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2022-04-01

本研究は、古代日本語において述部に連体形が含まれるなどして名詞と共通する特徴を持つ文(名詞性述語文)について、それぞれの構文が互いにどのように影響し合い、上代から中古、中世にかけて変遷したのかを記述・考察し、「述語」や「構文」の変化が起こる原理の一端に迫ることを目的とする。その過程で、構文的特徴や文意味・文機能等の観点から分析し、古代語の文終止体系におけるこれらの構文の位置づけを明らかにする。また、名詞性という基準によって各構文の変化を質的に捉えることにより、「述語」や「構文」の変化が起こる原理の一端を明らかにすることに貢献することを目指す。
著者
関家 ちさと Chisato Sekiya
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2018-03-31

日本では、新卒者を専攻を問わず採用し、長期のOJTとOff-JTを通して育成する人材育成(本研究では企業内養成訓練とよぶ)が人材育成の中核にあり、人事管理はこの企業内養成訓練を前提として形成されている。従来の研究では、日本型の企業内養成訓練は、高度で豊富な知識をもった人材を生み出しており、日本の競争力の源泉とされてきた。しかし近年、職場の人員削減などによって現場の教育環境が悪化し、企業内養成訓練が十分に機能していない可能性が指摘されている。もし、日本型の企業内養成訓練が社員を効果的に育成できず再編が避けられないとすると、それを基盤に形成されてきた日本型人事管理の改革は避けられない。つまり、わが国企業の人事管理の将来を考えるうえで、日本型の企業内養成訓練の特徴と有効性について研究する意義は大きい。しかしながら先行研究をみると、日本型の企業内養成訓練とくに基幹職(いわゆる「総合職」)の企業内養成訓練に焦点を当てた研究は限られ、①企業内養成訓練の実態が十分に把握できていない、②企業内養成訓練の効果が実証的に明らかにされていない、③企業内養成訓練と人事管理との関係性が十分に検討されていない、という現状にある。そこで、本研究は基幹職の企業内養成訓練に焦点をあて、フランスとの比較から以下について明らかにする。①日仏の企業内養成訓練の特徴を明らかにする。②両国の企業内養成訓練の有効性を評価する。③企業内養成訓練を補完する両国の人事管理の特徴を明らかにする。なお、フランスを比較対象としたのは、「資本主義の多様性」の研究によって、フランスは人事管理の基盤となる雇用システムが日本と共通していることが明らかにされているからであり、これによって日本型の企業内養成訓練の国際的な特徴を鮮明に捉えることができると考えている。企業内養成訓練の特徴は、就業1年目~10年目までの「仕事経験」と「OJT・Off-JTからなる訓練経験」から把握する。企業内養成訓練の効果は、就業10年目と課長職の時点で、「どの程度重要な仕事を担当する人材に育成されているか」という視点から把握する。この「仕事の重要度」は、a.仕事の幅、b.仕事の難易度、c.仕事の裁量度の面から、独自開発した仕事分析表を用いて定量的に評価する。本研究は大別して①企業内養成訓練に関する個人調査と、②人事管理に関する企業調査からなる。個人調査は基幹職の人事スタッフを対象とし、主に「大学での教育経験」と、就業1年目~10年目までの「仕事経験と訓練経験」について、ヒアリング調査(日本20人、フランス14人)とアンケート調査(日本34人、フランス17人)を行った。なお、人事スタッフを対象としたのは、国や産業を超えて業務内容に大きな違いがないためである。企業調査は従業員規模1,000人以上の企業を対象とし、基本的な人事制度について、ヒアリング調査を行った(日本7社、フランス7社)。調査は日本、フランスにおいて、それぞれの言語で実施した。以上の研究課題と方法に基づいて、本論文は本編(第I編~第IV編)と、附属資料の事例集(第I編~第II編)、添付資料の調査表から構成される。本編の第I編は2部構成で、第1部で本研究の背景、問題意識、分析枠組みを提示し、調査対象や調査・分析方法について論じる。さらに第2部で、先行研究の成果を整理し、既存研究の限界と本研究の重要性を明確にする。第II編は2部構成で、第1部で日本の企業内養成訓練、第2部でフランスの企業内養成訓練について分析する。第III編は2部構成で、第1部で日本の人事管理、第2部でフランスの人事管理について分析する。第IV編は3部構成で、第1部で両国の企業内養成訓練を比較し、それぞれの企業内養成訓練の特徴を明らかにするとともに、その有効性を評価する。第2部で両国の人事管理を比較し、各国の人事管理がどのように企業内養成訓練と関わっているかを明らかにする。第3部で、両国の企業内養成訓練の強みと弱みを包括的に評価し、本研究の成果をまとめる。そして最後に、本研究が既存研究や実務に与える貢献と、残された課題を整理し、今後の研究の方向性を提示する。主な研究結果は以下のとおりである。第一に、両国の企業内養成訓練の特徴的な違いとして、つぎの3つが指摘できる。①養成訓練の開始時期の違いであり、日本は就職後から養成訓練が始まるのに対して、フランスは高等教育機関の在学中から学生個人によって養成訓練が始まる。②人材育成方針の違いであり、日本は多能型の人材育成策をとり、10年間の前半に「仕事の幅」が拡大するが、フランスは専門職型の人材育成策をとり、前半は特定の範囲に限定してキャリアを築き、人事課長に昇進する後半に「仕事の幅」が急拡大する。③訓練主体、訓練機会、訓練方法の違いであり、日本は初期能力が十分な水準にないため、企業が主体となり豊富な訓練機会を一律に提供するのに対し、フランスは在学中の養成訓練を通して即戦力に育った人材を採用するため、就職後の訓練機会は限定的であり、基本的には個人による能力開発が中心で、訓練は業務上必要な場合に限って個別に提供される。第二に、日本型企業内養成訓練の有効性を評価すると、日本企業は専門知識や実務経験がない新入社員を、段階的な仕事の高度化と手厚いOJTとOff-JTによって多能的な人材に育成できている。しかしその育成スピードをみると、フランスに比べ5年ほど遅く、養成にかかるスピードに課題がある。第三に、両国の企業内養成訓練を補完する人事管理の特徴はつぎのとおりである。日本は多能型の人材育成に対応し、採用では専攻を問わず、職種を限定しない新卒一括採用をとる。社員格付け制度は、将来的に柔軟に「仕事の幅」を拡大させられるよう職能等級制度が用いられる。基本給は職能等級に対応し、職務能力に対して報酬は支払われる。教育訓練をみると、新入社員のみならず非管理職にはOJTと多数の階層別研修を実施し、多能型人材に育成する。これに対してフランスは、専門職型の人材育成に対応し、採用は専攻を加味した職種別採用の方法がとられる。社員格付け制度では、職務の重要度によって社員の序列を決める役割等級制度をとる。基本給は役割等級に対応し、役割に対して報酬は支払われる。新入社員を含め非管理職層への教育訓練は限定的であり、職務に必要な能力が欠けている場合に限って、個別に訓練する。以上の研究成果は、大卒ホワイトカラーのキャリアに関する代表的な国際比較研究である小池(2002)理論を実証的に裏付けるとともに、日本が他国に比べて「遅い昇進」である理由を明らかにした点で、研究上の貢献がある。さらに、本研究が独自開発した「仕事の重要度」の分析枠組みとその評価方法は、客観的な測定が難しいキャリアや人材育成に関わる研究に、一つの方向性を示すことができた。また実務上の貢献として、日本の企業内養成訓練が養成スピードの面で課題があることを初めて実証的に明らかにし、日本企業に現状の企業内養成訓練を再検討することの重要性を示した。さらに、フランスの企業内養成訓練と人事管理の特徴を明らかにしたことで、日本企業が具体的な改革策を作成する際の素材を提供した。ただし、本研究には次の課題が残されている。まず調査研究の方法上の課題として、調査対象とする国や職種、キャリアタイプを拡大して同様の研究を行い、本研究で得られた成果をより一般化した知見とする必要がある。また本研究では、能力水準の測定に個人の業績を考慮していないため、企業内養成訓練の効果の測定方法も改善する必要がある。つぎに、理論的な貢献からみた課題として、先進国の雇用システムを分類した代表的な研究であるMarsden(2007)理論への挑戦がある。同分類はブルーカラーに対する実証研究に基づいて行われたものであり、ホワイトカラーにも同様の分類が適用可能であるというMarsdenの主張には、日仏ホワイトカラーの実証研究である本研究からすると疑義が残る。しかし、本研究では十分に同分類の適用可能性について明らかにできないため、今後の課題としたい。さらに、各国の企業内養成訓練はその企業を取り巻く外部労働市場と整合的に形成されていると考えられるため、今後は両者の関連性にまで視野を拡げて国際比較研究を行う必要がある。
著者
渡部 福太郎
出版者
学習院大学
雑誌
學習院大學經濟論集 (ISSN:00163953)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.156-158, 2005-07
著者
深川 真樹
出版者
学習院大学
雑誌
東洋文化研究 (ISSN:13449850)
巻号頁・発行日
no.16, pp.59-85, 2014-03

一般認為,董仲舒思想以天人感應論為特徵,關於其性質,向來有君主權抑制論、君權神授論、君主主體性論的三個見解。然而整理與探討這些見解的同時,參照〈賢良對策〉的相關部分而斟酌天人感應論,便可知:君權神授論與君主主體性論,皆並非適當討論決定董仲舒天人感應論性質的主要因素,即天與君主相互關係的特性;君主權抑制論則並無完整處理此相互關係。由天人感應論的理論結構而言,可把以下兩個性質視為其中天與君主相互關係的特性:一,由天將君主行為引導到儒家理念的方向;二,君主行為與天命、陰陽、祥瑞、災異等有所相連。此考察結果應可當成再次探討〈賢良對策〉內容與性質的重要線索。
著者
兵藤 裕己
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学国語国文学会誌 (ISSN:02864436)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.1-7, 2011
著者
高埜 利彦
出版者
学習院大学
雑誌
学習院史学 (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.5-7, 2004-03
著者
渋谷 与文
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.107-126, 2011

アナトール・フランス(以下、フランスと略す)に対する賛否両論が鳴りやまぬままに百年が過ぎた。世界を代表する知性であった作家の生前の影響力は翳ったが、それでも著書は仏・英・米・独・日・中・ハンガリーなどで常に刷られ、時には新訳やモノグラフィーも出版される。しかし、文学研究はかつてより少なく、その量は『現代史』や『神々は渇く』を重要視する歴史学と良い勝負である。作品・思想に関して生前から続く賛否は、死後のシュールレアリストのパンフレットとポール・ヴァレリーのアカデミー会員就任演説という印象的な批判を経て現在に至る。そこで本論文では、ミラン・クンデラが近著で指摘したそうした現状と、作品の再評価を頼りに、幾つかのフランスに対する批評を読み解いて行く。フランスに対する批評には二重性が付きまとっている。つまり、賛否両論とは作家本人の思想や一つの小説に対する多方面からの意見の違いだけではなく、ある批評(家)の内部の賛否両論でもある。アンドレ・ジッド、ジュール・ルナール、モーリス・バレスといった1860年代生まれの作家達によるフランスに対する態度は一様に賛否と注視といったものである。しかし、それに対して1870年代生まれの作家達の態度は多様である。その一人であるヴァレリーのアカデミー演説は、その前半の礼賛と後半の侮蔑が対称的に分離した零度の批評である。ここでは、賛同と批判が同じことを示しうることが証明されていて、フランスに対する批評であると同時にアカデミー演説という儀礼への批評を成している。また、この批評は死者への餞としての弔鐘でありながら、フランスに対する政治性を帯びた批評の始まりを告げているのである。ヴァレリーがアカデミー演説で示した現代の文学の危機に傾聴したアルベール・チボーデは、フランスをその危機の象徴にまで高めた。また、文学史家としての使命から、晩年までフランスの批評を書き続けた。しかし、チボーデはフランスを、ホメロス、プラトン、ファブリオー、ラブレー、ボワローなどに続く「接木文学」の中に位置づけながら、最も「接木」性の高いフランスの作品、『ペンギンの島』に対する批評を尽くしているようには見えない。『ペンギンの島』は矢作俊彦の『あ・じゃ・ぱん!』と同じ歴史改変小説である。面々と続く接木文学とも言えるこの二つの小説は、両者とも文明に対する危機意識を文明の基点に求めている。矢作が文明の終焉を明治維新に求めたのと同じく、フランスはそれをトゥール・ポワティエの戦いに求める。この時、フランスとチボーデは同じ文明の中で正反対の時期に危機を見出している。チボーデの危機意識は現在のコンピューター社会ではありふれた文学の現状として受け入れられている。それゆえ、チボーデの衣鉢をつぎつつ、接木文学としてのフランスの作品を文学史の中で問い直す必要があるのではないか。
著者
小島 和男
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2007

博士論文