著者
荒木 一視
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

&nbsp;戦前の日本の米が国内で自給されていたわけではない。少なからぬ量の米が植民地であった台湾や朝鮮半島から供給され,国内の需要を賄ってきた。その一方で,少なからぬ穀物(米,小麦,粟など)がこれらの地域に輸移入されていた。本発表では朝鮮半島の主要港湾のデータに基づき,これらの主要食用の輸移出入の動向を把握する。これを通じて,戦前期の日本(内地)の食料(米)需要を支えた植民地からの移入米を巡る動向と,1939~1940年にそのような仕組みが破綻したことの背景を明らかにしたい。 <br>&nbsp;第一次大戦と1918年の米騒動を期に,日本は東南アジアに対する米依存を減らし,それにかわって朝鮮半島と台湾に対する依存を高める。円ブロック内での安定的な米自給体系を確立しようとするもので,1920年代から30年代にかけて,朝鮮半島と台湾からの安定した米の供給が実現していた。しかし,1939年の朝鮮半島の干ばつを期にこの食料供給体系は破綻し,再び東南アジアへの依存を高め,戦争に突入していく。以下では朝鮮半島の干ばつまでの時期を取り上げ,朝鮮半島の主要港の食料貿易の状況を把握する。 この時期の貿易総額は1914(大正3)年の97.6百万円から1924(大正13)年には639百万円,1934(昭和9)年には985百万円,1939年(昭和14)年には2,395百万円と大きく拡大する。貿易額の最も多いのが釜山港で期間を通じて全体の15~20%を占める。これに次ぐのが仁川港で,新南浦や群山港,新義州港がそれに続く。また,清津,雄基,羅津の北鮮三港も一定の貿易額を持っている。 <br>&nbsp;釜山:最大の貿易港であるが,1939年の動向の貿易総額734百万円のうち外国貿易額は35百万円,内国貿易が697百万円となり,内地との貿易が中心である。釜山港の移出額260万円のうち米及び籾が46百万円,水産物が14百万円を占め,食料貿易の多くの部分を占める。なお,1926年では輸移出額計124万円のうち玄米と精米で50百万円と,時代をさかのぼると米の比率は大きくなる。1939年の釜山港の移入額では,菓子(4百万円)や生果(8百万円)が大きく,米及び籾と裸麦がそれぞれ3百万円程度となる。1926年(輸移入額104百万円)においても輸移入される食料のうち最大のものは米(主に台湾米)で,5百万円程度にのぼる。これに次ぐのが小麦粉の2百万円,菓子の百万円などである。 <br>仁川:釜山港同様に1939年の総額367百万円のうち外国貿易は67百万円と内地との貿易が主となる。1920年代から1930年代にかけて,米が移出の中心で,1925年の輸移出額64百万円のうち,玄米と精米で47百万円を占め,1933年では同様に43百万円中の28百万円,1939年では106百万円のうち32百万円を占める。なお仕向け先は東京,大阪,名古屋,神戸が中心である。輸移入食料では米及び籾,小麦粉が中心となる。 <br>鎮南浦:平壌の外港となる同港も総額213百万円(1939)のうち,外国貿易は29百万円にとどまる。同年の移出額89百万円のうち玄米と精米で15百万円を占め,主に吉浦(呉)や東京,大阪に仕向けられる。移入では内地からの菓子や小麦,台湾からの切干藷が認められる。 <br>新義州:総額135百万円のうち外国貿易が120百万円を占め,朝鮮半島では外国貿易に特化した港湾である。1926年の主要輸出品は久留米産の綿糸,新義州周辺でとれた木材,朝鮮半島各地からの魚類などで,1939年には金属等,薬剤等,木材が中心となる。いずれも対岸の安東や営口,撫順,大連などに仕向けられる。輸入品は粟が中心で,1926年の輸入総額52百万円中17百万円,1930年には35百万円中,15百万円,1939年には46百万円中12百万円を占める。移出は他と比べて大きくはないが,米及び籾を東京や大阪に仕向けている。 <br>清津:日本海経由で満州と連結する北鮮三港のひとつで,1939年の総額158百万円中35百万円が外国貿易である。1932年の主要移出品は大豆で,移出額7百万円中3百万円を占める。ほかに魚肥や魚油がある。移入品では工業製品のほか小麦粉,米及び籾,輸入品では大豆と粟が中心である。&nbsp;
著者
荒木 一視
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.6, 2014 (Released:2014-10-01)

戦前の日本の米が国内で自給されていたわけではない。少なからぬ量の米が植民地であった台湾や朝鮮半島から供給され,国内の需要を賄ってきた。その一方で,少なからぬ穀物(米,小麦,粟など)がこれらの地域に輸移入されていた。本発表では朝鮮半島の主要港湾のデータに基づき,これらの主要食用の輸移出入の動向を把握する。これを通じて,戦前期の日本(内地)の食料(米)需要を支えた植民地からの移入米を巡る動向と,1939~1940年にそのような仕組みが破綻したことの背景を明らかにしたい。  第一次大戦と1918年の米騒動を期に,日本は東南アジアに対する米依存を減らし,それにかわって朝鮮半島と台湾に対する依存を高める。円ブロック内での安定的な米自給体系を確立しようとするもので,1920年代から30年代にかけて,朝鮮半島と台湾からの安定した米の供給が実現していた。しかし,1939年の朝鮮半島の干ばつを期にこの食料供給体系は破綻し,再び東南アジアへの依存を高め,戦争に突入していく。以下では朝鮮半島の干ばつまでの時期を取り上げ,朝鮮半島の主要港の食料貿易の状況を把握する。 この時期の貿易総額は1914(大正3)年の97.6百万円から1924(大正13)年には639百万円,1934(昭和9)年には985百万円,1939年(昭和14)年には2,395百万円と大きく拡大する。貿易額の最も多いのが釜山港で期間を通じて全体の15~20%を占める。これに次ぐのが仁川港で,新南浦や群山港,新義州港がそれに続く。また,清津,雄基,羅津の北鮮三港も一定の貿易額を持っている。  釜山:最大の貿易港であるが,1939年の動向の貿易総額734百万円のうち外国貿易額は35百万円,内国貿易が697百万円となり,内地との貿易が中心である。釜山港の移出額260万円のうち米及び籾が46百万円,水産物が14百万円を占め,食料貿易の多くの部分を占める。なお,1926年では輸移出額計124万円のうち玄米と精米で50百万円と,時代をさかのぼると米の比率は大きくなる。1939年の釜山港の移入額では,菓子(4百万円)や生果(8百万円)が大きく,米及び籾と裸麦がそれぞれ3百万円程度となる。1926年(輸移入額104百万円)においても輸移入される食料のうち最大のものは米(主に台湾米)で,5百万円程度にのぼる。これに次ぐのが小麦粉の2百万円,菓子の百万円などである。 仁川:釜山港同様に1939年の総額367百万円のうち外国貿易は67百万円と内地との貿易が主となる。1920年代から1930年代にかけて,米が移出の中心で,1925年の輸移出額64百万円のうち,玄米と精米で47百万円を占め,1933年では同様に43百万円中の28百万円,1939年では106百万円のうち32百万円を占める。なお仕向け先は東京,大阪,名古屋,神戸が中心である。輸移入食料では米及び籾,小麦粉が中心となる。 鎮南浦:平壌の外港となる同港も総額213百万円(1939)のうち,外国貿易は29百万円にとどまる。同年の移出額89百万円のうち玄米と精米で15百万円を占め,主に吉浦(呉)や東京,大阪に仕向けられる。移入では内地からの菓子や小麦,台湾からの切干藷が認められる。 新義州:総額135百万円のうち外国貿易が120百万円を占め,朝鮮半島では外国貿易に特化した港湾である。1926年の主要輸出品は久留米産の綿糸,新義州周辺でとれた木材,朝鮮半島各地からの魚類などで,1939年には金属等,薬剤等,木材が中心となる。いずれも対岸の安東や営口,撫順,大連などに仕向けられる。輸入品は粟が中心で,1926年の輸入総額52百万円中17百万円,1930年には35百万円中,15百万円,1939年には46百万円中12百万円を占める。移出は他と比べて大きくはないが,米及び籾を東京や大阪に仕向けている。 清津:日本海経由で満州と連結する北鮮三港のひとつで,1939年の総額158百万円中35百万円が外国貿易である。1932年の主要移出品は大豆で,移出額7百万円中3百万円を占める。ほかに魚肥や魚油がある。移入品では工業製品のほか小麦粉,米及び籾,輸入品では大豆と粟が中心である。
著者
荒木 一視
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.9, no.2, pp.239-267, 2014 (Released:2015-03-31)
参考文献数
228
被引用文献数
2 2

明治期以降の日本の食料供給を,穀物の海外依存に着目して検討するとともに,それに対する地理学研究を振り返った.食料の海外依存は最近始まったことではなく,明治中期以来,第二次大戦にかけても相当量を海外に依存していた.それに応じ1940年代まで,食料は地理学研究の1つの主要な対象で,農業生産だけではなく多くの食料需給についての論考が展開されていた.戦時期の議論には,問題のある展開も認められるが,食料供給に関する高い関心が存在していたことは事実である.しかし,その後の地理学においてこれらの成果が顧みられることは無く,今日に至るまで食料への関心は希薄で,研究の重心は国内の農業に収束していった.明治期以降もっとも海外への依存を高めている今日の食料需給を鑑みるに,当時の状況と地理学研究を振り返ることは,有効な含意を持つと考える.
著者
荒木 一視
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.65, no.6, pp.460-475, 1992-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
22
被引用文献数
5 5

Since World War II Japanese villages have been transformed dramatically. With the shortage of agricultural labor in Japan, villages today have been hurt by the problems of an aging labor force. The Japanese government tried to reorganize the agricultural structure after World War II. But many farmers who hold small cultivated plots have maintained their operations. Under such conditions, it is important to research agricultural change from the point of view of how cultivation is maintained. Nevertheless, at this point in time, few investigations have provided detailed case studies. In particular, it is rare to find a case reported from the view of agricultural production from the agricultural labor side. This paper aims to clarify the mechanism of agricultural continuance by means of a detailed case study in Takamiya-cho, a village in Hiroshima Prefecture. The methodology is as follows. In the previous studies on the shortage of supply of agricultural labor, in addition to many discussions of part-time farmer, two main labor supply source systems have been discussed. One of them is the “weekend farmer” who lives outside his home village and returns to the village to help with his family's farm in the busy farming seasons or on weekends. The other is the trust system of agricultural lands and works. The former is a phenomenon that occurs in individual farm households, but the latter is a system that occurs in groups of farm households. This study investigates how these two systems function in a village with an aged population. Three types of farmer can be classified according to the labor supply situation. The first type is the successor who lives with his aged parents and works in the non-agricultural sector. Where this type of farm household is prevalent, cultivation can be continued because the agricultural labor force will be reproduced even with part-time farming. In such a situation only rice will be cultivated, by a small labor force using agricultural machinery. In the second type, the agricultural labor force is supplied by “weekend farmers.” In this type cultivation is maintained by the labor supply system in each farm household itself. The labor supply of “weekend farmers” is available for mechanized agriculture, but serious problems will occurred in the near future, because there is little probability of reproducing the agricultural labor force. In the third type, the labor force is supplied by an agricultural trust. This type is a labor supply system that works in groups of farm households. This type of labor supply is available not merely in villages with an aged population but also in villages where part-time farming is predominant.
著者
荒木 一視
出版者
経済地理学会
雑誌
経済地理学年報 (ISSN:00045683)
巻号頁・発行日
vol.45, no.4, pp.265-278, 1999-12-31
被引用文献数
3 4

本研究の目的は, 日本経済再生の可能性, わけても農業を地域の産業構造の文脈から論じることである.その際の地域の産業構造の理解とは, 農業生産地域のみならず, 制さんから流通・消費に至る一連の体系から構成される地域間のシステムを念頭におくものである.すなわち, 少なくとも国家規模の分析スケールを想定するものである.このようなスケールの地域間のシステムから農業を検討するという立場は, これまで主流をなしていたわけではない.しかし, 国家的なスケールで農産物が流動する現代の農業を考える上では不可欠の立場と考える.その背景を研究対象の整理を通じて提示し, 1事例地域内の農業構造の分析, そこからえられる産地形成論, あるいは農業の再生論の限界に言及した.続いて, 地域間のシステムという見地からわが国の国家的スケールでの青果物流動の現状を示し, そこから農業再生の可能性についての展望を行った.農業の再生に関して, 農業地理学が貢献できるとすれば, ミクロスケールのみならずマクロスケールの農産物の地理学的検討も重要であることを喚起したい.あるいはそれが既存の農業地理学の枠外であるならば, この視点を「食料の地理学」として提起したい.
著者
荒木 一視
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2007年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.4, 2007 (Released:2007-04-29)

1.問題の所在 デカン高原・綿花栽培(・レグール土)という半ば方程式のような認識が長年にわたって学校教育の場に存在してきたのではないか。あるいはガンジス川下流地域の米作と上流地域の小麦作という図式に関しても同様である。例えば,1970年代から80年代にかけての高校地理教科書や地理用語事典では「デカン高原は世界的綿作地帯」「デカン高原で同国の綿花の大半を生産する」といった記述が認められる。しかし,こうしたインドの農業に対する認識は,決して正確なものとはいえない。近年高等学校の教科書などでは,地誌的な記載が減ってきたためインドの農業自体に割かれるページ数そのものが少ないこともあるが,なお,地図帳を含めた多くの教科書でこうした記載が認められる。本報告ではこうした誤解を生じかねない認識の背景を検討したい。これは決して記載内容の正確さを議論しようとするものではない。限定された時間とスペースの中では全く正確な記述などできるものではないし,必要に応じて情報が取捨選択されるのはやむをえないことである。むしろ,提起したいことはなぜこのように正確ではない記述が採用され,それが長期にわたって再生産され続けてきたのかということである。 2.インド農業の現状 デカン高原は決してインドにおける綿花栽培の突出した地域ではない。独立以来インドの綿花栽培はグジャラート州,パンジャーブ州及びデカン高原という3つの地域によって担われてきたというのが正確である。デカン高原はあたかもインド最大の綿花栽培地域のように教えられてきたが,州別の綿花生産量では1970年代から,80年代にかけてはグジャラート州が,80年代以降はパンジャーブ州が首位を担ってきた。デカン高原に位置するマハーラーシュトラ州が州別の生産量で首位になるのは1990年代半ば以降である(皮肉にもそれは日本の教科書からデカン高原の記述が少なくなる時期と重なる)。また,デカン高原の綿花栽培の特徴としてはその生産性の低さが挙げられる。2002年のマハーラーシュトラ州のそれは158kg/haでパンジャーブ州の410kg/haを大きく下回っている。 また,多くの地図帳を含めた教科書で,ガンジス川下流域での米作と上流域での小麦作をインドの農業の地域区分の骨格のように示しているが,中・上流に位置するウッタルプラデシュ州やパンジャーブ州の米作が貧弱というわけではない。無論のこと両州は小麦の州別生産量では群を抜くトップ2であるが,同時に米の生産量でも2位(ウッタツプラデシュ州),4位(パンジャーブ州)であり,従来は米作の盛んな地域とされてきたビハール州やオリッサ州の生産量を凌駕している。 3.どのような趣旨のもとに教えられてきたのか それではどのような趣旨のもとで,この決して正確とはいえない情報が長年にわたって教え続けられてきたのだろうか。第1に考えられるのは「地域の環境とそれに応じた農業」という文脈が強調されたということである。すなわち,土壌や降水量などの環境条件と栽培作物を関連させ,自然と人間活動の関わりを教えるという文脈から,デカン高原の綿花やガンジス川上流と下流の農業の違いを典型例として例示したという仮説である。第2には経済(農業)開発という文脈の強調である。従来,生産性が低く雑穀類の生産が主であったデカン高原で,商品作物の綿花が導入されることで,同地域の経済や農業の発展が促されたという点を積極的に評価する事例としてもちいられたという見方である。第3には土地利用を優先した農業観の存在である。「世界地理」(石田龍次郎ほか編,1959)では,主要作目別の土地利用比率からインドの農業の姿を描き出している。当時デカン高原では生産量は十分に向上しないものの作付面積では他に比べる品目が存在しなかった。一方,パンジャーブ州などでは,綿花生産量も大きかったが,小麦の作付面積の広さが強調された。こうした理解がそのまま,教科書に反映されたものと考えることも可能である。 今日インドの農業の状況は私たちの世代が教えられた状況とは大きく変わりつつある。その際,漫然と従前の知識を伝えるのではなく,どのような趣旨のもとでそれを教えるのか,今求められている趣旨は何かを十分に検討する必要がある。
著者
荒木 一視 岩間 信之 楮原 京子 田中 耕市 中村 努 松多 信尚
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100001, 2015 (Released:2015-10-05)

災害に対する地理学からの貢献は少なくない。災害発生のメカニズムの解明や被災後の復旧・復興支援にも多くの地理学者が関わっている。そうした中で報告者らが着目したのは被災後の救援物資の輸送に関わる地理学的な貢献の可能性である。 救援物資の迅速かつ効果的な輸送は被害の拡大を食い止めるとともに,速やかな復旧・復興の上でも重要な意味を持っている。逆に物資の遅滞は被害の拡大を招く。たとえば,食料や医薬品の不足は被災者の抵抗力をそぎ,冬期の被災地の燃料や毛布の欠乏は深刻な打撃となる。また,夏期には食料の腐敗が早いなど,様々な問題が想定される。 ただし,被災地が局地的なスケールにとどまる場合には大きな問題として取り上げられることはなかった。物資は常に潤沢に提供され,逆に被災地の迷惑になるほどの救援物資の集中が,「第2の災害」と呼ばれることさえある。しかしながら,今般の東日本大震災は広域災害と救援物資輸送に関わる大きな問題点をさらすことになった。各地で寸断された輸送網は広域流通に依存する現代社会の弱点を露わにしたといってもよい。被災地で物資の受け取りに並ぶ被災者の長い列は記憶に新しいし,被災地でなくともサプライチェーンが断たれることによって長期間に渡って減産を余儀なくされた企業も少なくない。先の震災時に整然と列に並ぶ被災者を称えることよりも,その列をいかに短くするのかという取り組みが重要ではないか。広域災害時における被災地への救援物資輸送は,現代社会の抱える課題である。それは同時に今日ほど物資が広域に流通する中で初めて経験する大規模災害でもある。    遠からぬ将来に予想される南海トラフ地震もまた広い範囲に被害をもたらす広域災害となることが懸念される。東海から紀伊半島,四国南部から九州東部に甚大な被害が想定されているが,これら地域への救援物資の輸送に関わっては東日本大震災以上の困難が存在している。第1には交通網であり,第2には高齢化である。 交通網に関してであるが,東北地方の主要幹線(東北自動車道や東北本線)は内陸部を通っており,太平洋岸を襲った津波被害をおおむね回避しえた。この輸送ルート,あるいは日本海側からの迂回路が物資輸送上で大きな役割を果たしたといえる。しかしながら,南海トラフ地震の被災想定地域では,高速道路や鉄道の整備は東北地方に比べて貧弱である。また,現下の主要国道や鉄道もほとんどが海岸沿いのルートをとっている。昭和南海地震でも紀勢本線が寸断されたように,これらのルートが大きな被害を受ける可能性がある。また,瀬戸内海で山陽の幹線と切り離され,西南日本外帯の険しい山々をぬうルートも土砂災害などに対して脆弱である。こうした中で紀伊半島や四国南部への救援物資輸送は問題が無いといえるだろうか。 同時に西日本の高齢化は東日本・東北のそれよりも高い水準にある。それは被災者の災害に対する抵抗力の問題だけでなく,救援物資輸送にも少なからぬ影響を与える。過去の災害史をひもとくと,救援物資輸送で肩力輸送が大きな役割を果たしたことが読み取れる。こうした物資輸送に携われる労働力の供給においてもこれらの地域は脆弱性を有している。     以上のような状況を想定した時,南海トラフ地震をはじめ将来発生が予想される広域災害に対して,準備しなければならない対応策はまだまだ多いと考える。耐震工事や防波堤,避難路などの災害そのものに対する対策だけではなく,被災直後から始まる救援活動をいかに迅速かつ効率よく実施できるかということについてである。その際,被災地における必要な救援物資の種類と量を想定すること,救援物資輸送ルートの災害に対する脆弱性を評価し,適切な迂回路を設定すること,それに応じて集積した物資を被災地へ送付する前線拠点や後方支援拠点を適切な場所に設置すること等々,自然地理学,人文地理学の枠組みを超えて,地理学がこれまでの成果を踏まえた貢献ができる余地は大きいのではないか。議論を喚起したい。
著者
荒木 一視
出版者
地理科学学会
雑誌
地理科学 (ISSN:02864886)
巻号頁・発行日
vol.52, no.4, pp.243-258, 1997-10-28 (Released:2017-04-20)
参考文献数
18
被引用文献数
1
著者
荒木 一視
出版者
経済地理学会
雑誌
経済地理学年報 (ISSN:00045683)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, pp.138-157, 2006-09-30

近年食料の安全性や食料の質に対する関心が高まっている.本研究もそのような立場から,現代のわが国の食料供給体系を論じるものである.その際,2004年1月に山口県阿東町で発生した鳥インフルエンザを取り上げ,実際に食料の安全性が脅かされるという事態において,食料供給の現場を担うスーパーがどのような対応をとったか,さらにそのような状況を理解するにはどのような観点が有効であるかに焦点を当てた.スーパーの対応としては,調達量や価格の調整は一般的ではなく,短期的には安全性のアピールが中心で,それに伴って阿東町や山口県内の調達先を他所に変更する事例も認められた.それはスーパーサイドにとっては商品の安全性を訴える上で意味のある対策でもあった.しかし,1年を経て,調達先は山口県内に回帰するとともに,調達先の多元化も認められた.このような一連の対策を講じた背景には,リスクへの対応という側面に加えて,安全というイメージをどのようにして構築するのかという点が重要になっていることを指摘できる.実際の安全性よりもイメージとしての安全性がスーパーの調達戦略に大きく関与している側面が浮かび上がった.このように今日の食料供給体系を稼働させていく上で,食品のイメージが大きな役割を果たしていることが明らかになり,時にそれは食料供給体系そのものを再編成するほどの影響力を有している.
著者
荒木 一視
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.44-65, 2016 (Released:2018-01-31)
参考文献数
30
被引用文献数
1 1

戦間期の日本とその植民地の食料供給がどのようにして支えられたのかという問題意識から,朝鮮に仕向けられた大量の満洲粟に着目し,当時の東アジアの食料貿易の一端を明らかにした。具体的には朝鮮・満洲間の主要貿易港である新義州税関の資料を用い,食料貿易の地理的パターンを描き出した。その結果,魚類や果実類,米,大豆と比べて粟が特徴的なパターンを有していることが明らかになった。すなわち,前者が主要な産地から主要な消費地である大都市に向けて仕出されるのに対し,後者は朝鮮各地に少量が仕向けられ,農村の需要に対応したものと考えられる。仕出地,仕向地の地域的な検討からは,日本の影響の強い満洲南部からの仕出,従来から粟の卓越する朝鮮北部向けの仕向という性格が認められた。特に朝鮮北部の仕向の多い地域は,当該期間に米の生産を伸ばした地域でもあり,春窮農家の相対的に少ない地域でもあった。以上から,戦間期に目指された植民地を含めた帝国の領域内での食料自給体制は,決して完全なものではなかったといえる。米に限れば自給体制は整えられたが,それを支える米以外の穀物自給は決して域内で完結していなかったのである。それは米以外の多くの穀物を海外に依存する今日の日本の穀物供給体制を考える上でも,重要な示唆に富む。
著者
荒木 一視
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.17, no.1, pp.23-45, 2022 (Released:2022-03-24)
参考文献数
53
被引用文献数
8

大規模災害が発生してからの救援活動と避難生活を向上させる必要があるという問題意識のもと,避難生活を支える効果的な救援活動拠点の配置に関する研究を提起する.救援活動拠点とは届いた物資や人員を被災世帯や避難所へと中継する拠点である.まず,災害研究のステージと地理学,特に救援活動期における被災地と発出拠点の関係を整理した.次に,南海トラフ地震が発生した際には大きな被害が想定され,過疎化や高齢化の進行している和歌山県日高郡を事例として,現状の救援システムを地図上に描き出すとともに課題の把握を行った.さらに,その課題を埋める救援活動拠点の候補として,旧役場所在地や学校,寺院に着目し,効果的な救援システムのあり方を検討した.また,こうした大規模災害時の救援システムを論じる上で従来の地理学の研究蓄積が貢献できる余地があることを指摘した.
著者
荒木 一視
出版者
東北地理学会
雑誌
季刊地理学 (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.53-73, 2019 (Released:2019-09-27)
参考文献数
27

近代工業勃興期にある1920年代の中国の食料の海外依存を検討した。その背景には,増加する鉱工業労働者への食料供給をどのようにして担ったのかという問題意識がある。当時の中国の穀物生産は拡大していないものの,鉱工業労働者は大きな増加を見るからであり,輸入穀物によってそれを賄ったのではないかと考えた。そこで中国の北京大学図書館で閲覧した『中國各通商口岸對各國進出口貿易統計』によって当時の食料貿易を把握した。期間を通じて上海を中心とした中部の港では欧米からの輸入拡大が認められた。従来それは中国の工業化に伴う工業原料の輸入とみられていたが,食料貿易も大きなシェアを持っていたことが明らかになった。特に小麦,米,小麦粉などの穀物の輸入がその主力であった。小麦においてはオーストラリアをはじめとしてアメリカ合衆国やカナダ,米においては香港をはじめとして英領インドやフランス領インドシナなどアジアからの輸入が中心であった。このように,20世紀初めの中国の近代工業化の一翼を支えたのは海外からの食料供給であったといえる。同時にそれは今日経済成長を遂げる中国とその食料の海外依存という文脈にも当てはまる。
著者
荒木 一視
出版者
東北地理学会
雑誌
季刊地理学 (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.53-73, 2019

<p>近代工業勃興期にある1920年代の中国の食料の海外依存を検討した。その背景には,増加する鉱工業労働者への食料供給をどのようにして担ったのかという問題意識がある。当時の中国の穀物生産は拡大していないものの,鉱工業労働者は大きな増加を見るからであり,輸入穀物によってそれを賄ったのではないかと考えた。そこで中国の北京大学図書館で閲覧した『中國各通商口岸對各國進出口貿易統計』によって当時の食料貿易を把握した。期間を通じて上海を中心とした中部の港では欧米からの輸入拡大が認められた。従来それは中国の工業化に伴う工業原料の輸入とみられていたが,食料貿易も大きなシェアを持っていたことが明らかになった。特に小麦,米,小麦粉などの穀物の輸入がその主力であった。小麦においてはオーストラリアをはじめとしてアメリカ合衆国やカナダ,米においては香港をはじめとして英領インドやフランス領インドシナなどアジアからの輸入が中心であった。このように,20世紀初めの中国の近代工業化の一翼を支えたのは海外からの食料供給であったといえる。同時にそれは今日経済成長を遂げる中国とその食料の海外依存という文脈にも当てはまる。</p>