著者
山家 浩樹
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史學雜誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.94, no.12, pp.1855-1881, 1993-1994, 1985-12-20

The most important mechanism for litigation concerning feudal proprietorship during the Kamakura Shogunate was the Hikitsuke (引付), or the court reaching a decision by mutual consent. However, during the Muromachi Shogunate we can see that fief related lawsuits were fundamentally decided at the discretion of the Shoguns themselves. This change in the way of rendering judgement is very important. In this essay the present writer investigates how the Muromachi Shoguns came to render judgement based on their authority and how the court presided over by them came to be established. First, the writer studies Naidangata (内談方), which is known as a court similar to Hikitsuke except for the presence of Ashikaga Tadayoshi (足利直義). The writer then indicates that the second Shognn Yoshiakira (義詮) started a new court called Gozenzata (御前沙汰)... that is, "a trial before Yoshiakira"... which dealt with the same kind of lawsuits as Hikitsuke and gradually surpassed it in authority. Thus, Hikitsuke gradually lost real power and virtually came to an end with the continuing reinforcement of Gozenzata's authority. However, Gozenzata could be overruled under the influence of another court held by the Shogun, namely OnShogata (恩賞方), which dealt with claims for fiefs granted as service rewards and which had existed since the biginning of the Muromachi Shogunate. Since Gozenzata was reduced to be composed of similar members to Onshogata, the secretary to the Shogun (Shitsuji 執事) came to be present at Gozenzata. In Onshogata this secretary controlled the only department, Tokorozukegata (所付方), Which assisted the Shogun on practical affairs. However, because Gozenzatd lacked such a department as Tokorozukegata, the secretary would often find himself at odds with the Shogun. Finally this secretary retired from Gozenzata to reopen and personally direct Hikitsuke. He was soon to retire from Onshogata as well. In this way Gozenzata turned into a court which was composed of Shogun and functionaries (bugyonin 奉行人) and which was fully established during the reign of the third Shogun Yoshimitsu (義満). During this period, too, the court presided over by the shitsuji was formed on the basis of the reopened Hikitsuke. And a similar relation-ship between Onshogata and Tokorozukegata was carried on between these two courts, which enabled them to exist side by side over a long period of time.
著者
永井 晋 永村 眞 山家 浩樹 岡本 綾乃 西田 友弘 高橋 悠介 西岡 芳文 山地 純 井上 和人 永山 由梨絵
出版者
神奈川県立歴史博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2011-04-01

「重要文化財 金沢文庫文書」4149通について、その本文の校訂、年代推定、紙背文書を利用した関連文書群の復元を行い、「重要文化財 称名寺聖教」との接続の関係をあわせて考察し、称名寺収蔵資料群の一群としての金沢文庫古文書の資料的価値を定める努力を行った。その成果は、「金沢文庫文書検索システム」としてデータベースを構築し、インターネットでの公開をめざしたが、接続のための環境整備が調わず、金沢文庫図書室でのスタンドアローンとしての公開となった。データベースでは、古文書本文・書誌情報・画像(古文書表裏)を金沢文庫図書室で公開した。
著者
山家 浩樹
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.6, pp.1-38, 2021 (Released:2022-06-20)

室町幕府の経済基盤は、基本的に、鎌倉幕府のそれを継承して、直轄領からの収入と、地頭御家人の経済的奉仕に依拠していた。しかし、両者ともに機能が低下するなか、室町幕府は、建武政権の施策を参考に、新たな賦課を開始した。地頭御家人に恩賞として給与した所領に、低額の年貢を賦課する制度で、「新恩地年貢」と呼ばれた。 本稿では、室町幕府初期の財政基盤を検討するため、おもに「新恩地年貢」を分析した。史料上に「五十分一年貢」とある賦課も同じものとみなし、以下のように分析した。幕府が所領の年貢総量を把握している場合は、年貢の五十分一を賦課し、把握していない場合は、把握した耕地である「公田」の面積を基準に算出して賦課した。年貢総量を基準とする賦課は、建武政権で採用された新しい方式である。南北朝期における年貢総量の把握の様子も概観した。また、対象となる新恩地は、室町幕府が給与したものだけでなく、建武政権が給与したものも含む。新恩地年貢は、使途や徴収方法の点で、恒例の地頭御家人役に近く、その収入減を補う役割を担った。 また、室町幕府は、鎌倉幕府から継承した直轄領を「本役所」と称し、年貢徴収に務めている様子も分析した。 しかし、鎌倉幕府から継承した財源ばかりでなく、新恩地への賦課も、実効性は低かった。戦乱のなか、恩賞地の経営も、全国一律の課税の徴収も難しかったためであろう。次第に、幕府に直接勤務する地頭御家人などに限り、新恩地年貢を幕府に負担するようになる。南北朝中期以降、「新恩地年貢」という表記は減り、「五十分一年貢」という表記が増える。「五十分一年貢」の記述には、新恩地からの負担という意識が見えない。その理由は、この負担が立場を表す指標となり、新恩地からの支出という意識が薄れていったためであろう。 室町幕府財政は、都市商業への課税など、あらたな財源で安定していくことになる。
著者
林 譲 横山 伊徳 加藤 友康 保谷 徹 久留島 典子 山家 浩樹 石川 徹也 井上 聡 榎原 雅治 遠藤 基郎 大内 英範 尾上 陽介 金子 拓 木村 直樹 小宮 木代良 近藤 成一 末柄 豊 藤原 重雄 松澤 克行 山田 太造 赤石 美奈 黒田 日出男 高橋 典幸 石川 寛夫
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2008-05-12

東京大学史料編纂所が60年間にわたって収集・蓄積した採訪史料マイクロフィルムをデジタル化し、ボーンデジタルによる収集の仕様を確立し、一点目録情報などのメタデータを付与したデジタルデータを格納するアーカイヴハブ(デジタル画像史料収蔵庫)を構築し公開した。あわせて、デジタル画像史料群に基づく先端的プロジェクト・歴史オントロジー構築の研究を推進し、研究成果を公開した。
著者
大内 英範 山田 太造 高橋 典幸 綱川 歩美 林 譲 保谷 徹 山家 浩樹 横山 伊徳
雑誌
じんもんこん2011論文集
巻号頁・発行日
vol.2011, no.8, pp.105-110, 2011-12-03

Hi-CAT Plus は,採訪マイクロフィルムをデジタル化した画像の検索・閲覧システムとして開発され,史料編纂所閲覧室内の端末でサービスをはじめた.本システムの仕組みや既存システムとの連携,上記用途にとどまらない今後の展望などについて述べる.
著者
久留島 典子 林 譲 本郷 恵子 柴山 守 有川 正俊 山口 英男 遠藤 基郎 木村 直樹 山家 浩樹 馬場 基 山田 太造 近藤 成一 小宮 木代良 古瀬 蔵
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2014-04-01

前年度に引き続き東大史料編纂所歴史情報システム(以下、SHIPSと略記)が擁するDB群から、各DBに格納された人物情報を抽出し、人物情報レポジトリへとデータ移行を推進した。レポジトリへ移行を可能とするDB数もさらに2つ増加し、計19種へと拡大することで、総登録データ数は約42万件に達した。前近代における人物情報を総覧する環境が整いつつあり、これを軸として、地理情報・史料典拠情報・史料目録情報といった情報との連接を視野に入れたところである。SHIPS-DBから人物情報レポジトリを参照・応答するAPIについては、前年度に構築したシステムを基盤として、より詳細な応答を実現するモジュールを「新花押データベース」内に実装した。花押を記した人物を比定するために、随意にレポジトリ参照が可能となったことは、より正確な情報蓄積を進めるうえで極めて有効と言ってよい。また人物レポジトリを直接検索するためのインターフェイス(「人名典拠サービスモジュール」)が安定的に運用されるに至り、多様な検索に応答しうる環境が整備されつつある。蓄積データのシームレスな運用という観点からは、前年度に引き続き、人物情報レポジトリ総体のRDFストア化を推進し、検索結果をRDF形式で出力するためのAPIの安定運用を実践することで、オープンデータ環境への移行を目指した。地理情報レポジトリについては、外部参照用APIの運用を開始し、国立歴史民俗博物館の「荘園データベース」との連携を実現した。
著者
山田 太造 井上 聡 山家 浩樹
雑誌
じんもんこん2019論文集
巻号頁・発行日
vol.2019, pp.3-10, 2019-12-07

本論文では,歴史データを対象に,史料データの収集・蓄積・分析・提示・提供といったデータ流通基盤の整備を目的とし,史料や派生する歴史データを蓄積していくために構築を進めたデータリポジトリと,そこに蓄積したデータを分析し提示・提供していくための手法について述べる.
著者
山家 浩樹
出版者
山川出版社
雑誌
歴史と地理 (ISSN:13435957)
巻号頁・発行日
no.527, pp.18-25, 1999-09
著者
山家 浩樹 林 譲 久留島 典子 鴨川 達夫 高橋 則英 高田 智和 馬場 基 大内 英範 耒代 誠仁 高橋 敏子 遠藤 基郎 山田 太造 渡辺 晃宏 小倉 慈司 高橋 典幸 井上 聰 谷 昭佳 川本 慎自 高山 さやか
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2011-04-01

「ボーンデジタル進捗状況管理システム」を構築して、無秩序に生成されがちなデジタル撮影画像(ボーンデジタル)を、組織として一貫して管理・運用するシステムを確立し、歴史史料のデジタル画像を共有する基盤を整えた。さらに、標準化された仕様に適合しないデジタル画像を、メタデータとともに管理する一例として、ガラス乾板など古写真を取り上げ、「ガラス乾板情報管理ツール」を開発して、ガラス乾板の研究資源化および保存にむけた研究を行なった。あわせて、具体例をもとに、デジタル画像を主たるレコードとするデータベースの構造転換に向けた研究を推進した。
著者
保立 道久 林 譲 山家 浩樹 原田 正俊 田中 博美 末柄 豊
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2002

古文書学的な調査が相対的に遅れていた禅宗寺院文書について、寺院の歴史という観点からの古文書学研究と、古文書料紙の自然科学的研究の二つの要素をもって研究をすすめた。報告書は、第一部を大徳寺・鹿王院等の禅院の歴史、第二部を大徳寺文書を中心とした古文書学的研究、第三部を古文書料紙の物理的研究としてまとめた。また、本年開催の国際シンポジウム「禅宗史研究の諸課題と古文書」では、欧米の代表的な禅宗史研究者2名を交えた有益な議論を組織することができた。これらを通じ、当初の目的であった室町期国家の禅宗国家というべき様相の解明について、充実した研究を実現しえた。また、大徳寺の開山宗法妙超・一世徹翁義亨についても必要な研究をおさめることができた。かかるプランを構想できたのは、京都大徳寺の御理解によって文書原本を史料編纂所に借用し、詳細な調査が可能となったためである。大徳寺文書は、中世の禅宗寺院文書の中でも量質ともに一級のものであり、本調査をも条件として、本年3月に重要文化財に指定されたことも報告しておきたい。その調査の成果が、同文書の全詳細目録(報告書付録、590頁)であり、紙質調査を含む詳細な原本調査カードである。また、調査に際し、東京大学農学部磯貝明教授・江前敏晴助教授の協力をえて、200枚をこえる透過光画像を素材としてフーリエ変換画像解析による簀目本数計算を行ったこと、繊維顕微鏡画像を採取し澱粉など不純物の定量分析の方法を検討できたこと、それらにもとづく料紙分類論を展開できたことなども特筆したい。詳細は報告書を参照願いたいが、上記目録不掲載の情報についてもデータベースの形式で記録を残したので、可及的速やかに学界に提供するようにしたいと考えている(なお、当初の予定通り、『鹿王院文書』、『蔭涼軒日録』(2冊分)のフルテキストデータベースを作成したことも附言する)。