1 0 0 0 哲学概説

著者
樫山欽四郎著
出版者
創文社
巻号頁・発行日
1964

1 0 0 0 哲学叙説

著者
樫山欽四郎著
出版者
世界書院
巻号頁・発行日
1953
著者
齋藤 宜之
出版者
中央大学文学部
雑誌
文学部紀要 哲学 (ISSN:05296803)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.185-210, 2015-02-25
著者
伊野 連 Ren INO
出版者
埼玉学園大学
雑誌
埼玉学園大学紀要. 人間学部篇 = Bulletin of Saitama Gakuen University. Faculty of Humanities (ISSN:13470515)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.15-28, 2020-12-01

ハイゼンベルクは、弟子フォン・ヴァイツゼッカーらと、様々な哲学的議論をおこなっている。晩年の対話篇的著書『部分と全体』(1969)から、プラトンおよびカントについての興味深い討論を検証してみる。
著者
千葉 恵
出版者
北海道大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1992

アリストテレスの哲学的思索の宝庫である生物学をめぐる近年の争点は目的因の存在論的身分である。或る人々は有機体の存在は質料因と始動因だけでは十分に説明できないと考え、他の人々はその本質の定義は目的因なしには不可能であるが、この両因による有機体の存在の十分な説明は可能であるとする。因果性(実在)と説明(言語)の関係をめぐるこの因難な問題接近の一基地を見定めたい。自然は複雑な構造を有し規則的で美しく無駄のない秩序を示す。人が人を生む複製機構の絶妙さこそ「最も自然なこと」であり、この自律的に形態発生する生物の秩序性の帰一的第一根拠が「実現さるべきもの」なる目的因である。目的は反省概念ではなく、理(設計図)の次元で資料に比と限界を与へ条件的に必然な質料を規定し(「理にも必然性はある」200b4)、時空特定可能な物理的次元で質料の自然的運動を引き起こす自然的原因である。熱冷等物理的必然運動なる自然学者の「自然的にある」は、理により形相づけられた質料の必然運動として、行為モデルに比され、解し直される。それ故質料の端的必然性は条件的必然性に「還元され」も「包摂され」(J.Cooper等)もせず、理上指定された質料が時空次元で一質料として独立した「自然的にある」必然運動を為すので、両者は同一事物の二次元の必然性である。(Phii8,9,PAil,De Anii4,GAiil,v8)生物の複製機構を範例とする「何故かくも自然は秩序正しいのか」という何故疑問に対する解が四原因論である。原因は実体の力の能動的・受動的発現と解される。始動因は場所上連続的な力の変動を生む物理的原因である。他方理にある善なる目的因は生成の完成状態なる形相因でもあり、受動的質料とそれに合着した始動因に秩序と方向性を賦与するその第一能動因、本質である。かくして目的因は質料・始動因と存在論的次元を異にしにそれらに還元されない。かく自然の帰一構造は原因論のそれとなる。(Phii3,7,Metv4)
著者
中澤 務
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.166-175, 1994-04
著者
野村 亮太 石田 聖子 福島 裕人 森田 亜矢子 松阪 崇久 白井 真理子
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究 (ISSN:21894132)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.111-114, 2022 (Released:2023-02-27)

笑いに関する研究は世界中でおこなわれています。本欄では、英語で発表された笑い学の最近の研究成果を紹介しています。笑いに関する研究は、医学、心理学、社会学、哲学、文学、言語学、動物行動学など、多様な学問領域の専門雑誌に掲載されています。幅広い分野で展開されている世界の研究動向について共有することで、国内での笑い学の研究がさらに発展することにつながればと考えています。 本号では計6本の研究論文についての紹介記事を掲載することになりました。記事の執筆には、6名の研究者にご協力いただきました。どうもありがとうございました。
著者
野口 鐵郎
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学人文紀要. 第一類, 哲学・社会科学 (ISSN:05135621)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.10-28, 1968-12-20

The religious societies that will be dealt here, are the secret religious societies, for instance, Po-lien-chiao 白蓮教. It would have been thought that the religious societies were generally rich. It was because the majority of the leaders of societies were belonged to the upper class of their villege. But, when a host of farmers, who were driven to extreme poverty, joined the societies in order to reform the world, they needed to take some sorts of economical activities, e.g. introducing new various means of living. This was needed both for the continuetion the societies and for the happiness of their members, shown in their propaganda. The most fundamental one among the activities, was to force the members to make an offertory. But when a lot of poor men were accepted by the societies, they conld not make their living only by offertory. Althou the societies sometimes defrauded the rich class, in the village where they dwelled, of their property, the societies had to take a lawfull means, for the societies had been accused of their means of defrauding by the authorities. The means they took was trade, handcraft, and clearing the land. Though something of these activities were done in unlawfnll means e.g. secret trading, it would have been thought that these activities engaged in by the major part of societies, as a means to form the funds. This paper concentrated on the above mentioned matters about the Ming period, according to rare materials. It should be noted that the materials illustrated some kinds of activities, taken only on the frontier, and that others on the interior. Thus the materials on the trading were found in the frontier, but not in the interior. What does these diffrences mean in the period when land owning and development of the merchandise were growing?. That is a subject that is left unsolved.
著者
西原 文乃 川島 俊之
出版者
経営哲学学会
雑誌
経営哲学 (ISSN:18843476)
巻号頁・発行日
vol.19, no.1, pp.2-18, 2022-08-31 (Released:2022-10-03)
参考文献数
27

昨今の経営において、株主資本主義や利益第一主義を脱した新たな資本主義を模索する動きがある。他方で、企業のパーパス(存在意義)を問う動きもある。こうした動きは企業も社会の一員として共通善や公共善を目指す存在への転換であると言える。しかし、このような経営における善の内実は、対象の捉え方によって変わる。今日の経営の対象はあくまで人間であり、個人としての人間だけでなく組織や企業などの人間が形成する共同体を含むが、それらは人間中心という独善になってしまう可能性を孕む。こうした問題意識に立ち、本稿は、数ある経営理論の中でも哲学を基盤に置き、善を起点とする知識創造理論において、その対象が「我々」人間に限定されているという見地に立ち、それを「他者」へと拡張する可能性を示す。本稿第2項の知識創造理論の検討では、同理論が哲学における知を概観し、西田やハイデガーを参照するが、「他者」を考慮していないことを明らかにする。第3項の斎藤の哲学では、ハイデガーが「他者」を論じていることを明らかにする。第4項の西田と仏教では、西田と仏教(臨済宗、浄土真宗、真言宗)が「他者」と深く関わることを具体例も交えて論証する。こうした考察から、想定し得ない「他者」を知識創造理論に明示的に取り入れることにより、知の生態系という「我々のため」の善に留まらず、新たな可能性へと開かれると結論する。また、政治や経営において、「我々」が「他者へ」の次元を視野に入れることで行動や思考の変容を起こし、「他者へ」の次元を護ることを提案する。この論考を通じて、時空間を超えて想定し得ないものについての想像と畏敬の念を持って善を追求し、「他者へ」の次元から政治哲学や経営哲学を語り、実践する人々が増えることを期待したい。
著者
淵田 仁
出版者
一橋大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2011

平成24年度の中心課題は、ジャン=ジャック・ルソーにおける哲学的方法論の解明および18世紀フランス啓蒙思想期における経験主義哲学研究であった。まず、『化学教程』においてルソーが着想を得た世界観が後の思想展開にどのように関係しているかを『サヴォワ助任司祭の信仰告白』(『エミール』第四巻所収)を用いて検討した。その結果、『化学教程』で得られたエピステモロジーが『人間不平等起源論』『エミール』といった作品に息づいており、唯物論者ドルバックとの決裂も個人間の問題からというよりも、エピステモロジーの違いに基づいていたということが明らかとなった。コンディヤックやドルバック、ビュフォンらの間で共有されていた啓蒙思想におけるプログレマティークとは別の次元の問いをルソーが提起していたということが明らかとなった。この点に関しては、ブリュッセル自由大学の18世紀研究所が発行している論集『Etudess sur le 18^e siecle』のルソー生誕300周年記念号に論文を掲載した。以上の問題から、ルソーの哲学的方法論について研究をおこなった。諸自然科学や新興の学問を総動員してルソーは自らの哲学・政治思想を構想した。そのとき、ルソーは〈方法論〉に重きをおいて自らの思索を深めていったと考えられる。この問題に関しては、日本でおこなわれたルソー生誕300年記念国際シンポジウムにて発表した。