著者
石川 怜志 須貝 俊彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100187, 2014 (Released:2014-03-31)

1. 背景・目的 天井川とは, 河床面が周辺平野面より高くなった河川である. 堤防により河道が固定されると洪水流の氾濫が抑制され, 堤外地での堆積が進行して河床が上昇し, 天井川が形成されると考えられてきた(町田ら, 1981). 築堤という人間が関与することで形成された天井川の形成要因と発達過程を明らかにすることは, 科学的, 社会的要求を満たす重要な研究課題である. そこで本研究では河川地形としての天井川の形態や天井川周囲の平野面や上流域の地形学的特徴を検討し, 天井川の形成要因と発達過程を明らかにすることを目的とする.2. 対象地・方法 明瞭な天井川が存在する地域である山城盆地・六甲山麓低地・甲府盆地・近江盆地を対象地として選定した. この4地域において, 国土地理院のDEMデータ等を用いて天井川を認定した. ArcGISを用いて天井川の河床縦断形を作成し, 近似関数をあてはめた(Ohmori, 1997). 既存の地形分類図を河床縦断図にあてはめ, 天井川がどの地形から始まるかを確認した. 近江盆地内において改修の影響が少ないと考えられる天井川を4河川, 天井川化が明瞭でない河川を1河川選び, 天井川発達を議論するためのモデル河川とした. 河床縦断図から河床勾配を約500 m毎に算出した. 更にこれらの河川において河床礫径の計測を行い, 混合比(d84/d16)と限界掃流力を算出した. 水位データから, 掃流力の算出を行って掃流力の比較および掃流砂量の算出を行った. 河道に沿って周囲の地形面の縦断図を作成し, 標高と河床高の差をとって相対河床高を算出した. 3. 結果・考察 多くの天井川は扇状地を有していた. 扇状地を持たない河川は, 上流域から蛇行原に移り変わる位置で天井川化が始まっており, 遷緩点が堆積に関与していると考えられた. 扇状地を有する河川では, 天井川区間の上流端位置は扇頂から扇端まで様々であった. 天井川の河床縦断形のほとんどが累乗・線形関数で近似された. これは, 天井川の屈曲度が小さいことを示し, Ohmori(1997)が扇状地内の河川で指摘したように, 河川が平衡を保つために礫の堆積位置を前進させることで河床が上昇した可能性を示唆する. 礫径と河床勾配の縦断変化について述べる. 河床のある点で礫の細粒化は弱まり, 河床勾配も一定に近い値が続いた. この位置は天井川区間の上流端とは一致せず, より上流に位置し, 天井川区間下流端付近まで続いており, 天井川区間より上流から河床上昇が生じていると考えられた. 掃流力は限界掃流力より大きいためアーマーコート化は生じておらず, 現在の河床の特徴が河床上昇に伴って生じたと考えられる. 掃流力は河床勾配の変化に伴って変動しており, ほぼ全ての地点で掃流による土砂運搬が卓越していたと考えられる. 礫径の細粒化速度は選択運搬を示し, 天井川の混合度は5程度と低い. 天井川の上流では最大礫径の限界掃流力と掃流力が釣り合っている一方, 天井川を構成する礫径は128 mm(-7 φ)以下であり, 2年に一度程度の頻度で発生する洪水時における掃流力は, 限界掃流力を大きく上回っていた. -7 φの礫の流下限界は河床勾配が約1‰に急変し, 掃流力が急減する部分である(Ohmori, 1997). 周囲の地形面には天井川区間の上流端より下流に遷緩線が存在した. よって-7 φ以下の礫が選択的に緩勾配地点まで流下し, 掃流力減少に伴う堆積が生じ, 河川が平衡を保つ形で河床が上昇したと考えられる. つまり築堤と砂礫の供給によって掃流力等, 河川の平衡条件が変動し, 遷緩点まで輸送された砂礫が掃流力の減少によって堆積し, 河床上昇が生じた. このプロセスの繰り返しが天井川化であると考えられた. 一方, 掃流砂量は上流から緩やかに減少する傾向を見せるものの, 激しく増減していた. 天井川区間において掃流砂量の各地点での比は10以内に収まり, ほぼ一定の値を示していた. しかし, 掃流砂量の精度を見積もることは難しく, 掃流砂量から河川が平衡状態にあるかを判断するのは検討の必要があると考えられる. 本研究では相対河床高は天井川区間の大部分で一定の値を保ち, 天井川区間が下流域の一部であったことから河床上昇による勾配の変動は無かった可能性が高い. これは砂礫供給量の増大による河床上昇は勾配の増加を伴い, 河床上昇は堆積面の上流端から生じているという従来の見解と異なる. 一方, 1 m/年のような非常に大きな堆積速度が推定されている天井川も存在する. つまり天井川の形成には砂礫供給量の顕著な増大を伴う場合とそうでない場合の, 二つの可能性があると考えられる.
著者
土 隆一
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.32, no.12, pp.642-652, 1959-12-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
13
被引用文献数
1 1

静岡市の東南に位置する有度丘陵周辺の地形発達を地質構造にもとづいて考察した.この地域には,古い方から,久能山面,日本平面,国吉田面,現冲積平野面の4 stagesの平坦地形面が認められるが,これらは洪積世初期からの, 4回の海侵によつて生成した地層それぞれの堆積面をあらわし,各面形成の間には顕著な海退期が認められる.一方,この地方では洪積世初期以降,継続的なドーム状隆起が続いており,そのため各地形面は旧期の面ほど強く曲隆し,有度丘陵は背後の山地から離れて冲積原に孤立している.また,丘陵東側および南側に見られる海蝕崖地形の形成時期について,冲積面下の地質,遺跡の資料にもとづいて検討し,前者が洪積世末期,後者が繩紋時代の海面上昇期と推定した. これらの事実から,この地方の地形発達は,海に迫つた急峻な背後山地とそれを侵蝕して多量の荷を運ぶ河川の存在と云う地理的条件のもとに,ドーム状曲隆運動とおそらくGlacial eustasyとが相まつて作用したと解釈することができる.
著者
岡部 遊志
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.36, 2013 (Released:2013-09-04)

1,はじめに フランスの国土政策は,長きにわたりフランスの首都圏地域,すなわちパリ地域からの富の分散を,主要な政策の要素としてきた.しかし近年,フランスの競争力の低下が懸念されるに伴って,パリ周辺地域も国土政策や地域政策の対象となっている. 本発表では,現地調査などに基づき,パリを擁するイル・ド・フランス地域圏におけるクラスター政策を中心とした地域政策の新展開と,それに関連する政府間関係について発表する.2,イル・ド・フランス地域圏の概要と課題 フランスの国土政策には,国土の均衡ある発展を目指すという思想が根底にはあり,1960年代に工場の立地規制や研究機関の域外移転が行われるなど,イル・ド・フランス地域圏は常に分散政策の対象となってきた.しかし2000年代,グローバル化の進展に伴い,イル・ド・フランス地域圏はフランスにおいて国際的な競争力を発揮できる唯一の地域としてみなされている. イル・ド・フランス地域圏は人口や経済活動がフランスの他の都市に比べ大きく卓越し,競争力に関して高いポテンシャルを持った地域である.現在,工場の閉鎖や海外移転などの影響で,競争力は低下しているといわれているが,パリの南西部に企業の本社や研究開発機能,大学,研究機関などが集積し,R&D拠点としての重要性が増加している. しかし,首都圏地域としての問題点も挙げられる.1つは過大さの弊害であり,情報の多さゆえに人とのネットワークの構築や情報への適切なアクセスが難しくなっている.2つ目は交通体系,居住空間などインフラ面の問題で,競争力が十分に発揮されていないとされる.そして,こうした問題に対応するために各主体が地域政策を行っている.なお,フランスで地域政策を担うのは,制度上は地域圏であるが,イル・ド・フランス地域圏では,首都圏地域の整備を行うために中央政府がグラン・パリという新たな枠組みを作るなど,中央政府が積極的に関わってきている.3,イル・ド・フランス地域圏におけるクラスター政策 近年注目される地域政策はフランス版クラスター政策の「競争力の極」政策である.イル・ド・フランス地域圏には「競争力の極」が複数(表)ありフランスにおいても最大である. その中でもシステマティックSystem@ticはフランスにおいて代表的なクラスターである.この極はICT分野の「競争力の極」であり,フランスを代表する大企業が参加している.この極の予算では,中央政府が負担する割合が大きくなっているが,自治体も重要な割合を占め,そうした多様な主体からの予算負担により,特許や研究においてもフランスの中でも大きな地位を占める. イル・ド・フランス地域圏,特にパリ周辺地域では主体同士のネットワーキングが情報の過剰と首都地域における過密により困難であったが,中央政府と地方自治体が共同で行う「競争力の極」政策によって,主体同士のネットワーキングがコーディネートされ,競争力を発揮する基盤の強化が行われてきている.
著者
岩谷 宣行
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.108, 2004 (Released:2004-11-01)

1.はじめに私たちの生活において,「レンタル」という行為は広く認知されている.企業・個人問わず,そのモノを購入する場合と比較して費用節約に及ぼす効果は大きく,またその業態の社会経済における位置づけも上昇してきている.立地とその特性を追求した地理学的研究は,小売業に関するものが大部分を占めている.そしてそれらは都市の地域構造を考察する際に大きな役割を担っている.しかし,レンタル業というものに視点をおいて行われた研究はみられない.レンタル業はその特徴的な業態から,蓄積されてきた同種の研究と同様にこれから検討していくことの意義は大きいものと考える.その中で,地域的な背景が店舗展開に影響を及ぼしていると思われるレンタカー業を研究対象として設定した. 2.研究対象地域と研究方法 「旅客地域流動調査」における交通機関別旅客輸送分担率によると,自家用車分担率が高く,また全国で最もモータリゼーション化が進んでいるといえる群馬県を対象地域とした.そして,全国展開するレンタカー事業者8社48店舗を考察対象とした.協力が得られ,聞き取り調査を行うことができたのは6社40店舗である.2社8店舗については観察で調査の一部として扱った.3.立地特性 群馬県におけるレンタカー店舗の立地は14市町村にみられる.その半数は高崎市と前橋市に立地している.太田市・月夜野町が両市に続くものの,その他の10市町村には1ないしは2店舗の立地がみられるにすぎず,その格差は大きい.各店舗の立地特性から,駅前に近接する店舗を「駅前指向型」,幹線道路に面する店舗を「幹線道路指向型」として立地形態分類をすると,両者の立地がみられるのは高崎市・前橋市・太田市・桐生市である.また,各店舗を利用者のレンタカー利用目的から,「レジャー中心型店舗」・「ビジネス中心型店舗」・「代車中心型店舗」・「複合型店舗」の4パターンに分類した.レジャー中心型店舗は北毛地域と西毛地域に集中しており,そのいずれもが1990年以降開設されたものである.ビジネス中心型店舗はJR高崎駅前とJR前橋駅前に集中している.代車中心型店舗は1988年以降に開設された新しい形態で,県央地域と東毛地域に立地している.複合型店舗は県央地域と東毛地域に立地している.4.地域的展開群馬県内において,県央・北毛・西毛・東毛の各地域によってレンタカー店舗の立地・利用形態には大きな差異が認められた.その差異をもたらした要因は,それらの地域が都市機能をもつ地域か観光機能をもつ地域かにあるといえる. 群馬県内における都市地域は,県央地域と東毛地域に広がっている.これらの地域は人口が多いことから,自動車に対する需要が高い.自動車同士による交通事故の発生を成立条件とし,地元住民が利用者の大部分となる代車中心型店舗は,県央・東毛両地域にのみ立地している.また,主として新幹線が停車することで,交通の結節点となり拠点性を発揮しているJR高崎駅前には,群馬県外からのビジネス需要に応えるビジネス中心型店舗が立地している. 一方,北毛地域や西毛地域は,都市地域的な要素が少なく,観光地域的な色彩が強い.両地域に存在する観光地の多くは,鉄道駅からさらなるアクセス手段を必要としている.そのため,両地域ではレジャー利用が主体となるレンタカー店舗がほとんどを占めている. そのレジャー中心型店舗は,地元住民の需要を主たる成立条件としていない.都市的機能を有しないこれら両地域では,その機能が成立の基本となるビジネス中心型店舗・代車中心型店舗は立地しえないのである.
著者
荒木 一視
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100002, 2015 (Released:2015-10-05)

報告者は日本の近代化を担った工業労働者に対する食料供給はどのようにして担われたのかという観点から研究を進めてきた。その過程で,米の海外植民地依存が都市労働者の食料供給を支えたことが浮かび上がってきた。特に朝鮮からの米移入の重要性は際立っている。その反面,朝鮮の農民への食料供給はどのようにして担われてきたのかという関心は決して高くなかった。 戦間期の東アジアを巡る主要な食料貿易としては①朝鮮から日本(内地)への米,②台湾からの米,③同様に台湾からの砂糖,④満洲からの大豆等がよく知られており,それらに関する先行研究も多い。実際,1932年には①が約108万トン,②が約51万トン,③が約80万トン,④が46万トンなどとなっている。戦間期を通じて米需要全体の1~2割程度がこれら植民地から供給され,内地の食料需要を支えた。これに対して,朝鮮農民の食料需要がどのようにして支えられたのかに着目したとき,22万トン(1932年)もの輸入量がある満洲から朝鮮向けの粟貿易が重要な役割を果たしているのではないかと考えた。戦後,十分な議論がなされたとはいえない満洲から朝鮮に送られた粟に焦点を当てて,そのフードチェーンの解明に取り組んだ。(本報告は戦間期の統計に基づいた研究であり,朝鮮や台湾は当時の植民地の呼称として使用した。同様に満洲や奉天(瀋陽)などの標記についても,もととなる統計に従って,そのまま使用した。)  戦間期の朝鮮・満洲間の貿易は「満洲国」建国以前の1932年までのそれ以降に大きく分けることができる。それ以前の1920年代を中心とした時期は,満洲から朝鮮への輸入が卓越する時期,それ以後は逆に満洲向けの輸出が卓越する時期である。前者の時期には粟,柞蚕生糸,豆粕,木炭,石炭などの輸入品,後者の時期には,金属,薬剤,車両,木材,衣類などの輸出品が主力であったが,期間を通じて最大の貿易額を維持したのが粟で,輸入額1千万円を超える品目は移輸出入を通じて他にはない。 この時期の満洲の主要な貿易港は,大連,営口,安東(丹東)の3港であり,大連は最大の貿易量を誇り,営口は主として中国との貿易,安東は朝鮮との貿易を担った。安東と鴨緑江を挟んで向かい合うのが朝鮮側の新義州で,ここが朝鮮側の対満洲貿易の主要貿易港となった。なお,貿易港とはいうものの貿易量の大半は鴨緑江橋梁を利用した鉄道によるものである。1911年の同橋梁の完成により京義線(京城・新義州)と安奉線(安東・奉天)が連結され。貿易の中軸を担うようになった。 『新義州税関貿易概覧』による1926(昭和1)年と1939(昭和14)年の食料貿易状況は以下の通りである。1926年の輸出では魚類,果実,1939年では米,りんご,1926年の輸入では粟,1939年では粟,黍,コウリャン,蕎麦,大豆,小豆が主用品として取り上げられている。 まず輸出品であるが,1926年の魚類はシェア5割の釜山を最大の産地とし,仕向先は大連と奉天でほぼ5割を占め,それに安東や撫順が続く。果実では黄海道のリンゴ産地,和歌山県のミカン産地から安東向けが中心である。1939年の米は平安北道各地から安東,奉天,ハルピンさらに天津に仕向けられている。リンゴは黄海道や平安南道から安東,奉天,ハルピン,新京向けが中心となる。いずれも主要な農業産地や有力漁港から満洲の大都市向けに輸出されている。 次に輸入品であるが,両年を通じて粟は四平街や奉天など京奉(新京・奉天)線沿線各地を中心として,ハルピンや通遼,白城子など満洲各地から集荷され,朝鮮各地に仕向けられている。平安北道が4割近くのシェアを持つものの,仕向先は平安南道,黄海道,京畿道,忠清北道・南道,全羅北道・南道,慶尚北道・南道,江原道,咸鏡北道・南道と全道に及ぶ。その一方,当時大人口を擁した京城や,仁川,釜山,平壌などの入荷量は決して多くない。これは輸出品が主として大都市に仕向けられていたのとは対照的である。例えば,魚類の場合,連京線(大連・新京)沿線の9駅を含む合計15駅が仕向先となっているのに対し,粟の場合は京義線の27駅を始めとして,朝鮮全土に広がる幹線・支線を合わせて33の鉄道路線の合計154駅が仕向先としてリストアップされている。これは仕向先が新義州や平壌に集中する蕎麦などとも異なり,産地と都市の消費地を連結するチェーンというよりも,産地と農村の消費地を連結するチェーンと見なすことができる。当時の朝鮮からの米移出を支えた背景に,大量の満洲粟の輸入と朝鮮全土の農村部への供給があったことを指摘できる。
著者
申 知燕 李 永閔
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100200, 2016 (Released:2016-04-08)

1.はじめに 資本主義経済のグローバル化は,世界各国において商品やサービスはもちろん,労働力の国際移住までをも活発にさせた.労働のグローバル化とも言われる国際移住の増加は,特にグローバルシティにおいて顕著に現れており,生産者サービスに従事する熟練労働力,ならびに彼らにサービスを提供するための非熟練労働力の急増が起きている.特に,グローバルシティに流入する近年の移住者の中には,トランスナショナルな移住者という,国境を越えて様々な地域で家族・知り合い・民族集団との人的ネットワークを活用し生活情報を共有・利用しているような移住者が増加しており,既存の移民者が形成したローカルを変化させている.エスニック・エンクレイブ(ethnic enclave)のように,旧来の移住者が形成した集住地は,移住者がホスト社会に同化するまで一時的に留まるためのものであったが,近年はトランスナショナルな移住者の登場によって複数の文化や人的ネットワークが交差する中でアイデンティティの競合が起こり,多様な特性を持つ空間へと変化している. 従って,本研究では,トランスナショナルな移住者によってグローバルシティにおける移住者の集住地がとめどなく混成的に変化していることを確認することを目標にした.具体的には,コリアタウンの景観および韓人と朝鮮族の民族間関係を分析し,朝鮮族移住者の柔軟なアイデンティティがいかに集住地とその内部の移住者間の関係を変化させるのかを把握することを試みた.本研究の分析にあたり,2012年5月および2013年6月に現地調査を行い,韓人,朝鮮族,中国人など合計42人から得たヒアリング資料を収集・分析した.   2.事例地域の概要 本研究の事例地域としてニューヨーク州ニューヨーク市クィーンズ区のフラッシングに位置するコリアタウンを選定した.フラッシングでは1970年代から韓人移住者向けの商業施設が立地し,現在はニューヨークにあるコリアタウンの中でも最も歴史が長く,人口も多い,典型的なエスニック・エンクレイブとなっている.フラッシング地区における2010年の韓人人口は約3万人に上るが,近年は居住者の高齢化や新規移住者層の属性の変化によって人口の流出・現象が起きており,老朽化しつつある.   3.知見 本研究から得た結論は以下の2点となる.1点目は,フラッシングのコリアタウンが大型化・老朽化し,近隣地区にチャイナタウンが形成されたことが朝鮮族の流入のきっかけとなったことである.韓人移住者の郊外化や,自営業者の引退などによってフラッシングのコリアタウンは縮小傾向に陥った.韓国・中国のアイデンティティ両方を持つ朝鮮族は,韓人の経営する店で従業員として勤務するか,コリアタウンとチャイナタウンの境目で自営業を行い,韓国人・中国人・朝鮮族全部を顧客として誘致する.このような朝鮮族の活動によって,コリアタウンは多様な民族景観が結合された liminal spaceとなる. 2点目は,フラッシングの朝鮮族は,自らの必要に沿って,戦略的かつ選択的にアイデンティティを発揮し,コリアタウン内外で生活を営む点である.韓国語・中国語を駆使する能力や,中国国籍を活用して韓人教会のコミュニティで活動することで,彼らは生活基盤やアメリカの永住権を獲得する.彼らの柔軟なアイデンティティは,コリアタウン内の韓人にとっては同胞意識や異質感,敵対心などを同時に感じさせる要因となり,朝鮮族と韓人の間の葛藤や差別の原因にもなる.
著者
渡辺 久雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.34, no.12, pp.631-649, 1961-12-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
48

本研究の目的は,条里制起源が,これに先行する肝晒地割にあることを明らかにし,中国の肝晒地割形式が,朝鮮を経て,古墳時代にわが国に伝来し,条里制の基盤となつたことを,地割形式およびGeo-magnetochronologyの成果より明らかにすることにある.その:解明の順序は1)条里制と5刊百地割, 2) 東亜における磁石・磁針の問題,3)兵庫県下における条里遺構の復原とGeomagnetochronologyの応用とする. (1) 古い地積単位の残存から,条里地割に先行する一種の地割の存在を考える立場は早くからあつた.しかしそれがいかなるものか,いつ頃実施されたものかについては必ずしも明確にされていなかつた.この点に関して,筆者は条里先行地割が,中国の井田・肝階地割と同系のものと考え,その証明として,地割形式を尺度および進法の変遷から検討した, (2) この種の先行地割方式が,いつ頃わが国で開始されたかという,本論文の表題である起源論について,この種の先行地割が古く阡陌地割と呼ばれていた点から,地割の経緯線は常に東西と南北を指している筈だと考え,中国における古代の方位決定法,ならびに磁石・磁針の問題の解決から出発した.その結果,わが国へも,古墳時代すでに司南と呼ばれる一種の簡易Compassが渡来し,阡陌地割の施行に利用されている可能性を認めた, (3) 条里遺構の復原に関して,筆者の年来の疑問点の一つは,条里地割における経緯線方向の区々なることにあつた.その理由に関する従来の解釈に疑義を持つとともに,あらたな解釈として,磁針を用いたことによつて生.じた当時の地磁気偏角に原因すると仮定した.そのテストとして,兵庫県下における条里地割の経緯線方向の測定値を,近年著しく発達したGeomagnetochronologyの偏角永年変化表に照合し,地割が紀元3世紀より6世紀にわたつて施行されたことを知つた.また結果において,河系ごとに地割施行に関する地域的類型の存在をも認めることができた. 最後にGeomagnetochronlogyが,本論文の起源論の根幹をなすものであるだけに,その客観妥当性を若干の吏実との照合によつて試みた.もちろん100%の妥当性があるか否かは,史実自体の側にも問題がある限り明言できぬが,かなり高い信頼度を認めることができた.しかし今後,全国各地における条里地割への適用をはじめ,各方面における妥当性の検証が必要である.
著者
宮川 泰夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.49, no.1, pp.25-42, 1976-01-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
22

大都市零細工業的性格をもった眼鏡枠工業は,今日では,その約80%を地方の町鯖江に於て産出している.この地への導入は,大阪へ出稼者や移住者を出しながら絶えず地場産業を求めていた北陸の一寒村の地域性と東京の名工と大阪の問屋がもつ「都」「市」的機能と地場の低廉な労働力の結合を可能にした増永家の家業性を基礎に置く.明治末に生野に定着した眼鏡枠工業は,大正に入ると同様の地域性をもち帳場の親方の出身地である東部地域に分家的独立の形態をもって展開し,技能と低廉労働力に基礎をもつ村の工業となってゆく.それが昭和になり機械化が進み組立工業的性格を強めながら低廉な技能者の集積によって大阪・東京といった大都市産地との競合に打勝って産地規模を拡大してゆくにつれその生産流通機能の展開に適した新興の町に生産拠点を移し町の工業へと転換していった.戦後は繊維や漆器といった地場産業の展開する町を棲み分けつつ,拡充した町の生産流通機能に主導された町から村へ連らなる一大産地を眼鏡枠工業は形成している.このように眼鏡枠工業の配置は工業がその発展段階に応じて性格を異にする地域を棲み分けることによってもたらされたといえる.
著者
山本 健太
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.19, 2006 (Released:2006-05-18)

近年、文化産業ともいわれるコンテンツ産業への注目が集まっている。しかし、地理学の分野では1990年代後半以降Scott(2000)および半澤(2001)をはじめとした研究蓄積がみられるが、その立地特性や集積メカニズムの解明は十分なされていない。そこで、本研究では、わが国を代表するコンテンツ産業の一つであるアニメーション産業を取り上げ、アニメーション産業の大都市集積の要因と、集積メカニズムを検討する。調査方法は、アニメーション制作企業およびアニメーション産業フリーランサーを対象とするアンケート調査および聞き取り調査である。検討課題は企業間取引構造および労働市場構造である。 1.特徴:アニメーション産業は、1998年以降急速に需要が増大し、市場規模を拡大した。制作企業の立地は、国内の76%以上が東京都内に立地し、都内の立地についても、練馬区、杉並区、西東京市を中心とした特定地域に集積していることが特徴である。アニメーションの制作過程は大きく前制作工程、制作工程、後制作工程に区分でき、制作工程の一部では国際分業が進展している。これら工程を担う制作企業は、頻繁な離合集散により集積を形成してきた。企業規模に関しては、大部分が中小零細規模であり、担う工程による企業規模の違いは明確ではない。そこで、企業間取引構造の分析には、制作過程における位置から元請および工程受注を類型として用いる。またアニメーション産業従事者の中には正規従業員のほかにフリーランサーといわれる就業形態が存在する。フリーランサーは制作企業との間に仕事単位での雇用契約を結び、仕事に応じて複数企業から仕事を受注したり、制作企業間を渡り歩いたりする柔軟性の高い就業形態である。アニメーション産業従事者数において、このフリーランサーが正規従業員数の3倍以上の規模となり、労働市場として大きな影響を与えていると考えられる。そのため、労働市場構造については、正規従業員のほか、フリーランサーを分析の対象とした。 2.企業間取引構造:_丸1_元請制作企業におけるスポンサー企業への高い依存性と固定的取引が特徴的である。_丸2_業界内では流動的で短納期の取引が一般的である。_丸3_業界内取引では信用取引が特徴である。 3.労働市場構造:_丸1_新規労働力給源である専門学校の集中および業界内からの労働力の中途採用が一般的である。_丸2_フリーランサーは業界への高い依存性を示しながら、業界内では流動的な労働力となっている。_丸3_縦の人的ネットワークによる技術修得と横の人的ネットワークによる仕事の斡旋が特徴となっている。 以上より、アニメーション産業の東京における行為者は、1.アニメーション制作企業、2.フリーランサーに代表される労働力プールに加え、3.スポンサーである周辺コンテツン産業、4.新規労働力給源となる専門学校である。これら行為者内、行為者間におけるフローは相互に強化する形で東京への集中集積を促している。一方で、製品価格の安さから、労働者は低賃金労働を強いられている。加えて安価な労働力を指向した制作企業による中国および韓国制作企業への外注が増加し、国内労働者の就業は厳しさを増している。若年労働者における高い離職率は、業界内の縦の人的ネットワークによって技術修得がなされるアニメーション産業において、技術蓄積および労働力の再生産を困難にさせる危険性を孕んでいる。 文献Scott, A. J. 2000. The Cultural Economy of Cities. London: SAGE.半澤誠司 2001. 東京におけるアニメーション産業集積の構造と変容. 経済地理学年報47(4): 56-70.
著者
東城 文柄 市川 智生
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.63, 2013 (Released:2013-09-04)

本報告では、広大な淡水面とそれに付随する生態系を持つ琵琶湖において、1920-50年代の土地改変がどのような環境影響を持っていたかの考察を、土着マラリアの流行と終焉に関する歴史地理的分析を通して行う。日本の土着マラリアは、シナハマダラカ(Anopheles sinensis)によって媒介される三日熱マラリアであった。特に滋賀県での罹患者数が他地域と比較して多く、しかも1940年代末に発生が集中したために、戦後の医療・衛生改革の対象となった(彦根市 1952)。琵琶湖の東岸に位置する彦根市では、彦根城およびその周辺の城下町を取り囲む堀が媒介蚊の孵化地となり、県内でも特に濃厚なマラリアの汚染地域になっていたと言われている。一方統計データから判断すると、マラリアの流行はより広域的で、マクロな環境条件と結び付いた現象であった可能性があると言えた。 統計が示す1920年時点の湖岸地域における村毎のマラリア罹患者分布(1,000人対比)は空間的に不均一で、かつ1920年に作成された測量地図(縮尺5万分の1)からデジタイジングした当時の水田・浅水域(内湖)・泥田の分布と極めてよく一致していた。これら湖岸の内湖が、1940年代までに干拓によってほとんど消失すると、マラリア罹患者数と分布もこれに合わせて急速に収縮した。このように戦後彦根市で社会問題とされたマラリアの発生は、実際には戦前から広域で見られた流行の「残滓」と言える状況であった。歴史的な日本の土着マラリアの終焉に関しては、これまで戦後の彦根における医療・衛生対策の役割が強調されていたが、この分析結果からは1920-40年代の大規模な湖岸の環境改変の進展により、シナハマダラカの発生に適したタイプのエコトーンがマクロスケールで消失し、マラリアの終焉にまで影響を及ぼしたと推測できる。
著者
小野寺 淳 増子 和男 上杉 和央 野積 正吉 千葉 真由美 石井 智子 岩間 絹世 永山 未沙希
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100103, 2015 (Released:2015-10-05)

長久保赤水(1717-1801)は,安永8年(1779)に「改正日本輿地路程全図」 天明5年(1785)に「地球萬国山海輿地全図説」,に「大清広輿図」などを刊行した地図製作者である。長久保赤水が編集した地図は「赤水図」と呼ばれ,江戸時代中期における最もポピュラーな地図として版を重ねた。編集図は,様々な文献や地図をもとに編集して地図を作製したと想定されているが,いかなる文献,いかなる地図を参考にしたかなど,具体的な地図作製過程については不分明な点が多い。そこで,本科学研究費(基盤研究(C)「長久保赤水の地図作製過程に関する研究」代表者:小野寺淳)は,江戸時代中期の最も著名な地図製作者であった長久保赤水の地図作製過程を明らかにすることを目的としている。  このうち,本報告では,1年間の調査をもとに明らかになった点を公表する。赤水は常陸国赤浜村(現,高萩市赤浜)の庄屋に生まれ,1767年藩命により漂流者を引き取りに長崎へ赴く(『長崎行役日記』),翌年水戸藩郷士格,大日本史地理志の編纂に従事した。50歳代から地図製作に携わり,地図を刊行した。これらの地図作製には多くの文献を渉猟したと考えられ,本報告では中国図を対象に,漢籍などから明らかになった作製過程の一部を示す。  長久保赤水からの分家は6家あり,そのうち4家に史料が伝えられている。4家のうち1家の史料は古書店経由で現在,長久保赤水顕彰会と明治大学図書館に所蔵されており,前者には書き込みの見られる漢籍が176点ある。研究初年度の昨年は,すでに現存資料が明らかになっている1家を除く3家について土蔵などの悉皆調査を行った。なかでも長久保甫家では,赤水の手書きによる写図10点,ならびに書き込みの見られる漢籍50点,書簡や村方文書などが新たに見つかった。新出の村方文書は現在整理中である。既存の史料を合わせ,これらの分析が今後の課題となる。 漢籍に記された赤水の書き込みについて,赤水が作製した「大清廣輿図」および「唐土歴代州郡沿革地図」の中国図との関係の検討を始めたところである。ここでは各中国図の原本調査を通した見解を述べておきたい。「大清廣輿図」は,省ごとに板木を作成しており,省内でも板木を分けているため,全体で23の板木を使用していることが判明した。また,省ごとに紙継ぎをするため,料紙裏に「東北淅福建界」といった目印を板木で刷っており,これは16箇所見られた。「唐土歴代州郡沿革地図」では,長久保甫家所蔵資料内に中国図作製過程の「疑問」を書いた史料が見られる。このことから,漢籍からの情報を考証し,疑問を整理しながら地図作製を行っていたと考えられる。
著者
杉浦 芳夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.201-215, 1977-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
24
被引用文献数
1 1

大正期に世界的規模での流行をみたスペインかぜのわが国における流行過程は,これまで不鮮明であるとされていた.本稿は,その拡散経路を推定しつつ,この点の再検討を行なうことを目的としている.日本帝国死因統計を資料として, 1916年7月~1926年6月の10か年の各月ごとの府県別インフルエンザ死亡率を因子分析にかけた結果, 3つの流行地域が抽出された.それによると,第1因子は西日本地域,第2因子は都市地域,第3因子は東日本地域を識別していることがわかった.そして,因子得点間のクロス相関から3つの流行地域の時間的前後関係を検討してみると,スペインかぜは,西日本の主要港湾ならびに横浜港から侵入した可能性のあることが示唆され,その拡散過程において近接効果と階層効果が働いていたことも明らかとなった.以上の分析結果は,従来の通説とは異なり,わが国におけるスペインかぜの流行過程に,一の空間的秩序のあったことを意味するものである.
著者
中山 正民
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.27, no.12, pp.497-506, 1954-12-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
15
被引用文献数
1 1

There have been made public many papers on the roundness of gravel, but no work has so far been done on various sizes of gravels over a long distance in field. However, in order to make clear the relations between roundness and transportational agency it is necessary to investigate these factors. The purpose of this paper is to clarify the change in roundness of various sizes of pebbles over a distance and the relations between roundness and size in particular stations. The investigation was made in the river-bed of the Tanla River extending over about 60km. from Hikawva to Futako-Tamagawa and 12 sampling stations were selected there. The mathod of measuring is as follows: First samples are divided into four clesses, those of 61_??_. 32_??_. 16_??_. and 8_??_mm. in diameter respectively, and next, about 150 graywacke pebbles of each class were photographed and then the roundness was measured by the method developed by Wadell. The results are as follow: (1) The number of pebbles necessary for measuring mean roundness was determined in the following way. At Ome, where the frequency of roundness seems to be most complex, the relations among number and mean roundness and confidence interval were elucidated (Tab. 1). The table shows that the smallest number with small confidence interval is approximately 150. (2) The roundness of pebbles is not always the function of transported distance as shown in fig. 2. Where the detritus from valley walls are mixed with transported gravels in the upper reaches, the roundness decreases abruptly. The location where the roundnesss suddenly decreases is different according to pebble size. For the size of detrital materials differs according to the density of crack or joint spacing which differs as the outcropping locality differs. (3) In the lower reaches there are locations where the roundess of pebbles increases abruptly. The location where the roundness increases abruptly lies in comparatively upper streamn in case of larger pebbles and in comparatively lower reaches incase of smaller pebbles. It is probable that laorger rabbles change first the mode of heir downward shifting by decrease of the gradient of river course and friction acts on them earlier than it does on smaller pebbles. (4) The relation between size and roundness is not always expressed as y=mxn, where y is roundness, x is size, n is a coefficient, and. in is a constantas shown in fig. 3. In the upper reaches where the detritus from the valley walls are mixed with river gravels, no relation like this can be found or the converse relation is observed. At each sampling station in the river-bed from Ome to Futako-Tanzagawa, roundness of pebbles of 8_??_4mm. in size is remarkably lower than that of larger pebbles. This fact suggests that pebbles of a size of 8_??_4mm. are transported by saltation, while the larger pebbles by rolling or sliding in the reaches above-mentioned.
著者
土井 重彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.49, no.2, pp.94-103, 1976-02-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
7

地域的道路網構造はその交通流特性によって階層型をとる.このような道路網構造の空間的変異は地域特性に起因している.しかも,その空間的変異を規定する地域特性は道路網の階層ごとに相異っている.以上のことを主旨とする地域的道路網構造の空間的変異モデルをクリスタラー空間のK7組織をもとにして構築する.ついで,日本のいくつかの地域を選定し,単純な相関分析によって,道路網構造と地域特性の関係を明らかにする.そして,このモデルの現実性を検定してみる.
著者
藤塚 吉浩
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100329, 2015 (Released:2015-04-13)

社会主義体制移行前の都市内部には、中心業務地区、労働者階級の住宅地と、中上流階級の住宅地があった。社会主義体制に移行すると、政府によってすべての資産が没収され、都市の内部構造は大きく変わった。1990年にドイツが統一されると、東ドイツでは旧社会主義政府が没収した資産を、所有者および所有者の子孫に返還することとなった。資産の所有者とその子孫には、その地を離れている者も多く、外国へ移住した者も少なくなく、資産返還後には不在地主となった。そのなかには、資産を転売したり、修復して、より高い賃料収入を得ようとする者も多かった。ジェントリフィケーションは、旧社会主義都市の市街地のなかでも、社会主義への移行前の最もよい住宅地で起こった(Sýkora,2005)。 図1は、ベルリンにおける2005年から2012年までの2,600ユーロ以上の月収者の増減率を区別に示したものである。フリードリヒスハイン・クロイツベルク区では70%以上増加し、パンコー区、マルツァーン・ヘラースドルフ区において60%以上増加した。クロイツベルクは旧西ベルリン側にあり、1980年代より100件以上の不法占拠の建物について、現状の構造を保存し、人口の社会的構成を維持し、市民参加を推奨するという、注意深い更新が行われ、95件の建物が公共の支援により修復されてきた。2000年代後半には、長期の賃貸合意と新しい賃貸契約との差が生じるようになり、低所得の居住者と、家賃の増加を見込む所有者は対立し、それが立ち退きへの圧力を強めることとなった(Holm,2013)。 パンコー区南部のプレンツラウアーベルクには、19世紀末に建てられた歴史的建築物が多く、老朽化した建物の修復には補助があった。1990年代後半には改装される住宅の件数が多くなり、補助によらない、民間による改装の件数は増加した(Bernt and Holm,2005)。建物の更新が進められた地域では、元の住民の比率は25%に過ぎず、標準の所得は1993年にはベルリン全市の75%であったが、2007には全市の140%となった(Holm,2013)。1990年代から老朽化した建物の修復が進められてきたため、2000年代半ばにはジェントリフィケーションされる古い建物がなくなり、空閑地などの開発されていなかったところへ、贅沢なアパートが新築された。居住者層は35~45歳が多く、1~2人の子どものあるファミリー世帯である。彼らの職業は建築家、メディア・デザイナー、行政職員、経営コンサルタントなどであり、スーパージェントリフィケーションが確認された(Holm,2013)。 ベルリンでは、持ち家は少なく賃貸住宅が主であり、1990年代は家賃規制があり、2005年まで家賃は据え置かれた。2000年代後半になると、新たな賃貸契約により家賃は高騰してきた。旧東ベルリンでは、インナーシティにおける観光地化をはじめとしたリストラクチュアリングが進行し、ジェントリフィケーションへの対抗的機運が高まりつつある(池田,2014)。
著者
岩間 英夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100148, 2016 (Released:2016-04-08)

1.はじめに 発表者は、日本における産業地域社会の形成と内部構造をまとめ、2009年に研究成果を公刊した。本研究では、マンチェスターを対象に、世界の産業革命発祥地における産業地域社会の形成と内部構造を解明する(本時)。その後、マンチェスターと日本における産業地域社会の比較研究から、近代産業の発展に伴う産業地域社会の形成メカニズムとその内部構造を明らかにする(次回)。 なお1極型とは、事業所の事務所を中心に生産、商業・サ-ビス、居住の3機能が1事業所1工場で構成された、産業地域社会の構造を意味する。  2.マンチェスターの産業地域社会形成と内部構造 Ⅰ 産業革命による近代工業形成期(1760-1782年) 17世紀末にインド、18世紀に北アメリカから綿花が輸入されたことにより、マンチェスターの主要産業は毛織物から綿工業に転換した。マンチェスターでは、地元のハーグリーブスによるジェニー紡績機の発明(1765年)などによって産業革命が生じた。その結果、旧市街地における商業資本の問屋制家内工業が衰退した一方で、水運沿いでは産業資本家による小規模な工場制機械工業が発展した。これによりマンチェスターは、綿工業による一極型から、多極型の単一工業地域へと変容した。綿工業地域社会の内部構造は、産業資本家の各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は旧市街地に依存、産業資本家(中産階級)の居住機能は旧市街地周辺、また労働者の居住機能は旧市街地の工場周辺(スラム街)に、それぞれ展開した。1543年におけるマンチェスターの推定人口は約2,300人であったが、1773年には43,000人となった。Ⅱ 近代工業確立期(1783-1849年) マンチェスターでは、綿工業の国内外市場拡大に合わせて、商業・金融資本が台頭した。綿工業は一核心多極型から二核心多極型の複合工業地域、1816年以降は綿工業による多核心多極型の総合工業地域を確立した。マンチェスターは「コットン=ポリス」、「世界最初の工場町」と呼ばれた。同市は、商業・金融資本の市街地を中心に、周辺部に工業地域、郊外にかけて住宅地域が同心円状に展開した。工業地域社会の内部構造は、各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は市街地に依存、市街地と工場周辺に労働者の居住機能、産業資本家の居住機能は煙害を避けて郊外の鉄道沿線に移転・拡大した。1821年における人口は、129,035人に増加した。 Ⅲ 近代工業成熟期(1850年~1913年)  世界への市場拡大を背景にマンチェスターは国際的商業センターの性格を強くした。また、第二次産業革命が始動し、マンチェスターは多業種からなる多核心多極型の総合工業地域となった。市街地は再開発され、銀行、保険、商館、鉄道駅舎や市庁舎などが建てられて、中枢業務地区(CBD)を形成した。その結果、人口分布のドーナツ化とスプロール化が顕著となった。工業地域社会の内部構造は、各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は市街地に依存、煙害を避けて労働者の居住機能は郊外に、産業資本家の居住機能は鉄道沿線のさらに外縁部に移転・拡大して展開した。また、1894年にマンチェスター運河の完成により、国際港と英国初の工業団地(トラフォードパーク)が出現した。1901年、マンチェスターの人口は607,000人に急増した。 Ⅳ 工業衰退期(1914~1979年) マンチェスターでは、トラフォードパークにアメリカ系企業が進出したことによって、自動車や航空機産業などの第2次産業革命(重化学工業)が促進され、総合工業による多核心多極型を維持した。しかし、第二次世界大戦後には1,000以上の工場が閉鎖され、工業が後退した。工業地域社会の内部構造をみると、空き工場が増え、ゴーストタウン化した。人口は1931年の751,292人をピークに、1981年には437,660人まで減少した。 <BR>Ⅴ 再生期 (1980年~ ) 1990年代にイタリア人街で始まった市民による都市再生運動により、マンチェスターは再生した。再生の根底には、産業革命時と相通じる主体的開発の精神があった。従来の商業と交易に加えて、金融機関や新聞社・テレビ局などのメディア企業、学術機関、研究所などが集中し、街は勢いを取り戻した。空洞化した都心部には移民が集住し、多民族都市の性格を濃くした。人口は、2011年現在で約49万人である。 <BR>  3.まとめ参考文献  岩間英夫2009.『日本の産業地域社会形成』古今書院. Alan Kidd 1993. Manchester A History. Carnegie Publishing.
著者
長島 弘道
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.60-75, 1969-01-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
6
被引用文献数
1 1

戦後の日本農業のひとつの特色は商業的農業の著しい発展である.本稿では,成長部門の一環として養鶏業をとりあげ,その発展過程,経営形態を中心に検討を試みようと思う. 養鶏業には二つの発展期が認められる.第一期は昭和20年代後半であり,第二期は30年代後半である.前者は飼料事情の好転と鶏卵市場の拡大によって飼養羽数が増大した時期であり,後者は農業経営の体質改善という農村内部からの動きによって養鶏が導入され,専業化が進んだ時期である. 今日,養鶏には副業養鶏を別にして,専業養鶏,企業養鶏,協業・集団養鶏の三つの経営形態がある。専業養鶏は家族労働を主体としているのに対して,企業養鶏は常時雇用労働力を導入している.両者とも大.市の近郊に立地しているが,最近企業養鶏は外延的に立地移動し,分散化の傾向がみられる.協業.集団養鶏は全国的に分散している.