著者
上田 信三
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.11, no.7, pp.616-630, 1935-07-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
7

The Hida Range (about 3000m height) runs from N to S at the NE extremity of the Inner Zone of South-western Japan. Near the peaks of this range, between 2800m and 2300m, are remnants of the old erosion surface that were completed during the previous cycle. They are surrounded by steep valley walls of “aufsteigende Entwicklung” (Fig. 1) that show recent rapid uplift of the mountain land (Fig. 3). The two Rivers Kurobe and Takase flow from S to N, dividing this range into two or three parallel mountain chains. The longitudinal profiles of the valley floors (Fig. 2, 7), which are steep in the uppermost part, become gradually gentler, and at 1500-1300m have already graded slope of full maturity. These erosion levels are called Upper Stream Levels (Daira. Level in the R. Kurobe and Yumata Level in the R. Takase). In their middle parts the inclination becomes again very steep and the valley form changes into young narrow gorges (Fig. I IV is a transverse section of the Daira Level, while II and III are those of the gorge). Here we find many knick points, which are called Middle Stream (or Simorôka in the R. Kurobe) Knick Points. The tributaries of these rivers also belong to the same type (Fig. 3). The author traced and reconstructed the older erosion levels in the valley floors, which were formed during a stationary period of the earth movement. From these data he concludes that there were two phases of elevation -Pre- and Post Upper Stream Levels in this district.
著者
河内 伸夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.49, no.1, pp.43-53, 1976-01-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
31
被引用文献数
1

中国山地の穿入蛇行の分布,蛇行の波長と流域面積との関係,穿入蛇行の成因,地質との関係を検討したが,結果は以下のようである. 1) 穿入蛇行には侵蝕平坦面自体を刻むタイプと,侵蝕平坦面の境界付近に発達するタイプがあり,前者は掘削蛇行ないし生育掘削蛇行を示しており,侵蝕平坦面上の自由蛇行より受け継がれた可能性が高い.後者は一般に生育蛇行を示し,必ずしも自由蛇行から受け継がれたと考える必要はない. 2) 穿入蛇行の波長と流域面積との関係は,欧米とほぼ同じであるが,穿入蛇行と自由蛇行の波長の関係は,中国山地に気候変化による明白な無能河流がないことを示す. 3) 古生層地域と花崩岩地域の穿入蛇行を比較すると,谷幅,攣曲度とも一般に前者の方が小さく,またより規則的で滑らかな彎曲を描いている.
著者
江端 信浩
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.272, 2013 (Released:2013-09-04)

1. はじめに 洪水を堤防内で処理する河道改修方式による治水が限界視されて久しく(岸原・熊谷, 1977), また生態系への影響等,河川環境に配慮した治水が求められている中(河川審議会,1996), 氾濫を受容する伝統的治水工法が再評価されてきている(大熊1997など).中でも,水害防備林(以下,水防林)は,経済面・農業面でも寄与するなど,治水機能以外にも多様な機能を持つとされている(上田1955など).ただ,水防林は全国的には減少の傾向にある(渡辺,1998).本研究では,水防林が今日まで維持されている木津川流域に注目し,その背景を明らかにし,水防林の今日的な意義と活用可能性について検討する.対象地域は,淀川水系木津川流域の山城盆地(京都府木津川市),上野盆地(三重県伊賀市)である. 2. 研究手法 明治時代以降現在までの新旧地形図読図を通して木津川流域の水防林の分布の変遷をたどり,次に,水防林の分布と地形・地質との関係を考察した.さらに,流域の市町史等の歴史,国土交通省や林野庁等への聞き取り調査を基に,水防林がどのように維持・管理されてきたかという点について明らかにした. 3.結果・考察 水防林の消長の状況は,流域内でも地域により大きな差異が見られた.上野盆地下流部の岩倉狭窄部手前では水防林の大半が消失したが,山城盆地では,水防林の大半が残されてきた.上野盆地下流部では狭窄部手前で三川が合流するため,氾濫が常態化し,上野遊水地事業の着手に伴い水防林がほぼ一掃されたが,山城盆地では,硬岩の分布や地形の相違の影響を受けて生じた水衝部付近,支流の天井川沿いを中心に,水防林を活かした治水がなされてきた.ただ,上野盆地でも上流部では水防林の残されている箇所が多く,霞堤や堤内地の水田とともに遊水機能を発揮し,遊水地を補完する役割を担っている.また,上流・下流ともに,破堤地形や旧河道など水害が発生しやすい箇所や,堤防の整備状況が不十分な箇所にも水防林は分布していることがわかった.木津川水防林の持つ機能は,上記のような水防機能に止まらない.流域の水防林のマダケは,上流部の上野盆地においては,江戸時代から昭和時代にかけて伊賀傘(和傘)の原料として使用され,一方,下流部の山城盆地でも南山城地域の竹材生産額において一定の割合を占めるなど,流域全体で経済的機能を果たしてきた.近年では竹材の持つ経済的価値は低下したものの,現在ではその文化的意義が注目される.伊賀傘は現在でも上野天神祭で使用されており,山城盆地の御立薮国有林のマダケは東大寺お水取り用の松明として活用され,伝統行事において一定の役割を担っている. また,ダムによる治水の生態系への悪影響が懸念される中(河川審議会,1996),水防林の持つ環境的機能も注目される.水防林は.上述の遊水機能に加え,浄化(ゴミ除去)作用を持ち,さらに河川景観の要素ともなっている. 以上のような水防林の多面的機能を河川管理者や流域住民が認識し, 適切に管理・保全していくことが今後一層重要になってくるであろう.
著者
坂口 慶治
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.47, no.1, pp.21-40, 1974-01-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
8
被引用文献数
2 1

丹波高地東部の由良川中流域に生じた廃村3例をとりあげ,それらの比較研究によって,廃村化の過程と機構を解明しようと試みた. ここは,太平洋・日本海両斜面を流れる諸河川の源流域とは対照的に,近距離指向離村の性格が著しく,集団離村もその一環として実現したものと考えられる. 3廃村についてみれば,それらの立地環境,とくに隔絶性の強弱が廃村化に重要な影響を及ぼしたことが判明した.すなわち隔絶性が強ければ,生活利便指向性の上層先行型近距離離村が生じ,耕地保留離村が多いために耕地が荒廃しやすく,それによって廃村化が促進される.これに対し,隔絶性が弱ければ,経済指向性の下層先行型遠距離離村が生じ,集落はさほど動揺しないけれども,他面では村外者の耕地所有率が高くなりがちである.このような傾向が強まった場合は,経済変動による一斉的な耕地放棄が生じて,廃村化を促す.そしてこれらの荒廃過程は,集落形態や所有耕地の分布形態と密接に関わりあっており,また,各村落のコミュニティ形態との間にも強い関連性が認められる.
著者
清水 長正 山本 信雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.339, 2013 (Released:2013-09-04)

地下の空隙から冷風を吐出する風穴(ふうけつ)は全国の山地・火山地の地すべり地形・崖錐斜面・熔岩トンネルなどに多数ある。信州の稲核(現・松本市)では江戸期から風穴が利用されていて,幕末期に蚕種を風穴に冷蔵して孵化を抑制し養蚕の時期を延長させる手法が稲核で開発され,その後の明治期における蚕糸業の振興に伴い蚕種貯蔵風穴が全国へ普及し,大正期までに各地に280箇所以上が造成された。明治後期には風穴の機構に関する日本で最初の研究が稲核で始められた。さらに現在でも風穴の利用が持続しているという,自然現象(地形・表層地質・気象)を巧みに利用した山村文化をもつ場所である。
著者
田中 恭子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.55, no.7, pp.453-471, 1982-07-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
22
被引用文献数
5 3

第2次世界大戦以前に都市化が終了した中野区中央3・4丁目と,大戦前・後にまたがって都市化が進行した武蔵野市西久保の2地区において,都市化に対応した農民の土地供給形態と,その後,現在に至るまでの旧農民の土地所有と土地利用の変遷を比較した.戦前の住宅は主に借地上に建設されたため,中野区の農民は耕地を貸宅地に転換し,宅地地主となった.ところが,武蔵野市の場合,中野区と同様に終戦までに宅地地主に転じた農民も存在したが,終戦後も農業を継続していた約半数の農民は, 1960年前後から土地を切り売りしはじめ,やがて種々の不動産経営を展開するようになった.現在,両地区とも農業生産は消滅し去った市街地となっているが,旧農家の貸地上に宅地化が進展した中野区では高層・高密度化が進み,一方,武蔵野市では今なお旧農家が所有する駐車場などの土地がオープン・スペースを提供している.つまり,第2次世界大戦の前・後で農民の土地供給が貸地から土地売却へと変質した結果,戦前の都市化地域と戦後の都市化地域では市街地の土地利用パターンも著しい対照を呈するようになった.
著者
朴 宗玄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.219, 2004 (Released:2004-07-29)

本研究では、在日韓国人企業の事業所分布を取り上げ、産業属性・人口規模との関連性を分析する。_I_ 産業属性と事業所配置490都市を行、25産業部門を列とする490×25の行列を作成し、因子分析を行った結果、固有値1.0以上の共通因子が4つ抽出された。第_IV_因子までの累積変動説明率は85.5%に達しており、以下では、因子負荷量の絶対値が0.55以上の変数群を解釈する。第_I_因子で高い因子負荷量をもつ変数は、サービス業(「教育関連サービス業」「ホテル・娯楽業」「対企業サービス業」「対個人サービス業」)、小売業(「飲食店」「飲食料品小売業」「その他の小売業」)、卸売業、運輸通信業(「旅客運送業」「運輸サービス業」)、不動産業、保険業である。この因子には、製造業は含まれず、サービス業を中心とする第3次産業活動であるので、「非製造業活動を行う産業」を表す因子であると解釈した。因子得点が最も高い都市は、東京で、次いで名古屋、横浜、仙台、川崎である。第_II_因子で因子負荷量の高い変数は、製造業(「生産資材製造業」「機械器具製造業」)、運輸通信業(「運輸サービス業」「貨物運送業」)である。この因子は、生産設備などの重化学工業活動とその生産品の運送を含むサービス活動を表す因子である。したがって、この因子は、「重化学工業活動と貨物運送サービス活動を行う産業」を表す因子であると解釈した。因子得点値が最大の都市は、大阪で、次いで東大阪、東京、尼崎、神戸である。第_III_因子では、生活資材製造業、建設業(「総合工事業」「職別工事業」「設備工事業」)、銀行業の変数の因子負荷量が高い。この因子で抽出された産業は、生活資材の製造業活動、住宅や建物を含む様々な工事、そしてその資金調達先である銀行業であるため、生活基盤と深く関連する産業であるといえる。そのため、この因子は、「生活基盤とその付随的活動を行う産業」を表す因子であると解釈した。とくに、因子得点が最も高い都市は京都であり、次いで尼崎、大阪、広島、北九州、名古屋、横浜、大津、岡崎、宝塚、舞鶴、岸和田、草津などである。 そして第_IV_因子では、「家具小売業」「衣服・身の回り品小売業」「自動車小売業」「消費財製造業」が高い因子負荷量を持っている。この因子は、住民の生活に密着した小売業・製造業を表す因子として、「住民の生活に密着した小売・製造業活動を行う産業」と名付けた。因子得点をもとに導出した地域的分布パターンをみると、神戸が最も高い因子得点を示す。_II_ 人口規模と事業所配置 ここでは、都市別の在日韓国人企業の事業所分布の特徴を、韓国・朝鮮国籍人口規模、都市別人口規模と関連づけながら分析する。まず、韓国・朝鮮国籍と在日韓国人企業の事業所分布との関連性を分析する。主要都市別の韓国・朝鮮国籍人口と在日韓国人企業の事業所数との相関図をみると、在日韓国人企業の事業所の順位・規模は、全体的に連続した形態を呈する。対象都市490都市について、韓国・朝鮮国籍人口数と在日韓国人企業の事業所数の相関係数を算出すると、0.95ときわめて高い値が得られた。しかし、在日韓国人企業の事業所数は韓国・朝鮮人口数だけでは説明できない。このことは、東京・横浜、京都・神戸・尼崎、そして広域中心都市の在日韓国人企業の事業所数が韓国・朝鮮国籍人口規模から予想される以上に大きいこと、逆に大阪、名古屋、東大阪、川崎、などの在日韓国人企業の事業所数が韓国・朝鮮国籍人口規模に比べて小さいことから容易に理解できる。次に、在日韓国人企業の事業所分布と日本の人口との関連性を分析する。都市別人口と在日韓国人企業の事業所との相関係数は、0.87と高いが、韓国・朝鮮国籍人口から得られた相関係数(0.95)より低い。このことから、在日韓国人企業の事業所分布は、都市別人口規模よりも韓国・朝鮮国籍人口規模と類似した分布によってよりよく説明される。また、、大阪、京都、神戸、尼崎、東大阪、大津などの近畿地方の多くの都市は、人口規模から予想される以上に在日韓国人企業の事業所数が大きいのに対して、東京、横浜、千葉と広域中心都市は、人口規模から予想される以上に在日韓国人企業の事業所数が少ない。こうした結果は、前述した日本の事業所分布との相関の傾向とも一致する。
著者
鹿野 忠雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.11, no.12, pp.1027-1055, 1935-12-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
4
著者
本岡 拓哉
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.58, 2006 (Released:2006-11-30)

1.はじめに これまでのわが国戦後のスラム研究では、建築・都市計画的な観点から、改善された地域に視点が当てられており、必ずしも全てのスラムとされた地域(不良住宅地区)が扱われてきたわけではなかった。特に、戦後日本の都市において居住貧困層が集まったバラック街は研究対象になることは少なく、その状況や現在までの変容については明らかになっていないことが多い。すなわち、これはわが国のスラムに対する実践・研究双方において、資本主義的都市発展を支える産業基盤整備を中心とした都市整備的な観点が重視され、居住貧困層を支える居住福祉という観点は軽視されてきたからと考えられる。こうした問題意識のもと、発表者は既に神戸市をフィールドに、バラック街の形成からクリアランスまでのプロセスについて明らかにしてきた。しかし、そもそもバラック街が戦後都市の中でどのような状況で、社会的、地理的にどのような位置づけであったかは明らかにしていない。そこで本発表では、1958年に東京都民生局が作成した『東京都地区環境調査』を利用し、この課題に取組む。加えて戦後バラック街の状況とその後の変容との関係性を実証的に明らかにしていく。2.戦後不良住宅地区の形成 太平洋戦争時,度重なる米軍の空襲や空襲疎開によって、東京都の住宅は戦前に比べ、約100万戸減少した。このように戦災により多くの住宅が失われたことで、大量の戦災者や外地からの引揚者は住む所がなく、不定住貧困状態 となった。ここでの不定住貧困状態は大きく二つの様態に分類できる。一つは、街頭に投げ出され都市の盛り場や駅前に寄生して生活する「浮浪者」で、もう一つが、戦災跡に出来た「壕舎・仮小屋(バラック)生活者」であった。戦後復興の中、行政の保護により「浮浪者」が減少していく一方で、仮小屋生活者はその後むしろ増加し、ある一定の場所に集まることでバラック街が形成されることとなった。なお、バラック街のほかにも、例えば、非戦災地域における一般住宅の集団的老朽化、簡易旅館街(ドヤ街)における集団的環境不良化、旧軍用施設ないし工場、倉庫を応急的に転用した低家賃都営住宅、引揚者定着寮等の荒廃化などを、戦後都市の不良住宅地区としてあげることが出来る。このような戦災による被害と共に、その後の急激な都市化の中、大量の人口流入のあった東京都では、他の都市に比べて不良住宅地区問題は非常に深刻であった。1950年代後半になると、量的な意味での住宅難は徐々に解消されつつあったが、質的な意味での住宅問題として「不良住宅地区=スラム」が相対的に深刻化しはじめた。こうした状況に対して、東京都民生局総務部調査課は福祉事務所の協力のもと、1957年11月に大規模な調査を実施し、東京都区部で231の不良環境地区を選定した。3.分析対象・方法 本発表では、『東京都地区環境調査』のデータを再検討することで、当時の不良環境地区におけるバラック街の状況を明らかにする。現在、バラック街とは、不法占拠の仮小屋集団地区とみなされることが多いが、当時のデータを見たところ、全不良環境地区231地区のうち仮小屋地区は71、不法占拠地区51であるが、そのうち一致するものは35で、仮小屋地区と不法占拠地区は必ずしも一致していないことがわかる。また一方、バタヤ地区31のうち28地区が仮小屋地区に分類することができ、その関係性は強いことがわかる。したがって、本発表ではバラック街を仮小屋地区、不法占拠地区、バタヤ街に分類される計90地区と設定し、それらを分析対象とする。データを読み解く際には、バラック街が当時の社会の中でどのような位置づけであったかに留意し、他の不良環境地区との比較を行う。加えて、発表者はこれらの地区の現在までの変容との関連性を明らかにする。全不良環境地区231地区の変容については、既に高見沢・洪(1984)が分析しているが、バラック街の特有性を示しているわけではない。本発表では、住宅地図と空中写真によりバラック街の現在までの土地利用の変遷を辿ることで、バラック街の変容過程を示し、その特徴と背景を明らかにしたい。〔参考文献〕高見沢邦郎・洪 正徳「1959年調査による東京区部不良環境地区のその後の変容について」都市計画別冊、1984、85-90
著者
福井 幸太郎 菊川 茂 飯田 肇 後藤 優介
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.77, 2014 (Released:2014-10-01)

はじめに 2014年5~6月,立山カルデラの温泉の池「新湯」で湯枯れが発生し湖底が干上がった.6月13日なると温泉が再び湧出して水位が上昇,6月15日にはもとの温泉の池にもどった.新湯が一時的に干上がることは数十年前から富山県内の山岳関係者の間で指摘されていた.しかし,写真などの記録は無く,現地で確認できたのは今回が初である.本発表では,湯枯れの発生と温泉の再湧出による水位回復の経過について報告する.新湯について新湯は立山カルデラ内を流れる湯川左岸に位置する直径約30 m,水深約5 mの円形の火口湖.もともと冷水の池であったが1858(安政5)年の安政飛越地震(M7.3~7.6)の際の激しい揺れによって熱水が湧き出したとの伝承がある.現在も約70℃の湯が湧出している.希少な玉滴石(魚卵状蛋白石=オパール)の産出地で2013年10月17日に国の天然記念物に指定された. 湯枯れと温泉再湧出の経過・2014年4月15日:立山砂防事務所撮影の航空写真から新湯では温泉が湧出しており水位も平年通りであることを確認.・5月13日:博物館撮影の航空写真から新湯が干上がっていることを確認.このため,新湯は4月15日~5月13日の間に干上がったと考えられる.・6月11日:現地にて新湯が完全に干上がっていることを確認(図1a).池の最深部(水深約5 m)に直径1 m程の凹みが3つあり活発に湯気を噴き上げていたが温泉の湧出はなかった.・6月13日:立山砂防事務所より新湯で再び温泉湧出がはじまったとの連絡が入る.・6月15日:現地にて池の最深部付近から温泉が湧出しており水位が元のレベルまで回復していることを確認(図1b).水位は6月13日~15日の3日間程で元のレベルで回復したといえる.湯温は池の切れ口付近で72.6℃と干上がる前と同程度だった.謝辞今回の調査は国土交通省立山砂防事務所の協力・支援によって実現しました.お礼申し上げます.
著者
鈴木 秀夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.35, no.5, pp.205-211, 1962-05-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
6
被引用文献数
32 23

資料としては,もっとも密度の細かい区内観測所を使用し,方法としては,気候は毎日の天気現象の綜合であるという定義にできるだけ忠実に,日本の気候区分を行なった.その結果,寒帯・中緯度気候帯,裏日本気候区・準裏日本気候区・表目本気候区,多雨区・少雨区の組み合せによって9つの気候区を認め,とくに境界線に注意して区分した。
著者
飯塚 遼
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100334, 2016 (Released:2016-04-08)

本発表は、芸術家村としての歴史や農村イメージといった芸術文化を背景としたルーラル・ジェントリフィケーションの進展について議論するものである。
著者
高阪 宏行
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.45, no.11, pp.756-773, 1972
被引用文献数
1 2

本研究は,地域住民の購買活動を究明するため消費者の買物行動に視点をおき,購買活動を地域的にまとめる単位として,商店群と基礎単位地域の二つの概念を設定している。商店群とは,それを構成している商店を組合わせて利用する傾向の強い世帯群の買物の場の単位である.基礎単位地域とは,商業的環境がほぼ共通している結果,同じ一組の商店群を利用することによって購買活動を満たしている世帯集団である.埼玉県加須市における買物行動調査の結果,居住地区内の地元商店群,加須中心商店街に入る入口付近の商店群,加須中心商店街の中核的商店群の三種類の商店群が抽出され,この同一の三種類の商店群を利用している約100~200世帯から成る基礎単位地域が設定された.また,加須市商圏内の基礎単位地域,商店群,そしてそれらの間の利用関係を分析することによって,加須市商圏の内部構造が究明された.
著者
高橋 春成
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.52, no.11, pp.635-642, 1979-11-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
15
被引用文献数
3 1

The Japanese black bear (Selenarctos thibetanus japonicus) is a representative large wild mammal which has had close relations with the life of the Japanese. The animal has been an object of hunting from ancient times, because it is believed to have certain medicinal value. However, few studies have been done on the ecology of the Japanese black bear, or on its habitat distribution, both of which may be much affected by changes in man's life style. The purpose of this study is to ascertain primarily changes in the distribution of the Japanese black bear in the West Chugoku Mountains since the Taisho era (1912_??_1926). The location, which remained uninvestigated until this study, marks the western fringe of the animal's habitat in Japan. The findings are as follows: 1) From the Taisho era to early Showa (1926_??_1944), the Japanese black bear maintained its habitat in virgin broadleaf deciduous forests containing beeches (Fagus crenata Blume), horse chestnuts (Aesculus turbinata Blume), varieties of Japanese oaks (Quercus mongolica Fischer var. grosseserrata Rehd, et Wils; Quercus serrata Thunb), etc. Such forests supplied Japanese black bear's food (nuts, berries, buds, leaves, stalks, etc.) as well as provided tree hollows for hibernation. Thus, the bears seldom appeared in villages. At that time, the Japanese black bear commanded good prices mainly as material for medicine, and its hunting constituted one of the important side jobs in the winter season. 2) From around 1960, the virgin broadleaf deciduous trees have been replaced by Japanese cedar trees (Cryptomeria japonica D. Don) through afforestation. As a result, Japanese black bears, losing source of food and places for hibernation, have been driven out of their former habitat. They have thus started to hibernate in the vicinity of villages, or damaging crops and becoming a nuisance to the villagers. After World War II, hunting for Japanese black bears has declined due to the increased availability of synthetic medicine, but in contrast hunting for ellmination has increased.
著者
白井 義彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.66-86, 1967-02-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
12
被引用文献数
1

本研究の目的は,木拒川下流における耕地の区画整理の地域的特色とその展開の諸要因を明らかにし,さらにこの中から都市化の手法としての区画整理の実態をとらえ,都市化に計画性を付与するために,区画整理を通じて大都市圏における都市と農村との土地利用の調整策を提起することにある.研究対象地域は,都市化が著しい名古屋市郊外の10市29町村を対象とする.論述の進め方としては,まず対象地域の土地利用の特性を明らかにし,ひとまず1899~1960年における耕地の区画整理地を丹念にしらべ,その展開の地域差とその展開を左右した要因を明らかにする.こうした半世紀をこえる区画整理史において,今日最も重要な問題となってきたのは都市化に対応した区画整理の政策的欠如である.今後の大都市圏における区画整理の意義を考え,二つの事例調査(名古屋市大野木土地区画整理組合・江南市古知野土地改良区)をとりあげて実態調査を行った.大局的にみれば,この地域の区画整理は,都市化に対応した新しい区画整理方式を行なうことによって,乱雑に進行し深まりつつあるスプロール現象を防止しなくてはいけないという意見に到達した.
著者
福岡 義隆
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.66, no.12, pp.751-762, 1993
被引用文献数
1

まず始あに,最も古典的で著名ないくつかの文献と筆者自身の考えに基づいて,気候学と気象学の違いを論考する.気象学が人間不在でも成り立つ大気の科学であるのに対して,気候学は必ず人間の存在と密着した大気の科学であるとする.気候学をも含め自然地理学は,隣接の理工学の手法を取り入れるが,解析・理論的解釈の段階で人間的要素を色濃くもった地理学独自の哲学・思想が必要である.<br> それゆえに,気候学は自然地理学の一つ,あるいは地理学そのものとしての存在理由があるはずである.その存在理由は'Physical-Human Process.Response'と称するW. H. Terlungのシステム論における5番目のカテゴリーによって確信づけられる.筆者はそのようなcontrol systemの説明のために3っの具体的な気候学の研究例を紹介した.その一つはW. H. Terlungが論じているように"都市気候学"の研究である.ほかの一つは"災害気候学"に示され,そのうちの一つとして年輪に記録される干ばつの気候に関する研究を紹介した. 3つ目は"気候資源に関する研究"で,これも最も地理学的な気候学の一つと考えられる.というのは,それらの研究が自然エネルギー利用の伝統的方法における気候学的考えに拠るものであるからである.最後に,いつまでも他分野に仮住まいすべきではなく,気候学という現住所にいて地理学という本籍(本質)を全うすべきことを主張した.
著者
金子 史朗
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.31, no.8, pp.495-499, 1958-08-01 (Released:2008-12-24)
参考文献数
7

The “Gotentoge” gravel bed found on the hill tops of the western part of Tama hills to the south of Hachioji, Tokyo, consists of polygenetic gravels, which seem to have been transported and deposited by the ancient Sagami River, because there exists the lithologic similarity of gravels between the “Gotentoge” gravel bed and the present Sagami River, and also because the gravels of the “Gotentoge” gravel bed become larger as they approach the present Sagami River (Fig. 3). There are some other evidences to prove it. The upper surface of the “Gotentoge” gravel bed is almost horizontal, and covered conformably with the old Kanto volcanic ash member at Terazawa (loc. 4 in Fig. 3), but their stratigraphic relation is almost contemporaneous in the Gotentoge pass. Therefore, the geologic age of the Gotentoge gravel bed is nearly the same with the Kanto volcanic ash member which belongs to the lower Diluvium. Many questions, however, remain unsolved for further study.
著者
小林 岳人
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100055, 2012 (Released:2013-03-08)

本研究は教育困難校の一つの目安となる退学者の分布の分析を行うことによって教育困難校の改善のための方策を探るものである。筆者の前任校である千葉県立沼南高柳高等学校も教育困難校の一つである。1)入学者の居住地住所を10進緯度経度に変換しArcGISにて居住地と沼南高柳高等学校までの距離を求め距離帯ごとの退学者率を算出、2)卒業者の平均距離と退学者の平均距離を算出しこれらの間の有意差を検定(t検定)、という分析を行った。その結果、1)通学者は沼南高柳高等学校を中心に、東武鉄道野田線や新京成電鉄線の沿線に分布、2)沼南高柳高等学校からの距離が4kmまでは退学者の比率は漸増し、その後ほぼ一定、10kmを越えると再上昇、3)卒業者と退学者のそれぞれの平均通学距離の差に関するt値は0.0337で5%の水準で平均距離のその差は有意、という3点が明らかになった。教育困難校形成要因は多様である。その一つに学力による序列化がある。公立高等学校は学区によって通学範囲が制約されるが、千葉県では隣接学区への通学も認められている。この規定により学区境界の制約をそれほどうけることなく生徒の通学が可能となっている。しかし、普通科高等学校には学力による細かな序列化が形成された。志望生徒が学力に見合って高等学校を志願するため、少数の学力上位校と少数の学力下位校が生じた。これらの高等学校の通学区は広域なものとなる。そこで、この広域な通学部分を崩すことに注目する。それには、高等学校自身による「学区づくり」というアクションが効果的である。居住地までの距離2km以下の退学者率が15%と最も低いことから、この部分は沼南高柳高等学校が「おらが町の学校」というような地域的な意識がある範囲と考えられる。地域からより多くの生徒が通学してくるような学校にすることが学校改善のための重要な方策となる。これは、沼南高柳高等学校の学校改善のビジョンである「地域に密着した学校づくり」の意思決定への重要な背景となった。生徒募集のため教員の中学校訪問は10km以内の中学校を目安とした。近接中学校には管理職が訪問し連携を模索した。地域から「開かれた学校委員会」「ミニ集会」「沼南高柳高等学校応援団」、本校から「芸術演奏会・展覧会」「通学路清掃」「近隣中学校との部活動交流」など相互関係の構築をはかり、地域との密着感をより一層強めていった。
著者
池田 真利子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100198, 2015 (Released:2015-04-13)

分断都市としての歴史を経験した都市ベルリンは,東西で異なる変化を遂げてきた.とくに政治転換期以降,旧東ベルリンインナーシティ地区では,文化的占拠やテンポラリーユースなど,合法・非合法に関わらず文化・創造的空間利用が顕在化し,ジェントリフィケーションを含む特定街区の改善を促してきたが,こうした改善の過程に関しては都市の在り方と併せ議論が成されてきた(池田 2014).独語圏既存研究においては,特に東ベルリンインナーシティ地区の改善過程が注目されてきたが,「旧東独インナーシティ地区が旧西独インナーシティ地区よりも経済的に豊かとなった」という逆説的状況に代表されるように,東西統一から四半世紀が経過した現在,都市改編は旧西独地域へと及びつつある. したがって,本発表は旧西ベルリンインナーシティ地区のロイター地区を事例に,街区の肯定的イメージが創り出される具体的な過程に注目することにより,ジェントリフィケーションにおいてアーティストが担う役割を明らかにする.研究方法は以下の通りである.まず,2013年および2014年にロイター地区全域の詳細な土地利用を調査し,続いて地区改善事業に取り組む行政および関連事業主体への聞取り調査を行い,地区の変容過程に関する聞き取り調査を行った.さらに,ロイター地区のアーティスト,小売店事業主(商業,サービス業)を対象に経営形態や開設年,立地選択理由等に関する聞取り調査を行った.ノイケルン地区は,旧西ベルリンインナーシティ地区であり,東西統一以降はトルコ系移民をはじめとする外国籍住民が近隣地区より多く流入し,トルコやポーランド,セルビアなどの移民の背景をもつ人々Migrationshintergrundが集住している点,失業率も15.4%と市全体の失業率11.2%に比較して極めて高い点などから,典型的な「問題街区」である.本研究の対象地域はノイケルン地区の最北端に位置するロイター地区である.同地区では,「Cultural Network Neukölln」(1995年~)や「48 hours Neukölln」(1999年~)など,特に1990年半ば以降アーティストによる自発的活動が活発化していった.2003年には連邦政府およびEU地域開発基金(ERDF)を基に地区改善事業が開始され,街区マネージメントが開始された.さらに2005年には民間団体であるテンポラリーユースエージェンシーが同地区に多い空き店舗を活用し,アーティストや都市企業者への期間限定的借用を開始した.ロイター地区は2008年以降,広義における文化施設(アトリエ,カフェ・バー,ブティックなど個人経営の小売店・サービス業)の増加が著しい.旧東西境界線(ベルリンの壁)に近接する地区は,東西分断時には国家の縁辺部として衰退していたが,統一後に地理的中心性を回復した.こうした衰退地域では,交通利便性のほかに,未修復・未改善の建造物に起因する安価な地代などから,東西統一後の1990年代よりアーティストや都市企業家が積極的に移住し,地区のイメージを高めていった. 本研究で明らかとなった知見は以下の通りである.第一に,商業施設の分布に着目した土地利用からは,既存研究で指摘されてきたエスニックマイノリティなどの立ち退きによる置換(上方変動)というより,大通り沿いの商業施設(小売店)はエスニック関連施設,小路には小売店事業主(商業,サービス業)が集積し,より偏在的かつ多面的に変容を遂げていったことがわかる.第二に,ロイター地区の改善過程をみると,アーティストがパイオニア期である1990年代半ば以降転入しており,続いて1990年代末以降,創造産業を含む小売店事業主(商業,サービス業)が同地区へと転入した.こうしたことから,創造階級のなかでも特にアーティストは,他の商業・サービス業などの創造産業と一種異なる役割を果たしていることが,ジェントリフィケーションの時系列的変化より明らかとなった.