著者
菅原 康滉 三浦 勇気 栗林 倫 沼倉 彬雄 加藤 成将 佐藤 和幸 冨澤 武弥 三好 扶 明石 卓也 金 天海
雑誌
第79回全国大会講演論文集
巻号頁・発行日
vol.2017, no.1, pp.615-616, 2017-03-16

力学系学習木は船体,車体,ヒト型ロボットなどに応用されている.従来,力学系学習木の各ノードは平均出力値を保持・更新している.また,出力計算時のノード選択では入力値と最も近いノードを選択している.しかしながら,選択されるノードの平均出力値と更新されるべき真値の間の誤差が大きい場合がある.そこで本研究では,この誤差値を利用した適応的なノード選択を導入することで誤差低減を行う.提案法を小型船舶の軌道データに適用し,従来法よりも真値に近い軌道予測が行えることが分かった.
著者
徳永 誓子 トクナガ セイコ Seiko TOKUNAGA
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2013-03-22

「融通念仏縁起」は融通念仏の創唱者といわれる平安時代の念仏僧良忍の伝記と彼の勧めにより念仏に交衆した人びとの逸話をおさめた絵巻である。正和3年(1314)に制作された縁起原本は確認されていないが、14世紀後半から15世紀にかけて作られたものを中心に、田代尚光氏により30本弱の写本の現存が確認されている。本稿では、現存写本のうち、田代氏の分類でいう古様式形態本9点および新様式形態本2点、計11点の比較検討を通じて、写本転写過程の見直しと縁起原本制作背景の究明を試みた。具体的な考察は以下のように進めた。まず、本稿が正和原本に最も近しいと推察したアメリカ合衆国フリア美術館蔵本について、他写本と相違が大きい二つの段、第15段牛飼童妻難産段と第17段正嘉疫癘段を取りあげ、その内容を検討した。その際、「絵画史料論」を提唱した黒田日出男氏にならい、絵画に描かれた事物に対し詳細な分析を加えた。その結果、該当段のいずれについても、フリア本には詞書を的確に踏まえ、物語世界を重層的に深める図様が描かれていることを指摘した(第一章・第二章)。続いて、前記の二段について対象諸写本の図様を比較検討し、両段ともに、現存写本について次のような転写過程を想定するのが最も適切であるとの結論を得た(第三章)。フリア本――知恩院本――義尚本――根津美術館本――大念仏寺(A)本――聞名寺本――シカゴ・クリーブランド本――家高模本――明徳版本他なお、例外的に上記の転写過程が当てはまらない第18段光明遍照段を対象に、別途、考察を行った。そして、シカゴ・クリーブランド本の位置づけが異なる点を除けば、当該段についても上記仮説を概ね敷衍しうること、当該段のフリア本図には鎌倉幕府将軍庇護下での融通念仏勧進が表現されているとも推測できること、以上の2点を明らかにすることができた(第四章)。ついで、これまでの考察結果に基づき、正和原本の成立背景を追求した。まず、縁起に含まれる逸話のうち正嘉疫癘段のみが時代・舞台ともに他と異なり、そこに特別な意味が読みとられること、また、14世紀後半から15世紀前半にかけて写本の大量制作を進めた勧進僧良鎮が浄土宗鎮西派に近しい人脈に属したこと、この二点を指摘した。それらの点を踏まえ、縁起原本は正嘉疫癘段の舞台与野郷周辺、すなわち関東地方において浄土宗鎮西派周辺の念仏僧によって作られた可能性があると論じた。また、融通念仏をひろめる対象としてその地の土豪・有力農民を想定したからこそ、フリア本に残存する独特の図様が選ばれたと考えた(第五章)。以上の考察を通じて、本稿は「融通念仏縁起」に関し従来とは全く異なる説を呈するにいたった。その要点は以下のようにまとめられる。①現存写本のうち最も正和原本の形態を留めているのは、先行研究が「原本に忠実」な最古本と評価してきたシカゴ・クリーブランド本ではなくフリア本である。シカゴ・クリーブランド本は、古様式形態本の中ではむしろ比較的遅い時期に制作されたと推測できる。②原本が成立した14世紀初頭から15世紀の間に「融通念仏縁起」制作の勧進を担った人びとは、浄土宗鎮西派に近しい存在であり、熟さないながらも一宗派を形成しようという志向を有していた。ただし、彼らの動きは16世紀には断絶し後代に繋がることはなかった。本稿は、1980年代以後に確立した学際的な物語絵研究の視角に学び、従来の仏教史、美術史、日本中世史、民俗の各学問領域における関心の重なりとずれを意識し、それらが見落としてきたものをすくいとることを目指した。その視座によって新たな「融通念仏縁起」像を提示し、これまで看過されていた日本中世信仰世界の一端を明らかにしえたものと考える。
著者
森拓真 宇田隆哉 菊池眞之
雑誌
マルチメディア、分散協調とモバイルシンポジウム2011論文集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.1518-1525, 2011-06-30

近年,ボットプログラムよるWEBサービスのアカウントが自動で大量取得され悪用されることが大きな問題となっている.これを防ぐ手法としてCAPTCHAを導入するのが一般的となっている.CAPTCHAとは,人間と機械を判別するための認証テストである.現在で最も多く利用されている方式は,文字列CAPTCHAであるが,OCR技術の進歩により高い確率で解析されてしまうことがわかっている.また,文字に歪みを加えて読みにくくしたCAPTCHAも提案されているが,ユーザより機械の正解率のほうが高いというジレンマを生み出している.これに対し,本稿では,人間の視覚補完能力であるアモーダル補完を動画に応用することで,人間のみ正解できる実用的なCAPTCHAを提案する.
著者
大須賀 隆子
雑誌
帝京科学大学教職指導研究 : 帝京科学大学教職センター紀要 = Bulletin of Center for Teacher Development, Teikyo University of Science (ISSN:24241253)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.161-167, 2016-03-15

小学3 年から4 年にかけて話し言葉から書き言葉への転換が起こり「保存」や「系列化」の理解が深まってくる.学習内容に抽象的な概念が盛り込まれるようになり,児童によっては,低学年で学習した知識と比較するかたちや具体的に視覚化することによって新しい学習内容を取り込みやすくする「先行オーガナイザー」(Ausubel,1963)が有効になるだろう.「認知カウンセリング」(市川,2004)によって,4つの側面「動機づけ」「メタ認知」「知識構造」「必要知識」からつまずきの原因を探り,学習者が「認知的な学習スキル」を自立的に習得するような支援も望ましい.児童期は仲間の比重が大きくなり,10 歳ころから社会的比較を通して妬みなどのネガティヴな感情が生じる場合がある(澤田,2006)が,「関係性攻撃」行為につながらないように社会的スキルプログラムが必要であり(磯部,2011),日々の教育実践の中で心のパワーと社会性の育成を視野に入れた「開発的・予防的カウンセリング」が求められる(河村,2012).構成的グループエンカウンター(SGE)に継続的に取り組む学級や児童は,受容的で支持的な体験の中で自信や安定感を得,ネガティヴな感情を抱えた児童はSGE 実施の守られた時空間と課題設定の中で感情表出をすることが予測される.ソーシャルスキルトレーニング(SST)プログラムを行った後は,日常の教育活動の中にSST を盛り込む「般化」の機会と,グループアプローチのなかに埋もれがちな児童への個別配慮が求められる(飯田・石隈,2001).
著者
樋口 知志 HIGUCHI Tonoji
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
Artes liberales (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
vol.82, pp.93-115, 2008-06-01

藤原清衡(1056 − 1128)はいわずと知れた奥州藤原氏の初代であり,平泉の地に開府を果たして奥羽両国に覇権を樹立し,80余年続いた絢爛豪華ないわゆる平泉文化の礎を築いた人である. 清衡が出生した天喜四年(1056)という年は前九年合戦(1051 - 62)の最中であり,康平五年(1062)に同合戦が源氏・清原氏連合軍の勝利=安倍氏の「滅亡」というかたちで終結したとき,彼は実父の経清を失っている.その後,奥六郡主安倍頼時の娘である彼の母は清原武則の長子武貞の許に再嫁し︑清衡も母の連れ子としてともに清原氏の人となった.彼はその後清原氏の一員として少年・青年期を過ごすが,永保三年(1083)に勃発した後三年合戦(1083 - 87)では清原氏当主の座にあった異父異母兄の真衡や異父同母弟の家衡︑オジの武衡と戦い合い︑合戦終結後は清原氏嫡系男子としてたった一人生き残った.かくして奥羽の二大戦乱を生きぬいた清衡はその後も弛まぬ歩みを続け,十二世紀初頭頃にはついに平泉開府を果たしたのである. 本稿では,そのような数奇な生い立ちと前半生をもつ彼の人生の軌跡について,文献史料の精確な読み直し作業に立脚しつつ,あらためて根本から再考してみたい.というのは,彼の生涯についてはこれまで諸先学によって数多く論及されてきたものの,巷間に流布している通説的見解にもあるいは史的事実に反する誤謬が少なからず含まれているのではないかと愚考されるからである. 平泉の世界遺産登録のことが頻繁に話題とされ奥州藤原氏に関わる平安末期の文化遺産に熱い視線が注がれている昨今であるが,近年そうした動きとも連動するかたちで,前九年・後三年合戦期や奥州藤原氏の時代に関わる諸遺跡の発掘調査が進められて考古学的知見がいちじるしく増大し︑また歴史学(=文献史学)の側においても『陸奥話記』『奥州後三年記』や『吾妻鏡』といった関連する諸文献の史料批判や読み直しにもとづき基礎的研究の拡充が図られるなど,かなりの研究成果の蓄積がみられた.本稿ではそれら数々の新たな成果を踏まえながら,奥州藤原氏初代清衡の全生涯について,時代の趨勢やその変遷との関連をも重視しつつできるかぎり詳細に論じてみたい. もしも本稿における所論の中に,今後の奥羽の古代・中世史研究や平泉文化研究の発展にいささかなりとも寄与しうるところがあるとすれば,まさに望外の幸いという他ない.
著者
深山 篤 大野 健彦 武川 直樹 澤木 美奈子 萩田 紀博
雑誌
情報処理学会論文誌 (ISSN:18827764)
巻号頁・発行日
vol.43, no.12, pp.3596-3606, 2002-12-15

本論文では,ユーザに伝わる印象を操作するための,擬人化エージェントの視線制御方法を提案する.人の視線と印象に関する従来研究をもとに印象伝達に関連する3種類の視線パラメータを選び,その値に従ってエージェントの視線を出力する視線移動モデルを構築した.これを実際にエージェントに組み込んで主観評価実験を行った結果から,本視線制御方法を用いることによってエージェントの視線のみからユーザが受ける印象を操作できることを示す.
著者
蔡 梅花
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.183-199, 2014

本稿では,形容詞的用法にもアスペクト的用法にもなれる動詞を対象に,「変化の結果継続」の意味に注目し,これらの動詞が共通して持っている特徴を探ることを目的とする。対象にした動詞を「非典型的な形容詞的動詞」と名付け,〈主体動作・客体変化動詞〉〈主体変化動詞〉〈主体動作動詞〉に分類した。それから,〈主体動作・客体変化動詞〉の考察を通して立てられた「形容詞的用法になりうる動詞は,主体もしくは客体に結果を残す動詞でなければならない」という仮説が,〈主体変化動詞〉と〈主体動作動詞〉にも当てはまるのかを検証した。結果,次のようなことが明らかになった。1. 〈主体動作・客体変化動詞〉と〈主体変化動詞〉は形容詞的用法になりやすい。これは,主体の変化であれ客体の変化であれ,変化を含意する動詞は,「変化の結果継続」という〈2次的状態〉を表すことができることから,形容詞的用法になりやすいと考えられる。2. 〈主体動作動詞〉は形容詞的用法になりにくいが,「押す」のような結果が主体に認識されやすい形で残る動詞は形容詞的用法になりうる。3. 「非典型的な形容詞的動詞」の形容詞的用法は「タ」形と「テイル」形両形式が使われる。同じ事態を2つの異なる形式で表すことは,主体が客観的事態のどの部分を焦点化して捉えているかという認識が関わってくると考えられる。Several Japanese verbs have both adjectival and aspectual uses. The purpose of the present paper is to identify some properties shared by these verbs, focusing on their remaining results of change. I named these verbs atypical adjectival verbs, and classified them into three types: (I) verbs of subject's action and change in object, (II) verbs of change in subject, and (III) verbs of subject's action. I observed I-verbs, and made a hypothesis on them that each II-verb having an adjectival use must be the one leaving some effect of the action it denotes on its subject or its object. Then I verified my hypothesis by applying it to I- and II-verbs. The result I achieved is the following:1. I- and II-verbs are allowed to be used as adjectives. This is due to the fact that each verb implying “change” is able to express a secondary “state” as the remaining result of change, whether it is effected on its subject or object.2. III-verbs are not readily allowed to be used as adjectives. It should, however, be noticed that verbs such as “osu” (push), the result of whose action remains as recognizable to its subject are allowed as adjectives.3. The adjectival uses of the atypical adjectival verbs are allowed both in ta- and teiru-forms. These two different forms are supposed to depend on which part between subject and object is to be brought in focus.
著者
西牧 正義 NISHIMAKI Masayoshi
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
Artes liberales (ISSN:03854183)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.107-117, 2010-06-25

最高裁判所第3小法廷平成10年2月10日判決以来(金融法務事情1535号64頁,金融商事判例1056号6頁),差押えを禁止された債権1)であっても,これらの差押禁止債権が受給者の預金口座に振り込まれ預金債権となると債務者(差押禁止債権の受給者)の一般財産として債権者による差押えが原則として可能になる。差押禁止債権も預金口座に振り込まれれば,預金債権として区別がつかなくなり,差押禁止債権と他の一般財産としての預金債権とを判別することができないことから,差押禁止債権が預金口座に振り込まれることによって生じる預金債権は,原則として,差押禁止債権としての属性を承継しないということがその理由とされる。
著者
横山 篤夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.11-94, 2003-03-31

本論文は、日本で最初に作られた軍隊の埋葬地、真田山陸軍墓地の沿革と、陸軍廃止後の墓地の変遷を考察したものである。第一章では先ず一八七一年に、陸軍創立の一環として真田山に兵隊埋葬地が設けられた経緯をとりあげて分析した。その際招魂社が同時に設けられたが、西南戦争後の大招魂祭が、真田山から離れた大阪城跡で開催され、以後真田山は墓地として特化した存在となり、墓域も拡大した。しかし日露戦争で予測を越える死者がでるに及んで、従来と同様の墓碑を建てるスペースが不足しはじめた。そこで合葬墓碑が階級別に建立されたものと思われる。さらに大阪市立真田山小学校が真田山陸軍墓地の敷地を一部使って建設された時、その敷地の墓碑移転に留まらず、相当大規模な墓地全体の改葬も行なわれた模様で、これが現在の景観の基本になったものと考える。その後一五年戦争が始まり、戦死者が増加すると個人墓碑ではなく合葬墓碑に一括して納骨されるようになった。そこでは階級別ではなくすべて一基の墓碑にまとめられた。その後忠霊塔を建設する運動がひろがり、真田山陸軍墓地には「仮忠霊堂」が木造で建設されたが、戦局の激化により本格的建設に至らず、そのまま「仮忠霊堂」が現在納骨堂として四万三千余の遺骨を納めている。空襲で被災はしたが、納骨堂は焼失を免れ、戦前の景観が戦後に引き継がれた。第二章では、戦後陸軍省が廃止された後の旧真田山陸軍墓地の祭祀と維持・管理を中心に、なぜ現在迄基本的に戦前の陸軍墓地の景観が保全されてきたのかを分析した。その際祭祀担当団体として組織された財団法人大阪靖国霊場維持会の変遷に注目して考察した。同時にそれとは全く別に戦後すぐに真田山陸軍墓地を舞台に、米軍機搭乗員殺害事件が憲兵隊によって惹きおこされた経過も、先行研究によって紹介した。また一九九五年度から開始された歴博の調査と研究者の呼びかけで始まった保存運動の意味にも論及した。