著者
由井 義通 神谷 浩夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100036, 2016 (Released:2016-04-08)

1.  研究の背景と目的経済活動のグローバル化は,同時に多様な人材のグローバル化をもたらす。企業の海外進出は,本国から派遣する駐在員とともに,駐在員を支援するスタッフや彼らの生活を支援する飲食店などの各種サービスが必要となるため,企業の国際展開は,進出先に必要とされる人材を紹介する人材ビジネスの国際的展開も必然的に伴うのである(由井,2015)。日本人の海外就職者の大部分は,人材会社の就職情報をweb上で得ており,中澤(2012)によるシンガポールでの海外就職者へのインタビュー調査結果によると,日本人女性の海外就職者の大部分は,人材会社が提供するwebサイト上の就職情報を得て就職活動を行っていた。また,諸外国でもwebサイト上の人材情報が海外就職において重要な情報源の1つとなっている(Niles and Hanson 2003)。日本人女性の海外就職についてシンガポールとバンコクで調査した際に,人材会社について調査した結果,人材会社の求人情報では,いずれの都市においても男性の営業職やサービス職に求人が多かった。しかし,海外就職のために人材会社のwebサイトに登録するのは女性が多かった(Yui,2009, 由井,2015)。そこで,海外就職に重要な役割を果たしている人材会社について,人材を募集する企業が求める人材の特徴を明らかにし,また海外就職者の特徴を把握することを目的として,人材紹介会社への聞き取り調査を行った。2.    ドイツにおける在留邦人数と日系企業数 本研究は調査対象地域をドイツのデュッセルドルフとフランクフルトとした。ドイツを研究対象とした理由は,外務省の「海外進出日系企業実態調査」(2015)の結果,平成26年10月1日時点で海外に進出している日系企業の総数(拠点数)は,国別でみると中国3万2,667拠点(約48%),アメリカ合衆国(約11%),インド(約5.7%),インドネシア(約2.6%),ドイツ1,684拠点(約2.5%),タイ(約2.4%)となっており,ドイツはヨーロッパで最多の日系企業の進出先で,それに伴って日本人の就職者が多い国となっていたからである。ドイツ国内で日系企業の拠点は,ミュンヘン総領事館に677拠点,デュッセルドルフ総領事館に570拠点,フランクフルト総領事館に242拠点だが,日本に本社を置く日系企業162社のうち,デュッセルドルフには63社,フランクフルト35社,ミュンヘン31社で,日本から派遣される駐在員はデュッセルドルフに多い。3.    ドイツにおける日本人向け人材会社の概要ドイツにおいて日本人を対象とした人材紹介を行っている人材会社は5社の独占状態にあり,そのうち1社は管理職クラスのヘッドハンティングを中心業務とし,4社は日系企業や日本との取引を行う現地企業に現地採用者を紹介する業務を行っている。5社はいずれもデュッセルドルフもしくはフランクフルトに本社を置き,創業は2002~2009年で比較的新しい会社である。それぞれの人材会社の顧客に占める日系企業の割合は95~100%で,紹介実績では日系企業に日本人を紹介するのを主とする人材会社が2社,日系企業に日本人とドイツ人を紹介するのが半々となっている人材会社が2社,日系企業にドイツ人を紹介するのを主としている人材会社が1社であった。
著者
野本 晃史
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.33, no.6, pp.300-311, 1960
被引用文献数
1

日本には現在パルプ用材供給地域として北海道北東部,奥羽南部,中部地方西部,中国山地,四国南西部,九州南西部がある.なかでも北海道と中国山地は主要供給地域となつている.北海道がエゾ松,トド松供給地域であるに対し,中国山地は赤松供給地域である.赤松利用は昭和25年頃を契機として盛んとなり,広葉樹利用の始まる昭和35年まで赤松は主要用材となつてきた.パルプ工業立地の南下現象は世界的傾向であるが,日本の場合,旧領土喪失による資源不足が南下を促進している.戦後の工場立地は,赤松資源林周辺の工場適地に誘致された.中国山地地域は約15の工場に用材を供給している.他の供給地域が1工場の独占的供給構造をなすに対し,争奪的であり,分配的である.各工場の用材仕入圏の形態と仕入量をみれば,工場立地と生産能力を知りうる.中部地方各工場の仕入圏は北日本に伸展せず,赤松を求めて西南日本に拡大している.北睦,東海道の各工場は中国山地に用材を求めている点注目すべきである.中国山地でも広島県山地地域が問題であり,用材争奪の結果は,資源涸渇と水害問題,坑木および一般用材コストの高値をよび,地域経済に波及するところ大である.
著者
中田 高 木庭 元晴 今泉 俊文 曹 華龍 松本 秀明 菅沼 健
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.29-44, 1980
被引用文献数
40

房総半島南部の完新世海成段丘は,相模トラフに沿って発生する過去の大地震に伴う地殻変動の歴史を記録している.地形的証拠および36個の<sup>14</sup>C年代測定を含む年代資料をもとに,本地域の地殻変動の量と様式について考察した.<br> その結果,本地域は, 6,150年前, 4,350年前, 2,850年前および270年前に急激な海水準の相対的低下があり,これらは,大正・元禄型地震による地震性地殻隆起によるものであると考えられる.地震間の安定期間の長さは,前回の地震時における変位量と比例関係にある.各地震直前の年代と相対的海水準高度をもとに,長期的平均隆起速度を最小二乗法を用いて求めたところ, 3.0mm/年という値が得られた.また,長期的平均隆起速度と各地震間において求められた隆起速度との値の差は,当時の海水準変動の傾向を示すものと考えられる.これによれぽ,約2,700年前ごろには海水準は低下傾向にあり,それ以降,上昇傾向にあるとみることができる.なお,同様の地殻変動様式と海水準変動の傾向は,琉球列島・喜界島の離水サンゴ礁においても認めることができた.
著者
福本 拓 蘭 哲郎 氏原 理恵子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100096, 2013 (Released:2014-03-14)

Ⅰ はじめに外国人人口の急減は,「多文化共生」施策の実現だけでなく,とりわけ人口減少の進む地方都市を考えた場合,持続的な地域発展という点でも問題といえる。その意味では,むしろ「定住」を政策目標とするような方向性が求められよう。そこで本発表では,特に就業形態の側面に着目し,「定住」を促進/阻害する要因について検討する。Ⅱ 飯田市の概況とアンケート調査の概要飯田市の外国人登録人口は2,313人(2012年6月末)で,総人口の2.3%を占める。同市は,「外国人集住都市会議」の参加自治体であるが,他市とは異なり「中国」籍の割合が高い(約48%)という特徴を有しており,「中国」籍の一定割合をいわゆる中国帰国者が占める。その他,機械工業での派遣労働に従事するブラジル人,女性の比率が8割を超えるフィリピン人(日本人の配偶者が多い)がこれに次ぐエスニック集団を構成している。 本研究では,住民基本台帳を元に,同市に在住する20歳以上の外国人全てを対象としたアンケート調査を実施した。郵送による配布・回収の結果,配布数1,727通に対し回収数477通(回収率27.6%)であった。このうち,分析対象は,特別永住者が多数を占める「韓国・朝鮮」を除く453通である。本研究では,「定住」の代用指標として,特に「現在よりも良い仕事が見つかった場合に他地域へ引っ越すか」という設問の回答に着目する。Ⅲ 調査結果の概要(1)飯田市来住の経緯:「飯田市へ来た理由」について尋ねたところ,「家族との同居」が60.0%,「本人・家族の仕事」が32.7%と前者の割合が高い。この違いは,特に国籍別に顕著に表れており,中国人・フィリピン人で前者が,ブラジル人では後者の割合が高くなっている。中国人の32.5%は「祖父母または父母に日本人がいる」と回答しており,「帰国」が重要な契機になっている。また,フィリピン人は,日本人との結婚の多さが大きく影響している。(2)就業形態:既存研究において,派遣労働の不安定さが度々指摘されてきた。飯田市で実施したヒアリングでは,短期(数ヶ月)の仕事に不定期に従事する者が一定数いるという情報を得た。実際,労働力人口に該当する334人のうち,1年を通じ1箇所で就業した者は180人(53.9%)と過半数程度にとどまる。パート・アルバイトを除いても,不安定な就業形態の者が多いといえる。(3)他地域への引っ越し意志との関連:こうした就業形態が,外国人の「定住」に及ぼす影響を把握するため,二項ロジスティック回帰分析を用いた統計解析を行った(従属変数は,4区分の回答を,「引っ越す(1)」「引っ越さない(0)」の2値に割り当て)。性別・年齢階層・滞日年数・子ども有無の各変数で統制したところ,就業形態のうち,「派遣労働」が5%水準で有意なカテゴリーとして析出された一方(その他,年齢(50代以上)が5%水準,子どもの有無が1%水準で有意),飯田市移住のきっかけは有意な変数とならなかった。この結果については,国籍(4区分)変数を加えてもほとんど変化が見られなかった。従って「派遣労働」形態は,移住のきっかけの影響を統制してもなお,外国人の「定住」にとってマイナス要因になっているといえる。Ⅳ まとめ 「定住」については,就業形態以外にも,コミュニティの形成や地域社会との関係,セーフティネット等の関連が予測される。就業形態の安定化はもちろん不可欠だが,今後の分析課題として,不安定な状況下で居住を継続可能にする諸要因の検討が求められる。
著者
森永 由紀 ヤダムジャブ プレブドルジ バーサンディ エルデネツェツェグ 高槻 成紀 石井 智美 尾崎 孝宏 篠田 雅人 ツェレンプレブ バトユン
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.128, 2014 (Released:2014-10-01)

モンゴル高原では数千年来遊牧が生業として営まれるが、そこには遊牧に関する様々な伝統知識があり、寒冷・乾燥フロンティアといえる厳しい自然条件の下での土地利用を支えてきたと考えられる。牧民の伝統的な食生活には、乳の豊な夏には乳製品が、寒い冬にはカロリーの高い肉製品が主に摂取されるという季節的特徴がある。乳製品の中でも代表的といわれる馬乳酒は、馬の生乳を発酵させて作られ、アルコール度が数%と低く、産地では幼児も含めて老若男女が毎日大量に飲む。夏場は食事をとらずに馬乳酒だけで過ごす人もいるほど貴重な栄養源で、多くの薬効も語られる。今も自家生産され続け、年中行事にも用いられる馬乳酒には重要な文化遺産としての意味もあるが、その伝統的製法は保存しないとすたれる危険があり、記録、検証することには高い意義がある。本研究では、名産地の馬乳酒製造者のゲルに滞在して、製造期間である夏に製造方法を記録し、関連する要素の観察、観測を行った。馬乳酒の質は原材料となる馬乳と、それを発酵させる技術(イースト、容器、温度管理など)で決まると考えられる。そこで①馬の飼養と搾乳、②馬乳の発酵方法を調査した。 調査の概要は以下のとおりである。調査地:モンゴル国北部ボルガン県、モゴッド郡にある遊牧民N氏(52歳)と妻U氏(51歳)のゲル 期間:2013年6月15日~9月22日観測項目:上記の①に対応し馬群およびその環境の観察・観測(GPSによる馬の移動観察、体重測定、牧地の植生調査、ゲル近傍および内部の気象観測)、搾乳の記録観察、②に対応し馬乳酒の成分調査、発酵方法の聞き取り、製造過程の撮影などを、モンゴル国立気象水文環境研究所の協力のもとで行った。馬乳酒の日々の搾乳量を記録した。N氏のゲルでは7月11日に開催されるナーダムという夏祭りに首都で売るために6月25日の開始後約2週間は精力的に製造に励み、約250リットルを販売した。その後一時製造のペースが下がったが、8月下旬から再び搾乳回数を増やして、秋には作った馬乳酒のうち約1トンを冬場の自家消費のために冷凍保存した。期間中の製造量は合計5.1トンだった。今後は、データ整理をすすめ、馬乳酒製造法とそれをとりまく環境の記録を残す。また、気象データの解析により、気象条件と馬の行動、搾乳量、馬乳酒の発酵(温度、pH,、アルコール度など)の関係の解析、および冬営地の気象条件の考察などを行い、馬乳酒製造と気候の関係を明らかにしていく。
著者
松尾 宏
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.107, 2013 (Released:2013-09-04)

明治43年(2010)8月に利根川、荒川などで起った洪水は、関東地方では近代以降最大の被害をもたらしたものであった。しかしながら、その洪水の特色や地域の被災状況については、まとまって整理されたものがなく、水害地や洪水の特色など不明なところが多い。また、明治43年洪水では、近世以降利根川治水史上重要な役割をもっていた堤防である「中条堤」が大きな争論の焦点となり、この洪水を契機に治水計画が変更され変化をみせていった。この大きな災害の理解と社会問題となった明治43年洪水後の中条堤についての究明も研究はなされていない。その中条堤は現在でもその姿を残している。明治43年利根川洪水・水害の大きな要因は、この中条堤の決壊であることが言われてきた。 平成21年(2009)3月皇太子殿下は第5回世界水フォーラム(トルコイスタンブール)において、利根川治水と中条堤についてとりあげられ基調講演をなされた。その講演内容の一部に誤りがあり、資料を提供したと思われる機関、研究者の認識不足でもあり、これまで明治43年洪水と中条堤の歴史的社会問題の研究がなされてこなかったことの原因が指摘できる。本研究はその証明となる研究を含むものであり、中条堤の歴史およびこれまで研究が乏しかった明治43年利根川洪水と中条堤およびその関係、中条堤の変貌についての研究である。
著者
渡辺 満久
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100072, 2013 (Released:2014-03-14)

現在、我々は、原子力施設周辺で多数の活断層が存在しているという事実、原子力関連施設の耐震安全性が不十分なまま放置されてきたこという事実に向き合っている。このような事態に陥ったことに関しては、地理学界にも大きな責任がある。 活断層の認定や活動度の評価においては、高度な地形学的見識が必要とされる。しかし、安全審査の場では、「水は高い所に向かっても流れる」と発言する「専門家」や、旧汀線高度異常などに気付かない「専門家」が活断層の評価を担当してきた。また、電力との密接な関係をもつ「専門家」が評価を牛耳ってきたことも問題である。 地形研究者は、上記した問題に対して具体的に提言することができたはずである。しかし、我々がこうした役割を果たしてきたとは到底いえない。問題に気づきつつも、「純粋な研究にこそ意義があり、社会的責任は負わない、負うべきではない」、「そんな議論は大人気ないことであり、相手にしないことだ」といった理由から沈黙を続けた研究者が多かった。原子力政策に係わることを避け、問題から目を反らしてきた研究者も多いと考えている。 能登半島地震、中越沖地震に続き、東北地方太平洋沖地震によって大きな事故が発生した。これらの事故が発生した原因の一つは、耐震性安全審査において地形学の研究成果(地形学そのもの)が蔑にされてきたことにある。これらに対して地形学からの発言が無かったため、活断層の活動性は著しく過小評価され、あるいは活断層の存在自体が無視されてきた。理学は実学ではないとする主張は、一面では理解できる。しかしながら、多くの国民が関心を抱く原子力の問題に対して沈黙すると、学問の存在意義自体が問われかねない。 2012年には原子力規制委員会が発足し、原子力施設の敷地内断層に関する外部有識者として、多くの変動地形研究者が学会から推薦された。有識者会合では積極的に意見が交わされているが、それ以外の場においても変動地形研究者は自らの役割を果たす必要がある。原子力発電所に関わる議論をタブー視してきた過去とは決別すべきである。 ところで、規制委員会での議論では敷地内の断層だけが重視され、問題が矮小化されている可能性が高い。本質的な問題は、どうしてそのような断層が存在しているのかということである。周辺の活断層の性状や敷地を含む空間に起こりうる現象を正確に把握してゆくことが最も重要である。 また最近、日本列島全体を大きく変形させた東北地方太平洋沖地震と津波の発生様式について、地震学的見解とは異なる、海底活断層との関係を重視した変動地形学的新知見が得られている。地震学的に定着した見解に対しても、地形学から積極的に問題提起をしてゆく必要がある。
著者
浅井 辰郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論. Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.70, no.9, pp.553-554, 1997-09
被引用文献数
1
著者
寄藤 晶子 天野 香緒理 岡崎 綾香
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100351, 2015 (Released:2015-04-13)

1.はじめに福岡県太宰府市にある太宰府天満宮は菅原道真を祀った神社であり、江戸時代から参拝の地として知られる。近年では、天神からの西鉄バス・電車が増便されたほか、中国からのクルーズ船観光がバスで移動する際のルートに組み込まれ、国内外から多くの観光客を集める。本研究では、こうした訪問者の変化に注目し、高度経済成長期以降の参道の土地利用の変化を、とくに店舗数や業種構成の変化とその背景を中心に明らかにする。 2.研究の方法「太宰府観光案内冊子」「ゼンリン住宅地図」「住宅案内図」をもとに、1973年・1982年・1992年・2014年の参道地図を作成した。また、太宰府観光案内所・参道各店舗で聞き取り調査と参与観察を行い、店舗数や業種の変化、業種転換の経緯などを明らかにした。 3.参道の店舗数・業種構成の変化店舗数は、1973年の52店舗から2014年の61店舗と9店舗増えた。背景には、土地面積の大きい店の分割や、民家の店舗化がある。業種構成をみると、飲食店の減少が目立つ。老舗の食堂では、実質的な食事の提供をやめ、梅が枝餅などの甘味のみの販売にシフトしていた。その背景には、後継者問題や経営者の高齢化により食事の提供が難しくなったことに加えて、観光客の滞在時間の短縮化傾向と、軽食を手に持っての「食べ歩き」行動の増加があるものとみられる。1973年に見られた民家、酒屋や新聞販売店、薬局などの生活品を扱う店舗はほとんど姿を消した。代わって土産・民芸店が目立ち、なかでもチェーン店の進出も顕著である。参道が地元住民の生活に密着していた場所としての意味合いを失い、「観光地」化していったといえる。その「観光地」化の内容も興味深い。1973年当時には、高級博多人形といった博多の民芸品を扱う店が複数あったが、現在では外国人観光客向けに「日本風」を強調した安価な手ぬぐいや扇子、お香などの和雑貨を多く取り扱うものへと変化した。学会当日は地図と合わせて示したい。
著者
佐藤 裕哉 佐藤 健一 原 憲行 布施 博之 冨田 哲治 原田 結花 大瀧 慈
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100085, 2016 (Released:2016-04-08)

原爆被爆による放射線の人体へのリスクは,直接被爆のみでは十分に説明できず,間接被爆も考慮に入れる必要性がある(冨田ほか 2012).間接被爆による健康影響に関する研究としては,広島原爆において入市日の差を取り上げたものがあり(大谷ほか 2012),8月6日から8日にかけての入市者は9日以降の入市者よりもガンによる死亡リスクが高いことが示されている.しかしながら,移動経路の長さや通過した場所は考慮されていない.これらの差異によって放射線曝露の状況と健康への影響は異なると考えられるため,地理学的な研究が必要とされる.そこで,佐藤ほか(2014)では地理情報システムを用いて入市被爆者の移動経路の解析を行った. 次の段階として,本研究では移動経路の差異に注目し広島原爆入市被爆者の放射線による影響の評価を行う.具体的には,総移動距離や移動経路のうち爆心地からの最短距離と死因との関係について分析する.<BR>入市被爆者のデータについては1973~74年に広島市・広島県が実施した「被爆者とその家族の調査」(家族調査)を用いた.この調査では入市被爆者へ移動経路などが質問されており,42,355人が回答している.この調査票から入市日と移動経路,入市した目的などについてデータ化した.次に,「米軍撮影空中写真(1945年7月25日撮影)」を用いて被爆当時の道路網のデータを作成した.また,「米軍撮影空中写真(1945年8月11日撮影)」や被爆証言や市史,新聞記事などを用いて通行不可地点(バリア)のデータを作成した.移動経路(経由地)は1945(昭和20)年の町丁目の重心座標とした.家族調査では,移動経路を当時の町名で記入するように求めているからである.これらのデータをもとにArcGIS Network Analystのネットワーク解析で各人の移動経路を描画し,総移動距離,移動経路のうち爆心地からの最短距離,を計算した.なお,最短距離の計算には,ArcGISの空間結合(Spatial Join)ツールを用いた.そして,その計算結果をもとに,広島大学原爆放射線医科学研究所が管理する「広島原爆被爆者データベース(ABS)」と照合し,各人の移動距離と死因について分析した.死因は「悪性新生物」,「その他」,「未記入」で3分類し分析した.白血病は,放射線障害の代表例であるが,1例のみであったため本研究では「その他」に含めた.<BR>被爆時年齢と総移動距離をみると,性差や年齢差はみられない.5歳以下で10km以上の移動をしているものがみられたが,これは親に背負われて移動したものと考えられる.アンケートの欄外にそのように記載しているものもいた. 被爆時年齢と爆心地からの最短距離をみても,性差,年齢差はみられない.半数以上が残留放射線のリスクが高いと考えられる爆心地から500m以内に立ち入っている.佐藤ほか(2014)で指摘したが,曝露状況に関する詳細な情報(爆心地の情報や残留放射線の情報)がなかったからだと推察される.なお,2km以上が1人みられるが,これは各経由地を最短距離で描画したことの弊害であろう. 総移動距離が長く,最短距離が近いほど悪性新生物が死因となっている場合が多い.特に,最短距離に着目してみると,爆心地から500m以内に多い傾向がみられる.ただし,正確な評価のためには,今後,データ数を増やし,入市者の被爆時年齢や追跡期間の長さ(到達年齢)との関係についての多変量解析を適用した定量的評価が必要であろう. 一方で,爆心地付近での滞在時間についても放射線の暴露状況を考える際には重要だが,データがないため分析できていない.また,入力されている地名が大雑把な場合は移動経路が正確にはならず移動距離の算出精度も落ちる,など問題点も多い.今後は,証言などを用いるなどデータを補いながら実相解明を目指して行くことが重要である.
著者
川野 敬
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.000012, 2003 (Released:2003-04-29)
参考文献数
1

1.研究目的 これまでの子どもの外遊びに関する研究では,子どもの知覚環境の発達や遊び時間・遊び仲間・遊び空間(遊び場所・地域性)の変化が注目されてきた.これによって,子どもの日常生活やその周辺環境に対する関心が高まり,子どもの外遊びを促進する提言や施策がなされるようになった.そのなかで,子どもを社会の一構成要員として改めて捉え直すことで,彼らが社会のなかでどのような立場や位置にあるのかを明らかにする研究が試みられるようになった.その結果,子どもの「遊び」自体についても新たな解釈が求められるようになった. 報告者は子どもの「遊び」のなかでも,特に「外遊び」のあり方に着目し,その地理的パターンを規定する要因の一つとして想定される保護者というファクターについて関心を払う.その理由として,直接的に子どもの行動価値基準の形成にとって,保護者は最も大きな影響を及ぼしうる存在であると考えられるためである.そこで本研究では,保護者が子どもの外遊びに与える影響とその要因を明らかにする.そのため子ども自身が得る直接的な経験がどのように保護者の行動価値基準とズレを生じてさせているかを明らかにする.2.研究方法 奈良市北部にある平城ニュータウン内の2小学校区3子ども会の児童と、保護者である親に対してアンケートを配布した.まず基礎情報として,遊び場所と境界線の認識や経験について略地図をもとに両者に回答を求めた.そして各々の場所に対する評価として,子どもは遊び場所についての印象を,親は遊び場所・境界線における子どもへの注意の程度とその理由を質問した.なお,遊び場所は2小学校区全体で10地点の都市公園を対象とし,境界線はニュータウン内と外縁部にある主要な幹線道路と鉄道線路を選定した.3.研究結果 校区内の遊び場所については子ども・親ともに居住地を中心に全体的に認識しており,親はほとんどの遊び場所における子どもの外遊びを許可している.つまり校区内では親は子どもの行動に応じた比較的緩やかでかつ柔軟な対応をしている.ただし,治安に問題があると見られる場所に対する親の関心は強く,居住地からの距離に関係なく,そのような場所での外遊びの禁止割合が高い.しかし,親が禁止している遊び場所のうち居住地から近いものでは,子どもの外遊びが発生している. 校区外の場所について子どもはあまり認識しておらず,学年が進んでも遊び場所の知識量は学区内に止まっていた.他方,親についても子どもほどではないが,校区の内と外での知識量の格差は大きかった.そこで親の評価を見ると「そもそも行かない」と「禁止」の2つの判断に別れる.しかしこれは両者とも,具体的な情報よりむしろ漠然とした印象や不安といった理由によることがアンケートで分かった.このことは校区外の遊び場所で遊ぶことを禁ずる割合が距離に比例して単純に高くなっていることからも分かる.つまり,親自身が校区外についての具体的な情報を持たず,それを子どもに提供できていないためだと考えられる.4.考察 以上から,子どもの外遊びに対する親の態度や状況は校区の内と外によって大きく異なっている.そしてこの校区という基準を親から与えられ子どもは活動していることが明らかになった.このことはValentine and Mckendrick(1997)が指摘したように,親の養育態度が子どもの外遊びに影響を与えることと一致した.ただ入居後10年程度のニュータウンにおいては,親の地域に対する情報量の少なさが子どもの外遊びを決定づける要因の一つとなっている.そのため、親の養育態度も校区という境界線によって質的に大きく異なることが判明した.
著者
植草 昭教
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100098, 2016 (Released:2016-04-08)

日本で最も地価が高い場所と言えば、東京都中央区銀座がすぐに思い浮かぶだろう。銀座は永年地価日本一の座に君臨した土地である。この銀座の価値については考える場合、銀座の空間が有する価値だけでなく、「銀座」の地名に付された価値があるのではないか。有形資産である銀座の土地を使用することによって得られる効用と、無形の資産である「銀座」の名称を使用することによって得られる効用があることが考えられる。そこで「銀座」の名称を有する空間的価値について、考察してみることにする。   ブランドを形成するために必要な要件として「ストーリー(物語)性」と「歴史」が言われている。ブランドを形成するためには「そこにストーリーがあり、それを展開するための歴史があること」ではないか。そこで銀座に付されたストーリーと歴史とはどのようなものであろうか。   銀座の歴史とその歴史が有するストーリーについては、まず銀座の地名は、江戸時代に銀貨を鋳造する「銀座」があったことに由来する。銀座は1872年(明治5年)の大火で焼失。そこで銀座は、建物を煉瓦で作ることが計画され、「銀座煉瓦街」は実行された。煉瓦造にすることは、単に燃えにくい街並みを作るだけにとどまらず、銀座を西洋風の街並みにすることで外国から来た人々に、国際的な体面を示す狙いもあったとされる。しかし関東大震災で「銀座煉瓦街」はほとんど倒壊してしまった。だが銀座は復興し、大正モダンを経て昭和初期にはモボ、モガが当時の銀座を彩った。その後第二次世界大戦でも銀座は破壊されたが、またも復興を遂げ、戦後も時代の流行を発信する街となった。 銀座にはこのような歴史があり、それが銀座のストーリーである。そのストーリーは、銀座が有する無形の資産となっているのではないか。   銀座ブランドは、銀座で事業を行う(行おうとする)者にとって魅力的であり、ステイタスでもあると考えるのではないだろうか。そこに立地したくなるような価値がある空間である。それが、銀座が有するブランド力である。また、銀座はその時代、時代にに流行を発信してきた街である。時代の先端を行く空間を形成していることが、銀座が有する空間的価値であり、銀座ブランドにとっての大きな源泉になっている。銀座が獲得してきたイメージもまた、銀座の価値を向上させる無形の資産ではないか。それに「銀座の地価は日本一高い」との、そのことですら、銀座のブランド価値を上げることになっているのではないだろうか。
著者
福井 幸太郎 飯田 肇 カクネ里雪渓学術調査団
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100016, 2016 (Released:2016-04-08)

はじめに 日本では、立山剱岳に氷河が現存していることが学術的に認められている(福井・飯田 2012)。カクネ里雪渓では、秋になると氷河の特徴を備えた氷体が表面に出てくることが昭和30年代に明らかにされていた(五百沢 1979)。しかし、その後約60年間観測が行われていなかった。2011年6月にアイスレーダー観測を行ったところカクネ里雪渓の氷体は厚さ40 m以上、長さ700 mと立山剱岳の氷河に匹敵する規模であることが分かった。氷河か否か明らかにするために2015年秋に測量用GPSを使用して氷体の流動観測を行ったのでその結果について報告する。 調査方法 ①ポールの移動量の観測(全5地点):9月24日にアイスドリルで表層部の積雪を貫通し氷体に達するまで穴を開け、長さ4.6 mのポールを挿入してその位置を高精度GPSで測量した。10月18日にポールの位置を再度GPSで測量し、ポールの動いた量から氷体の流動を観測した。水平方向の誤差は約1 cmである。 ②クレバス断面での氷体の観測:9月24日と10月19日に雪渓上流部の深さ6 mのクレバスに潜り、数カ所から氷をサンプリングし、現地にて密度観測や薄片の作成・観察を行った。結果 ①ポールの移動量観測の結果、雪渓の中流部では24日間で15~17 cm、上流部と下流部では12~13 cmと誤差以上の有意な流動が観測された(図1)。流動方向は、東北東で雪渓の最大傾斜方向と一致した。 ②クレバス断面での氷体観測の結果、雪渓表面~深さ1 mでは、密度が700-780 kg/m3で積雪中の気泡がつながっているためフィルンであった(図2)。深さ1~6 mでは、密度が820 kg/m3を超え気泡が独立していて氷河氷であった。考察 今回の流動観測では、24日間で最大17 cmに達する比較的大きな流動が観測された。観測を行った秋の時期は、融雪末期にあたり、雪氷体が最もうすく、流動速度が1年でもっとも遅い時期にあたる。このため、カクネ里雪渓は、1年を通じて連続して流動する「氷河」である可能性が非常に高いと言える。 年間の流動速度は、2.5 m前後と推定され、剱岳の三ノ窓・小窓氷河(3~4 m/年)よりは小さいものの立山の御前沢(ごぜんざわ)氷河(0.2~0.5 m/年)よりは大きかった。
著者
斎藤 久美
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.78, no.11, pp.710-723, 2005

本研究は,韓国の地方中心都市である清州市を対象とし,都市における血縁組織の形成とその変容を,村落から都市への人口移動との関連から明らかにすることを目的とした.韓国の都市における血縁組織の形成は,1960年代以降,首都ソウルに人口が集中するとともに同族集落からの転入者によって,ソウルなどの大都市に形成される動きがみられるようになった.清州市の血縁組織は,清州市への人口集中が著しくなった1970年代以降活発に形成されたという.一方,清州市の血縁組織は,1970年代に忠清北道内の同族集落から清州市に転入した経済的・社会的成功者たちを中心に,同族集落との連絡を補うために形成された.その後,都市の血縁組織は,各同族集落からの転入者を会員に迎え入れ成長したが,その中で,就職の斡旋や住居地の紹介など,転入者の都市定着支援などの役割も補う例もあった.都市の血縁組織は都市居住者が増大するにしたがって,都市住民のニーズに応じ,血縁組織が細分化されるなど,社会状況に応じて変容し続けている.
著者
沖津 進
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.66, no.9, pp.555-573, 1993
被引用文献数
8

チョウセンゴヨウ-落葉広葉樹混交林は北東アジアに広く分布するにもかかわらず,これまで日本ではあまり着目されていなかった.ここでは,その分布や構造をシホテ・アリニ山脈での観察と文献資料に基づき紹介し,植物地理的な位置づけを議論した.その結果をもとに,北海道の針広混交林の成立と位置づけを展望した.<br> チョウセンゴヨウ-落葉広葉樹混交林は,北海道と樺太南部を除く汎針広混交林帯(Tatewaki, 1958)のほぼ全域に普遍的に分布し,針広混交林の代表的なタイプとなっている.この林はマツ属樹木が主体であるにもかかわらず構造的に安定しており,極相林タイプである.チョウセンゴヨウ-落葉広葉樹混交林は移行帯的性格ではなく,独立した森林タイプとみなせる.一方,北海道の針広混交林はトドマツ,エゾマツと落葉広葉樹の混生から成り立っており,チョウセンゴヨウが欠落したかたちとなっている.北海道の針広混交林の成立は後氷期以後のきわめて新しい時代であり,またそれは落葉広葉樹林帯と針葉樹林帯との間を覆う移行帯的性格の強い森林であると考えられる.
著者
長井 政太郎
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.10, no.6, pp.443-466, 1934

The depth of snow on the ground does not always coincide with the quantity of snowfall, although the two may be regarded as almost equal. I therefore do not think it irrational to regard the former as indicative of the latter. Snow-depth is greatly affected by the condition of the weather from day to day or by the yearly climate. However, after the snow attains a certain depth, we may notice its outstanding characteristics as the result of conditions peculiar to that region.<br> In such a district as in Yamagata, for example, except near the Oou mountain range, where it snows under the influence of northerly or northwesterly winds from the Japan Sea, the snow-depth changes with certain regularity. From observations made during the time of deepest snow, namely, from the middle of February to the beginning of March, we find certain features characteristic of this district. The writer has constructed maps showing the geographical distribution of snows, the highest records of snow-depth, and the thawing season of snows from data obtained by the primary schools of this prefecture for the last 3 years, and he finds some close relationships between them.<br> Generaly speaking, deep snow delays the blooming of such trees as the cherry and affects considerably early spring agriculture. To establish climatic boundaries in such snowy districts as this prefecture, it is necessary to take into consideration data covering snowfall, etc.. According to the isothawing line of snow and the isoblocmning line of cherry blossoming the writer has divided this prefecture into the following regions.<br> I Region of little snow<br> a. The Syônai field b. The southern parts of the Yamagata-basin<br> II Region of medium amount of snow<br> a. The western parts of the Yamagata-basin b. The southern parts of the Nagai-basin c. Yonezawa-basin<br> III Region of much snow<br> a. Sindyô-basin b. Gbanazawa-basin c. The Dewa hills d.The Oou Mountains.
著者
寺本 潔
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.89-109, 1984
被引用文献数
7

本研究は,子どもの知覚環境の発達とそのメカニズムを明らかにするために,熊本県阿蘇カルデラ内に居住する小学校2・3・5年生,および中学校1年生,計1,432名を被験者としてなされたものである.<br> 調査方法としては,身近な地域を描いた手描き地図から読み取る方法と,周辺の地物を撮影したスライド画像に対する反応を分析する方法を用いた.前者により描かれた空間は,発達段階に従って外延的拡大を示すが,著しく動線に影響されることが明らかとなった.また,子どもにとって「意味のある空間」として, (1) 近道,抜け道 (2)「秘密基地」,「隠れ家」(3) こわい場所,「幽霊屋敷」を検出した.後者により,可視領域に位置する目立つ地物は,知覚環境を構成する重要な目印として作用していることが推察された.<br> このような子どもの知覚環境の発達に関する基礎的な研究は,子どもの発達を内発力とする新しい地理教育のカリキュラム開発に寄与しうるものと考えられる.
著者
今朝 洞重美
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.31, no.12, pp.733-753, 1958

The busiest quarters, in this paper, mean the area serving as an amusement center as well as a shopping center, and therefore with the increase of the population. of the city, besides the busiest central quarter, many other busy quarters are formed locally.<br> Defining the busiest quarter as "a business district which consists of more than on cinema theater and fifty shops", the writer selected one hundred and fifty six districts in Tokyo as of in 1056. They were divided into four classes with reference to their spatial extent, internal structure (functional differentiation), existence or number of great department-stores or high class cinema theaters, and number of shops and cinema theaters.<br> a) The first class busiest quarter; A district consisting of more than 601 shops, and high class cinema theaters and great department-store. The spatial extent is much larger. There are a great number of "De luxe" or high class shops and theaters in groups. The areal differentiation into general commercial area and amusement area is clear, and Ginza-Nihonbashi area, located in the midtown area is most distinct. Asakusa, Ueno, Shinjuku, Shibuya, and Ikebukuro belong to the first class, and these are located on the great terminal place, except Asakusa. Asakusa is the greatest templetown in Tokyo before the Meiji era.<br> b) The second class busiest quarter; A district which comes under more than two items, among a small department store, a high class theater, more than 601 shops and more than 6 cinema theaters and a few high class shops. Gotanda, Oimachi, Kamata and Omori in the Keihin industrial zone are located on the terminals (except Omori). Kanda, Kinshicho and Ningyocho in the downtown of Tokyo belong<br> _??_<br> to this class also. Kanda and Ningyocho are old busiest quarters, and there are a few high class shops.<br> c) The third class busiest quarter; A district consisting of 301-600 shops and 3-5 cinema theaters but neither a small department store nor a high class cinema theater exists except in some areas. Functional differentiation goes to a certain extent.<br> 22 areas belong to this class, They are located in the place which is easy to reach.<br> d) The fourth class busiest quarter; A district consisting of 50-300 shops, and there is 1-2 cinema theaters. Functional differentiation goes to a certain extent and does not 122 areas, most of the busy quarters in Tokyo belong to this class.<br> Busiest quarters in the new city area increased in number after Kanto Earthquake, 1923, but in the old city, not so.<br> I consider that it is based on huge population and vast city area in Tokyo that great many busiest quarters are formed.