著者
小倉 芳彦
出版者
学習院大学
雑誌
学習院史学 (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.91-92, 2011-03
著者
石井 晋
出版者
学習院大学
雑誌
學習院大學經濟論集 (ISSN:00163953)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, 2005-07
著者
三潴 みづほ Mitsuma Mizuho ミツマ ミヅホ
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2020-03-07

ハプスブルク朝支配下のイベリア半島を中心とした複数の王国(reino)の集合体は、スペインという括りでの国家として成立していたわけではなかった。君主が複数の王冠とともに諸王国の政治形態や法を踏襲しながら支配する体制であった。16世紀から17世紀にかけては、概念上で「スペイン王国(Monarquía HispanaあるいはMonarquía de España)」 の形成が進む。その過程では実際に政治的統合への志向も見られるなか、中心となる王のあり方が模索された。スペインの王としての権威を示すこととカトリック性の確保は分かち難く結びつく。17世紀初頭、イスラーム教からキリスト教に改宗したモリスコ(morisco)と呼ばれる住民たち約30万人がスペインから追放された。カトリックに改宗していたとはいえ、モリスコは異端としての疑いをかけられがちな存在であった。フェリペ3世のこの決断は、追放を擁護する者たちにより「英雄的な決断」と称賛された。本稿では、王とその周囲の人々がスペイン王国の形成を意識するなかで、モリスコへの方針がどう推移したのか、政策議論を中心に検討する。即ち、スペイン王国の形成過程をモリスコ問題から照射し、その上で、モリスコ追放に踏み切った動きを解明する。 モリスコ問題から見るスペイン王国の概念上の形成について、モリスコの実態と統治状況、宮廷での審議、献策書という要素を用いて分析した。まずモリスコの実態と状況を確認し、それに対し宮廷での審議がどのように絡むか時系列で追い、そのうえで献策書という史料がどのように解釈できるか、という構成で考察を進めた。 問題の所在として「スペイン王国の形成とモリスコ問題」という観点から、特に、「宮廷」研究のホセ・マルティネス・ミリャンと「寵臣政治」研究のアントニオ・フェロスという、政治史の見直しからモリスコ問題を捉えた二人の説に着目した。モリスコ問題についての説を整理したうえで、二人の間の異なる見解の存在に言及し問題点として提示した。 マルティネス・ミリャンは、フェリペ2世期のスペイン・カトリシズムによる普遍君主政(教会をも従えようとする)の頓挫と、その後のフェリペ3世期のローマに従うカトリック王政への転換(ローマのスペインへの勝利)、という文脈のなかで、モリスコ追放を捉えることを提起した。フェリペ2世期の普遍君主政も、フェリペ3世期のカトリック王政も、当時のスペイン王国を論じた者たちによってその理論的裏付けがなされ、それらがスペイン王国を支える理念となったのは確かである。しかし、その転換が政治中枢のなかでどのように作用したかという点において、宗教性の違いに着目したミリャンの論は、政治決定の場における諸事の検証の可能性をもたらした。 この転換を通して、モリスコ問題と対峙する、スペイン王国という形成途上の概念と、それを取り巻く政治中枢の人々を見ると、何が見えてくるのか、という視点から、ミリャンの説が妥当か、あるいは他の見方が説得力があるのか、検証をこころみた。スペイン王国の概念上の形成過程とモリスコ問題の推移を関わらせて論じ、王とその周囲のモリスコ関連の政策議論の史料の見直しを行った。目指されたスペイン王国とは何なのか、それにモリスコ問題に関わる一連の議論がどう関わっていくのか。宮廷とその周辺で繰り広げられた議論を、モリスコ問題がより顕在化するフェリペ2世期から3世期に焦点を絞って分析した。16世紀前半から異端審問所と在地権力による統治の模索のなかでモリスコの存在が徐々に問題視される。フェリペ2世期になってから王権と異端審問所の各地への介入が増したことは、王権による政治的統合の動きのなかでモリスコの統治策が重要視され始めた兆候と考えられる。地域ごとの異なる様々な事情を越えて、モリスコという存在自体に問題を一元化するという傾向が生まれ、それが統治策に表れ始めた様子が確認でき、また、フェリペ2世と3世の統治下で彼らの存在がモリスコ問題としてより顕在化していく経緯を確認できた。宮廷におけるモリスコ関連審議については、フンタ(評議会)と国務顧問会議を中心に取り上げたが、16世紀末に両方でモリスコへの措置をめぐる議論がなされるようになった当初は、2つの会議で温度差があった。フンタは1590年代初頭までは一貫して教化の方針であったが、国務顧問会議では1588年に初めてモリスコ問題が議題にのぼった時から、モリスコに対する姿勢はフンタのそれより強硬であった。その後フンタの構成員は国務顧問会議の構成員と一致するようになり、モリスコ関連のフンタは国務顧問会議に吸収されたような形になった。国務顧問会議には教皇派あるいは教皇とつながりのある人物が確実に入ってきており、教皇派が追放を推進したとするミリャン説の妥当性が確認できた。その上で、モリスコ問題の史料として充分に注目されてきたとは言い難い献策書に史料価値を見い出し、分析を行った。献策書がモリスコ問題を扱うなかで、中世の頃の多様性の容認とは異なり、当時のスペイン王国にとって様々な出自の人々を臣民として統治することの難しさが増していることが浮き彫りになった。献策家たちにとって国力の源であった生産性と人口の多さと富という点において、モリスコの特質は有用であった。この特質をスペイン王国が獲得するべきであり、モリスコの持つ負の要素は克服されるべきものであった。献策書という、諸問題から国家統治を考える政治の文学とも言うべき言説と、モリスコ問題という題材が組み合わさることにより、献策家たちによる新たな国家像の模索が見られた。そこに描かれていたのは、モリスコという存在に利点を見出して臣民に組み込むという、彼らの考えるスペイン王国の正しい姿、あるべき姿であり、これは、宮廷の教化策推進者たちと志を同じくするものである。教皇から霊性を賦与された神聖ローマ帝国に代表されるようないわゆる普遍君主政を取り入れたかったフェリペ2世のスペイン王国だが、そもそも皇帝がおらず、そのため、実情に合わせた解釈のし直しが行われ、そのうえで、スペイン独特の性格を賦与されたものとして作り変えられた。それは、軍事力のような実践的な側面から、スペイン王は皇帝に、スペイン王国は帝国に比肩する存在である、という解釈に基づく。そこに正当性を持たせるため、レコンキスタへの十字軍の経験などに基盤を置く、スペイン独自のカトリックの系譜が重きを成してきた。したがって、スペイン王国の普遍君主政やスペイン・カトリシズムを背負った世界進出は、本来のローマ教皇のもとの世俗君主のあり方からは外れかけ、ローマ教皇庁からスペインを牽制する動きも見られた。版図拡大の負担と対外情勢の厳しさが増した頃、スペイン王国は新たな理念を模索し、ローマとの利害の一致を見出し、カトリック王政へと転換することになる。モリスコは、最終的には、個人にしか罪を問えない宗教上の罪ではなく、集団全体への罪を問える国家反逆罪として追放された。スペイン王国にとって宗教的・「民族」的マイノリティーであるモリスコの存在が多くの議論を呼んだことでも明らかなように、この時代に臣民として彼らを扱うことは各側面で難しさがあり、その存在がスペイン王国の転換を促す触媒の役割を果たしたと考えられる。
著者
江沢 太一
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学経済論集 (ISSN:00163953)
巻号頁・発行日
vol.7, no.1, pp.1-9, 1970-06

ヘクシャー・オーリンの定理を典型的一例とする国際貿易の静学理論においては,各国の資源賦存量一例えば資本ストックおよび労働一が一定と前提されているが,時間とともに資本蓄積および労働力人口の増加が進行するにつれて,貿易のパターンはどう変るであろうか。またこの場合,経済体系全体の推移はどうなるであろうか。例えば資本蓄積もしくは経済成長の経路は,どのような条件の下で安定的といえるであろうか。このような動学過程の分析はこれまで数多く行なわれてきたが,特に鬼木・宇沢によるもの〔5〕がこの方面での一つの重要な貢献であると思われる。ケンプの近著〔4〕,第10章においてもほぼ全面的にその結果が継承されている。 本稿の目的は,筆者が先に行なった二部門成長モデルにかんする分析〔1〕を基に,上記の鬼木・宇沢モデルに従って開放体系における経済成長経路の安定性の問題を考察することにある。特に分析の前提条件を可能な限り一般化して扱うことにする。
著者
吉田 紀子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.3, pp.73-90, 2004

フランスでは1978年に、産業先進国で最初のポスター美術館(Musee de 1'Affiche)がパリに誕生し、その後1982年には広告美術館(Musee de la Publicite)へと改称した。本稿はこのポスター美術館設立の経緯を中心にして、ポスターをめぐる概念と制度について考察することにより、フランスにおけるポスター受容の特殊性を検証する試みである。 本稿では、ポスター美術館を傘下に収める装飾芸術中央連合(Union Centrale des ArtsD6coratifs)の議事録に基づき、まず、美術館開館に至るまでの一連の経過を明らかにする。次いで、この過程で示された芸術性を重視するポスター観が、美術館開館後、広告産業の実情に即していかに変化していったのかを分析する。最後に、1981年に成立した社会党政権による文化政策が、1982年の広告美術館への改称にいかに関与したのかを、文化省(Ministere de la Culture)発行の官報と文化相ジャック・ラング(Jack Lang:1939年~)の演説資料から検討する。 ポスター美術館の誕生は、19世紀末に形成された、自国のポスターの"高い芸術性"を強調する"アフィショマニ(ポスター・マニア)"のポスター観が、フランスにおけるボスター受容の中核であり続けるという、価値観の継承を促した。その広告美術館への改編は、芸術性の有無という評価の最優先基準が、1970年代後半における国内広告産業の成長と広告自体のマルチメディア化に伴って相対化する経過を反映していた。1980年代の政府主導の文化政策は、文化と芸術の概念を"副次的"分野にまで拡大しながらここに介入し、広告業振興の意図を持って、産業クリエーションとしての広告を優遇した。こうして、19世紀末から受け継がれたフランス特有のポスター評価は、広告というより大きな範疇に取り込まれながらも、美術館の設立と政府の文化政策を通して公に認知され、言わば制度化されたと考えられるのである。The Poster Museum in France was opened in 1978 as the first among those in the industrially advanced countries and was renamed the Publicity Museum in 1982. Focusing on the history of this museum, this paper deals with the concepts and the institutional systcms related「to posters in France to explain the special condition for evaluating this medium. At the end of the 19th century,"the highly artistic quality"of French posters had been deeply appreciated in the heat of the"affichomanie(poster mania)". The creation of the Poster Museum affiliated to the Central Union of the Decorative Arts signi丘cantly helped. the contemporary Frcnch society succeed to such a way of vicwing posters, The change of appellation to the Publicity Museum reflected a relative decline of this"primary"value of posters in parallel with the growth of domestic multimedia-publicity industries in the second half of the 1970s. A new cultural policy led from 1981 by Jack Lang, Minister fbr Cultural Affairs of the French socialst Government, also in且uenced this reorganisation of the Poster Museum:he supported the Publicity Museum with the intention of promoting not onlアindustrial creations, but also cultural and artistic fields judged"minor"till then. This article shows that, evcn though posters were intcgrated into the general category of publicity, the f()undation of the Poster Museum and subsequently the cultural policy of the Government of丘cially institutionalized the traditional evaluation of posters in France from an artistic point ofview.
著者
福元 健太郎 菊田 恭輔
出版者
学習院大学
雑誌
挑戦的研究(萌芽)
巻号頁・発行日
2019-06-28

災害への対処が公金に値するかを市町村が「認定」すると、不正を含む政治的バイアスが入り込む余地がある。具体的には次の3つを検討する。(1)災害復旧事業費の国庫補助率を嵩上げする激甚災害指定の有無が、その前後の選挙におけるその市町村の与党得票率と関連しているかを、選挙間の最大降水量を操作変数として用いて不偏推定する。(2)災害弔慰金の対象となる災害関連死を認定するタイミングが、市町村によってどれほど異なるかを、ノンパラメトリックな生存分析を用いて調べる。(3)住家の被害認定が被災者生活再建支援金の支給条件を満たすか否かが人為的に決められていないかを、回帰不連続デザインによって判断する。
著者
山田 敬子
出版者
学習院大学
雑誌
学習院史学 (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
no.35, pp.90-105, 1997-03
著者
高桑 浩一
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
no.13, pp.105-127, 2004

In two papers published in l982, Taryo Obayashi(1929-2001)pointed out that some common features exist betWeen the myths aboutんnewakahiko or/Vi8ihayahi, who are regarded as heretical gods in Japanese sovereignty myths, and myths about the founders of ancient Korean dynasties like Ko8ut yo or Silla. In血is paper, reexa血ning the Obayas㎞'sstudy,1 restructured the common features of these myths as follows: 1)The heroes of these myths are connected with Heaven by ascending there after death. But, at the same time, they are connected with Earth in that their dead bodies or articles left behind are buried. 2)Their bows and arrows are the symbols of their status as Heaven-God. These articles also have a function as regalia, which is what any successor of sovereignty should own. What awakens our interest is that these features are not clearly found in the myths of H∂ηo痂'8', who is considered as the legitimate successor of sovereignty of Japan in"KOjiki"or"Nihonshoki". This fact shows the complex nature of the influence on Japanese myths from Korean Peninsula.
著者
中川 明博
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.9, pp.73-96, 2010

「三宅剛一差出・田辺元宛書簡」は、昭和期を代表する哲学者三宅剛一(1895 ~ 1982 年)が、母校京都大学の恩師田辺元(1885 ~ 1962 年)に宛てた書簡を、ご遺族の了解の上翻刻し、必要な校訂を加えたものである。書簡は1924 年から田辺の死の3 年前の1959 年までの間に投函されたもので、それは三宅の東北帝国大学助教授時代から、ドイツ留学、戦後の京都大学教授時代を経て、昭和30 年代の学習院大学教授時代に及ぶ。 これらの書簡は、東京教育大学教授、学習院大学教授を歴任した哲学者下村寅太郎博士(1902 ~ 1995 年)が生前保管していたものである。下村の膨大な遺品に含まれていた多数の田辺元宛書簡類のうち、三宅剛一差出の全15 通が本書簡である。 本書簡を通じて、私たちは日本を代表する二人の哲学者の間に育まれた知的交流の一端を伺い知ることができるだけでなく、時に率直に師の意見を求め、忌憚なく師の思想を批判する文面から、三宅剛一における哲学的態度のあり方を見て取ることができるだろう。
著者
亀長 洋子 飯田 巳貴 西村 道也 宮崎 和夫 黒田 祐我 櫻井 康人 堀井 優 佐藤 健太郎 高田 良太 澤井 一彰 齋藤 寛海
出版者
学習院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2014-04-01

多文化が交錯する世界である中近世の地中海世界を、東洋史・西洋史の共同研究として再考した。中近世のグローバリゼーションのなかで、アラブ、マグリブ、トルコのイスラーム諸勢力、ビザンツ、西洋カトリック諸勢力、ユダヤ教徒などが地中海世界の各地で政治、経済、宗教、社会の様々な面において対峙する様相を各研究者は個人研究として進め、その成果を海外研究者の協力も得つつ互いに共有した。それにより研究者たちは西洋史・東洋史のいずれにも偏らない視野を育くみ、一国史観を超えた歴史叙述を充実させた。その成果を含んだ研究報告書を作成し多くの研究者に配布し、また共同研究の成果を公開シンポジウムの形で広く人々に公開した。
著者
前之園 亮一
出版者
学習院大学
雑誌
学習院史学 (ISSN:02861658)
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-31, 1983-04-28
著者
大石 慎三郎
出版者
学習院大学
雑誌
學習院大學經濟論集 (ISSN:00163953)
巻号頁・発行日
vol.28, no.3, pp.31-41, 1991-10
著者
小手川 正二郎
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.12, pp.25-39, 2013

「他人を理解する」とは、どのようなことか。自分の理解の枠組みに他人を切り縮めることなく、いかにして他人を理解することができるのか。フランスの哲学者レヴィナスが答えようとしたのは、このような問いであったと思われる。本論文は、レヴィナスの特異な理性概念に着目して、レヴィナスが主著『全体性と無限』(1961 年)で「他人を理解すること」をどのような事態として捉えるに至ったかを考察・吟味することを目的とする。\ まずレヴィナスの理性概念が孕む問題点を瞥見した後で、「理性」が一貫して他人との関係の担い手とみなされる理由を、『全体性と無限』に先行するテクストに遡って究明する。次に『全体性と無限』の読解を通じて、〈他人によって自我の理解が問い直されることから出発して他人を理解する可能性〉について考察する。最終的には、レヴィナスの理性論が、しばしばレヴィナスに帰される〈他者〉(l'Autre)論ではなく、〈他人〉(Autrui)論を基盤に据えていることを明らかにすることを試みる。\What does 'an understanding of others' consist of? How can we understand others without reducing them to those that we do understand? is is the question that Emmanuel Levinas, a French philosopher, struggled to answer throughout his life. Focusing on his unusual notion of 'reason' in Totality and Infinity (1961), I try to clarify Levinas' thinking of 'an understanding of others'. To start with, having taken a look at some implications of his notion of 'reason', I examine why Levinas holds that 'reason' is the bearer of a relationship to others. Secondly, analyzing Totality and Infinity, I consider the possibility of understanding the other person without reducing them to those as we understand them. Finally, I try to demonstrate that Levinas' theory of reason is based on his theory of the other person (Autrui), but not that of the Other (l'Autre) which has been until nowattributed to him.
著者
マクレガー ローラ
出版者
学習院大学
雑誌
言語 文化 社会 (ISSN:13479105)
巻号頁・発行日
no.6, pp.1-39, 2008-03-31

この論文は日本における広告を調査し、40 年間(1960-2000)のその文化の傾向を分析する。TCC 年鑑(1963-2001)から10 年ごとにそれぞれ約300 の広告を集めた。期間が長いので、この論文では1960 年代と1990 年代の広告を比較した。人物を扱った広告をランダムに約300 集めたが、1960 年代は雑誌広告のみで、1990 年代は雑誌広告とテレビ広告がある。調査の目的は1. 広告では、どのような文化的価値観と信念が表現されているか。2. このような文化的価値観と信念がどのように表現されているか。3. 当時の日本のライフスタイルや信念について、どう述べているか。この後、各年代を比較し、日本の社会の出来事を学ぶため、当時の日本の社会についての資料を調査することが必要となった。
著者
張 守祥
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.10, pp.51-68, 2011

かつて日本の実質的な支配地であった「満洲国」における日中両民族間の言語接触を対象とした研究は今日までほとんど存在しない。当時の言語接触の実態はどのようなものだったのか。また、それはどのような特徴を持っていたのか。これらは不明な部分が多く、言語接触の観点からも非常に興味深い課題である。本研究では、軍事郵便絵葉書を資料として、「満洲国」の接触言語の使用状況、語彙、音韻、文法のジャンル毎に考察し、満洲国における言語接触の実態と特徴を明らかにしようとするものである。考察した結果、語彙の引用、人称代名詞を中心とする「デー」の拡大使用、音韻上の変化特徴、助動詞としてのアル、助詞、準体助詞、形式名詞の省略など、ピジンの特徴に当てはまるものもあれば、当てはまらないものもある。21 世紀になった現在、「満洲国」時代の経験者の多くは他界している。この意味で、本研究は当時の言語接触の一側面を把握するには役立つものだろう。There has been very little research on language contact between Japanese and Chinese in Manchukoku (Manchukuo)while it was under Japanese rule. How did language contact occur? What were the characteristics of the contact? Many issues still remain unanswered. This paper examines the language contact and its characteristics by analyzing the vocabularies, phonetic features and grammar items used in military postcards. The language use of the postcards show certain features of a pidgin such as over use of the postposition ʻdeʼ[ʻdeʼ in Chinese]after personal pronouns, an ʻaruʼ style of auxiliary verbs, omissions of particles and semi-particles. Considering the fact that the number of the people who experienced the period of "Manchukoku" are getting fewer and fewer, it can be concluded that this paper has truly provided crucial clues which are meaningful in understanding the language contact situation during that period.