著者
松下 孝昭
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.3, pp.1-31, 2021 (Released:2022-03-20)

本稿は、近年盛んになりつつある「軍隊と地域」研究の一環として、日露戦争後の軍拡期に第十三師団が立地した新潟県中頸城郡高田町(現上越市)を対象とし、地方都市が地域振興のために敷地を献納してまで軍隊を誘致し、軍隊と共存しうる市街地の改造に努めつつも、様々な負担の重圧から政治的・財政的混乱を引き起こしてしまう経緯を解明することを目的とする。 前半では、高田町がすべての敷地の献納を公約して師団の立地を得たものの、敷地買収のための公借金が過重であることに加え、政友会との政治的な対立の中に投じられ、師団誘致を進めてきた非政友系町長の辞職を余儀なくされるなどの混乱を引き起こしてしてしまう経緯を追った。また、高田町の負担額は陸軍省によっていくぶん軽減されたものの、新たに小学校の増改築にも迫られ、長期債への借り換えによってかろうじて財政破綻は回避された。しかし、その償還費が以後の町財政を圧迫して新規事業に着手できなくなったほか、償還財源は戸別割や所得税割の重課に依存せざるを得ないため、低所得層住民や転入してきた将校らにも負担が転嫁されていく経緯について明らかにした。 後半では、こうした財政難の中でも、停車場拡張や将校住宅の建設、屠獣場の新設など、師団と共存するための市街地の改造に迫られる諸相について見ていく。とりわけ、行軍に必要な道路の開削や拡張の負担については、師団側と町当局の間であつれきが生じ、結局町道に編入して維持管理が高田町に負わされることとなった。市街地中心部にあった遊廓は師団立地を機に郊外に移転されたが、一方では市内に私娼窟を存置させる結果ともなった。また、師団・町当局の双方が求める最大の都市インフラである水道の敷設は、敷地献納費に来由する長期債の償還が市財政を圧迫している間は着手できず、一九二〇年代を待たなければならなかったのである。
著者
大谷 伸治
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.3, pp.35-60, 2021 (Released:2022-03-20)

本稿は、筆者が新たに発見した政治学者・矢部貞治が書いた三点の史料にもとづき、共同体的衆民政と協同民主主義の異同、すなわち戦前・戦時・戦後の連続/断絶を詳らかにし、その成果にもとづいて、周知の矢部の憲法改正案と天皇退位論を再検討するものである。 敗戦を前にした矢部政治学は、戦時期の自己批判によって二度目の発展を遂げた。 デモクラシー論では、南原繁の政治哲学に接近した。デモクラシーの本義を「古代人の自由」に見出し、共同体的衆民政が孕んだ全体主義に堕す構造的問題を克服した。それは戦前への単純な回帰ではなかった。協同民主主義は、戦前の自由的衆民政と共同体的衆民政ないし協同主義を止揚したものだった。地域の生活協同体の自治に国民が参加することで、自由と公共性を両立した民族共同体の構築をめざした。 国体論では、里見岸雄の国体論を採り入れ、一君万民論から君民一体論へ変化した。しかし、それは戦前から影響を受けていた美濃部達吉の国体論との止揚だった。これが矢部国体論の真骨頂であった。内容自体は後追いにすぎないが、新体制期の失敗を活かし、デモクラシーと接合する国体論を構築すべく、戦前・戦時に敵対していた国体論を一本化した。 こうして再編された根本規範としての国体の「表出」が憲法改正案であり、象徴天皇論に結実した。しかし、天皇はあくまで形式的な統治権総攬者として位置づけるべきだとした。この点では、国民主権を明記した日本国憲法とはやや距離がある。しかし、これを求めた理由は英国型の立憲君主制下の議院内閣制を理想としたからであった。また、天皇が政治責任を取って自主的に退位することを大前提としていた。 協同民主主義とは、敗戦が必至の状況に直面したからこそなされた矢部政治学そのものの自己革新であった。この意味で、共同体的衆民政から協同民主主義への変化はまさに、被強制性と自発性をあわせもった「敗戦転向」であった。
著者
鈴木 真吾
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.3, pp.61-85, 2021 (Released:2022-03-20)

本稿は、19世紀末から20世紀初頭のイズミルで発生した2つのコレラを事例に、細菌学という新たな科学知の受容、病気という現象の理解、そして現実の疫病対策への影響という理論と実践の両面から、近代オスマン都市の疫病対策を検討する。そしてコレラ対策の中心となった行政医たちに着目し、こうした疾病理解や新聞や雑誌の急速な発達の中で、近代オスマン帝国の衛生政策に地方社会がいかに組み込まれていったかを考察する。 1910年から11年のイズミルにおけるコレラ流行では、それに先立つイスタンブルでの細菌学研究所設立の影響もあり、上水道の断水や患者の隔離の徹底が対策の中心となるなど、1893年の流行の際とは異なる対策の新たな局面も見られた。しかし他方で、コレラの発症には人間側の条件、すなわち人間の身体にコレラ菌の生育に適切な環境が必要であるという理解の下、以前の流行の際に見られた行政・個人双方での諸対策も、「細菌の生育を防ぐ」対策として新たに位置づけられ、実行された。こうした事実から、時代の変遷によるコレラ理解と対策の変容のみならず、細菌学の到来により再編された疾病理解の枠組みの中に従来の対策が新たに意味づけられるという連続性も看取される。 イズミルのような地方都市で、こうした防疫実践を主導したのは、1867年にイスタンブルで開校した文民医学校出身の医師たちであった。帝国各地から集まった医学生は、卒業後、出身地の行政医に任ぜられ、帝国の衛生政策のエージェントの役割を果たした。彼らはコレラ対策の中心となるだけでなく、同時期に発達した新聞や雑誌などのメディアを通じて個人・家庭における日常的な健康維持を啓蒙した。このような活動を通じて、主体的に健康を維持する個人を作り出し、オスマン帝国の国家的な衛生政策に地方都市の個人を組み込む役割を果たしたのである。
著者
小林 文治
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.4, pp.1-37, 2021 (Released:2022-04-20)

本稿は巴蜀地域と洞庭・蒼梧両郡への遷徙傾向の比較を出発点に、統一秦における洞庭郡遷陵県の開発の状況を検討する。岳麓書院蔵秦簡や里耶秦簡を見ると、巴蜀地域と洞庭・蒼梧両郡への刑徒や「従人」の遷徙例では①遷徙目的、②移動の禁止、③移送方法が共通している。これは洞庭・蒼梧両郡が置かれると、戦国秦において成立した巴蜀地域への遷刑が両地に援用されたことを示す。言い換えれば、新領土に外部から労働力を供給して開発を行うというモデルが巴蜀において完成し、それが洞庭・蒼梧郡に援用されたということになる。 洞庭郡遷陵県の移入人口を見ると、巴郡と南郡からの移入が多数を占める。この傾向は周辺郡がすでに秦の習俗が浸透して久しく、同時に土着の習俗が洞庭郡のそれに近いので、洞庭郡の開発に便利であり、さらに秦による新領土経営の経験が洞庭郡経営に利用できることが反映されていると言える。 刑徒の移入傾向を見ると、その多くが反秦行動に加担した者で、労働力として送られてきた者たちであった。彼らが遷陵県で主に従事していたのが公田の開発である。遷陵県の公田収入は県内で消費されていたが、消費量に対して遷陵県全体の生産量が少なく、他地域からの搬入に多くを頼らざるを得ない状況であった。洞庭郡への刑徒移送と公田経営は秦の六国統一後の「戦後処理」と統一秦の「新領土経営」を結びつける政策であるが、計画に比して実際は効果が上がっていなかった。本稿の検討結果はある地域における秦の統治過程を検討する際、郡を超える広域的な地域を想定し、検討することが重要であること、その時の歴史的事情が地域のさまざまな「活動」に影響を及ぼすことを示唆する。
著者
井上 正望
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.4, pp.38-63, 2021 (Released:2022-04-20)

本稿は、十~十三世紀の期間を主として、中世的天皇の形成過程の検討を行うものである。中世的天皇の特徴として、個人としての側面と機関としての側面の二面性を持つことが指摘されてきたが、そのような二面性の分化過程を、特に天皇の「隠蔽」に関する検討を中心に明らかにすることを目指す。従来古代~中世の天皇変質に関しては、その相対化ばかりが注目されてきたが、実際には形式的ながらも絶対化も並行して行われていたことを明らかにする。 本稿で扱う天皇の「隠蔽」は、御簾と「如在」の利用を主とする。実在しない霊魂や神々を存在するとみなす中国の作法であった「如在」が、十世紀の日本では不出御の天皇を出御しているとみなす、天皇機関化作法に展開していたことを指摘する。そして村上天皇による母藤原穏子に対する服喪時に、清涼殿で「尋常御簾」を使用したことが、倚廬で服喪・忌み籠りしていて清涼殿に不在という天皇の個人的側面を「隠蔽」し、天皇は表向き清涼殿にいるとみなす「如在」の一形態であり、天皇機関化作法であることを述べる。これは、天皇の相対的な個人的側面を「隠蔽」し、機関化され表向き服喪することがない形式的ながらも絶対的な側面を維持する方便である。 更に御簾に関する検討から、天皇の服喪姿「隠蔽」は仁和三年から昌泰三年までの間に成立したであろうことを指摘する。これは、九世紀後半以降、特に皇親以外の天皇即位などの天皇相対化に危機感を持った天皇たち自身による天皇機関化を背景とする。 また「如在」については、皇位継承時の如在之儀を再検討する。これは本来皇位喪失による天皇「ただ人」化=相対化を「隠蔽」し、天皇を表向き皇位を喪失していない=「ただ人」化していない、形式的ながらも絶対的存在として扱う作法だったことを指摘する。 以上から、天皇「隠蔽」による天皇の二面性分化明確化過程の検討を通して、中世的天皇の形成過程を明らかにする。
著者
出水 清之助
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.12, pp.1-38, 2020 (Released:2021-12-20)

本稿は、西日本の政党の動向と、懇親会という運動形態に注目することで、民権運動の停滞期(明治一六~一八年)に特有の運動の論理と展開について解明しようとするものである。 明治一七年の関西懇親会は、自由党と立憲政党の主導のもと準備・開催された。同懇親会は、大同団結が強調され、関西を中心に多数の地域から参加者を得たほか、四大政党の関係者が一堂に会するなど盛況を極めた。党派と地域を問わず、広く同主義の人々を糾合し、持続的に懇親を重ねることで、緩やかな連帯の成立を目指した点に同懇親会の特質があった。こうした特質をもつ懇親会は、集会条例改正後の「隔地割拠」(中央―地方関係の疎遠化)と、偽党撲滅運動後の党派対立の激化という、当該期の政党運動が抱えていた課題を克服する可能性を有するものであった。 以上のような特質を帯びた懇親会は、人々が集まって親交を深めるような単なる懇親会ではなく、規約・主義に基づいた、組織性のある一種の政治団体的性格を持つものであった。関西懇親会を主導した立憲政党は、この政治団体的な性格を有する懇親会を、党名簿や党規則を伴う有形政党ではない、同主義者の結合である「無形結合」として捉えていた。この時期、立憲政党や、同党と気脈を通じる有志は、東北・関西・九州といった一定の地域を単位とする懇親会形態の「無形結合」(=〈広域地方結合〉)を日本各地に創出しつつ、最終的にそれらを結びつけて〈全国的大同団結〉を図ろうとする長期的な構想を有していた。関西懇親会もそうした長期的な「無形結合」路線の一環として位置づけられていたのである。 以上のように、民権政党の停滞期には、懇親会が政党運動の重要な形態として浮上した。こうした漸進的に懇親を重ねるという運動形態は、この時期に発生した激化事件とは異なる論理を有し、社会から一定の支持を集めていた。当該期は政党運動が停滞したと評価されてきたが、こうした大同団結運動につながる可能性をもつ、この時期固有の運動が展開していたのである。
著者
井上 将文
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.12, pp.39-62, 2020 (Released:2021-12-20)

本稿の目的は、一九三二年~一九三四年に北海道庁(以下、道庁と略記する)が北海道を対象として推進した農業移民政策の検討を通じて、二つの移民政策の受け手側に立つ農家自身の主体性の一側面を抽出する。本稿では、北海道第二期拓殖計画(第二期拓計)下の農業移民政策(民有未墾地開発事業)とブラジル移民政策が、競合関係にあったことを論じた。一九三二年の拓務省による支度金交付は、凶作・水害下の道内農家に対して、ブラジルへの移動という選択肢を与えるものであった。北海道における一九三二年~一九三四年のブラジル移民の増加は、拓務省が提示した選択肢を選んだ農家が少なからず存在していたことを示す。生活維持が困難な農家の立場からすると、一定程度の資本が必要となる民有未墾地開発事業よりも無資本でも受給できる支度金は、利用しやすい政策であったといえよう。ただし、農家の移動・定着を決定づけたものは、道庁・拓務省といった政策主体側の意向ではなく、結局のところは、政策の受け手側に立つ農家自身の意思であった。この点を端的に示しているのが、名寄町(上川支庁管内)の事例である。一九三二年九月、名寄町では支度金の周知徹底を目的とした宣伝事業が行われたが、同月以降に同町から移民した農家は、皆無であった。一方、凶作・水害下の北海道において、道庁が推進する民有未墾地開発事業を利用して道内に定着しようとする農家もまた、限定的であった。本稿では、農家が移住・定着する要因として、移民個々の自由意思が重要な意味を持つと結論付けたい。
著者
藤澤 潤
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.1, pp.1-35, 2021 (Released:2022-01-20)

本稿は、1990年から91年にかけてのコメコン改革ないしはコメコン後継組織の設立をめぐるソ連の方針とコメコン内の交渉過程について分析したものである。コメコンに関する研究史では、この時期のコメコン内の動向を扱った研究はほとんどなく、1989年の「東欧革命」以降、コメコンは自然消滅したとする見方が今なお有力である。これに対して本稿は、旧ソ連・東ドイツのアーカイヴ史料をもとに、この時期のコメコン内の交渉過程を実証的に分析し、以下の結論を得た。 1990年以降のコメコン改革をめぐる交渉で、当初、ソ連はコメコンの枠内で経済統合を進めようとしたが、中欧3国(チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド)の反対を受けて大幅に譲歩し、協議を主目的とする権限の弱い国際経済関機構(OMES)をコメコンの後継組織として設立することに同意した。しかし、コメコンには欧州域外の国々も加盟しており、とくにキューバが非欧州加盟国に対する特別の配慮を求めてOMES規約案に反対し続けたことから、合意形成は遅れた。最終的に、1991年2月初頭には全ての加盟国がOMES規約案への調印に同意したものの、その直後に中欧3国は欧州共同体との個別交渉を優先することを決定し、非欧州諸国がOMESに参加することを理由に規約案への同意を撤回した。この中欧3国の方針転換の結果、コメコンは何らの後継組織を残すことなく解散した。このように、コメコンは求心力を失って自然消滅したのではなく、欧州情勢の急変やそれに伴う加盟国の方針の変化、さらには非欧州加盟国との関係などが複雑に絡み合って解散へと行きついたのである。
著者
村瀬 啓
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.1, pp.39-65, 2021 (Released:2022-01-20)

戦間期の帝国日本において、朝鮮総督府や満洲国といった外地政府は中央政府(内地政府)の介入を拒絶するほどの自律性を持ち、内地政府はそれらの外地政府に影響力を及ぼし、あるいは交渉することを繰り返し試みた。帝国日本におけるこうした内外地間の政治過程についてはある程度の研究蓄積があるものの、大恐慌の克服とブロック経済の構築のため、外地政府との協調の重要性が増した満洲事変後の政治過程については、未解明の部分が多い。本稿は、1930年代において内地政府が朝鮮総督府および満洲国と交渉し、帝国大の経済政策を形成する過程を検討するものである。分析に際しては、特に激しい利害対立が内外地間で見られた農業政策に注目する。したがって本稿は、内地政府のうち農林省が植民地政府と展開した交渉の過程を跡づける。 1930年代前半、農林省はまず朝鮮総督府との米穀統制をめぐる対立に直面した。恐慌下で米価の低落に喘ぐ農村を擁護するために、農林省は朝鮮からの米穀移入を抑制しようとした。しかし結果的には、農林省の試みは朝鮮総督府の強い反対と拒否権の前に挫折することになる。農林省にとって、総督府との二者間交渉によって自らの主張を通すことは困難だったのである。 他方で農林省は、満洲国に対しては自らの利害を主張することができた。まず農林省は、日満産業統制委員会における満洲開発政策の形成に参画した。同委員会は商工省や資源局といった複数の省庁によって構成されており、それゆえに農林省は多省間調整が可能であった。さらに農林省は、満洲産業開発五ヶ年計画の策定にも参加することができた。 こうした過程を経て、農林省は満洲国との協調関係を構築していった。日中戦争が勃発すると、農林省はこの協調を基に、自らの利害を盛り込んだ帝国大の農業政策を構築し始めるのである。
著者
賀 申杰
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.2, pp.1-36, 2021 (Released:2022-02-20)

これまで、明治期の横須賀造船所の事業状況に関する研究は主に焦点を国内の軍需と民需の両面にあてて論じているが、本稿は外国船の修理という視点を導入し、明治一六年の海軍軍拡の開始まで、船舶の修理事業に重点を置いた横須賀造船所の事業状況、とりわけ外国船修理の受入れに対する造船所・海軍省の態度ついて検討を試みました。 この時期、部外船の修理の受入れに対する海軍の態度に関する考察として金子栄一・小林宗三郎、室山義正らの研究があげられる。これらの研究は修理船の外需の排除を海軍の方針として理解し、その上で、ヴェルニーの解雇の原因として外国船修理に関する彼の方針への海軍の反発があったと理解している。さらに、ヴェルニーが解雇されて以降も、造船所が依然として広く外国船の修理に従事したことについてそれを海軍の意図に反するやむを得ない選択として理解している。 しかし、前掲の各研究は史料的制約に規定され、その説は充分な実証に支えられているとは言いがたい面も多い。実際当時海軍・外務両省の公文を分析すると、当時両省はむしろ外国船修理の受入れに歓迎していた。 以上の研究を踏まえ、本稿は従来では史料的な裏付けが弱かった横須賀造船所における外国船修理状況に注目し、外国船の修理申請に関する規則の制定過程を明らかし、その上で、外国船修理の受入れに対する海軍・外務両省の態度を再検討したい。よって、第一章ではフランス人主導時代の横須賀造船所における外国船修理の受入れ状況を分析し、当時造船所の経営上に存在した問題を究明する。そして第二章では、ヴェルニーの解雇前後における外国船修理の申請手続きに関する規則の制定・改正の過程に注目し、規則の制定をめぐる海軍の意図を明らかにしようとする。最後の第三章では、ヴェルニーの解雇後の明治一〇年代前半における外国船修理の事業状況を分析し、外国船修理の受入れに対する海軍の態度を分析する。
著者
新見 まどか
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.9, pp.1-35, 2020 (Released:2021-09-20)

一般的に、唐代藩鎮は中央集権支配に反目した負の印象が強い。しかし近年の研究により、唐が軍事・行政・財政等、諸方面に亘って藩鎮に依存していたことが明らかとなった。唐は、藩鎮体制というシステムがあったからこそ、安史の乱後も存続することが出来たと言っても過言ではない。ただし、朝廷と共存関係にあった唐代藩鎮は、僖宗(きそう)期の黄巣(こうそう)の乱を境に変質していったとされる。では、唐代藩鎮体制は具体的にどのような過程を辿って破綻に至ったのだろうか。本稿ではこの点を解明すべく、僖宗期の軍事政策に如何なる過失があったのかを分析し、唐滅亡と唐代藩鎮体制との関連を考察した。 黄巣の乱が勃発した際、朝廷は、乱に遭遇した現地の節度使に対応させるという基本戦略を採用した。しかし、現地兵は実は賊と表裏一体であったため、この戦略は有効ではなかった。そしてより重要な問題は、黄巣の乱前半期、本来唐の軍事力の根幹であったはずの遊牧勢力が、ほぼ全く利用されなかったことである。この原因は、黄巣の乱と同時期に代北で起こった李(り)克用(こくよう)の乱であった。黄巣の乱の淵源地と李克用の乱の淵源地とは、藩鎮体制においてはいずれも唐を守るべき戦力が配備されていた地域だった。しかし僖宗期には、その両方の軍事力が利用不能となったのである。そのため朝廷は有効な対策を取れず、二つの乱は相互に連動しながら拡大していった。以上のような藩鎮体制の軍事的破綻が、唐朝の解体に繋がったと考えられる。 従来、唐滅亡の要因は専ら黄巣の乱にあるとされ、李克用に関してはそれを平定した功績が強調されてきた。しかし、唐が滅んだのはむしろ、黄河の南北で発生した二つの乱の相互作用によると見做すべきだろう。このような見方は、ひいては唐滅亡の歴史的意義を、唐内地のみならずより広域的な視野で位置づけることにも繋がる。
著者
章 霖
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.9, pp.39-64, 2020 (Released:2021-09-20)

第一次世界大戦以後における国際協調の機運や平和的思潮は、海軍にも大きな影響を与えた。特に一九二二年のワシントン海軍軍縮条約の締結はその顕著な例であろう。こうした時期において、海軍は如何なる広報活動を行って、地域社会との関係を構築しようと試みたのか。この問題については、近年の先行研究では海軍当局による宣伝活動のほか、特に軍港という空間に着目して、海軍と地域社会・民衆との関係性を問う社会史・地域史的研究が蓄積されつつある。 そこで、本稿では軍港ではなく、関東州へ巡航する艦隊に着目し、巡航中の海軍と寄港地の状況、両者の相互関係を検討することで、大正期における海軍の平時行動の実態を明らかにするとともに、海外租借地である関東州との関係を考察し、海軍と地域社会との関係の新たな一側面を明らかにすることを試みた。 第一章では、海軍の演習、訓練などの平時の艦隊行動を整理し、こうした艦隊行動の一環としての巡航計画の立案過程と巡航中の寄港地状況を分析する。第二章では、関東州の現地状況を整理し、艦隊が関東州に寄港する状況を日本国内の寄港地と比較しつつ、関東州の特徴を考察する。これにより、関東州巡航における最大の特徴だった、大規模な艦隊便乗見学の仕組みを明らかにする。第三章では、一・二章の考察を踏まえて、関東州在住の日本居留民と中国人双方の艦隊に対する感情の相違を、現地発行の中国語新聞などを用いて分析し、関東州巡航が海軍と地方側にもたらす結果を検討する。 以上の考察を踏まえて、関東州巡航は、海軍が国内外の情勢変化に対応すべく、艦隊の平時の艦隊行動を変化させた結果であるとともに、現地中国人への「外交」的意図も含意したものだったことが浮き彫りとなる。
著者
村 和明
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.10, pp.1-4, 2020 (Released:2021-12-01)

本企画の趣旨は、天皇像―すなわち天皇の(図像ではない)イメージ、天皇のあり方・あるべき姿をめぐる像―を分析対象とし、列島のさまざまな時代におけるその形成、変容、利用のあり方を考える、というものである。特に留意したのは、具体的な時代状況・政治過程のなかで考えるという視座と、媒体となる史料・書物に焦点を当てるという方法であった。 本企画はいうまでもなく、天皇の代替わりをめぐる動向が、国民的な関心をあつめている社会状況を強く意識して企画・開催された。この代替わりに先行して、天皇明仁(当時)による、過去の天皇についての歴史認識をふまえた、現代の日本国憲法下での天皇の役割をめぐる積極的な発言、行動がみられた。国際環境の激動のもと、国内政治・経済の新たな動向が模索される社会において、こうした明仁天皇の言動は強い印象をもって受け止められ、それによって現代日本における天皇(皇族も)についての従来の像・イメージは揺らぎ、意識するとしないとを問わず、再構築がなされてきたように思われる。 さて、前回の代替わりの前後を振り返ると、やはり学会を越えて関心の大きな盛り上がりがあり、天皇にまつわるさまざまな事象について研究の気運が非常に盛り上った。この盛り上がりが、関心の焦点を少しく変えながらも継続し、現在まで研究成果が蓄積されてきたと評価できるであろう。現在の状況を念頭に置いてこの時期をみるならば、当時の人々が経験してきた時代状況、昭和天皇の人物像、その地位をめぐる政治過程などの要素が、当時の、そしてその後の天皇像や、研究史における問題関心に大きな影響を与えていたことが改めて見てとれよう。こうしたある種の規定性や、天皇像の社会における変容が、広く認識されつつある現在は、天皇や、より広くは世界の君主制をめぐる歴史学にとって、またとない発展の好機ではなかろうか。 以上のような観点から、本企画では、さまざまな時代における具体的な政治過程とからみあって、天皇のイメージが形成・伝達され、変容してゆく姿に、媒介となる文字資料そのものにこだわりながら、迫ろうとした。これはまた、研究史における天皇像をも史学史的に再検討することを通じて、豊かな研究蓄積を批判的に継承し、新たな発展の手がかりを得ようとする試みである。さらに、近年の歴史学で重視され豊かな成果を生んできた、表象・意識・言説・「伝統」の分析や、こうした動向によって伝統的な蓄積にさらなる深みを加えつつある史料論を活かし、最先端の視座や方法を議論することも意図した。本企画において提示された多様な内容と議論が深められ、また読者諸賢によりさらに豊かな論点や、研究を躍進させる新しい切り口、新しい息吹が汲み出されること、また現在人々が向かい合っている課題を歴史学から考え、歴史学こそがなすべきことは何かを、改めて問う一助となることを期待するものである。
著者
清水 光明
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.10, pp.34-55, 2020 (Released:2021-12-01)

本稿の目的は、近世後期の尊王思想の流通について、幕府の政策(出版統制と編纂事業)との関係で再検討することである。ここでいう尊王思想とは、大政委任論・「みよさし」論・朝廷改革構想・尊王攘夷思想等を念頭に置いている。先行研究は、これらの尊王思想に関してその形成過程や機能に着目してきた。例えば、中国思想(朱子学)との関係や、内政状況(宝暦・明和事件や尊号一件)、外政状況(対露関係やペリー来航)、幕末の政治状況(将軍継嗣問題や安政大獄)等への着目である。 これらの研究は、尊王思想についての基礎的な成果と見做すことができる。その上で、次の課題は以下の二点である。一点目は、尊王思想の流通と幕府の政策との関係である。近世後期の尊王思想は、天皇・朝廷の権威の上昇や対外危機の勃発によって、幕府の統制を越えて流布したというイメージがある。このイメージは、天保改革における出版統制の強化によって補強される。しかし、尊王思想は、近世後期には広く公然と流布していた。例えば、中井竹山『草茅危言』、頼山陽『日本外史』、会沢正志斎『新論』等である。何故このような現象が生じたのであろうか。本稿では、幕府の政策(出版統制と編纂事業)との関係から、尊王思想が流布する過程と環境を検討する。 二点目は、天皇像と他の為政者像との関係である。よく知られているように、近世日本では幕府が朝廷を厳しく統制した。したがって、この時代の天皇像を考察するためには、天皇と他の為政者(将軍や大名)との相互関係に留意する必要がある。 以上の観点を踏まえて、本稿では、まず十八世紀から十九世紀にかけての出版統制の変遷と編纂事業の展開を跡付ける。その上で、天保改革において出版統制が大きく変更された経緯や背景を検討する。そして、その変更の結果や機能について分析する。これらの考察を通して、本稿ではこの出版統制の変更(一部規定の緩和)が尊王思想の流通や近世から幕末への連続面・非連続面を考える上で重要な転換点であることを明らかにする。
著者
近藤 和彦
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.10, pp.76-84, 2020 (Released:2021-12-01)

天皇像の歴史を君主(monarch)の歴史の共通性において、また特異性において理解したい。ちなみに西洋史で、両大戦間の諸学問をふまえて君主制の研究が進展したのは1970年代からである。2つの面からコメントする。 A 広く君主制(monarchy)の正当性の要件を考えると、①凱旋将軍、紛議を裁く立法者、神を仲立ちする預言者・司祭といったカリスマ、②そうしたカリスマの継承・相続、③神意を証す聖職者集団による塗油・戴冠の式にある。このうち②の実際は、有力者の推挙・合意によるか(→ 選挙君主)、血統によるか(→ 世襲君主)の両極の中間にあるのが普通である。イギリス近現代史においても1688~89年の名誉革命戦争、1936年エドワード8世の王位継承危機のいずれにおいても、血統原則に選挙(群臣の選み)が接ぎ木された。天皇の継承史にも抗争や廃位があったが、万世一系というフィクションに男子の継体という male chauvinism が加わったのは近代の造作である。 B 近世・近代日本の主権者が欧語でどう表現されたかも大きな問題である。1613年、イギリス国王ジェイムズが the high and mightie Monarch, the Emperour of Japan に宛てた親書を、日本側では将軍(大御所)が処理し、ときの公式外交作法により「源家康」名で返書した。幕末維新期にはミカド、大君などの欧語訳には混迷があり、明治初期の模索と折衝をへて、ようやく1873~75年に外交文書における主権者名が「天皇」、His Majesty the Emperor of Japan と定まった。NED(のちのOED)をふくむすべての影響力ある辞書はこの明治政府の定訳に従順である。じつは emperor / imperator は主権者にふさわしい名称かもしれないが、そもそも血統という含意はないので、万世一系をとなえる天皇の訳語としては違和感がぬぐえない。とはいえ、世界的に19世紀は多数の「皇帝」が造作された権威主義の時代でもあった。
著者
戸川 貴行
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.4, pp.1-29, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿では、五~六世紀を中心として華北の諸政権において行われた雅楽の復興・再建のプロセスに注目し、楽制史の観点から、中国の「正統」というものを見直した。 後漢末から五胡十六国時代にかけての混乱によって漢以来の楽制が失われたのち、華北を手中におさめた北魏は、四世紀末から五世紀に鮮卑の音楽を利用して新しい楽制を立てた。しかし、それも爾朱兆の洛陽襲撃によって失われる。その後、北魏末に西涼楽を利用して楽制の欠を補うことがなされた。西涼楽とは五胡十六国時代、呂光が西域地方の亀茲楽に関中地方の秦声をまじえて作った音楽のことである。 この西涼楽を中心とした雅楽は、北魏の流れをくむ北斉・北周両王朝にも踏襲されて「中国」の音楽の基本となった。ただし、西涼楽は本質的に「中国」の伝統的な音楽ではなかったから、それを「中国の伝統」に則ったものとして見せかけるために、北斉・北周両王朝においては、理想上の周の制度について記したとされる儒学の経典『周礼』を利用して、呼び名などを周の制度に合うように改め、新しい雅楽を「伝統」的なものとしてカモフラージュした。 その際の『周礼』の用いかたについては、同時代の南朝において復興しつつあった『周礼』研究の影響が認められる。とくに北周について言えば、南朝系の沈重の果たした役割が大きかった。一方、雅楽の胡楽化批判から始まる隋の楽制改革は、南朝系の何妥の活躍もあって、西涼楽よりも南朝清商楽の影響を強く受けるようになる。その結果、隋の雅楽は南朝清商楽の強い影響を受けた音楽を『周礼』によりカモフラージュしたものになった。 以上から、梁・北斉・北周・隋の雅楽は、『周礼』によるカモフラージュをへることで、中国の新たな伝統として確立したといえる。
著者
原科 颯
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.4, pp.30-54, 2020 (Released:2021-09-09)

明治22(1889)年に制定された(明治)皇室典範(以下、典範)は、皇位継承や皇族など皇室に関する重要事項を定めた。本稿は、従来等閑視されてきた元老院議官の制定への関与に着目した上で、典範によって規定された皇室の自律性を明らかにするものである。 典範草案の多くは、柳原前光や尾崎三良など、近世朝廷関係者で三条実美を人脈的結節点とする元老院議官によって作成・協議された。それらは、井上毅の意見とは異なり、天皇の皇族に対する監督権(以下、皇族監督権)を尊重しながら、皇位継承順序・摂政就任順序の変更などは元老院へ諮詢されねばならないとした。背景には、皇室の自律性確保や元老院の権限強化といった志向がうかがえる。 しかしながら制定を主導した伊藤博文は、皇族監督権を容認する一方、皇位継承順序の変更については、皇室の政治からの独立性を担保すべく、元老院のみならず内閣への諮詢も否定した。こののち柳原は、伊藤・井上に対し、起草作業の主導権をめぐる対抗意識や政治的闘争心を強めるに至った。 その後、典範諮詢案の枢密院会議では、永世皇族制が採択されたものの、皇族の婚姻や懲戒などに関しては、宮内大臣の副署や皇族会議ないし枢密顧問官への諮詢を要すとしつつ、天皇の皇族監督権が広く認められた。 かくして典範の制定は、憲法のそれとは対照的に、草案の広範な回付や伊藤への対抗意識を伴った。この間、柳原ら議官は一貫して上院の皇室事項への関与を重視したが、伊藤は内閣・議会いずれの関与も斥けた。しかしながら両者は、先行研究では看過されてきたが、皇位継承を除く皇室事項について天皇の意思を尊重する点では概ね一致したといえる。即ち典範は、皇室の自律性を確保すべく、皇室の政治からの独立性(消極的自律性)を保障した上で、皇室事項は原則として、天皇をはじめ宮内大臣・皇族会議・枢密顧問官の意思で決定・運営されるとしたのである(積極的自律性)。
著者
福地 スヴェトラーナ
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.6, pp.1-31, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿は日ソ戦争直後にスターリンが満洲の日本人捕虜をソ連領内に移送して労働使用する命令を発令する過程と、ソ連極東軍が日本人捕虜をソ連領内に移送する過程が、常にアメリカが関与する状況の中で進められていた可能性についてソ連とアメリカの史料に基づいて検証することを目的とする。 ソ連では捕虜の労働使用が積極的に行われ、経験的にも技術的にも定着して制度化されていた。独ソ戦においてソ連は戦争終結後にもドイツ人捕虜の抑留と労働使用を計画したが、アメリカの反対が予想された。これに対してソ連はドイツの捕虜収容所からソ連軍が解放したアメリカ人を抑留状態に置き、その帰還者数を制限することによりアメリカの反対を抑えようとした。 日ソ戦争では日本人捕虜の取り扱いは独ソ戦争の経験に基づいて行われ、捕虜をすぐにはソ連領内に移送せずに武装解除地点に捕虜収容所を設置して収容状態を維持する命令が発令され、七日後にスターリンから捕虜を領内各地に移送して労働使用する命令が発令された。 この命令の実行に対してもアメリカの反対が予想されたが、アメリカは移送の事実を把握していたにも拘わらず沈黙を維持し、結果として移送を黙認することになった。 アメリカは日本が満洲に設置した捕虜収容所に収容されているアメリカ人の早期帰還についてソ連に協力を要請しており、ソ連はそれを受け入れて帰還は順調に進められて完了したが、これと引き換えにアメリカは日本人捕虜の移送に沈黙したものと考えられる。日本人捕虜の移送は翌年春まで続いたが、ソ連はその移送が完了するまでドイツの捕虜収容所から解放したアメリカ人の抑留状態を維持し、日本人捕虜の移送についてアメリカの介入を封じることに成功した。日本人捕虜の移送と労働使用の問題はソ連と日本の問題ではなく、ソ連とアメリカと日本、さらにはソ連とアメリカの問題であった。
著者
飯島 直樹
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.8, pp.1-37, 2020 (Released:2021-09-09)

「協同一致」の論理とは、陸海軍が完全に意見一致することで、軍事協同作戦の遂行が可能になるという論理であるとともに、天皇への輔弼責任の保障という軍による輔弼の在り方を建前とした、陸海軍間や他の国家機関との間における自己正当化の論理だった。本稿は、「協同一致」の輔弼責任を保障していた元帥府・軍事参議院を分析軸として、昭和戦前期における陸海軍関係の一端を解明することを目的とした。 日露戦後、軍事参議院は戦闘用兵事項について軍政・軍令機関の「協同一致」の輔弼責任を保障する役割を担った。元帥府には国防用兵事項について統帥部が諮詢奏請、元帥会議による全員一致の奉答を経て裁可を仰いだ。両統帥部が「協同一致」の輔弼責任を元帥府奉答で仮託することで、内閣と対等の立場で国防用兵事項の決定に関与するという政治的正当性を具現化していた。 この「協同一致」の論理が動揺したのが、ロンドン条約批准問題だった。参謀本部は兵力量改訂を両統帥部の「協同一致」の連携で行うことを当然視していたが、海軍では多数決制や議長表決権のある軍事参議会の場で条約否決を目指す艦隊派への対応に忙殺され、陸軍との連携が疎かになった。参謀本部では海軍の紛争への関与を回避したい上層部と、将来の陸軍軍縮や協同作戦策定を見据えて海軍との「協同一致」の維持を重視する中堅層が対立したが、結局は海軍単独軍事参議会開催で妥協した。このことは、陸海軍関係の観点では「協同一致」の論理の綻びを示すものであった一方、枢密院の審議方針に影響を及ぼすなど、他の国家機関に対しては軍の表面的な「協同一致」が有効に作用していたことを示す。 最後に、「協同一致」の論理に依拠してきた陸海軍関係がロンドン条約の段階で動揺したことは、戦時期の政策や作戦面での陸海軍対立の淵源となったこと、戦時期に海軍を「協同一致」の下に牽制するために陸軍で元帥府活用構想が浮上することを展望した。
著者
崎島 達矢
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.1, pp.40-68, 2020 (Released:2021-09-02)

本稿は、近世以来の自治慣行を継承しつつ、明治初期に政治・外交・経済上の要所で三府開港場と称された東京・京都・大阪・横浜・神戸・長崎・新潟における税の収支実態の検討と、地方税規則の例外措置であった三部経済制との関連の検討を通して、都市財政構造の近世から近代への変容過程を明らかにすることを目的とした。 第一章では、維新後の府県財政を制度的に概観した上で、大蔵省収納の諸運上・冥加金が、近世的な収支慣行を残しながら、明治五、六年の府県限り取立税に関する法令に先んじて、目的税として三府開港場へ切り出されていたことを明らかにした。その背景には疲弊する町人の民費や共有金の負担を回避しつつ財源を確保する意図があった。 第二章では、それらの徴収・支出の実態を「賦金調」を元に検討した。府県庁と町会所が担う行政内容の近接性、近世以来の税の収支慣行の存続ゆえに、実際には目的税の制約を超えた「共有金的な」運用が展開された。一方、府県庁直下の中心地では府県庁が直接扱うために、府県庁直下の中心地、市街地、郡村地と土地柄に応じて区別した制度が整備されていた。 第三章では、明治八年の税制改革の意義を考察した。雑税廃止により近世以来のその収支慣行が解消され、府県税は普通税として成立した。結果、府県税支弁が拡大されると共に、府県税・共有金・民費の区別が進み、府県税は府県庁が直接徴収・支出する税としての性格が強まった。さらに土地柄に応じて区別した税運用制度は維持され、都市固有の財源であり続けた。 以上のように、府県税は、三府開港場に固有の財源であった府県限り取立税・賦金とは異なり、府県一般のものとして成立した。しかし運用面では府県税以前の都市の財源を確保するための構造が引き継がれており、三部経済制が成立する構造的背景を成していた。その意味で府県税創設は近代都市財政成立の起点となっていたと結論付けられる。