著者
大島 明秀
出版者
関西学院大学日本文学会
雑誌
日本文芸研究 (ISSN:02869136)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.39-63, 2005-06

志筑忠雄訳『鎖国論』は、平田篤胤とそれ以降の国学者に西洋人ケンペル著書である側面が強調された。そして資料としての『鎖国論』の利用方法は、篤胤が『古道大意』や『霊の真柱』において解釈し利用した方法が踏襲されたものであった。すなわち『鎖国論』を西洋人ケンペルによる日本讃美論として読み解き、日本が万国に秀でて優勢であることの根拠の一つとして引用し用いた。
著者
大島 明秀
出版者
関西学院大学
雑誌
日本文藝研究 (ISSN:02869136)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.86-110, 2008-03-10

本稿では、明治二十二年『国民之友』誌上に発表された徳富蘇峰「明治年間の鎖国論」を中心に、明治初期から二十年代に至る「鎖国」観の変遷を追跡した。 斯論において蘇峰は、「鎖国」に否定的な発言をしてはいるが、それは同時代を江戸の継続した時代と捉え、そこに遺り続ける旧弊「鎖国主義の精神」、すなわち西洋の知識・文物に対する排除的(保守的)姿勢への批判であった。そこには外国を敵視したり、侵略したりするような排外的且つ植民地主義的発想は全く不在であった。 従来の研究史では、戦前の「鎖国」研究は「鎖国得失論」であると語られてきたが、かかる蘇峰の議論に代表されるように、明治二十年代前半まで(とりわけ日清戦争以前)は、多様な「鎖国論」(「鎖国得失論」に回収されえない議論)が存在したことが明らかになった。
著者
大島 明秀
出版者
熊本県立大学文学部
雑誌
文彩
巻号頁・発行日
no.6, pp.84-79, 2010-03

学術用語「鎖国祖法」には「鎖国」という言葉が所収されており、そこには「鎖国」をめぐる一連の問題(言説空間)を再生産しかねない構造が確実に存在する。これからの課題として、まずは従来を超えるより適切な実態描写に挑みながら、それと並行して「鎖国祖法」に代わるより適正な表現についても、探究する必要がある。
著者
大島 明秀
出版者
熊本県立大学文学部
雑誌
文彩
巻号頁・発行日
no.10, pp.21-35, 2014-03

馬琴旧蔵の「鎖国論」に焦点を当て、その数奇な運命を辿った。結果、近世後期における志筑忠雄訳「鎖国論」の受容をめぐる興味深い事例となるとともに、当時の「写本」作成の実態を浮かび上がらせることにも繋がった。
著者
大島 明子
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.117, no.7, pp.1219-1252, 2008

In the research to date on government-military relations regarding the Japanese Army, emphasis has been put mainly on the relationship between party cabinets and the military high command. However, during the period between the establishment of a prefectural system to replace Tokugawa period feudal domains and the setting up of an independent general staff office (i.e., during the formation of Japan's modern armed forces), the Army consisted of groups affiliated to the feudal domains, resulting in ambiguity concerning the chain of command. Moreover, in the midst of clear divisions between civilian politicians manning the Cabinet (Sei'in 正院) and military personnel, opinions were divided over how a modern army should be formed; add in the political struggle brewing over the Treasury's jurisdiction over local entities, and there was an eminent danger of the Army disintegrating into smaller factions. Within this situation, the Ministry of the Army was granted broad powers, including control over personnel and military command, and enjoyed relative autonomy from the Cabinet in forming a modern army. However, from 1872-73, during which time the Imperial Guard was reorganized from troops sent by three powerful feudal domains to soldiers from divers regions, a plan was advanced by officers affiliated with Satsuma Domain and Minister of Foreign Affairs Soejima Taneomi 副島種臣 to invade Taiwan, and the Cabinet followed suit with plans of its own to recruit former feudal domain troops to form an expeditionary force. This article interprets these events as a political struggle between the Cabinet and the Ministry of the Army over military authority, and focuses on the participation of the Cabinet's Legislative Bureau (Sa'in 左院) at a time when it was aiming at both the abolition of the feudal status system and constitutional reform. The Legislative Bureau spontaneously cooperated in establishing a military conscription act and approached Tosa Domain with a plan for a "parliamentary body" that would deliberate on military affairs. An examination of this political process makes it possible to reinterpret political-military relations at that time in terms of a triangle involving the Cabinet, the Ministry of the Army and the Legislative Bureau (along with its regional administrators). What ultimately happened was that in June or July of 1873, a group led by councillor (sangi) Itagaki Taisuke of Tosa Domain halted the Legislative Bureau's attempts at constitutional reform by introducing a proposal to invade Korea, which led to political gridlock and the resignation of the invasion supporters in October. This incident should therefore be considered on two levels: constitutional reform vs. centralization of Cabinet power, and the struggle between the Ministry of the Army and the Cabinet over command of the military.
著者
大島 明秀
出版者
熊本県立大学文学部
雑誌
文彩
巻号頁・発行日
no.7, pp.44-52, 2011-03

近代日本を主たる視座として、ケンペルをめぐる多様な読書の在り方を検討した。その結果、近代に生じた新たなケンペル著書の利用法として日本起源論の典拠とされる動きが認められる一方で、近世後期における志筑忠雄訳「鎖国論」の受容状況と同じく、相変わらず日本の優秀性を説く外国文献(典拠)として持ち出されることも確認できた。
著者
大島 明秀
出版者
花書院
雑誌
九州という思想
巻号頁・発行日
pp.2-18, 2007-05-10 (Released:2009-04-22)
著者
中村 正和 増居 志津子 萩本 明子 西尾 素子 阪本 康子 大島 明
出版者
日本健康教育学会
雑誌
日本健康教育学会誌 (ISSN:13402560)
巻号頁・発行日
vol.25, no.3, pp.180-194, 2017-08-31 (Released:2017-09-07)
参考文献数
19

目的:eラーニングを活用した,実践的な知識とスキルの習得を目指した禁煙支援・治療のための指導者トレーニングの有用性を評価し,今後の指導者トレーニングの方向性を検討するための基礎資料を得ることを目的とした.方法:トレーニングプログラムは,禁煙治療版,禁煙治療導入版,禁煙支援版の3種類である.解析対象は2010~13年に学習を修了した1,526名である.プロセス評価のため,学習後,プログラムに対する興味,学習の難易度等について質問した.前後比較デザインを用いて,禁煙支援・治療に関する知識,態度,自信,行動の学習前後の変化を調べた.トレーニングによって修了者間の成績差が縮小するか,格差指標を用いて検討した.結果:プロセス評価において,修了者の評価は概ね良好であった.3プログラムとも知識,態度,自信のほか,行動の一部が有意に改善した.トレーニング前のスコアで3群に分類し変化をみたところ,知識,態度,自信,行動のいずれにおいても,低群での改善が他の群に比べて大きかった.修了者のトレーニング前の各評価指標の格差はトレーニング後,すべての指標において縮小した.結論:実践的な内容を取り入れたeラーニングを活用した指導者トレーニングプログラムを評価した結果,修了者の知識,態度,自信のほか,行動の一部が改善するだけでなく,修了者間の成績差が縮小し,指導者トレーニングとして有用であることが示唆された.
著者
津熊 秀明 井岡 亜希子 大島 明 味木 和喜子
出版者
日本頭頸部癌学会
雑誌
頭頸部癌 (ISSN:13495747)
巻号頁・発行日
vol.32, no.3, pp.292-299, 2006-10-25 (Released:2008-04-30)
参考文献数
10
被引用文献数
4 5

2000年の全国全がん罹患数は男31.0万人,女22.2万人であった。口唇・口腔・咽頭,喉頭,甲状腺の各がん罹患数は,順に男で6,650人,3,250人,1,642人,女で2,825人,209人,6,246人であった。大阪府がん登録に基づき,頭頸部の詳細部位別罹患動向を調べた(1965-99年の5年毎の年平均および2002年)。口唇・口腔・咽頭の罹患数は,この間に男で93人から500人,女で41人から187人に増加した。男の下咽頭,中咽頭の増加が顕著であった。喉頭では罹患数が男で106人から1995-99年に197人に増加したが,その後は減少に転じた。女では26人から16人へと減少した。鼻腔・中耳・副鼻腔は男68人から59人,女45人から22人へと減少した。日本6府県市がん登録,米国白人,黒人,日系人の男女8集団において,口腔・中下咽頭がんと喉頭がん罹患率に,また,前者と食道がん罹患率に,それぞれ強い正相関を認めた。頭頸部癌の危険因子として,食道がんと同様,喫煙と飲酒習慣が重要である。
著者
大島 明 樋口 邦弘 鵜飼 恵三
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集H(教育) (ISSN:18847781)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.45-53, 2011 (Released:2011-12-20)
参考文献数
8
被引用文献数
1

地方公共団体技術職員の技術力低下が心配されているが,その実態と原因を探る糸口として毎年報告されている会計検査院の検査報告に注目してみた.この報告の指摘事項を調べると同様な指摘事項やその繰返しであることに気づく.これらの指摘事項を分析して,見えてきたものはやはり地方公共団体技術職員の技術力低下であり,まず,その原因について考察する.次に,技術力向上を図るための対策・改善方法について考察する.併せて,筆者の具体的事例として,わかりやすく解説しているので指摘事項から学ぶこと,資格取得が有効であること.さらに,現場で工夫した内容を論文にまとめ投稿し発表することなどが,技術力向上に繋がることを紹介する.
著者
大島 明秀
出版者
熊本県立大学文学部
雑誌
文彩
巻号頁・発行日
no.16, pp.11-13, 2020-03-01
著者
大島 明秀
出版者
熊本県立大学文学部
雑誌
文彩
巻号頁・発行日
no.10, pp.21-35, 2014-03

馬琴旧蔵の「鎖国論」に焦点を当て、その数奇な運命を辿った。結果、近世後期における志筑忠雄訳「鎖国論」の受容をめぐる興味深い事例となるとともに、当時の「写本」作成の実態を浮かび上がらせることにも繋がった。
著者
大島 明秀
出版者
熊本県立大学日本語日本文学会
雑誌
國文研究
巻号頁・発行日
no.55, pp.19-34, 2010-04

「鎖国」が言説であるのと同様に、それに対応する「開国」もまた言説である。それを踏まえて、「開国」という言葉の歴史的用例を洗い出し、その多義性と歴史性を整理した。この作業によって、「開国」言説がいつどのように形成されたのかについての見取図を描いた。
著者
大島 明
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.389-407, 2022 (Released:2023-02-14)
参考文献数
34

現代,氏神の祭りにおいて,その担い手は,必ずしも氏子区域の居住者ではなくなった。その1例として,京都市西院の春日祭における担い手について,その居住地の変遷を明らかにすることが本稿の目的である。資料として,1967年と2016年の『神輿輿丁名簿』を用い,そこに登載された輿丁の居住地を個人レベルで分析した。春日祭では,近代初頭,氏子区域の集落(「旧町」)を東西に2分し,それぞれの神輿は区域内の輿丁で担われていた。京都市との合併前後から進行した都市化にともない,輿丁の減少が始まった。戦後,都市化により流入人口が増加した。しかし,輿丁になる者は少なく,神輿渡御祭の存続が困難になった。そこで,相互協力組織として京都神輿愛好会が設立され,区域外から輿丁が導入された。これにより,神輿渡御祭は存続された。しかし外部からの応援が大多数になると,神輿巡幸の主導権を氏子がいかに維持するかが課題となった。そのため,氏子の組織はその増強を図ったのである。その結果,2016年には氏子の輿丁は増員され,その居住地は「旧町」のみならず氏子区域の全域に拡大した。また,区域外では輿丁の居住地は京都市全域のほか遠隔地の長野県にまで及んだ。
著者
三嶋 孝 奥田 茂 大島 明 宋 桂子 平岡 力
出版者
一般社団法人 日本消化器内視鏡学会
雑誌
日本消化器内視鏡学会雑誌 (ISSN:03871207)
巻号頁・発行日
vol.21, no.9, pp.1086-1093_1, 1979

早期胃癌を放置した場合どの位の時間でどのような進行癌に発育するかを知ることは重要なことであり,従来retrospective studyを中心に検討されてきた.しかしこの方法は初期変化が癌であるとの組織学的裏付けを欠いているためあくまで推定の域をでないといわざるを得ない.本研究は生検で癌と診断され,レ線,内視鏡で早期と推定されながら何らかの理由で6ヵ月以上経過が追跡された症例を収集し,早期胃癌から進行癌への発育進展をprospectiveに検討したもので次の結果を得た.(1)早期から進行への進展に要する時間をKaplan,Meierの方法で算出したところ36ヵ月を要することが推定された.(2)早期から進行への進展に伴う病型変化として次のコースを確認できた.(1)IIc ul(-)→Borr.II.(2)IIc ul(+)→Borr.III.(3)IIc+III→Borr.III.(4)III+IIc→Borr.III.(5)IIa→Borr.II.(6)I.IIc ul(-)→Borr.I