著者
杉浦 芳夫
出版者
日本都市地理学会
雑誌
都市地理学 (ISSN:18809499)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.1-33, 2015 (Released:2019-04-07)
参考文献数
127
被引用文献数
2

本稿は,ナチ・ドイツによるポーランド西部の編入東部地域における中心集落再配置計画最終案と中心地理論との関係について考察した.1941 年頃,Christaller は,編入東部地域の中心集落再配置計画という課題に対し,オリジナルな中心地理論に変更を加えた混合中心地階層の考え方に基づいて計画案を作成したが,最終計画案に直接盛り込まれることはなかった.編入東部地域における中心集落再配置計画案策定の重責を担うドイツ民族性強化帝国委員会の都市建設部門・空間計画部門の統括責任者であったUmlauf によって作成されたものが,最終計画案となった.この最終計画案はChristaller の計画案とは中心集落の規模階層ならびに配置の点で全く異なるものであった.両者の違いは,農村的色彩を残し,一部はポーランド風の集落景観を呈する,規模の小さい都市集落の,中心集落ネットワークへの積極的組み込みの如何によるものであった.しかしながら,最終計画案における集落階層構成が入れ子構造をなしている点は,集落の勢力圏の形が円形と六角形という違いはあるとしても,Christaller の計画案の集落階層構成が入れ子構造をなしている点と共通しており,そこに最終計画案に対する中心地理論ないしは混合中心地階層の考え方の影響を観て取ることができるのである.
著者
杉浦 芳夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.201-215, 1977
被引用文献数
1

大正期に世界的規模での流行をみたスペインかぜのわが国における流行過程は,これまで不鮮明であるとされていた.本稿は,その拡散経路を推定しつつ,この点の再検討を行なうことを目的としている.日本帝国死因統計を資料として, 1916年7月~1926年6月の10か年の各月ごとの府県別インフルエンザ死亡率を因子分析にかけた結果, 3つの流行地域が抽出された.それによると,第1因子は西日本地域,第2因子は都市地域,第3因子は東日本地域を識別していることがわかった.そして,因子得点間のクロス相関から3つの流行地域の時間的前後関係を検討してみると,スペインかぜは,西日本の主要港湾ならびに横浜港から侵入した可能性のあることが示唆され,その拡散過程において近接効果と階層効果が働いていたことも明らかとなった.以上の分析結果は,従来の通説とは異なり,わが国におけるスペインかぜの流行過程に,一の空間的秩序のあったことを意味するものである.

3 0 0 0 OA 幾何学の帝国

著者
杉浦 芳夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.69, no.11, pp.857-878, 1996-11-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
111
被引用文献数
1

本稿では,石川栄耀の生活圏構成論を手がかりにして,中心地理論の戦時中のわが国への伝播の可能性を検討した.石川は,外国の都市・地域計画論の影響を受けっつも,独自に生活圏構成論を考えっいたが,内務省技師・伊東五郎によってわが国へ紹介されたドイツ版生活圏シェーマは,石川のものと酷似しており,結果的に彼の説を補強することになった.ドイツ東方占領地の集落配置計画に用いられていたドイツ版生活圏シェーマのルーツが, Christallerが1941年に提案した,市場・行政・交通の3原理が同時に作用した場合の中心地立地シェーマにあったと判断されるたあ,中心地理論が示唆する集落配置の考えは,戦時中すでにわが国へ伝わっていたと結論づけられる.
著者
杉浦 芳夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.79, no.11, pp.566-587, 2006-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
83
被引用文献数
1 2

本稿では,オランダのアイセル湖ポルダ-における集落配置計画と中心地理論との関係を,文献研究を通して考察した.四つの干拓地のうち,当初の集落配置プランに中心地理論がヒントを与えた可能性があるのは北東ポルダーであり,その場合,形態論的側面にだけ限定すれば, Howard(1898)の田園都市論を媒介にしている可能性がある.東フレーフォラントと南フレーフォラントについては,上位ランクの集落配置は,考え方の点で,明らかに中心地理論の影響を受けているTakes(1948)の研究『本土と干拓地の人ロ中心』に基づいてなされた.東フレーフォラントの下位ランクの集落配置については,都市的生活を指向し,車社会に移行しつつあった当時のオランダ農村事情に通じていた社会地理学者らめ意見に基づき,中心地理論が厳密に応用されることなく行われた.ポルダー関連事業で活躍したこれらオランダの社会地耀学者の調査研究成果は,中心地理論研究史の中でも評価されて然るべき内容のものである.
著者
杉浦 芳夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.64, no.5, pp.303-326, 1991-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
117
被引用文献数
1 1

ナチスドイツからの亡命者で社会主義者のF. K. Schaefer は,アイオワ州立大学地理学科の正式教員に採用される過程で研究業績をあげる必要があった.その際演習でとりあげた R. Hartshorne (1939) のドイツ語文献の解釈に疑問をもった Schaefer (1953) は,その点を突いた「例外主義」論文を書くことを決意した.他方,マッカーシズムが吹き荒れる当時,当局による尾行が,かってOSSに関係し,自分との学問観の相違に恨みを抱く Hartshorne の密告によるものとの思い込みが, Schaefer を一層強く論文執筆へ駆り立てた.しかし,「例外車義」論文は,発表後一定期間にわたって引用されることがなかった.これには,学科長のH. H. McCarty が,性格学識学問観において Schaefer を評価しなかったことが関係している.加えて,マッカーシズムの時代的背景が,彼と彼の仕事の評価に不利に作用したといえる.
著者
竹内啓一 杉浦芳夫編
出版者
古今書院
巻号頁・発行日
2001
著者
杉浦 芳夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.94, no.5, pp.313-347, 2021-09-01 (Released:2023-02-19)
参考文献数
89
被引用文献数
2

『南ドイツの中心地』を世に問うた翌年の1934年夏,Christallerはアルブレヒト・ペンク財団の支援によって北欧4カ国の研究調査旅行に赴いた.帰国後にまとめられた旅行報告書からは,彼がこの旅行を通して,新たに農村集落に関するテーマへ関心を広げ,集落配置計画論への指向性を育んだことがわかった.そして,これらの経験は,独自の農村集落形態分類を踏まえたドイツ農村自治体再編研究(1937年)や,ナチ・ドイツ編入東部地域における中心集落再配置の計画論的応用研究(1940・1941年)につながっていくものであった.また,報告書から窺える,北欧の都市ネットワークを理解するのに際しての歴史的な視点と,フィンランドとソ連との間での国境問題といった地政学的な課題への関心は,国家学・歴史地理学者のベルリン大学教授Walther VogelがChristallerを自らの「ドイツ帝国歴史アトラス」作製プロジェクトに共同研究者として招き入れる際の好判断材料となった.
著者
杉浦 芳夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.48, no.12, pp.847-867, 1975-12-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
26
被引用文献数
3 1

本稿の目的は,名古屋とその隣接地域における1957年のアジアかぜの流行を,モンテカルロ法を用いて,空間的拡散過程の観点から分析することにある. (1) ランダム・プロセス・モデル, (2) 通勤,通学者数から拡散確率圏を設定したモデルI, (3) モデルIに密度効果をくみこんだモデルIIからの模擬発生パターンを,現実の発生パターンと比較した結果,主としてモデルIからは,距離と都市規模が,更に,モデルIIからは,密度が,アジアかぜの拡散を規定していることがわかった. しかし,現実の発生パターンを完全に説明するためには, (1) 通勤,通学者数を用いた確率圏の再考, (2) 人口規模別のコンタクト発生回数の検討, (3) 境界効果の設定, (4) 感受性に関係する変数の検出とモデルへのくみこみがなされる必要があると思われる.
著者
杉浦 芳夫
出版者
日本都市地理学会
雑誌
都市地理学 (ISSN:18809499)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-46, 2020-03-15 (Released:2021-08-15)
参考文献数
217

Christaller は1933 年に『南ドイツの中心地』を出版した直後に,ドイツの行政領域再編を論じた論文を親ナチ的地理学雑誌に発表した.そして1934 年以降,ベルリン大学において国家学・歴史地理学を専門とする急進的民族主義者Walther Vogel の「ドイツ帝国歴史アトラス」作製プロジェクトに加わる一方で,ナチスに協力的な同大学自治体学研究所でも研究に携わった.これらの経験を踏まえて,Christaller はナチスの教育行政方針と親和性がある自治体地理学(Kommunalgeographie)を提唱するに至る.自治体地理学の実証研究事例が,後にフライブルク大学において教授資格請求論文として認定された,1937 年出版の『ドイツ帝国における農村集落様式といち場ばまち(=その自治体組織との関連性』であった.Christaller はこの著書において,市町M 段階中心地)を核とする 市場統一体に基づく農村自治体再編論を展開し,実際に市場統一体シェーマに沿った大規模な農村集落建設を実現し得る場は,入植地確保の点から見て東欧などの国外にしかないことを暗に認めている.さらに,市場統一体の幾何学的模式図(=農村集落システム理念図)にはドイツ農村に特徴的な集落や農地,林地といった景観的要素が描き加えられており,この景観への配慮はChristaller を抜擢した東方占領地総合計画(Generalplan Ost)の統括責任者Konrad Meyer が目論んだドイツ景観の東方地域への移植計画と符合するものであった.
著者
杉浦 芳夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.79, no.11, pp.566-587, 2006-10-01
参考文献数
84
被引用文献数
1 2

本稿では,オランダのアイセル湖ポルダ-における集落配置計画と中心地理論との関係を,文献研究を通して考察した.四つの干拓地のうち,当初の集落配置プランに中心地理論がヒントを与えた可能性があるのは北東ポルダーであり,その場合,形態論的側面にだけ限定すれば, Howard(1898)の田園都市論を媒介にしている可能性がある.東フレーフォラントと南フレーフォラントについては,上位ランクの集落配置は,考え方の点で,明らかに中心地理論の影響を受けているTakes(1948)の研究『本土と干拓地の人ロ中心』に基づいてなされた.東フレーフォラントの下位ランクの集落配置については,都市的生活を指向し,車社会に移行しつつあった当時のオランダ農村事情に通じていた社会地理学者らめ意見に基づき,中心地理論が厳密に応用されることなく行われた.ポルダー関連事業で活躍したこれらオランダの社会地耀学者の調査研究成果は,中心地理論研究史の中でも評価されて然るべき内容のものである.
著者
杉浦 芳夫
出版者
日本都市地理学会
雑誌
都市地理学 (ISSN:18809499)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1, 2013 (Released:2020-09-09)
参考文献数
107

本稿では,黎明期の中心地研究の様相を,ドイツ都市地理学の形態論から機能論への転回の潮流の中で考察した.1)当時の都市地理学論争,2)『南ドイツの中心地』の書評,3)Bobek による中心地理論批判,4) 1938 年のアムステルダム地理学国際会議におけるChristaller の発表をめぐっての激論,5)1930 年代の非常に少数の中心地研究と『南ドイツの中心地』を引用する都市誌,に焦点を当てて考察を行なった結果,第二次世界大戦前から戦中にかけてのドイツ地理学界において都市の研究に関わる研究者が,中心地概念に対して一定の関心を示していたことがわかった.
著者
杉浦 芳夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.201-215, 1977-04-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
24
被引用文献数
1 1

大正期に世界的規模での流行をみたスペインかぜのわが国における流行過程は,これまで不鮮明であるとされていた.本稿は,その拡散経路を推定しつつ,この点の再検討を行なうことを目的としている.日本帝国死因統計を資料として, 1916年7月~1926年6月の10か年の各月ごとの府県別インフルエンザ死亡率を因子分析にかけた結果, 3つの流行地域が抽出された.それによると,第1因子は西日本地域,第2因子は都市地域,第3因子は東日本地域を識別していることがわかった.そして,因子得点間のクロス相関から3つの流行地域の時間的前後関係を検討してみると,スペインかぜは,西日本の主要港湾ならびに横浜港から侵入した可能性のあることが示唆され,その拡散過程において近接効果と階層効果が働いていたことも明らかとなった.以上の分析結果は,従来の通説とは異なり,わが国におけるスペインかぜの流行過程に,一の空間的秩序のあったことを意味するものである.
著者
杉浦 芳夫 石崎 研二 加藤 近之
出版者
東京都立大学都市研究センター
雑誌
総合都市研究 (ISSN:03863506)
巻号頁・発行日
no.49, pp.p47-66, 1993-09
被引用文献数
1

本稿は、東京区部とその周辺に位置する親水性の8公園(井の頭恩賜公園、水元公園、有栖川宮記念公園、葛西臨海公園、上野恩賜公園、日比谷公園、浮間公園、和田堀公園)を対象とし、都市公園の選好構造を解明しようとした。175人の大学生・院生に対し、1公園につき1セット4枚の写真からなる合計8セットの写真を呈示し、8公園の選好順位データをえた。この175人 x 8公園の選好順位行列に対しMDPREF(選好データを分析するためのベクトル・モデル型ノンメトリックMDS)を適用し、2次元のジョイント空間を求めた。葛西臨海公園と上野恩賜公園が正の大きな値をとり、有栖川宮記念公園と和田堀公園が負の大きな値をとるジョイント空間の第1軸は、「調和がとれた自然環境」を表わす選好次元、同じく日比谷公園と上野恩賜公園が正の大きな値をとり、水元公園が負の大きな値をとるジョイント空間の第2軸は、「開放性」を表わす選好次元と解釈された。選好の個人差は、この二つの軸に対する各人の重みづけの違いによって生じているのである。This paper is concerned with a preference analysis of eight city parks with waterside landscape in and around Tokyo City (Fig.2). Eight sets of photographs,each of which consists of four landscape scenes for one park(see Appendix 2),were presented to 175 undergraduate and graduate students as the sample. Then they were asked to see the photographs to rank the parks in term of their preference. A preference ranking data-matrix thus obtained serves as the input for MDPREF (Chang and Carroll, 1968),a non-metric MDS algorithm applied to preference data,to represent the preference structure in a two一dimensional joint space. Interpreting the recovered joint space (Fig.3),based on external information or individual respondents' reasons for their evaluations,leads to a conclusion that the two dimensions of "harmonious natural environment" and "openness" underlie the respondents' preference judgements of city parks: for the former dimension,Arisugawanomiya Memorial Park and Wadabori Park are highly evaluated and Kasai Seaside Park and Ueno Park low evaluated; for the latter dimension,Mizumoto Park is highly evaluated and Hibiya Park and Ueno Park low evaluated. Inokashira Park and Ukima Park,in a sense,appear to lack distinguishing features since they are ambiguously evaluated for the both dimensions. These results suggest that the parks covered with green and/or those full of an open atmosphere are preferred while the parks impressing respondents artificially are less preferred.
著者
杉浦 芳夫
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.55, no.5, pp.407-427, 2003
被引用文献数
2

The purpose of this paper is to revisit Christaller's central place theory in terms of the society and thought of Weimar Germany. This attempt will aim to provide another text-reading of the canon <i>Central Places in Southern Germany</i>. To that end, literary research was undertaken mainly using a biographical paper on Christaller (Hottes, R., 1981), an autobiographical paper (Christaller, 1968), Christaller's text (1933), and his papers and newspaper articles published until 1934. The results are summarized as follows.<br>Christaller, a child of a lower middle-class family, who spent his childhood in Jugenheim near Darmstadt, joined the Wandervogel movement before or after entering Realgymnasium. Although the Wandervogel was originally a hiking club of Gymnasium students, it aimed to return to nature and to the Middle Ages, and possessed a strong dislike for cities and modern civilization. Within Wandervogel, some people started various life reform movements-educational reform, clothes reform, vegetarianism, nudism, the Garden City movement, and land and housing reform-to regenerate decayed industrialized urban societies. When he was enrolled in Heidelberg University, Christaller took part in the German Youth movement that was more ideological than the Wandervogel movement. Christaller's paper (1921) on the proletarian youth movement certainly shows his commitment to that movement.<br>His personal experience of serving in the First World War, together with the influence of his fellow soldiers-Carlo Mierendorff, Theodor Haubach and Carl Zuckmayer, made him become socialistic. Following his discharge, he intended to bring about land and housing reform in order to provide low-price housing for the poor in Berlin, based on his own experience as a laborer during the postwar period-for example, as a miner in the Ruhr region. When Christaller worked as a secretary in the homesteading office of the Union of the German Civil Service in Berlin, with the help of Adolf Damaschke, the leader of the League of German Land Reformers, he was eager to bring about land reform and to facilitate the provision of public housing. This is illustrated by a report calling for approval of the Land Reform Act (Lubahn and Christaller, 1922), based on a questionnaire survey inquiring about the realities of the homestead system movement. Notably in a Berlin construction firm, where he was employed after his retirement from the homesteading office, his pioneering work of house construction with the introduction of the prefabrication method would have left its mark on German architectural history like those of famous architects such as Ernst May and Bruno Taut, if the work succeeded. Unfortunately, he was frustrated in these attempts partway, changed his mind, and resumed his discontinued undergraduate studies at the University of Erlangen. In the end, he completed a seminal geography dissertation dealing with the theoretical location of urban settlements.<br>With his knowledge from his undergraduate major in economics, Christaller sought to build a theory on how to distribute goods and services efficiently and equitably, which would result in bringing about social justice when the theory is applied in practice. Following the publication of his dissertation in 1933, he wrote two controversial papers on the issue of reorganizing German administrative areas which complemented the dissertation. Since sufficient time was unavailable for the already middle-aged Christaller, in the dissertation he fully expounded his ideas which he seems to have been developing in his mind for some years. For Christaller, this might imply an attempt to recover his youth lost on account of the setbacks he suffered in being involved with the problems of land and housing reform.