16 0 0 0 OA 〔江戸切絵図〕

著者
景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編
出版者
尾張屋清七
巻号頁・発行日
vol.今戸箕輪浅草絵図, 1849
著者
宮永 孝
出版者
法政大学
雑誌
社会志林 (ISSN:13445952)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.118-182, 2000-12
著者
柳原 良江
出版者
実践女子学園
雑誌
下田歌子研究所年報 女性と文化 = Women and Culture - The Annual Bulletin of the Shimoda Utako Institute
巻号頁・発行日
vol.2, pp.34-51, 2016-03-10

Since the creation of conducting modern surrogacy in the U.S. in 1976 the method has been criticized as baby selling and making use of women as a tool. On the other hand, the supporters of conducting surrogacy regard it as a fruit of scientific technology, and considered any problemsresulting from it as negligible factors. Similarly, the supporting opinions constructed logics which use a concept of “women’s reproductive rights”. These words mainly connote the “right to privacy” as an underlining idea of abortion rights in the U.S., and “reproductive health/rights” advocated at the International Conference on Population and Development in Cairo. With these connotations, these concepts were employed to support surrogacy as a basis that women have the right to choose whether or not they conceive by their own will. Contrarily, in Japan, the concept of “women’s reproductive rights” had its meaning stretched to include a right to family formation. This new interpretation was employed as a basis to the support of surrogacy. This broad interpretation was realized by promoting prejudice towards surrogate mothers who were labeled as deviations of regular human beings, and discriminative attitudes toward the surrogate women’s risks of life and health which were also considered less important. Recently, the expansion of understanding from the U. S., relies on the fact that conceiving babies is meaningless; therefore, the support for surrogacy relies on a recognition which is constructed with the use of sex discrimination against women.
著者
河野 和彦
出版者
認知症治療研究会
雑誌
認知症治療研究会会誌 (ISSN:21892806)
巻号頁・発行日
vol.7, no.1, pp.22-31, 2021 (Released:2021-02-15)
参考文献数
11

認知症は,意識が明確なときにも認知機能が病的に低いことで定義されるが,患者の高齢化時代においては,軽度の意識障害をもつ認知症患者が散見される.その場合,最優先に治療されるべきことは意識レベルであることはいうまでもない.そこで,主治医が患者に意識障害があると認識することが重要である.そしてシチコリン注射,抗てんかん薬など的確な治療を施す.

16 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1944年11月10日, 1944-11-10
著者
吉田 司雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.48, no.11, pp.54-68, 1999

菊池寛の『日本競馬読本』は、馬の血統、記録を研究する大切さを語ることで競馬を「ばくち打」の所業と峻別する一方、「情報信ずべし、然も亦信ずべからず」との名言をもって、勝ち負けを不可知的な領域に置いた。『日本競馬読本』刊行と同じ昭和一一年に結成された日本競馬会は、政府の言論統制を受ける形で一六年に機関誌「優駿」を創刊。多くの文学者の言説が競馬の文化的・不可知的側面を補完するようになった時期、中河與一「愛戀無限」や片岡鉄兵「朱と緑」においては、競馬の偶然性が物語の進行を円滑にすすめるための経済的原理として導入されていた。
著者
監谷 信武
出版者
造船協會
雑誌
造船協會會報
巻号頁・発行日
no.33, pp.66-86, 1924
著者
高橋 豪仁
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.53-66, 1994

本研究の目的は、スタジアムにおけるプロ野球の集合的応援には、どのような型が繰り返し行われているかということを儀礼の観点から明らかにすることである。広島東洋カープの応援を事例として、広島市民球場で行われたナイトゲーム9試合を観察し、応援行為に共通して見られる型を見い出し、そこで用いられている応援のリズム・パターンを北沢の理論を援用して象徴=構造論的に検討した。この研究によって次のことが明らかになった。(1) スターティングメンバー発表時の応援、1回表前の選手のコール、攻撃前の三三七拍子や7回攻撃前の風船飛ばし等、ゲームの時間や空間の境界をしるしづけるものとして、応援がなされていた。また得点、出塁、アウトを取る等のゲームの状況に合わせて、一定のパターンで、太鼓や鐘が打たれ、トランペットや笛が吹かれ、メガホンが打ち鳴らされた。応援行為の定式化と反復性が可能となるのは、スポーツの進行そのものが特定のルールによって秩序づけられていることによる。(2) 集合的応援行為において応援団は重要な役割を果たしていた。ライト側応援団、センター側応援団、レフト側応援団は、各選手のヒッティングマーチを互いにタイミングを合わせて演奏した。応援団はフィールドからのゲームの進行状況に関する情報を用いて、観戦者たちの集合力を喚起していた。(3) 応援で用いられるリズムの基本型は、農耕儀礼で用いられる「ビンザサラ」のリズムと同じであった。また、リズムの型は3拍と7拍が核となり、女性のジェンダーを表象し、現世から神々への報告である「打ち鳴らし」の形態をとっていた。このことは、プロ野球の応援において、豊饒を願う農耕儀礼と同じように、自分のチームの勝利をかなえようとして行う、日本の神話的思考に基づく呪術的な行為が表出されているということを示唆しているのかもしれない。
著者
遠藤 英子 那須 浩郎 山田 昌功 國木田 大
出版者
明治大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2016-04-01

黒海北側に位置するウクライナは、ユーラシア農耕拡散の結節点であるが、確実な考古植物資料が限定的である。本研究では種子同定精度が高いレプリカ法を用いて栽培穀物データを蓄積した。成果として、1.新石器時代資料からは栽培穀物は同定されず、定説である6000年紀を遡る農耕開始は再検討が必要な事。2.金石併用時代には西アジア起源のムギ類の栽培が導入されているが、既報告のキビは本調査では同定されず、再検討が必要である事。3.これまで確実なキビの出現期とされてきたUsatovo文化を含めて、金石併用時代末から青銅器時代中期の遺跡でもキビは検出されず、青銅器時代後期に突如キビが出現する、等を明らかとした。

16 0 0 0 OA 川瀬巴水版画集

出版者
渡辺画版店
巻号頁・発行日
vol.1,2, 1935
著者
小山 真人 鵜川 元雄
出版者
日本地球惑星科学連合
雑誌
日本地球惑星科学連合2018年大会
巻号頁・発行日
2018-03-14

1987(昭和62)年8月20日の早朝、富士山頂で震度3の地震が発生し、その後も同月27日まで震度1~2の地震が3回続いた。これらの地震は山頂だけが有感であり、八合目付近の山小屋でも気づいた人はいなかった。遠方の高感度地震計の記録が不明瞭だったことから、山頂直下のごく浅い部分で発生したと考えられている。この地震を契機として山頂に初めて地震計が設置されたが、今日まで同様な地震は観測されていない。日誌などを遡っても例がなく、1933年以降で初めての事件であった(中禮ほか1987火山学会予稿集;神定ほか1988験震時報;鵜川ほか1989防災センター研報)。この地震は同年8月26日の各社の報道で大きく取り上げられ、火山活動との関係が取り沙汰されたが、噴火に結びつきそうな他の現象は起きなかったとされている。 現在の知識に照らすと、この地震の原因としてもっとも考えやすいのは山頂火口の陥没未遂である。過去たびたび噴火を起こした山頂火口下の火道内には空洞があって、重力的に不安定であろう。こうした火口の「栓」をなす岩石の一部が、時おり地下の空洞に崩落し、その際に小地震や火口底の陥没、場合によっては小さな噴火を伴うことが、他の火山で知られている。 裾野市立富士山資料館に展示されている山頂火口の古いジオラマに、「昭和62年8月頃 直径50m 深さ30m 陥没した」との丸い赤紙に書かれたメモが、陥没位置と思われる火口内壁に付されている。この真偽を調べるために、富士山資料館の元学芸員とジオラマを作成した職員(故人)の家族、当時の富士山測候所員、地震を受けて臨時観測に出かけた気象庁職員たちへの聞き取り調査、臨時観測の報告書ならびに測候所の気象観測日誌の確認を、富士山資料館と気象庁火山課の協力を得て実施した。また、地震前後に撮影された写真(気象庁職員、国土地理院、静岡新聞社、筆者撮影)とも照合した。それらの結果を以下に記す。(1)富士山資料館のジオラマ上のメモは、当時の富士山測候所の職員(名前不明)からの伝聞によって資料館職員が付したものらしい。(2)山頂火口内壁の同規模の円形の陥没が、地震後の写真(1988年3月と12月、1990年代)で確認できるが、地震前の写真(1986年9月と11月、1987年4月)にも認められる(1970年代の写真には確認できず)。また、その陥没位置は、ジオラマに表示された場所の近傍ではあるが若干異なる。なお、当時の観測項目中に地変がないため、観測日誌に陥没の記述はない(有感地震のみ欄外に記載)。2001年以降の写真に陥没は認められず、崩落で埋まったらしい。(3)上記陥没の存在は当時の複数の測候所員が認識しており、1982~84年頃の台風による大雨後に陥没したと記憶する職員もいるが、本当に大雨が原因かは不明とのこと。また、1987年地震後は火口内を注視していたが、際立った変化は確認できなかったとの談話もある。なお、地震当時の8月26日に山頂火口内の温度測定を実施した臨時観測の報告書には「特に高温な場所は発見できず、噴気等も全くなかった。また、大きな落石の跡も見当たらなかった」と記され、それに携わった職員の記憶にもない。以上のことから、山頂火口内壁の陥没は、1987年の山頂地震より前の1980年代なかばに発生したと判断できる。しかし、両者の発生時期が近いことから、原因が同一の疑いが残る。また、原因の如何にかかわらず、陥没の発生自体は山頂火口内壁ならびに火口底の不安定さの象徴とみなすべきであろう。現行の富士山の噴火警戒レベルは、レベル上げの際に2を使用せず、1から3に上げることになっている。気象庁によれば、レベル2は火口が特定できる場合に限っており、富士山では事前に火口が特定できないためと理由づけされている。かつて演者の1人は、住民に比べて対策の遅れがちな登山者のためにレベル2の使用を提案したが(小山2014科学)、その後の富士山火山広域避難計画対策編(2015年)ではレベル1を「レベル1(活火山に留意)」と「レベル1(情報収集体制)」の2つに分け、後者を登山者対策に使用することとなった。しかし、具体的な対策としては山小屋組合等への周知や入山規制実施の準備などとされ、登山者の避難や入山規制を義務づけてはいない。しかしながら、レベル2は本当に不要だろうか? 噴火前に火口が特定できる場合は本当にないのか? 地下からマグマが上昇して噴火に至るモデルにとらわれ過ぎていないか? 陥没や噴気の急激な復活など、噴火以外の現象の危険箇所が事前に特定できた場合はどうするのか? 上記の対策では事態の展開が速い場合に登山者の安全が十分確保できないのでは? などの疑問があり、レベル2問題は上記協議会での継続審議事項となっている。