著者
田中 弘
出版者
神奈川大学
雑誌
商経論叢 (ISSN:02868342)
巻号頁・発行日
vol.38, no.3, pp.47-67, 2003-03
著者
常石 敬一
出版者
神奈川大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

本研究は旧日本陸軍における主に軍事秘密とされた研究の分析を通じて、陸軍科学研究所が発足した1921年から日本敗戦の1945年までの、科学技術研究の実態とその構造の解明を目的としている。2001年度から03年度までの3年間、主に生物兵器および化学兵器の研究開発の実態を中心にして資料収集および分析を行った。このうち化学兵器については、陸軍での生産が軌道に乗ると、民間に移して生産させるのが常であり、具体的な例としてはイペリット生産のためのエチレン製造技術が1930年代半ばには民間に移転されたし、さらにシアンの合成の技術も戦後、合成樹脂や合成繊維の製造に寄与しているといった事実が、軍の公文書や特許明細書によって確認できた。陸軍が民間に移転した技術は決して陸軍独自に全て開発したものではなく、諸外国から技術あるいは特許を導入し、それを日本国内で生産技術として実用化したものが中心だった。研究開始当初は軍と民との相互技術移転を想定していたが、軍の文書を見ている限りでは、軍から民への一方的な技術移転が大部分であった。これは戦後の官主導による研究開発組織である研究組合のプロトタイプと見ることが可能かもしれない。また文献調査上の成果としては、生物兵器開発については、その研究開発の中心だった陸軍軍医学校防疫研究室が発行していた「防疫研究報告第2部」について新たな発見があった。従来は本報告者が既に分析した約100部ほどしかその所在は不明であったが、1号から900号くらいまで刊行されていること、そのうちのほぼ800部についての所在確認を行うことができた。これは今後、分析を続けるが、旧日本軍内部のみならず、戦前の日本の医学研究のありようを明らかにする上で、重要な資料となることは間違いない。
著者
宇佐見 義之
出版者
神奈川大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

カンブリア紀に生息した節足動物アノマロカリスの生態を研究した。アノマロカリスは種によっては肢を持つ底棲の水棲動物であるが、主に発達した14対のヒレで海底近くを泳いだものと思われる。そこで、本研究では流体の中でこれら14対のヒレをどのように動かしたらうまく前進するか計算した。流体の中で複雑な形状の物体を動かす計算は通常は難しいが、本研究では粒子法を採用することによりこの計算を実行した。粒子法は越塚が開発し配布しているMPS法のプログラムを利用した。その結果、アノマロカリスは14対のヒレを波打たせるように滑らかに動かす方法が速度/エネルギー比という観点で効率良く全身することがわかった。次に、アノマロカリスの形態の変化を研究した。アノマロカリスの形態は化石でしかわからず、また、どのような生物から進化してかについての化石情報は一切ない。そこで、コンピューターの中で原始的なアノマロカリスの形態を仮定し、そこからの進化過程を研究した。原始的な形態としては細い付属肢を仮定し、その幅が広がることにより完成したアノマロカリスの体型になる過程を考えた。その結果、付属肢の幅が広がるにつれ速度/エネルギーが一定になるように速度が上昇するが、完成したアノマロカリスになった途端、速度/エネルギーが飛躍的に大きくなることがわかった。化石では、完成したアノマロカリスの化石しか発見されないが、いずれにせよ、アノマロカリスはなんらかの原始的な生物から進化した筈である。しかし、それらの途中段階は化石には残らず、完成した体型を獲得した段階で繁栄し、また多様化を起こしたと考えられる。このような進化のプロセスが、本研究で解明した力学を背景に起こったと考えることができる。
著者
山本 通
出版者
神奈川大学
雑誌
商経論叢 (ISSN:02868342)
巻号頁・発行日
vol.30, no.2, pp.358-346, 1994-11
著者
奥原 忠弘
出版者
神奈川大学
雑誌
神奈川法学 (ISSN:0453185X)
巻号頁・発行日
vol.1, no.2, pp.147-186, 1965
著者
荻野 佳代子 稲木 康一郎 北岡 和代 増田 真也
出版者
神奈川大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009

対人援助職のバーンアウトへの介入に向け,ワーク・ライフ・バランス(WLB)風土の測定尺度を開発し,バーンアウトとの関連を検討した.この結果, WLB風土は「上司の支援」,「スタッフのチームワーク」,「'ワーク'最優先」,「'ライフ'の尊重」の4因子から構成されていた. 4因子すべてがバーンアウトに関連していたが,とくに「上司からの支援」にバーンアウトに対するより強い関連がみられた.さらにWLB風土醸成によるバーンアウト予防プログラムを開発・実施した.
著者
鳥居 徳敏 Torii Tokutoshi
出版者
神奈川大学
雑誌
麒麟
巻号頁・発行日
vol.22, pp.(41)42-(65)18, 2013-03-31

ガウディの未完の聖堂として知られるサグラダ・ファミリア。その聖堂の「計画案をガウディは残さなかった」と言われ、それを鵜呑みにして疑わない人がいかに多いことか。しかし、建築は建築家一人の作品ではなく、オーナーから職人に至るまで実に多くの人々の協力を必要とする。つまり、多人数が同時に働く建設では計画なくして工事は不可能であり、計画案は常に存在すると考えなければならない。最初の建立提案時には、オーナーに相当する創設者ブカベーリャのロレート計画案があり、建設地獲得後の初代建築家ビリャールはバルセロナ大聖堂を基礎としたプランで着工し、敷地条件に合わせたネオ・ゴシック案への変更を模索する。2 代目建築家ガウディは、前任者の建設を白紙に戻すことは不可能であり、既存の計画に従わざるを得ない。ただし、西欧の大聖堂の建設ではローマのサン・ピエトロやジローナ大聖堂などの例に見られるように初期計画案は頻繁に変更されてきたし、それが可能な建設方式でもあった。ガウディ最初の変更案は着任1年5 か月後(1885)のことであり、バルセロナ大聖堂を範にしながらも、自らの聖堂理念を反映させるものであった。1890 年代初め巨額の献金を受け「降誕の正面」の建設が可能になった。これは翼廊の幅を倍増するもので、計画案の変更を意味し、ギリシャ十字の集中式プランになった。そして1902 年、市当局との合意に基づき前面隣接地へ聖堂を拡張し、マリョルカ大聖堂の規模に相当するラテン十字の5 廊式バシリカ案に変更する。その後、背面隣接地への拡張も模索され、1910 年のパリでのガウディ展ではその拡張プランが展示されるものの、市との合意に至ることなく、現在知られる最終案に落ち着く。以上、聖堂の計画案は常に存在し、大きな変更が繰り返され今日の最終案になったことを明確にする。El Templo de la Sagrada Familia es conocido como templo inacabado puesse dice que Gaudí dejó el proyecto sin finalizar, y así lo cree la mucha gente. Sinembargo, una obra de arquitectura no puede ser el trabajo de un solo arquitecto,sino el resultado de la colaboración de muchos, incluidos el propietario y losobreros. De este modo, a la hora de realizar una obra, siempre se debe pensarque existe un proyecto fijo, pues de lo contrario sería imposible de llevar a cabo.Respecto a la planta del Templo de la Sagrada Familia, en un principio existíael proyecto de su fundador Bocabella. Después de conseguir el terreno actual,su primer arquitecto, Villar, empezó la construcción del mismo sobre una plantabasada en la de la Catedral de Barcelona, e intentó adaptarla a la inclinación delterreno. Gaudí, como arquitecto sucesor, no podía rehacer la obra, sino que sevio obligado a continuarla. No obstante, existen precedentes de cambios en laconstrucción en los grandes templos cristianos, pues en ellos no era raro que semodificara el proyecto inicial con el paso del tiempo, como ocurrió en el caso deSan Pedro de Roma, la Catedral de Girona, etc., y es que el modo de construirlosposibilitaba este tipo de transformaciones. El primer proyecto de Gaudí (1885),hecho un año y 5 meses después de ser nombrado arquitecto sucesor de Villar,estaba basado también en la planta de la Catedral de Barcelona, y al mismotiempo, reflejaba en él su idea de templo cristiano. Al principio de la décadade 1890, un cuantioso legado permitió la construcción de la Fachada delNacimiento, lo que significaba ampliar doblemente la anchura del crucero de tresnaves. Esta ampliación, debido a las condiciones del terreno, exigía una plantaconcentrada de cruz griega y una composición piramidal, idea que aparecemanifestada en los Apuntes de Reus. En 1902, reflexionando sobre la Catedral deMallorca y "previo el asentimiento de las autoridades", Gaudí amplió la planta transformándola en otra de cruz latina con cinco naves, y trasladó la escalinataprincipal a la manzana inmediata por medio de un puente situado encima de lacalle. Tiempo después, pensó ampliarla nuevamente añadiéndole la manzanaposterior, tal como se aprecia en la planta del Templo expuesta en la Exposiciónde Gaudí en París (1910); sin embargo, esa ampliación no se pudo llevar acabo, según parece, por falta de acuerdo con las autoridades, por tanto, espreciso olvidarla. Y así, llega a nosotros la planta que se puede considerar comodefinitiva de Gaudí. Con lo cual podemos decir que existe siempre la planta delTemplo y que la definitiva es la última solución, resultado de las anteriores.
著者
金谷 良夫 Kanaya Yoshio
出版者
神奈川大学
雑誌
麒麟 (ISSN:09186964)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.31-38, 1997-02-01
著者
鳥越 輝昭
出版者
神奈川大学
雑誌
人文学研究所報 (ISSN:02877082)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.31-46, 2000-03

In this essay I have tried to shed some light on the meaning that the city of Venice had for passatisti, i.e. anti-modernists or dropouts of modern society, such as Henry James, Henri de Regnier, Evelyn Waugh and Joseph Brodsky. To clarify the distinctive quality of their response to the city that has retained a great deal of premodernity in the modern world, I have touched upon other types of response by (mostly) earlier writers : criticisms on the city's moral degradation by Montesquieu and Joseph Addison, an amused report on its immorality by Charles de Brosses in the eighteenth century, and, after the fall of the Venetian Republic in 1797,nostalgic dirges for its glorious past by Byron and August von Platen, as well as searchs for causes of the city's decline by Comte Daru and John Ruskin. I have also cast a glance, for a better clarification of the passatisti's attitude toward Venice, at similar responses by slightly earlier writers, George Sand and William Dean Howells, and also at the way Kafu Nagai, a Japanese passatista writer, was attracted to the premodern aspect of Kyoto. The following are the points that have been brought out in the essay : (1) Venice has been appreciated for its premodern quality from about the 1830's to the present; (2) such appreciation has been particularly remarkable among passatisti who experienced living in modernized big cities; and (3) in such appreciation, the premodern Venice has often been equated to a paradise on earth. The premodern paradise that the passatisti saw in Venice has probably been contrary to the desire of many Venetians, since efforts for the city's modernization have never been abandoned. In a way, the passatisti saw only what they wanted to see. The need they felt, however, was real, because modernity, which emphasized rationality, progress, clarity, order, and machine mentality, has realized only half of the human potentiality, and because the modern metropolis incorporating modernity has been a place repellent to many sensitive people. The passatisti, who felt alienated in modernized big cities, satisfied their need in the premodernity of Venice.
著者
大里 浩秋
出版者
神奈川大学
雑誌
人文学研究所報 (ISSN:02877082)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.47-105, 2006-03