著者
郭 進
雑誌
摂南経済研究 = Setsunan Economic Review (ISSN:21857423)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1・2, pp.1-13, 2020-03

本研究では、プロ野球観戦者がダイナミック・プライシング(Dynamic Pricing) で購入したチケットの満足度に与える要因について、アンケート調査のデータに基づいた実証分析を行った。分析の結果から、次のことが明らかになった。第一に、全サンプルの分析では、年間観戦回数、ファンクラブの加入、チケットの購入価格と購入時期、現行の料金システムに対する満足度、価格変動のチェックがダイナミック・プライシングに対する満足度に影響していることが判明された。第二に、自由席サンプルの分析では、ダイナミック・プライシングの仕組みに対する理解度が高い観戦者は同仕組みに対する満足度が低い傾向が確認された。第三に、指定席サンプルの分析では、チケット価格の変動をチェックした観戦者がダイナミック・プライシングへの満足度がより高いという特徴が検証された。今後、ダイナミック・プライシングの本格導入にあたっては、チケットの販売側がチケットの購入側の満足度を高めるような価格戦略を練り上げる必要がある。
著者
溝口 紀子 Noriko Mizoguchi
雑誌
日本女子体育大学紀要 (ISSN:02850095)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.27-35, 2021-03

On January 29, 2013, 15 leading female judokas complained that coaching personnel including the national coach of the women’s team had perpetrated violence and power harassment on them. The case attracted substantial public attention. Subsequent revelations also encompassed issues such as financial scandals and indecent conduct involving the federation’s officials. MUNEOKA Shoji was then appointed the new President of the All Japan Judo Federation at the end of August 2013, and he began the reorganization of the federation immediately upon taking charge.The white-striped Judo black belt symbolizes the disrespect directed at Japanese women Judo athletes. Foreign female Judo players wear ordinary black belts ; however, their Japanese counterparts are compelled to wear black belts with a white stripe. Grading regulations are identical for men and women in other Japanese martial arts such as kendo or karate, and women are awarded ordinary black belts just as men. This paper elucidates the fundamental values of Judo, investigates why Kano Jigoro instituted the white-striped belt for women and probes the historical and social contexts that led to the establishment of women’s Judo.
著者
山村 奨
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.111-130, 2021-03-31

近代日本において「人格」という言葉にどのような意味が与えられたのかという点と、その影響について論じる。まず1912 年に出版された『英独仏和字彙』において、Personificationという言葉に「人格化」という訳語があてられたことに対して、この言葉にどのような意味が想定されていたのかを考察する。その際、特に『英独仏和字彙』の編者である井上哲次郎と中島力造の主張を参照する。「人格化」は一般的に、「擬人化」と同様の意味で用いられている。しかし、中島の考える人格は、人間に元来ある「人格になる萌芽」、種のようなものであり、育てていくべきものである。さらに中島は、人格を自ら変化させ、よりよい状態にしていくことを主張する。中島にとって人格は道徳的な意味を含んでおり、向上させていくものである。それは井上にとっても同様であり、この点から、井上と中島らがあてた「人格化」の訳語には、よりよい状態への変化の意味があると考えられる。 中島は人格の向上のために修養を求めたが、続いて、近代日本における修養の考え方について、陽明学との関連で考察した。明治期には時代的な影響から、陽明学による精神修養を国家主義に援用する向きもあり、本論文では吉本襄や東敬治を紹介した。それに対して亘理章三郎は、陽明学によって「人格修養上の教訓」を得ようとしている点が、特徴的である。亘理には、中島や井上が人格に道徳的な意味を持たせて、その向上を求めた人格観と共通の要素がある。 最後に、安岡正篤の陽明学観を取り上げた。安岡は『王陽明研究』の中で「人格」を重視する姿勢を見せる。それを井上哲次郎の影響とする研究もあるが、本論文では安岡が特に参考文献として書名を挙げている高瀬武次郎や亘理章三郎の影響について言及した。安岡は近代日本の学術をまっとうに吸収し、陽明学が内面の修養に援用できることを主張していた。
著者
植松 康祐 高橋 泰代 ウエマツ コウユウ タカハシ ヤスヨ Koyu Uematsu Takahashi Yasuyo
雑誌
国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要 = OIU journal of international studies
巻号頁・発行日
vol.30, no.3, pp.1-12, 2017-03-31

The mass media and people related to education have argued about the results of the Japanese national survey of academic performance which the Ministry of Education, Culture, Sports, Science, and Technology administered; paying attention to the low scores in Osaka prefecture. This paper, does not discuss countermeasures by prefectures, but analyzes the available quantitative data. By using multi regression analysis when letting academic performance be an objective variable, we find some effective explanatory variables. Also by factor analysis with factor loading amount, we can clarify the position of each prefecture and reveal the factors that affect the scores of students. We believe that this research can enable our compulsory education system to achieve higher scores in future.
著者
重村 博美
出版者
近畿大学短期大学部
雑誌
近畿大学短大論集 = The Bulletin of The Junior College of Kinki University (ISSN:03867048)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.23-42, 2015-12-01

[抄録]本稿は, 近時の家族をめぐる裁判所の立法事実を用いた判断手法について, なぜそのような判断枠組みを用いたのか. それについて家族法ならびに憲法などの法の制定過程, そして裁判所の違憲審査に対する姿勢などから検討する. 家族のあり方をめぐる問題の根底には, 明治期に民法や戸籍法によって制度化された「家制度」がある. 家制度自体は, 個人の尊厳や両性の平等を規定した日本国憲法の制定により, 廃止されたものの, 今なお, 法や人々の意識の上で, 様々な影響を及ぼす. そしてそれが立法事実という裁判所の判断手法を通じて, 裁判の行方をも左右する. 多様な家族形態が, 法的判断を困難にするという状況はあるが, 本稿では, 世論などに基づく判断をなすべきではなく, 憲法学的な観点からアプローチに基づいた検討の必要性を説いた. [Abstract] This paper aims to examine why a certain decision-making framework is used consisting of decision-making techniques that employ legislative acts from courthouses over families in recent years. The study investigates the process of how family laws(laws governing the rights within families)and constitutional laws have been enacted as well as the attitudes of courts towards unconstitutional investigations. The background underlying the problem over what the family ought to be is "the semi-feudal institution of the family system"., which was instituted by civil law and the Family Registration Law during the Meiji era. The family system in itself was abolished with the enactment of the Constitution of Japan which stipulates individual dignity as well as equality between both sexes. Despite this, it still has various effects on laws and the minds of people In addition, it may control trials through the decision-making techniques of the court, which are called legislative facts. Diverse types of families make legal decisions difficult these days. However, this paper reasons that it is necessary to perform investigations based on approaches from a constitutional perspective, not on public opinion.
著者
高橋 遼平 タカハシ リョウヘイ Ryohei TAKAHASHI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2012-09-28

現在の琉球列島の食文化に家畜ブタは必要不可欠な存在だが、その起源は不明瞭である。文献史実では琉球列島への最古の家畜ブタ導入は14世紀頃とされ、それ以前は琉球列島に固有の野生イノシシであるリュウキュウイノシシが狩猟されていたと考えられてきた。しかし近年では琉球列島や周辺地域を対象とした考古学・動物考古学研究から、12世紀以前の先史時代にイノシシ・もしくは家畜ブタ(以下Sus属と省略)が外部諸地域から導入されていた可能性が指摘されている。本論文では先史時代の琉球列島へ外部地域からSus属が導入された時期や地域・経路を解明するため、琉球列島の現生及び先史時代遺跡から出土したSus属の歯や骨を用いて形態解析とancient DNA (aDNA) 解析を行った。本論文は全6章から構成される。第1章では家畜ブタや様々な家畜動物の起源や拡散に関する動物考古学研究や分子系統学研究を概観した。また本章では琉球列島の形成史や先史時代文化に関する研究も概観した。第2章には解析に使用した遺跡資料と現生資料、そして解析手法を記載した。琉球列島は地質学・考古学的に北部圏、中部圏、南部圏の3つに区分される。本論文ではこれらのうち中部圏と南部圏の先史時代遺跡から出土した資料を解析した。さらに本論文では現生リュウキュウイノシシの遺伝的変異の程度を確認するため、現生個体のmtDNA D-loop領域を解析した。第3章では沖縄本島の野国貝塚群(約7200 - 4400年前)を含む中部圏の遺跡から出土したSus属の歯や骨を用いて形態・aDNA解析を行った。野国貝塚群から出土した下顎第三臼歯 (M3) の計測値を現生リュウキュウイノシシや沖縄諸島の他の遺跡資料(約4800 - 1400年前)と比較した結果、野国貝塚群から出土したSus属のM3のサイズ分布は、現生リュウキュウイノシシや他の遺跡資料とは異なり小さい事が判明した。また野国貝塚群から出土した下顎骨から得られたmtDNA D-loop領域の塩基配列情報をデータベースから取得した世界のSus属と比較した結果、野国貝塚群から現生リュウキュウイノシシと遺伝的に異なる系統に属するSus属の配列タイプを検出した。第4章では琉球列島南部圏に属する石垣島の大田原遺跡(約4100 - 3800年前)と神田貝塚(約1600 - 900年前)、宮古島のアラフ遺跡(約2800 - 800年前)と長墓遺跡(約1900 - 1400年前)から出土したSus属の骨を用いてaDNA解析を実施した。この結果石垣島の遺跡から出土したSus属は全て現生リュウキュウイノシシと遺伝的に近縁であった。一方宮古島のアラフ遺跡と長墓遺跡からは、現生リュウキュウイノシシと遺伝的に異なる系統に属する個体が検出された。第5章では現生リュウキュウイノシシの遺伝的変異の程度を検討した。リュウキュウイノシシの生息する全7島のうち6島由来の113個体を用いたmtDNA解析の結果、これらは全て遺伝的に近縁であり、他のアジアのSus属系統と近縁な配列タイプは現生集団から検出されなかった。第6章では研究結果をまとめ、先史時代の琉球列島を舞台としたSus属の導入について考察した。琉球列島中部圏では約7200 - 4400年前、南部圏でも約2000年前に琉球列島の野生イノシシであるリュウキュウイノシシとは形態・遺伝的に異なる特徴を持つSus属が存在した事が判明した。この結果から1) 先史時代の琉球列島には遺伝的に異なる野生イノシシが複数系統存在した、2) 先史時代の琉球列島へ人類が近隣地域からSus属を導入していた、という2仮説が考えられた。しかし仮説1で示すように先史時代の琉球列島に複数の野生イノシシ系統が混在していた場合、a) 現在は生息地域ごとに異なるイノシシ系統が生き残っている可能性が高いが、113個体の現生リュウキュウイノシシを解析しても遺伝的に異なる系統は確認されなかった。b) また複数のイノシシ系統は、アジア大陸と琉球列島が地続きであった可能性のある約8万年前より古い時期に渡来し、遺跡が形成された時期まで多型を維持していた事になる。しかしシミュレーションによる推定の結果、複数のイノシシ系統がどちらか1系統に固定する事なく約7万5000年間維持される確率は低い(1%以下)。従って本研究では琉球列島にかつて複数系統の野生イノシシがいたという仮説1は支持されなかった。以上の結果から本研究では、先史時代の琉球列島やその周辺地域でSus属を伴う人類の移動が生じていたという仮説2が支持された。野国貝塚群が属する琉球列島中部圏とアラフ遺跡や長墓遺跡が属する南部圏の間では物質文化交流が12世紀頃まで生じていなかったとされるため、中部圏と南部圏では異なるSus属の導入経路があったと考えられる。先史時代の琉球列島中部圏は考古学的に九州との交流が指摘されている。しかし野国貝塚群から出土したSus属は、九州等のニホンイノシシやアジア大陸の野生イノシシよりも小さいM3を持つうえ、リュウキュウイノシシよりもさらに小型であるため、これらの地域の野生イノシシが直接導入されたとは考えにくい。野国貝塚群のSus属は、家畜化の影響を受けて M3が矮小化していた可能性も考えられる。アラフ遺跡や長墓遺跡が属する琉球列島南部圏の先史時代文化は、フィリピンやミクロネシア等を含む海外諸地域に影響されていた可能性がある。島嶼部東南アジアやオセアニアでは、約3300年前以降に人類が家畜ブタを伴って移動や交流をしていた事が知られているため、琉球列島南部圏のSus属の導入はこれらの先史時代人類の移動や交流による可能性も考えられる。 本論文では先史時代の琉球列島に複数のSus属の導入経路が存在した可能性を示した。また本研究成果は先史時代の東アジアや東南アジア、オセアニアにおけるSus属を伴う人類の移動や交流に琉球列島が含まれていた可能性をも示している。 Although domestic pigs play an important role in traditional food resources in the Ryukyu Islands, southern Japan, the origin of domestic pigs in the Ryukyu Islands is not clear yet. From historical evidence, the oldest date for the introduction of domestic pigs to the Ryukyu Islands was in the 14th century AD. It has been believed that there were no domestic pigs in Ryukyu before this introduction (earlier than 14th century AD), rather people hunted Ryukyu wild boar, one of the subspecies of wild boar that inhabits the Ryukyu Islands. Recent archaeological and zooarchaeological studies in the Ryukyu Islands and surrounding areas, however, suggest that there is a possibility that wild boar or domestic pigs (Sus) may have been introduced to the Ryukyu Islands in the prehistoric times, which is earlier than the 12th century AD according to archaeological chronology. In this thesis, I analyzed tooth samples and ancient DNA (aDNA) derived from bone of Sus excavated from prehistoric sites in the Ryukyu Islands as well as the modern Ryukyu wild boar samples, and investigated morphologically and molecular phylogenetically whether external introduction of Sus into the Ryukyu Islands took place during prehistoric times.This thesis consists of six chapters.Chapter one describes previous archaeological and molecular phylogenetic studies concerning the origin and dispersal over the world of various domestic animals including domestic pigs. In this chapter, I also reviewed previous studies on the formation of the Ryukyu Islands as well as prehistoric culture of the Ryukyu.Chapter two describes archaeological and modern samples, and methods of analyses used in this thesis. Based on geological and archaeological knowledge, the Ryukyu Islands can be divided into three cultural regions, North, Central, and South regions. Of these three cultural regions, for the following analyses, I used archaeological samples from prehistoric sites in Central and South cultural regions. Furthermore, nucleotide sequences of mtDNA D-loop region of modern Ryukyu wild boar were determined to investigate the extent of genetic variation among present population of Ryukyu wild boar.In Chapter three, I analyzed morphological and molecular phylogenetic characteristics of Sus tooth samples and aDNA from bones excavated from the sites in Central region, including Noguni shell middens (ca.7200 - 4400 years ago) on Okinawa main Island. Measurements of lower third molars from Noguni shell middens were compared with those of Sus remains from later sites in the Okinawa Islands (ca.4800 - 1400 years ago) as well as modern Ryukyu wild boar. Based on measurements of lower third molars, Sus samples from the Noguni shell middens were distinctly smaller than those from modern Ryukyu wild boar and other ancient sites in the Okinawa Islands. In addition to morphological analysis, nucleotide sequences of ancient mtDNA D-loop region from mandibles of the Noguni shell middens were compared with those of Sus in other parts of the world collected from a database. Phylogenetic analysis using aDNA sequence types showed that some sequence types from the Noguni shell middens made a different cluster from modern Ryukyu wild boar, suggesting a presence of the different genetic Sus lineage from modern Ryukyu wild boar at that time.In Chapter four, aDNA analysis was carried out by using Sus bone samples excavated from Ohtabaru site (ca.4100 - 3800 years ago) and Kanda shell midden (ca.1600 - 900 years ago) in Ishigaki Island, Arafu site (ca.2800 - 800 years ago) and Nagabaka site (ca.1900 - 1400 years ago) in Miyako Island, which belonged to South cultural region. All aDNA sequence types from prehistoric sites in Ishigaki Island were genetically close or identical to those of modern Ryukyu wild boar. However, sequence types from Arafu site and Nagabaka site were in different lineages from modern Ryukyu wild boar but had rather close relationship to other Asian Sus lineages: the similar situation was observed as in Noguni samples.In Chapter five, I investigated the extent of genetic variation among present population of Ryukyu wild boar to find out whether the different lineage detected from ancient samples still exist among the present populations. Ryukyu wild boar inhabits seven islands in the Ryukyu Islands. Phylogenetic studies based on the mtDNA analysis of 113 Individuals from six of the seven islands show all individuals are genetically close to each other, and no sequence type is either identical or similar to other Asian Sus lineages. Chapter six discusses the possibility of the external introduction of Sus into the prehistoric Ryukyu Islands. In the present study, some Sus samples from prehistoric sites in the Central (ca.7200 - 800 years ago) and South cultural regions (ca.2000 years ago) had different morphological / genetic characteristics from modern Ryukyu wild boar. Concerning the origin of these Sus population from the prehistoric sites in Ryukyu, I propose two possible hypotheses: first, there were at least two genetic lineages of wild boar inhabited the prehistoric Ryukyu Islands; second, introduction of Sus to the Ryukyu Islands by human took place during prehistoric times. I distinguish these hypotheses as follows.In the case of former hypothesis, a) It is very likely that some surviving population has different genetic characteristic from those of other habitats (islands). However, multiple lineages of wild boar were not found in 113 individuals from present populations. b) Furthermore, if multiple lineages of wild boar really existed in the prehistoric Ryukyu Islands, they must have migrated from Asian Continent to Ryukyu at the time when land bridge connected these regions, which is earlier than 80,000 years ago. Based on estimation using simulation, probability for coexistence of multiple Sus lineages for the period of 75,000 years was calculated and it reveals to be lower than 1%. These results indicate that it is unlikely that multiple lineages of wild boar coexisted in the prehistoric Ryukyu Islands. Thus, the latter hypothesis that prehistoric introduction of Sus into the Ryukyu Islands by human was supported by my study. It has been suggested that the South cultural region had no archaeological links with North and Central regions until historic time, ca. 12th century AD. This archaeological evidence infers a possibility of more than one introduction pathways of Sus from outside of the Ryukyu directly to the Central or South Cultural regions during prehistoric times. In the case of Noguni shell middens, some cultural factors of prehistoric Central regions were considered to be related to Jomon culture in Kyushu. This archaeological evidence suggests that Sus population was introduced from main land Japan or from the Asian Continent via Kyushu region. In this case the transported Sus cannot be hunted wild boar because the size of wild boar in both mainland Japan and Asian Continent is much larger than those of Noguni shell middens. There is a possibility that lower third molars of Sus from Noguni shell middens were reduced in size as the consequence of domestication. In contrast, prehistoric culture of South cultural region including Arafu and Nagabaka sites were considered to be related to those of Island Southeast Asia such as the Philippines as well as Micronesia. Since it is revealed that prehistoric human dispersal and peopling in Island Southeast Asia and Oceania was accompanied by domestic pigs and other animals, introduction of Sus population to South cultural region of Ryukyu might be involved in such prehistoric interaction of humans. In this thesis I conclude multiple pathways of Sus introduction to the Ryukyu Islands existed during prehistoric times. Furthermore, present study indicates the possibility that cultural interaction and movement of prehistoric human took place between the Ryukyu Islands and surrounding areas, accompanied by Sus.
著者
北野 雄士 キタノ ユウジ Yuji KITANO
雑誌
大阪産業大学人間環境論集
巻号頁・発行日
vol.7, pp.43-65, 2008-06

The Mito Ideology became the theoretical ground of "Revere the Emperor, Expel the Barbarian Movement" in the late Tokugawa Period. The samurai class at that time was influenced by the political reforms of the Mito domain carried out by Tokugawa Nariaki, the ninth Mito Lord (daimyo), and by the late Mito Ideology of Aizawa Seishisai and Fujita Toko. Minamoto Ryoen classified the acceptance of the Mito Ideology by the samurai class of those days into three types. He cited Yokoi Shonan, a samurai of the Higo domain, as the model of its third type : the type, which accepted its royal statesmanship of economizing and the principle of basing a country's economy on agriculture, but after recognizing its limitations changed into the view of mercantilism and the opening of Japan to the world. According to Minamoto, Yokoi was in his younger age influenced by the late Mito Ideology, especially its policy of economizing and regarding agriculture as important, and later by its view of the elimination of foreigners. However since 1855 he began to vigorously criticize the political activities of Tokugawa Nariaki and the late Mito Ideology. However we still cannot clearly explain the influence of the Mito Ideology on Yokoi, because we do not fully understand its influence especially in his younger age. Therefore, in this paper I have tried to analyze its influence throughout his life. As a result, it proved that Yokoi's radical standpoint of royal statesmanship of benevolence in his younger age had been even in those days different from that of the late Mito Ideology, which had a cautious sentiment toward the people, though it formally adopted the royal statesmanship, and that on the other hand, the samurai in the Mito Domain had been important to Yokoi as his political allies untill 1855.
著者
三輪 宏
出版者
東京海洋大学水圏環境教育学研究室
雑誌
水圏環境教育研究誌 (ISSN:21882851)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.35-44, 2012-09-15

日本の釣り人口は2009年のレジャー白書によると2008年で1120万人といわれている。その釣り人が使うオモリは鉛製であり大量の鉛製オモリが釣りの現場で使用され,失われているものも多い。しかし,失われた鉛製オモリの多くは回収される事なく海底に放置されている。レクリエーションである釣りによって水圏中に多量に放置された鉛製オモリは,生態系に影響を与える可能性が高い。鉛の毒性は非常に強く,鉛の摂取による急性鉛中毒は脳疾患となって現れ,また,非常に微量でも連続して摂取すると中枢神経などに慢性中毒をおこす事が明らかとなっている。そのため,大気中や土壌における鉛の排出や移動に関しては世界的に厳しい規制が定められている。しかしながら,我が国においてはこうした毒性の強い鉛に対する認識が不足しており,鉛の知識や理解を含めた水圏環境リテラシーを高めるための水圏環境教育プログラムの開発が急がれる。
著者
GERHART Karen M.
出版者
International Research Center for Japanese Studies
雑誌
Japan review : Journal of the International Research Center for Japanese Studies (ISSN:09150986)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.3-24, 2017

Uesugi Kiyoko (1270–1342) was the mother of the founder of the Ashikaga shogunate, Takauji (1305–1358), and his brother and chief administrator, Tadayoshi (1306–1352). Although Kiyoko lived within the vortex of a new political order that was being formed by her politically important sons in the early decades of the fourteenth century, little is known about her. Hers is a story not easily told: because information about her is so fragmentary, no monograph or even a single article in English or Japanese has been published about her life. In this essay, I seek to reconstruct the life of Uesugi Kiyoko through an examination of written records by contemporary diarists, personal letters, and poetry written by Kiyoko herself, and a number of physical sites relating to her life. The result is a nuanced picture of an educated woman who wrote letters and poetry, wielded significant land stipends in her own interests, and helped her two sons work together for political gain.